History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:昭和30年代

1 三種の神器

 今日は、三種の神器のお話しをします。三種の神器と言いましても、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。草薙剛草薙の剣ともいう)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 八咫鏡(やたのかがみ) の3つの事ではなく、テレビ、洗たく機、電気冷蔵庫の3つの電化製品のことで、これらの電化製品を持つ事が人々の夢だったのです。

今でこそ、これらの三つの電化製品は、たいていの家庭にありますが、昭和30年代は、これらの電化製品を持っている家庭の方がめずらしかったようです。

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(昭和30年代のリビング)



(三種の神器の動画 映らなかったらごめんなさい)

今日は三種の神器のうちの一つ、テレビにしぼって話を進めます。

2 テレビ
 今でこそケータイでもワンセグを見ることが出来るようになりました。それだけ身近になったテレビも、昭和30年代は人々にとっては高値高嶺たかね(※1)の花だったようです。

昭和28年に、NHKが本格的にテレビ放送を開始したのですが、何しろテレビは高価格で一台19万円。

当時の大卒の初任給が1万円程度の時代でしたから、テレビは大変高価なものだったのです。

だから、テレビを持っている家庭は1000けんに1けんの割合だったそうです。


映画『ALWAYS三丁目の夕日』にも、近所の人たちが集まってテレビをみる光景が出てきます。

昭和34年に、皇太子(今上天皇陛下)と美智子様(今の皇后陛下)のご成婚ごせいこんパレードが中継され、一気にテレビの普及ふきゅう台数は200万台を突破とっぱしたそうです。

※1遠くから見るだけで、手に入れることのできないもの、あこがれるだけで、自分にはほど遠いもののたとえ


(皇太子と美智子様のご成婚の動画)
 

3 街頭(がいとう)テレビの登場
 しかし、テレビが普及ふきゅうしない事に手をこまねいてばかりはいられません。テレビが売れないと、メーカーや電機屋さんも困るし、広告収入を収益源とする民放も困ります。

日本テレビの正力松太郎(しょうりきまつたろう)社長は、テレビを人々に広める為に、苦肉の策(※2 くにくのさく)として東京地区に220台の街頭がいとうテレビを設置しました。


街頭テレビの前には黒山の人だかり。テレビのCMは、いい宣伝になったし、街頭テレビがテレビを普及ふきゅうさせるきっかけとなりました。「オレの家にもテレビがほしい」と思う人も沢山でてきのでしょう。

昭和30年代の半ばころから1万円代のテレビも登場し、テレビが庶民の手の届くモノになりました。

その一方で、テレビの販売はんばいプロモーションのために設置された街頭テレビも、テレビが各家庭に普及ふきゅうするようになって、次第に姿を消していきます。

※2 敵をだますために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。ここでは苦しまぎれに考え出した手立てという意味。

1 「もはや戦後ではない」
 「もはや戦後ではない」という名文句をご存知でしょうか?この言葉は、もともとは中野好夫(なかのよしお)という評論家の言葉だったそうですが、昭和33年(34年?)の経済白書でも引用されたのです。

戦後間もない日本は非常に貧しい国で、国民が腹をすかせていた時代でした。そんな時代にケリをつけて、日本は豊かな社会になりつつあるという自信がこの言葉から感じられます。

2 後藤誉之助(ごとう よのすけ)
 この『経済白書』の執筆しっぴつ陣頭指揮じんとうしき(※1)をとったのが後藤誉之助(ごとう よのすけ)。当時は経済企画庁調査課長だったそうです。彼は難しい経済用語を国民にわかりやすく伝えようとした官庁エコノミストの草分け的存在でした。

後藤は人と議論や論争が大好きだったそうです。後藤の後輩こうはい「後藤誉之助さんとは、通勤の途中とちゅういろいろ議論したのを覚えています。『自転車は走り続かねばたおれる』などは電車の中の産物ですね」と回想しています。

