history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:昭和天皇

テレビはいろいろ見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今、どういう番組をみているかということにはこたえられません。


この発言は、記者会見で記者が「どういうふうなテレビ番組をご覧になりますでしょうか」と気軽な質問をしたときに出た言葉。そうですよね、具体的なテレビ番組名をあげたら、昭和天皇が見ている番組というプレミアムがつきますもんね。そりゃ天皇陛下だって言いづらいでしょ。

実際、昭和天皇はテレビをよくご覧になられたといいます。側近たちの話によるとニュースや「皇室アルバム」はもとより相撲、それからドラマもご覧になったといいます。とくに『おしん』が大好きだったそうです。『おしん』の主人公の田倉しんは、昭和天皇と同い年という設定になっております。


ええ、その当時、今「おしん」の映画(ドラマのまちがい?)を終始見て、その当時の女性の苦労というものを非常に察していましたが、当時のそういうことはあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知ってましたけれども、それは非常におおざっぱな感想しか私はその当時は承知してませんでした。その映画を見て非常にあの時の苦労を思い出しました。


貧乏、奉公そして戦争、当時の女性というか庶民の苦労というのは風のウワサでは聞いていたが、まさかこれほどひどいものだったなんて。そんな思いを『おしん』をみて昭和天皇は衝撃を受けられたかもしれません。自分が宮中で体験した現実と庶民が味わった現実があまりに違う。もちろん、昭和天皇は昭和10年にこのような言葉をおっしゃってました。

東京のような都会に住んでいるから、そんな呑気なことを言う。東北、北海道の人たちが、今この瞬間、天を仰いでどんなに心配しているか、なぜそのことを思ってみないか。



東北、北海道の人たちが冷害に苦しんでいることは昭和天皇も戦前からご存じでした。冷害のために農村の困窮も伝え聞いておりました。けれど、まさかこれほどとはって昭和天皇は『おしん』をみて思われたそうですよ。もし、昭和天皇が平成天皇のように被災地を訪れ、被災者の人に膝をつけて、被災者の話を聞いていたら、もっと実感できたかもしれない。

また、昭和天皇は『さかなちゃん』というドラマや『サザエさん』に『小公女セーラ』もご覧になられたといいます。『さかなちゃん』とは、生物学者でありタレントのさかなクンが主人公のどらまではないですよwこれは1976年に放送された昼のドラマ小説です。魚市場で働く男勝りの女性が主人公のドラマだったようです。

『サザエさん』のファンである昭和天皇は春の園遊会で作者の長谷川町子さんをよばれたのですね。それで、長谷川町子さん直々に昭和天皇は、こう言われたのです。

あのサザエさんね。漫画とかね、テレビで時々見てるから。なかなか面白いものをやってますね。水面喜んでいるようですから。しっかりやってください。


また、昭和天皇が『小公女セーラ』をご覧になられたという話をきいて、僕も昭和天皇に僭越ながら親近感が持てましたw僕もセーラみていましたから。セーラは金持ちのお嬢様だったのが父親の破産でミンチン女学院のメイドになってしまい、さらにミンチン院長やラビニアから過酷ともいえるイジメを受けるのですね。そんなつらい境遇に耐え抜くセーラに僕もいじめられっ子だった自分と重ねたっけ。昭和天皇陛下はセーラを見て何を思われたか、あいにく資料はないのですが、昭和天皇陛下の心を打ったことは間違いないと思います。








サザエさん 1巻
長谷川町子
朝日新聞出版
2020-01-07

朝ドラで「らんまん」が話題になっております。植物学者の牧野富太郎をモデルにしたドラマです。その牧野富太郎が「雑草という草はない」という名言を残したといいます。その牧野を皇居に招いたのが昭和天皇陛下。昭和22年(1947年)ごろから牧野を皇居によび植物学のレクチャーを受けたといいます。昭和天皇陛下は植物に関して非常に造詣が深い方。旧天皇誕生日(4月29日)が、「昭和の日」ではなく当初は「みどりの日」という名前の祝日だったこともその表れです。

