History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:東日本大震災

宮城県に多賀城たがじょうというお城がありました。朝廷はいくつもの城や柵をつくり、そこを拠点に東北の支配にあたったことは前回の記事でも触れました。そのうちのひとつが多賀城です。ぼくも高校生の時に訪れたことがあります。すでにお城は残っていないのですが、いまも礎石そせき(※1)が残るなど、その面影は今も感じられます。歴史のロマンを感じさせる場所でした。





さらに多賀城跡には日本三古碑の「多賀城跡碑」を収めた小屋の覆堂おおいどうがあります。この碑には多賀城の創建や修造などについて141文字でつづられています。都の貴族たちが憧れた和歌に詠んだ歌枕「壺碑」とも呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉がおとずれ、その碑文を見たときの感想を『奥の細道』にも書いていました。



この碑文には「この城は神亀じんき元年(724)に按察使あぜち鎮守府将軍の大野朝臣東人おおのあそんあずまびとが築いたもので、天平宝字てんぴょうほうじ六年(762)に同じく将軍の恵美朝臣朝狩えみのあそんあさかりが修復したと書かれています。恵美朝臣朝狩は藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ恵美押勝えみのおしかつ)の四男です。



そんな多賀城も貞観じょうがん11年(869年)の5月26日に起きた巨大地震により被害を受けました。多賀城の城郭や倉庫、門、やぐら、へいが無数にくずれ落ちたといいます。それに加えて多賀城城下まで津波が押し寄せたというのです。いわゆる貞観地震じょうがんじしんです。



この地震の様子は『日本三大実録』にも書かれております。なんでも、その地震が起きたのが夜だったの、まるで昼間のように明るなったりしたと。そうかと思ったら元の暗さに戻ったりと書かれております。あるものは家が倒れて圧死し、あるものは地割れに埋まって死んだといいます。人々は泣き叫び、牛や馬も驚いて走り回り、互いに踏みつけあったといいます。



そして、津波。海水は雷のような音を立ててえ、怒涛どとうとなっておしよせ、海から数十万里にわたって波がおよび、原野も道路も青々とした海になったと。船に乗る時間もなく、山に登ることもできず、溺死したものは千人もいたと。田畑も津波に飲み込まれてしまい、何も残らなかったと。かなりおびただしい被害だったことがうかがえます。この貞観地震は、東日本大震災とほぼ同じくらいの規模の地震だと推定されております。



閑話休題、東日本大震災の時に、地震兵器というウワサがネットでたちましたが、申し訳ないのですが、ナンセンスな話です。大津波も大地震も日本の歴史を紐解ひもいていくと結構あるのです。貞観地震は平安時代におきましたが、平安時代に地震兵器なんて考えられません。東日本大震災の場合は、原発事故とダブルパンチだったのが被害がより大きくなったわけで。





さて、この震災のことは『古今和歌集こきんわかしゅう』にも詠まれました。



「君をおきて あたし心を 我もたば 末の松山波もこえなん」





この歌にでてくる末の松山とは、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵 にある景勝地けいしょうち。にある景勝地です。2014年(平成26年)10月6日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定されたそうです。で、この歌の意味は「(私が) 浮気心を持つようなことがあれば、あの末の松山を波が越えてしまうでしょう。」だそうです。逆に言えば、波が末の松山を超えることがないように、私が浮気心など持つはずがないという意味ともとれます。この歌から、末の松山までくれば津波はやってこないということを物語っております。東日本大震災の時も末の松山まで逃げ込んだひとたちは無事だったといいます。







※1 建物の柱を受ける土台石のことで、単に礎(いしずえ)とも呼称される。

※ 参考文献

歴史から探る21世紀の巨大地震 (朝日新書)
寒川 旭
朝日新聞出版
2013-04-29







                                               










今日は3月11日、あの日からちょうど5年たつのですね。僕は東京に住んでいたのですが、東京も結構揺れたのですね、それから3年後の2013年に僕は家族とともに福島と岩手、それから宮城にも訪れました。言葉も出ませんでしたね。震災の傷跡がまだところどころで残っていて。あの時の被害がいかに甚大か思い知らされました。陸前高田にある奇跡の一本松にも訪れました。





かつて陸前高田の海岸沿いかいがんぞいに7万本もの松があり、高田松原と呼ばれていました。奇跡の一本松きせきのいっぽんまつは、東日本大震災による津波つなみでも、なんとか残った松のことです。高田松原の松林は、自然に生えていたものかと僕は思っていたのですが、どうもちがったようです。



調べによりますと、江戸時代のはじめごろに地元の豪商ごうしょう・菅野杢之助(かんの もくのすけ)が防風・防潮ぼうふう・ぼうちょうのために植林しょくりんされ、仙台藩せんだいはんと住民の協力によってクロマツがたくさん植えられたそうです。杢之助もくのすけが松の植林を行ったのは奉行ぶぎょうの命令によるものでしたが、のちに私財を投じて植林を行いました。