昭和33年の白書には、神武景気じんむけいき(昭和29年〜昭和32年)の後に「なべ底不況ふきょう」が長期化すると予想しました。

ところが、その予想は大きくはずれ、その白書が出た後に神武景気を上回る「岩戸景気いわとけいき」がやってきました。この景気予測をまちがえた事を、後藤はエコノミストとして後々まで非常に気にかけていたそうです。そして彼は昭和35年4月13日に睡眠薬(すいみんやく)を飲みすぎて43才の若さで亡くなってしまいます・・・・

※1 リーダーが直接現場に出て指揮すること。

※ オマケ
もうすぐロンドンオリンピックが開催されます。今日は、オリンピックにちなんで、「東京五輪音頭」を。この歌はオリンピックが開かれた昭和39年に発表されました。

http://www.youtube.com/watch?v=TnqMXP3Nl9Q

今回で昭和30年代のお話は一度終らせたいと思います。また、機会があればこの時代についてふれてみたいです。

※ 参考文献

 『写説 昭和30年代』

写説 昭和30年代
写説 昭和30年代
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今日の記事ははっきりいって長いです。自分では短くまとめたつもりなのですが、何しろ要約力がないものですから・・・・

すみませんねえ。

1 事件のあらまし
 昔と比べて今の日本は治安が悪くなったと言われていますが、意外にも平成よりも昭和30年代の方が、犯罪率が高かったようです。もちろんあくまでもそれは数字の上の話であって、ヒサンな事件そのものは平成の今も起こっているのですが・・・

今日、取り上げる昭和30年代の事件は「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐ゆうかい事件」。4歳の男の子が誘拐されて、あげくに殺されてしまうというヒサンな事件です。

経済大国へと走りだした日本に突如とつじょ起きた事件。高度成長で日本人は豊かになったといわれていますが、その恩恵を受けられなかった人も少なくありません。「吉展ちゃん誘拐事件」(よしのぶちゃん ゆうかいじけん)の 犯人も例外ではありませんでした。

昭和38年3月31日の夕方、東京都台東区に住む村越吉展(むらこしよしのぶ)ちゃんが自宅近くの公園から行方不明となりました。

4月2日に村越さん宅に身代金みのしろきん50万円を新橋駅でわたせ」という電話がきたのです。警察は誘拐事件ゆうかいじけんと判断して捜査そうさに乗り出しました。警察は新橋駅で見張っていましたが、肝心かんじんの犯人は現れませんでした。その後、連日のように村越さん宅に電話をかけて受け渡し場所を指定するものの犯人は姿を見せなかったのです。

4月7日も犯人から電話があり、村越さん宅の近くに受け渡し場所を指定しました。母親が行ってみると吉展ちゃんのクツがあったので身代金を置いて帰ったのです。

しかし、警察は身代金を犯人にうばわれたあげく、犯人もつかまえられなかったというミスをおかしてしまいます。さらに札のナンバーもひかえ忘れるなど、警察は世論よろんの激しいバッシングを受けたのです。

犯人の足取りはつかめず、4月25日には警察が犯人の電話の声の録音をマスコミ(テレビやラジオ)に大々的に流して、情報の提供を呼びかけました。反響はんきょうは大きく、「かえしておくれ今すぐに」という歌までつくられたほどでした。けれど、これといった手がかりがつかめないまま、月日はむなしく流れていきました・・

2 犯人 小原保 逮捕たいほ
 警察は小原保(おはらたもつ)という人物を別件容疑べっけんたいほでタイホします。警察は小原に「お前が吉展ちゃんを誘拐ゆうかいしたのか」とせまります。

小原の取調べをしたのは「オトシの八兵衛」の異名を持つ平塚八兵衛(ひらつかはちべえ)刑事けいじ。平塚の人柄ひとがらに、はじめは犯行を否定していた小原も、とうとうウソもつけなくなり、ついに自供(※1)しました。

