1 元祖アイドル
 いつの時代も若者は芸能人に憧れます。明治の若者も例外ではありません。明治時代女義太夫オンナギダユウが流行りました。若い女性たちが演じた義太夫のことを女義太夫と言ったのです。義太夫とは元々江戸時代前期、大坂の竹本義太夫タケモトギダユウがはじめた浄瑠璃の一種です。主に寄席ヨセで演じられました。寄席なだけに義太夫なんてよせよw

寒いギャグはこれくらいにしましょうwで、関西では義太夫の人気が高かったのですが、東京では関西ほど義太夫の伝統はなく、優れた太夫タユウもいなかったのです。そこで登場したのが女義太夫なのです。実は江戸後期には女義太夫もいたのですが、男尊女卑の風潮であったので、彼女たちは差別されていたのですね。それが明治になってから再び脚光を浴びたのです。

女義太夫は年は二〇歳前後、顔もスタイルも整ったものが多く、まさにアイドルの先駆けと言えます。女義太夫たちは、当時の若い男性たちに絶大な人気がありました。また、当時は現代みたいに気楽に男女交際ができなかった時代。若い男性たちは、女義太夫たちを、こぞって模擬恋愛の対象として追っかけ回したのです。今で言えば、AKB48やNiziU、モーニング娘。とかに群がるファンですね。

女義太夫の追っかけたちはそれぞれグループを作り、いち早く寄席の高座席コウザセキに陣取って、義太夫語りのあいだ中、「ようよう、どうする、どうする」と掛け声をかけたと言います。そこから、追っかけの若い男性たちが「どうするレン」と呼ばれるようになりました。どうする連の若者たちは、演目が終わっても、お目当ての女義太夫の後を追っかけるなど、今でいう「出待ち、入り待ち」みたいなことをしたようです。

そんな、どうする連のおかげで、寄席は繁盛。しかし、どうする連はグループ同士のケンカや金銭の絡んだ事件を起こすようになり、社会問題になりました。さらに、女義太夫も明治の末期になると浪花節の興隆に押され衰退しました。女義太夫が衰退すると、どうする連もパッタリと消えたと言います。

2 戦前のAKB48???少女歌劇団
 戦前、少女歌劇団が大ブームだったのです。少女歌劇団というのは15歳ないし18歳くらいの少女たちが、集団で歌ったり踊ったり、劇をしたのです。今でいうAKB48みたいなもののでしょう。

少女歌劇団の元祖は明治44年(1911)。デパートの白木屋が客寄せのために少女だけの音楽隊を作ったのですね。これが人気を博し、全国各地に少女たちの音楽隊が生まれたのです。

それを見て関西の箕面有馬電気軌道ミノオアリマデンキキドウ(今の阪急電鉄)の取締役だった小林一三コバヤシイチゾウが、音楽隊に目をつけて、少女歌劇団を作ることを思いつきます。当時、箕面有馬電気軌道は、宝塚に温泉を中心とした一大レジャー施設をつくっていたのです。少女歌劇団をその客寄せにしようとしたのです。そうしてできたのが宝塚少女歌劇団なのです。宝塚少女歌劇団は、10代前半の少女たちに、専門の学校で、歌や踊りを学ばせ、専用の劇場で公演させたのです。

宝塚少年歌劇団は大正13年(1914)に宝塚に新しくできた劇場で初舞台を踏みました。この宝塚歌劇団は爆発的な人気を呼んだと言います。この宝塚歌劇団がのちの宝塚です。

また、少女の音楽隊だけでなく、少年の音楽隊も作られました。明治44年(1911)に名古屋のデパと松坂屋が少年音楽隊を、翌年は大阪三越、京都大丸がそれぞれ少年音楽隊を作ったのです。いわば、少年音楽隊は戦前のジャニーズとでも申しましょうか。

3 戦前のスターたち
 戦前のスターを取り上げればキリがないのですが、今日は水の江滝子、李香蘭のお二人にしぼらせていただきます。まず、水の江滝子は男役で有名でした。通称タッキーじゃなかったwターキー。タッキーは滝沢秀明さんですよね。戦後は紅白歌合戦の司会をされたり、石原裕次郎さんを発掘したりと長きにわたってご活躍をされました。

昭和5年浅草松竹座で、水の江は、シルクハットにタキシード姿で登場しました。水の江は大正4年(1915)に北海道に生まれましたが、幼い頃に東京に引っ越し、昭和3年(1928)、松竹が東京で少女歌劇団を作ると、第一期生として入団しました。昭和5年の公演で男役を演じるために、髪を短くしました。これが大評判で、わずか15歳で水の江はスターになったのです。

水の江は女性にファンが多く、水の江が食べ残したウドンをむさぼり食うファンもいたほど。また、水の江はパトロンがいて、桂太郎元首相の娘や高橋是清の娘などがそうでした。

李香蘭リコウランは、本名を山口淑子。割と最近までご存命で、戦後はタレント活動を経て、政治家(自民党)になりました。1920年(大正9)、中国の奉天で生まれました。親中国的な父から中国語を幼い頃からおしえれられ、中国語をマスターしたと言います。そして、李香蘭という中国名ももらったと言います。

そのすごい美貌から、中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューしました。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気とな利ました。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から日本人ではなく、中国人スターと信じられていたのです。李香蘭は支那シナの夜』などの映画に出演しました。

李香蘭で事件といえば、日劇七回り事件。

1941年(昭和16)、2月11日、東京・有楽町の日本劇場(日劇)で行われた「歌ふ(う)李香蘭」という歌謡ショーが行われました。そのショー見たさに10万人ともいわれる群衆がチケットを求め、劇場を取り巻いたと言います。その日劇の建物の周囲を群衆の列が七回り取り囲んだというから、すごいですね。

李香蘭は戦争が終わって、中国で、裁判にかけられたのですね。いわゆる漢奸カンカン裁判。戦時中、日本に協力した中国人を裁くというもの。李香蘭は純粋な日本人ということで無罪になったのですね。

* 参考文献