昭和天皇もそんな牧野に影響を受けてか、このような言葉を述べられております。


どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのいはいけない」


名言だと思います。植物はみな命があるということでしょう。昭和天皇のお人柄が出ています。このお言葉は、昭和天皇が皇居を離れ留守にしていた時、吹上御所にある庭に雑草が生い茂っていたのですね。吹上御所にはかつてゴルフ場があったようですが、自然を愛する昭和天皇はそのゴルフ場を自然のままに放置したのですね。それで当時の田中直という侍従が全部、草をとってきれいにしたのです。昭和天皇が御帰りになって、田中侍従は褒められるだろうと期待したのです。ところが、昭和天皇から返ってきた言葉は意外なもので、

「どうして庭を刈ったのかね」

でした。それで田中侍従が「雑草が生い茂ってましたので」と言ったところ、出てきた言葉が「雑草という草はない」だったのです。

また、三木武夫内閣の時代にも昭和天皇は「雑草という草はない」とおっしゃったといいます。旅行先で、旅行での案内役をしていた安倍晋太郎農林相が「ここから先は雑草です」と言ったところ、やはり、「雑草という草はない」とおっしゃったとか。このエピソードは政界でも話題になり、のち福田 赳夫内閣の時、田村元運輸相が「非常に感動しました」と直接、天皇に話しました。すると昭和天皇は、

「そんなに感動されてもはずかしいのだけれども、ただ、雑草というのは人間のエゴからつけている呼び名である。かわいそうだよね。猛獣という言葉もあるけれど、ライオンやトラからみたら、一番の猛獣はあるいは人間かもしれないね」

もっともですね。我々は気が付かないけれど、よく考えたら人間こそ、地球でも最も獰猛な猛獣かもしれない。ちなみに、この時、田村運輸相は、「私は生き物を殺すハンティングや釣りは好まない」って言ったのですね。それは本心ですかね?。ハンティングはともかく釣りは好きなのに、昭和天皇にゴマすってそう言っているだけなんじゃね?そんな田村の腹が読めたのか、昭和天皇は「あえてコメントはしないでおこう」って述べられました。

さらに昭和天皇が雑草という言葉を嫌がる理由について、このように述べられております。

どうも雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まないのです。(雑草とは)道端に雑然と生えている植物をさすのではないかと考えています。麦やコメなどの生長を妨げるものもありますが、きれいな花が咲いたり、役に立つのもあるので、(雑草という名前は)どうも面白くないのです。


※ 参考文献



終戦から30年後の昭和50年に昭和天皇陛下はアメリカのNBCテレビの取材を受けました。その時、記者から終戦の動機について質問をされ、このようにお答えになりました。


報告は聞いたが、最後の御前会議で意見がまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。動機は、日本国民が戦争による食糧不足や損失にあえいでいたという事実や、戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。


国民にこれ以上の苦しみを与えることはできないと判断しての行動だと。昭和天皇は戦時中は、軍部に発破をかけるような発言も度々しましたが、その一方で、国民を苦しめるような悲惨な戦争を続けることは出来ないと考えていたと。しかし、一方で昭和天皇はリアリストでありました。時に左になったり、右になったり。一貫して平和主義を貫き通す平成上皇様とは違います。

戦後、アメリカと講和条約が結ばれたとき、このような言葉を述べられております。

明治大帝の孫の時代に、海外の領土をすべて失ったことは大変な苦痛だ。



講和条約は、旧日本の領土をすべて手放せというものでした。そのことが昭和天皇にとって苦痛だと。昭和天皇が戦時中、あれだけ軍部を発破をかけたのも、軍部に脅かされたというより、これで負けたら日本の領土をすべて失ってしまい、国益を大きく損じてしまう、そう考えたからだと思われます。また、戦後になって、自衛隊の存在について世論は二分されましたが、どちらかというと、自衛隊は軍隊だからいらないとか、その存在が平和を乱すみたいな意見のほうが70年代までは多かったのですね。実際、自民党のタカ派とよばれる政治家も70年代は戦争を実際に経験している人も多く、防衛費をあげることにためらいがありました。そんな状況に昭和天皇はやきもきしていたのです。



GNPの何パーセントといふような数字の上の問題にとらはれず、防衛を高めることによってソ連を刺激するバカらしさという高いところから意見を述べる政治家がゐない。



防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことはまねせず、いいところは取り入れて、しっかりやってほしい。


