前回は曽我兄弟のお話をしましたが、今日は彼らをめぐる女性たちの話です。まずは曽我兄弟の母親の話から。
母親は、夫の河津佑泰を殺され、悲しみにくれていたのです。夫の亡骸の前で、母は二人の息子に「工藤佑経の首を取ってこの母に見せよ」と言ったそうです。兄は5歳、弟は3歳でした。弟の方は幼さゆえに状況がつかめず、母のヒザの上で手遊びをしていたのです。兄は父の亡骸にしがみつき、敵討ちを誓ったのです。やがて、母は曽我家の当主と結婚し、兄弟も河津家から曽我家に引き取られました。新しい夫のもとで母は幸せな日々を過ごし、いつしか夫の仇討ちなんてどうでも良くなったのです。しかし、兄弟は父の仇討ちを忘れませんでした。
ある時、二人が家の中で弓の練習をしていたら、「敵討なんてもってのほか、それでお前が命を落としたらどうするのですか」と叱ったそうです。
それから月日は流れ、兄の方は元服。曽我十郎祐成と名乗ります。一方、弟の方は、母に出家を勧められます。亡き父の供養のために寺に入って修行をしなさいと。非業の死を遂げたものの一族が、寺に入り菩提を弔うのは当時の慣例だったのですね。母は弟に敵討ちを諦めさせたかったのですね。こうして弟は箱根権現(今の箱根神社)に預けられたのですが、弟は勝手に山を降りて兄の元へ戻ったのです。兄は温かく迎え入れ、そして弟は兄とともに北条時政の館に向かい、時政に元服親になってもらい、晴れて弟も元服し、曽我五郎時宗と名乗ります。
母を喜ばそうと二人は、母の元へ行きましたが、母は障子をピシャリと閉めて、「今日より親がいると思うでない。私も子がいるとは思わぬ」と会ってくれなかったのです。つまり、弟の五郎が勝手に山を降りたから、母は怒ってしまったのです。母はどうしても仇討ちを諦めてもらいたかったのです。
そして、源頼朝が巻狩をする話を聞きつけ、兄弟は討ち入りのチャンスだと思ったのですね。
兄弟は、仇討ちの前に母に会います。弟を許してもらうためと、別れを告げるためでした。母は口も聞こうとしなかったのを、兄が「五郎ほど親孝行なものはいない」と言ったところ、母は涙を流したと言います。そして母は弟の五郎を許したのです。兄弟は、母に狩場に行くとだけ伝えました。今着ている小袖が区度ているから、新しい小袖を母に所望したのです。すると母は「兄弟に曽我殿(夫)の小袖を貸すから、狩場から帰ったら返しなさい」と言ってきたのです。これは親として生きて帰ってこいという意味でしょう。息子たちは「狩場に行く」としか言わないけれど、母はわかっていたのです。息子たちが夫の仇を取ろうとしているのを。
そして兄弟は母からもらった小袖を身につけ仇討ちに向かったのです。兄弟は工藤佑経が潜む館の配置など、情報を探りました。戦にせよ、仇討ちにせよ情報集めが基本ですからね。赤穂浪士だって闇雲に討ち入りしたのではなく、吉良邸近くで情報収集をしていましたから。そして、その仇討ちをすると決めた当日、二人は母に手紙を書きました。
「人の命は儚きもの。私が先に死んでも花や木の葉が散ったと思って諦めてください」と手紙につづ李ました。
そして兄弟は父の仇である工藤佑経をめったぎり。ついに宿願を果たしますが、二人とも敵の手に合い命を落としてしまいます。二人の死後、母の元に兄弟がしたためた手紙と小袖が届きます。母は天を仰ぎ、地に伏して泣きぬれたといいます。涙で手紙を読むこともできなかったとか。
また、兄の曽我十郎には好きな女性がいました。名を虎といい、相模国大磯の遊女でした。恋に落ちた十郎は大磯まで足しげく通ったそうです。親の仇うちに燃えていた十郎に取って、虎との出会いは心休まる、大切なひとときだったのではないでしょうか。十郎の死後、虎は10代で出家。十郎の弔いの旅をしたと言います。十郎が死んだ富士のふもとに着くと泣いたと言います。その後、虎は64歳で亡くなるまで、念仏三昧の日々だったと言います。曽我兄弟の冥福を祈っていたのかもしれません。