小原は、荒川区南千住(あらかわく みなみせんじゅ)の円通寺(えんつうじ)の墓の下に吉展ちゃんの遺体をかくしたと白状しました。事件発生から2年3ヶ月経って、犯人の自供を持って事件は解決したのです。


事件は解決しても、吉展ちゃんのご両親の悲しみは消えません。そして、吉展ちゃんのかがかしい未来も消えてしまったのです・・・



(円通寺の吉展ちゃん地蔵)

3 犯人の横顔
 ここで、事件の犯人、小原保についてふれておきます。彼は1933年(昭和8年)生まれ。小学5年のときに片足にひどい障害を負いました。足が悪いという事でバカにされた事もあったかもしれません・・・

職業訓練高をでて、14才でふるさとをはなれ、東京に出ました。まずしい生活からぬけ出したくて。 足が悪いので、座ったまま出来る仕事を探し、時計修理工になりました。小原は都会の暮らしに慣れてきましたが、次第に荒れていきます。

まずしい生活から抜け出したいという思いから、小原は務め先に内緒ないしょで時計のブローカー(※2)をしたり、横領(※3)などもしたのです。その為に、かえって借金はふくらみましたし、逮捕たいほもされてしまったのです。(吉展ちゃん事件の前に)

それで、小原はふるさとに帰り、お金をかき集めようとしました。貧しい実家に前にたたずんだ時、「金の相談などとても出来ない」と思い直して、小原は母に顔を見せただけで引き返しました。かといって、東京にもどったところで、借りられる所はありません。追いつめれた小原は、誘拐ゆうかいを思いついたのです。

僕も借金をした事があり、その返済の苦労はよくわかるのですが、さすがに犯行までは・・・

僕の場合は市役所の無料法律相談所や親に相談したのがよかったのかもしれないと思います。特に親父は自分も借金で苦労したせいか、理解を示してくれました。


 4 殺意の刹那(せつな)

 台東区の入谷南公園で遊んでいた吉展ちゃんを誘拐ゆうかいしました。ビッコを引いている小原の事をみた吉展ちゃんは「おじちゃん、足がいたいの?」と無邪気むじゃきに聞いたのです。

子供の言葉なのでまったく悪気わるぎはないのですが、この言葉に小原はカチンときたのです。それで「殺すしかない」と思ったそうです・・・

円通寺の境内けいだい付近で、吉展ちゃんを連れていた所、吉展ちゃんが「オシッコ!」とダダをこねていたので、小原は吉展ちゃんをあやしながら、おしっこをさせていました。そのとき、おぼうさんが二人の後ろを通り過ぎました。「見られた!」と思ったそのとき、「殺意が固まった」と。

小原は昭和41年に死刑が確定。小原は刑務所けいむしょの中でたくさんの短歌を読み上げました。二句ほど取り上げます。



「明日の日を 前にひたすら打ちつづく 鼓動(こどう)を指に きつつ眠る」

 「詫(わ)びとして この外あらず冥福(めいふく)を 炎のごとく声にいのるなり



話しはかわりますが、先ほど犯人からの脅迫電話きょうはくでんわ(の録音)がテレビやラジオで大々的にとりあげられたという話をしましたね。

その犯人の声をきいたある女の子が、「にくらしいほど落ちついて、両親の悲しみがわからないのかしらとおこったそうです。その女の子が次の記事で取り上げる有名な事件の被害者ひがいしゃとなるわけです・・・・

※1 自分の犯した罪や悪いことを自ら述べること。
※2 仲買人。本来は悪い意味ではないのだが、少なくとも小原のやったことは芳しくない。
※3 不法に他人の物を横取りすること。


(この記事はウィキペディアなど色々なサイトおよび下記の本を参考にして書きました。)










 
 


 

1 昭和30年代の暗部 公害
 昭和30年代の暗部の一つといえば、公害でしょうか。四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病、そして今日取り上げます熊本の水俣病みなまたびょう