杢之助は松林の成長を見ることなくこの世を去りますが、彼の遺志いしいだ子孫の手により、数十年かけて松林が整備されました。



それから江戸時代の中期(享保きょうほう年間)に松坂新右衛門(まつざか しんうえもん)という人も多額の私財を投じて植林をしたそうです。



菅野杢之助や松坂新右衛門のお二人は、私財を投げうってまで人さまのために植林をしたのです。なかなかできることではありません。



菅野杢之助や松坂新右衛門らが植林した松林は、たびたびの津波から陸前高田を守ってきたのですね。





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(バス停)



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(バス停の近くにあった花だん。僕の写真のり方が悪いだけであって、実物はもっときれいです)









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(いづれも、一本松の写真。本物の一本松は根が海水につかってくさってしまったのですが、今は修復されモニュメントとして残っております。一本松の下の所に慰霊碑いれいひがありまして、僕も手を合わせました。)





参考サイト



http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/09.html

きょうは相馬野馬追そうまのまおいについて。相馬野馬追そうまのまおいとは、福島県相馬にて馬を追う神事およびお祭りです。この相馬野馬追は国の重要無形民俗文化財じゅうようむけいみんぞくぶんかざいに指定されているそうです。

http://www6.ocn.ne.jp/~nomaoi/kigen.htm

明けましておめでとうございます。今年は午年いうことで馬の話題を。相馬野馬追は、相馬氏そうましr祖といわれている平将門たいらのまさかど下総国しもうさのくに(千葉県北西部)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられております。

鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練がきびしく取りまられましたが、この相馬野馬追はあくまで神さまの行事ということで、脈々みゃくみゃくと続けられました。

戦国時代になると、相馬の地が伊達家だてけ脅威きょういにさらされます。すると「みなで相馬を守ろう」と武士だけでなく、農民や商人など領民も一体となって行われるようになったといいます。

幕末の戊辰戦争ぼしんせんそうのとき、この地を治めていた中村藩(なかむらはん)が、明治政府に負けてしまい、1872年に旧中村藩内の馬がすべてられてしまい、野馬追もやめてしまいます。

けれど、野馬追を復活させようという動きもでてきて、1878年には内務省ないむしょう許可きょかが得られて野馬追が復活ふっかつしたそうです。


相馬市は先の震災でも大きな被害を受けました。津波と東京電力福島第一原発の事故で開催も危ぶまれたのですが、犠牲者の鎮魂ちんこん,/ruby>と復興を掲げ、規模を大幅に縮小して行われました。




※ この記事はウィキペディアと相馬野馬追の公式サイトおよび『歴史街道』を参考にしました


3月11日は東日本大地震が起きました。亡くなられた方にはおやみの言葉を申し上げます。テレビで見たのですが、自然の力は本当におそろしいと思われました。道路がこうもグニャグニャに曲がるのかと思いました。津波つなみもおそろしいと思いました。人間が自然に打ち勝つことはムリなのだろうなって改めて思いました。

2011年3月11日は東京でも大きなれがありました。余震よしんも何度か続きました。あの地震じしん以来、自分は本当に神経質になりました・・・風でマドがカタカタいっただけで「あ、また地震か?」なんて思うようになりまして・・・・

東北だけでなく、中国やニュージーランドなど世界各地で大きな地震が起きました。東京に住んでいる僕にとっても決して他人事ひとごとだとは思えませんでした。

大阪のJR環状線かんじょうせん大正駅たいしょうえきの近く、木津川きづがわにかかる大正橋に石碑せきひがたっています。その石碑には安政南海地震あんせいなんかいじしんの際の犠牲者ぎせいしゃをとむらうために建てられたものです。

その石碑には地震が来たときの教訓も書かれているそうです。安政南海地震の時は山の様なでっかい津波つなみおそい、大坂(※2)の町も被害ひがいを受けたそうです。

そこには「大地震が起こったときは、いつも津波がくると思って、絶対に船に乗ってはいけない」、「家がくずれて、火災も発生するだろう。お金や証文しょうもんなどはくらに保管し、戸じまりを厳重げんじゅうにし、火の用心が肝心かんじん」なども書かれているそうです。

自分達の住んでいる地域の歴史を学ぶのも地震対策になるんだなって思いました。

※2 大阪のことを昔は「大坂」と表した。


※ オマケ

これまで日本で起きた地震を1300年分り返るという動画を見つけました。日本はいかに地震が多いかがうかがえます。

なお、この動画を見ていると古い時代ほど地震が少ないように感じられますが、,それは古代は地震の記録がちゃんと残っていなかったためです。近代になるほど多くなるのは、きちんと記録をしているからであって、近代になって地震が増えたわけではないのです。





(今回の記事は2011年3月25日に書いたものを加筆修正しました)

※ 参考文献


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