History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:村上彦四郎

元弘ゲンコウ2年11月、護良親王は吉野にて挙兵しました。護良は吉野城に立て篭もり、幕府軍と戦うことになったのです。城と言いましても、お城を造ったというより、吉野山自体を城として活用したと言った方が近いかもしれません。吉野山の前面に吉野川が流れていて、この川が堀の代わりをしていました。さらに本堂の蔵王堂ザオウドウ(※1)を中心に、山の上には堂塔や僧坊がいくつもあり、蔵王堂が本丸、堂塔ドウトウ僧坊ソウボウが支城の役割を果たしていました。僕も吉野に訪れたのですが、蔵王堂は結構大きな建物で、まさにお城のような感じでした。最も今は改修工事中ですが。蔵王堂には最寄りの吉野駅(ふもとの辺りにある)から歩いて行けなくはないのですが四十分くらいかかるので車で行ったほうがいいくらいです。また、吉野山は高さはあまりないものの、それなりに険しい山なので、城として立て篭もるにはかなり良い場所だとは思いました。ただ、吉野の山は古くから霊山として知られ、その修行の山を戦場に使うのはどうかとは思いますが。


護良は蔵王堂を本陣に幕府と戦ったのです。ちなみに護良が吉野で挙兵した翌月(元弘2年12月)に楠木正成クスノキマサシゲが立ち上がりました。一度は幕府にとられた河内カワチ国の赤坂城を奪還。さらに赤坂城を改築しすると共に、千早チハヤ城を築城し幕府と戦ったのです。実は護良と正成は連携レンケイしていたのですね。

翌年の元弘3年2月16日、二階堂貞藤ニカイドウサダフジ率いる幕府軍が吉野城を包囲したのです。護良の軍勢は3000ほど。幕府軍は6万の大軍でした。普通に考えれば、幕府軍の圧勝です。が、護良軍は山上までのあちこちに伏兵を忍ばせるなどのゲリラ戦で対抗。しかも、吉野城は難攻不落ナンコウフラクの城。なかなか攻め落とすことができません。幕府軍のいらだちは募るばかり。しかし、幕府軍はしたたか。岩菊丸イワキクマルという幕府側のお坊さんが少数精鋭の軍を率いて夜中に吉野山に忍びこんだのです。岩菊丸は吉野山のお坊さんだったので、吉野山のことは熟知していたのです

夜明けとともに、岩菊丸たちは護良軍を襲ったのです。そして山の下にいた幕府軍も一斉に山を登り始めました。さすがの護良軍も総崩ソウクズれ。と思いきや、蔵王堂にいた護良は20人もの精鋭を引き連れ、自らナギナタをふるって戦ったのですね。護良のすさまじい奮戦にさすがの敵も怖気付オジケヅいて逃げ出したとか。すごいですね。

しかし、敵を追い払ったとはいえ、まだまだ幕府軍の方が数が圧倒的に多い。勝てる見込みはありません。さすがの護良も観念したのか、蔵王堂の前で護良たちは酒宴を開いたのです。護良のヨロイにはなんと矢が七本も刺さっていて、護良のほおや腕から血がどくどくと流れていたのです。しかし、護良は血が流れても、それをこうとしないのです。すさまじい光景ですね。7本も矢が刺さってよく生きていられますね。鍛え方が違うのでしょうか。

護良は、大杯から三度、酒をぐびっと飲み干していたのですね。護良はもう死を覚悟していたのです。戦場で死ぬのも本望だと思ったのでしょう。

そこへ村上彦四郎が駆けつけました。「私が宮の身代わりになりますので、その間、宮は吉野を下り、お逃げください」と村上は護良に言いました。護良は「それはできない」と村上の申し出を拒否します。しかし、村上は護良のきていたヨロイを半ば強引に脱がせたのです。護良は涙ながらに村上の申し出をうけ、「私がもし生き長らえていたら、そなたの後生を弔うだろう。もし死んだらあの世とやらへ一緒に参ろう」と言ったとか。そして護良はわずかな手勢を率いて吉野を降りました。

一方の村上は護良のヨロイを身につけ、敵兵の前で「我は後醍醐天皇の皇子、護良親王である」と名乗り、自害したのです。その死に方が凄まじく、刀で腹をかき切って内臓をつかみ出し、その内臓を投げつけたと言います。そして、口に刀を加え、そのままうつ伏せになって倒れたと。

その村上の死に様に幕府軍は驚いたともに、お尋ねものの護良親王がやっと死んだと安心したと言います。また、村上彦四郎には村上義隆ムラカミヨシタカという息子がいたのですが、彼も護良軍の一員で、護良軍が吉野城から敗走する際、しんがりを務めて存分に戦った後に、切腹をしたのですね。親子二代で護良を守ったのですね。

鎌倉の鎌倉宮は護良親王が祀られておりますが、その一角に村上彦四郎の像があります。村上は鎌倉宮では「身代わりさま」と呼ばれまつられております。死後も護良新王のことを守っているのかもしれませんね。