これも戦後に昭和天皇が述べられた言葉です。これらの昭和天皇の発言を戦時中の過激ともいえる戦争賛美発言と合わせて、昭和天皇は多少の犠牲は払ってでも国益は守らなくてはならないって思想があったんじゃないかなって。なにしろ幼少のころから山縣有朋らに教育されて育ったのだから、ある意味無理もないことでしょう。逆に平成上皇様はたとえ日本という国が亡くなってでも、国民の命は守るべきって考えがあるように感じられます。

389px-Macarthur_hirohito


まずは、この写真。有名ですよね。マッカーサーと昭和天皇のツーショット。この写真は新聞に掲載され、その新聞を見た日本人は衝撃を受けたのです。今までは現人神として崇めていた天皇が正装とはいえ、平民と同じようなモーニングを着てかしこまっている。一方のマッカーサーはよく言えばリラックス、悪く言えば我がもの顔をしてふんぞり返っている。両国の力関係を感じさせる写真でした。そして、日本は負けたのだと改めて国民に再認識させるほどのインパクトがこの写真にありました。「いいや、昭和天皇は正装をしているのに、マッカーサーはラフな格好で礼儀を知らない、むしろ昭和天皇のすばらしさを物語る写真だ」という意見もありますが、終戦まで日本国民が現人神として昭和天皇の写真に礼をしていたことを考えると、これは大変なことなんですね。


日本がポツダム宣言を受けいれた最大の理由は国体の護持、つまり天皇制の存続でした。


またマッカーサーは天皇の権威を利用して、占領政策を進めようとしたのです。その一環としてマッカーサーは天皇と会う必要があると考えたのです。敗戦のみじめさを日本に思い知らせようと天皇を呼びつけようという連合国側であったのですが、マッカーサーは、「天皇を呼びつければ、天皇を国民の殉教者に仕立てあげるようになる」と言って反対。つまり、国民の反感を買って今後の占領がやりにくくなることを恐れたのでしょう。こうした日米のおもわくがマッカーサーによる天皇呼び付けに繋がりました。 



1945年(昭和20)の9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館に到着します。そして、マッカーサーの部屋に通されました。天皇のお供をしたのは通訳ただ一人。天皇が入るなり、マッカーサーは迎え入れ、すぐに写真撮影に入ったのです。撮影をするなんて天皇は全く知らなかったので、天皇もびっくりしたのです。だから、天皇も戸惑い、三枚写真を撮って、その三枚目でやっと天皇は体勢を整えることができたとのこと。


2人のツーショットは翌日(28日)の新聞で掲載される予定でした。しかし、時の内務大臣の山崎巌が「不敬フケイだ!」と激怒。結局、28日の新聞にはマッカーサーと天皇の写真は載らなかったのです。それに怒ったはGHQ。依然として日本に旧体制のものがいるとして、言論に関する一切の制限令を撤廃テッパイさせたのです。

そして結局、9月29日の新聞に2人の写真は載ったのです。

話を9月27日の天皇とマッカーサーの会談の日に戻します。写真撮影が終わってから、2人は会談をします。開戦のことと、それからポツダム宣言の履行の確認です。会談の途中、マッカーサーは不安になったのです。天皇が戦争責任を逃れようと、あれこれ言い訳をするのではないかって。

ところが、天皇はマッカーサーが思いも寄らない言葉を述べられたのです。


「私は国民が戦争遂行にああって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」


つまり戦争責任は自分にあると天皇は述べられたのです。この天皇のお言葉にマッカーサーはいたく感動。「責任を受けようとするこの男気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士しんしであることを感じた。」

会見は予定より大幅にオーバーしたといいます。会見が終わって、マッカーサーは大使館の玄関まで天皇を見送ったといいます。

しかし、連合国側には天皇を裁判にかけ、戦犯として裁くべきだという意見も根強かったのです。マッカーサーは考えました。天皇を告発したら、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊はそのまま日本の崩壊につながると考えましたし、もしそんなことをすれば日本各地でゲリラ戦が起こる恐れもあると。それで、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀長官に「過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからない」と伝え、天皇は無実であるとしました。