昭和30年代前半に、水俣病の患者かんじゃは多数発生していました。昭和34年(1959年)に、原因は日本窒素肥料(※1 にほんちっそひりょう)水俣みなまた工場が海に捨てた有機水銀である事がわかったのです。

しかし会社はこの事実を認めませんでした。政府は政府で汚染おせんの特定をさけて何らの有効策もとろうとしなかったのです。

そのような状況じょうきょうの中、一人の医師が、自分の良心と企業人として自分の狭間rt>はざまで苦しんだのです。医師の名前は細川一(ほそかわはじめ)。

細川一のことは以前、『その時歴史が動いた』で、水俣病の事が取り上げられました。水俣病といえば小学校の社会科の授業で習いましたが、『その時〜』でえがかれたようなドラマがあったとは思いませんでした。


※1 現在のチッソ

2 細川一について
 細川一は、日本窒素肥料(にほんちっそひりょう)の付属病院の院長だった人物です。彼は日本窒素肥料の社員だけでなく、地域の住民の診療しんりょうにも当たった評判のいいお医者さんだったそうです。

ある日、彼の勤める病院に水俣病の患者かんじゃが運びこました。細川一はさっそくその患者かんじゃ診療しんりょうをし、やがて日本窒素肥料の工場から出てくる排水に含まれている有機水銀に原因がある事をつきとめます。

海に流した有機水銀を魚が飲み込み、その魚を食べた人間が水俣病にかかってしまうことがわかったのです。


3 企業と自分とのハザマで

 しかし、日本窒素肥料の経営陣はそのことを否定しました。あくまでも企業の利益を優先する方針だったのです。

細川一は「水俣病の原因は我が社(日本窒素肥料)にあり」と思っていても、それを口外できないまま、結局定年をむかえてしまいました。しかし、その間にも水俣病みなまたびょう患者かんじゃは増えるばかり・・・

たしかに、この有機水銀についてだまり続けた細川一もチッソと同じムジナかもしれませんが、彼も苦しかったと思われます。組織人という立場から、上層部に逆らうことはなかなか難しかったかもしれません・・・

細川が定年後、水俣病みなまたびょうの裁判に参考人として出る事になりました。が、その矢先に彼は病に倒れてしまいました。それでも、彼は贖罪しょくざい(※2)の気持ちからか、入院先の病院で臨床尋問りんしょうじんもん(※3)を受けました。

そして、彼の証言が証拠となり、水俣病の患者側が勝訴(しょうそ)しました。患者達がうれし涙を流した映像はボクも感動しました。

※2 良いことをしたり、金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失をつぐなうこと。罪ほろぼし。

※3 証人が病気などで出頭できない場合に,裁判所が病院などにおもむいて行う尋問



今回から数回にわたって、昭和30年代について語りたいと思います。昭和30年代といえば僕は映画『ALWAYS3丁目の夕日』とか、島田洋七さんの『佐賀のがばいばあいちゃん』を連想してしまいます。

佐賀のがばいばあちゃん (徳間文庫)
佐賀のがばいばあちゃん (徳間文庫) [文庫]



何しろ、あの時代は僕はカゲも形もなかったから、あの時代の事は全くわかりません。けれど、昭和30年代の事はいつかはブログで書きたいとおもっておりました。

昭和30年代というと、高度成長期で日本がもっともかがやいていた時代で、今よりも助け合いの精神があり、人情があったとよく言われています。

一方で、公害だとか貧困、過そ、今より高い犯罪率など色々と問題もあったようです。

また、「昭和30年代は、いい時代だった」と言う人もいる一方で、「正直、イヤな時代だった」と回想する人もいるようです。

昭和30年代を数回にわたって、いい面も悪い面もふくめて語ってみたいと思います。





※ オマケ

今日は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の主題歌になりましたバンプの『花の名』をどうぞ。僕もこの映画をみて、「へえ〜昭和30年代ってこんな時代だったんだ」って思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=VkxxKFuPge4




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