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(蔵王堂)

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(蔵王堂の前にある中庭。ここで護良たちは酒盛りをした)

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(同じく中庭)

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(吉野から見た山々)

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(吉野の街並み。結構お寺や宿坊などがある)

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(村上彦四郎の墓。吉野にある)


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(村上彦四郎の像)

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(鎌倉宮)







*1 平安初期に、奈良県の吉野山一帯のに、修験道独自の神、蔵王権現をまつる蔵王堂を本堂として形成された修験道の寺院。平安期や鎌倉期の貴族や将軍の信仰をうけ隆盛を極め、多くの僧兵たちが南朝側について活躍した。

※参考文献




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(このエントリーに出てくる主な登場人物の相関関係)

今回の記事は色々な人物が出てくるので、今日の記事に出てくる主な人物の相関関係を図にしてみました。南北朝の動乱は色々な登場人物が入り乱れるので、ややこしいので、こういった相関関係を把握しないと後でわからなくなるのですね。僕は南北朝の動乱を描いた「太平記」(子供向け)を読んでいるのですが、子供向けの内容でさえ、物語に色々な人が出てきて頭がこんがらがるもの。そういう意味で「太平記」と「Zガンダム」は似ているなって。今日は護良親王が絶体絶命のピンチになってしまうというお話し。


前回の記事で、護良親王もりよししんのうが奈良の般若寺ハンニャデラで身をひそめたことを触れました。般若寺を後にした護良は山伏ヤマブシに姿を変え、後から護良の元へかけつけた九人の武士たちともに紀伊国熊野キイノクニクマノ方面を目指したのです。その九人というのが光林房玄尊コウリンボウゲンソン赤松則祐アカマツソクユウ木寺相模コデラノサガミ岡本三河房オカモトノミカワボウ武蔵房ムサシボウ片岡八郎カタオカハチロウ矢田彦七ヤダヒコシチ平賀三郎ヒラガノサブロウ村上彦四郎ムラカミヒコシロウです。

この頃、護良は還俗ゲンゾク(*1)をしました。護良はそれまでお坊さんの肩書だったのですが、それを捨ててしまったのですね。

熊野三山は霊山として名高く、参拝する人も少なくなかったのです。それで、護良一行は参拝者に紛れこみ、鎌倉幕府打倒のチャンスを待っていたのですね。ところが、熊野三山の別当(*2)である 定遍僧都ジョウヘンソウズが完全に幕府よりだったので、仕方なく護良一行は十津川トツガワ へ向かったのです。


十津川までの道のりは険しいものでした。何しろ山岳地域に入らなくてはならない上に、道も整備されておりません。さすがの護良一行も疲れ果て、汗はダラダラ流れるし、足はガクガク、ワラジには血がにじむほどでした。しかも食べ物もろくにないから腹は減る。何しろ車も自転車さえもない時代でしたからね。それでもみんな弱音をはかず、互いにこしを押し、手を引っ張り合いながら、どうにか十津川にたどり着きました。

十津川に入った一行は、現地の武士である戸野兵衛トノヒョウエの妻が病にふしていたので、護良が加持祈祷カジキトウを行い、千手陀羅尼センジュダラニも唱えたと言います。すると、妻の病気はたちまち良くなったと。兵衛は感激し、護良の味方になったのですね。また、兵衛のおじの竹原八郎も護良に協力するようになったにです。それから半年ばかり護良一行は、十津川に滞在していたのです。護良に訪れたつかの間の平和な日々でした。しかし、それから半年たって護良が十津川にいるといううわさが広まったのです。護良をつかまえたものは賞金を与えるというおふれまで出たのです。護良はお尋ね者になったのです。こうなると護良は十津川にいられません。護良は十津川を後にしました。

「太平記」によると、護良一行が十津川から逃げる途中で、荘園の役人に引き止められ、護良一行が持っていた大事な錦の御旗(※3)を取られてしまうのですが、遅れてやって来た村上彦四郎が、その役人から錦の御旗を取り戻すというお話が出てきます。






護良一行に、またしてもピンチが訪れます。今度は幕府側の玉置荘司タマキショウジの軍勢に囲まれてしまいます。

護良、絶体絶命。護良はもはやこれまでと部下に「自分は自害するから、面の皮を剥ぎ、鼻を切って誰の首かわからなくして捨てよ。」とまで言ったとか。死を覚悟していたのですね。そこへ紀伊国の住人の野長瀬六郎ノナガセロクロウと野長瀬七郎の兄弟が3000騎を率いて護良を助けたのです。護良は絶体絶命のピンチを切り抜けたのです。よかったですね。

そして護良は吉野入りを果たし、挙兵をしたのです。吉野に立てこもった護良はどうなったか。そのお話はまた次回取り上げます。


*1 度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
*2 紀州熊野三山(本宮,新宮,那智)を統轄,管理した首長。
*3 この旗は天皇方であることの印であり、これを奉ずることで逆賊(天皇にそむくもの)ではないという証になる。




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(村上彦四郎の像)


* 参考文献






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