マッカーサーは天皇を無実にするために色々と工作をしたといいます。


  • 人間宣言をさせることで、新たな天皇像を作りあげ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとした。


  • マッカーサーはキーナン首席検事とともに、天皇をさばかれないことを前提に裁判を進めるよう他国に説得をし、同意を求めた。


「人間宣言」とは、1946年(昭和21)の元旦の新聞紙上で、昭和天皇の詔書が発表し、天皇が自ら人格性を否定したこと。日本人は衝撃ショウゲキを受けましたが、これにより天皇が独裁者であるというイメージは崩れたのですね。


しかし、そんなマッカーサーの様々な工作を水の泡にさせるようなことを言ってしまった人物がいました。

東條英機です。


東條英機は、「自分は陛下の命令に反いたことがない」と裁判で発言。これでは、天皇の命令で戦争がおこわなわれたことになります。そこでマッカーサーは東條の知人を通して、天皇に責任はないと発言するよう説得。そして東條はしぶしぶ「陛下は責任がない。全責任は私にある」と発言。

1946年(昭和21)10月16日にマッカーサーと天皇の第3回目の会見が行われました。その時は大日本帝国憲法に変わる新しい憲法が作られている時期でした。新憲法は、民主化、封建社会の否定、そして戦争放棄が盛り込まれておりました。特に戦争放棄には天皇も賛同されたといいます。


ちなみに、日本国憲法が1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌年の1947年(昭和22)5月3日に施行されました。

天皇とマッカーサーの会談は、1945年の9月27日から、1951年(昭和26)4月15日まで11回行われました。回を重ねることに、天皇とマッカーサーの信頼は深まり。マッカーサーも当初は皇帝(エンペラー)と呼んでいたのが、次第に陛下と呼ぶようになったといいます。ただし、マッカーサーは一度も皇居に訪れていないのですね・・・

そして1951年の4月16日、マッカーサーは日本を後にしまいた。その時、日本人20数万人が日の丸と星条旗を持って、マッカーサーの帰りを見守ったといいます。

のちにマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」と語っておりました。天皇の協力がなかったら、占領政策は失敗していたかもしれない。また、マッカーサーは天皇個人のことを「天皇は私が話し合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」と高く評価。


昭和天皇も「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことが、国のためにも良かった。一度約束をしたことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥としての会見は今思い出しても思い出深い」とマッカーサーを評されました。確かにマッカーサーではなく、スターリンや毛沢東が日本に来ていたら大変なことになっていましたね。毛沢東もスターリンも独裁的な手法で国民を苦しめたわけですから。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。また、「図説マッカーサー」も参考にしました。

図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01

戦争に反対する者の意見は抽象的であるが、内閣のほうは数字を挙げて戦争を主張するのだから、遺憾ながら戦争論を抑える力がなかった。


この昭和天皇の発言は、昭和21年に側近に語られたものです。時の内閣、近衛文麿はアメリカとの戦争に反対していたのです。しかし、その近衛の言葉は抽象的で、ただ戦争反対を唱えるばかり。今でいえば左派政党の戦争反対みたいな感じでしょうか。かたや開戦をとなえる軍部や関係者は資源の問題や勝算などを具体的な数字をあげて主張したのです。その数字がでたらめやゴマカシであってもよいのです。ともかく具体的な数字を言われると抽象的な主張をする人間は弱いです。ましてや軍部は声もでかいですからね、時に怒鳴り声をだして脅かしたりしたのでしょうね。もちろん、石橋湛山のように具体的な数字を挙げて戦争を反対する論者もいたのですが、当時の日本では石橋の意見は聞き入れられなかったのです。


元来軍人の一部は戦争癖がある。軍備は平和のためにすると口にしながら、軍備が充実すると、その力を試してみたくなる悪いくせがある。これは隣人愛の欠如、日本武士道の退廃たいはいである。


昭和天皇は国防を非常に大切に考えており、それは戦後になっても変わらなかったのです。ただ、旧軍のやり方には腹に据えかねていたところがあり、軍部それも上層部がいかに武士道がわかっていなかったと嘆いていたのですね。
昭和天皇は軍部の暴走を止められなかった要因の一つとして日本人の国民性をあげていました。