*この記事は「にっぽん!歴史検定」を参考に2022年1月22日に加筆修正しました。
母親は、夫の河津佑泰を殺され、悲しみにくれていたのです。夫の亡骸の前で、母は二人の息子に「工藤佑経の首を取ってこの母に見せよ」と言ったそうです。兄は5歳、弟は3歳でした。弟の方は幼さゆえに状況がつかめず、母のヒザの上で手遊びをしていたのです。兄は父の亡骸にしがみつき、敵討ちを誓ったのです。やがて、母は曽我家の当主と結婚し、兄弟も河津家から曽我家に引き取られました。新しい夫のもとで母は幸せな日々を過ごし、いつしか夫の仇討ちなんてどうでも良くなったのです。しかし、兄弟は父の仇討ちを忘れませんでした。
ある時、二人が家の中で弓の練習をしていたら、「敵討なんてもってのほか、それでお前が命を落としたらどうするのですか」と叱ったそうです。
それから月日は流れ、兄の方は元服。曽我十郎祐成と名乗ります。一方、弟の方は、母に出家を勧められます。亡き父の供養のために寺に入って修行をしなさいと。非業の死を遂げたものの一族が、寺に入り菩提を弔うのは当時の慣例だったのですね。母は弟に敵討ちを諦めさせたかったのですね。こうして弟は箱根権現(今の箱根神社)に預けられたのですが、弟は勝手に山を降りて兄の元へ戻ったのです。兄は温かく迎え入れ、そして弟は兄とともに北条時政の館に向かい、時政に元服親になってもらい、晴れて弟も元服し、曽我五郎時宗と名乗ります。
母を喜ばそうと二人は、母の元へ行きましたが、母は障子をピシャリと閉めて、「今日より親がいると思うでない。私も子がいるとは思わぬ」と会ってくれなかったのです。つまり、弟の五郎が勝手に山を降りたから、母は怒ってしまったのです。母はどうしても仇討ちを諦めてもらいたかったのです。
そして、源頼朝が巻狩をする話を聞きつけ、兄弟は討ち入りのチャンスだと思ったのですね。
兄弟は、仇討ちの前に母に会います。弟を許してもらうためと、別れを告げるためでした。母は口も聞こうとしなかったのを、兄が「五郎ほど親孝行なものはいない」と言ったところ、母は涙を流したと言います。そして母は弟の五郎を許したのです。兄弟は、母に狩場に行くとだけ伝えました。今着ている小袖が区度ているから、新しい小袖を母に所望したのです。すると母は「兄弟に曽我殿(夫)の小袖を貸すから、狩場から帰ったら返しなさい」と言ってきたのです。これは親として生きて帰ってこいという意味でしょう。息子たちは「狩場に行く」としか言わないけれど、母はわかっていたのです。息子たちが夫の仇を取ろうとしているのを。
そして兄弟は母からもらった小袖を身につけ仇討ちに向かったのです。兄弟は工藤佑経が潜む館の配置など、情報を探りました。戦にせよ、仇討ちにせよ情報集めが基本ですからね。赤穂浪士だって闇雲に討ち入りしたのではなく、吉良邸近くで情報収集をしていましたから。そして、その仇討ちをすると決めた当日、二人は母に手紙を書きました。
「人の命は儚きもの。私が先に死んでも花や木の葉が散ったと思って諦めてください」と手紙につづ李ました。
そして兄弟は父の仇である工藤佑経をめったぎり。ついに宿願を果たしますが、二人とも敵の手に合い命を落としてしまいます。二人の死後、母の元に兄弟がしたためた手紙と小袖が届きます。母は天を仰ぎ、地に伏して泣きぬれたといいます。涙で手紙を読むこともできなかったとか。
また、兄の曽我十郎には好きな女性がいました。名を虎といい、相模国大磯の遊女でした。恋に落ちた十郎は大磯まで足しげく通ったそうです。親の仇うちに燃えていた十郎に取って、虎との出会いは心休まる、大切なひとときだったのではないでしょうか。十郎の死後、虎は10代で出家。十郎の弔いの旅をしたと言います。十郎が死んだ富士のふもとに着くと泣いたと言います。その後、虎は64歳で亡くなるまで、念仏三昧の日々だったと言います。曽我兄弟の冥福を祈っていたのかもしれません。
*この記事は「にっぽん!歴史検定」を参考に2022年1月22日に加筆修正しました。