先ず我が国の国民性について思うことは、付和雷同が多いことで、これは大いに改善の要があるとかんがえる。(略)かように国民性に落ち着きがないことが、戦争防止の困難であった一つの要因であった。将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、また宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。


え?「付和雷同」の意味が分からないって?僕もうまく説明できないのですが、意味は、自分にしっかりした考えがなく、むやみに他人の意見に同調すること。ってところでしょうか。もちろん、自分の意見も持たず戦争にやみくもに賛同した人間も多かったことは事実です。ただ、戦時中にも結構いたのですよ、戦争をやめろって人が。議員の斎藤隆夫とか安倍晋三元総理の祖父である安倍寛とか。斎藤隆夫なんて軍部の妨害を受けながらも二位当選しているし、安倍寛もギリギリながら当選している。この選挙結果をみるにつけ、当時の日本人が皆が皆戦争に賛同するどころか、軍部のやり方に不満を持って、反軍部、反大政翼賛会の議員に投票する人も結構いたのですよ。だから日本国民皆が皆、付和雷同したわけじゃない。

しかし、そうした意見を封じてしまったのが、当時の軍部。当時の選挙なんてひどいもので、戦争反対を訴えた議員は露骨に選挙妨害をされたり、大政翼賛会から公認をもらえなかったり。そして戦争に反対する人間を憲兵をつかって弾圧したのですから。また言論人や文化人だって戦争に反対する人間には仕事がもらえなかったといいます。一方のアメリカは戦争に反対する人間でも、何とか飯は食えたといいます。そんな話を市川房江さんをされて嘆いていたっけ。逆に戦争を賛美したり政府をマンセーするような言論人はウハウハだったといいます。代表的なのは火野葦平ひのあしへい。火野葦平は戦後、自らの戦争責任を悔い自殺をするのですが・・・・ちなみに俳優の火野正平さんという方がいて、火野正平さんと火野葦平間違いやすいですが、まったく二人は血縁関係などなく、赤の他人同士です。

火野は中国の戦地に赴き、戦争マンセーの小説を書いたのです。それが彼の代表作『麦と兵隊』。火野は「愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った」と書いたほど。まさに今でいうウヨ作家。火野の成功を受けて結成されたのが従軍ペン部隊。林芙美子ら人気作家が名を連ねておりました。これは中国の戦地に赴いては、日本軍のちょうちん記事とか文章を書いていたのです。戦争で仕事が減っていた作家たちにとって、これはありがたい話だったのです。ペン部隊の作家たちは国から支度金として国から700円、今の価値でおよそ200万円支給されたというから驚きですね。危険な戦地に行くとは言え、戦争マンセー記事や小説を書いただけで200万もらえたのです。

麦と兵隊・土と兵隊 (角川文庫)
火野 葦平
KADOKAWA
2021-02-25



そういえば、9・11以降、アメリカは異様な雰囲気で、イスラムやアルカイダを戦争でぶっ潰せみたいな雰囲気だったそうですが、そんな中でもマイケル・ムーア監督はブッシュ大統領を批判し、戦争の愚かさを言い続けましたが、それで彼が干されることはなかったもんなあ。かたや日本は、落語家の桂歌丸さんが笑点で政治家の批判をたびたび繰り返したら、ある政治家から「あんまり批判するな」みたいに圧をかけられたといいますからね、民主主義の今でもこの調子だから、戦時中なんてもっとでしょう。

誰だって自分の命が惜しい。国民性というより、当時の政府の弾圧や締め付けがひどかった面が大きいと思います。


また「宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」という天皇の御言葉。統一教会のことが問題になっている今では物議を醸しだしそうな発言ですね。信仰自体が悪いというより、家族の崩壊を招くほどはまり込んだり、他人まで巻き添えにして迷惑をかけたりするのが問題なんですよね。信仰を通して、心のケアになったり支えになったりする場合もありますし。仏教にしてもキリスト教にしてもも本来は哲学なんですよね。それを運用する人間の責任であり、また、それを悪用するのが問題なのであって。

※ 参考文献





また、この記事は『映像の世紀 バタフライ』を参考にして書きました。

このページのトップヘ