NDL-DC 1307845 01-Tsukioka Yoshitoshi-後醍醐天皇第三皇子大塔宮護良親王誦読於鎌倉土牢法華経図-明治30-crd
(Wikipediaより。護良親王が法華経を読誦している様子を描いた絵)


護良親王モリヨシシンノウ。は幼い頃から比叡山ヒエイザンに入れられております。護良は勉強そっちのけで武芸の稽古ケイコばかりしていたと言いますが、20代で天台座主テンダイザスになれたくらいです。仏教のことをまるで知らないで天台座主になれるわけないので、護良にも素養はあったはず。また、比叡山は数多くあるお経の中で大切にしているのが「妙法蓮華経ミョウホウレンゲキョウ」、つまり「法華経」です。法華経を大事にしているといえば日蓮宗もそうです。

日蓮宗といえば、このようなエピソードがあります。後醍醐天皇が幕府に歯向かい隠岐島オキノシマに流されました。元弘3(1333)年供養を護良は日蓮宗の日像上人に命じて父の帰還供養をするように令旨リョウジ(※1)を出しました。



日像上人とは、日蓮宗の開祖・日蓮上人のお弟子さんです。日像上人は、法華経以外の教えを邪道と考えていた節があったようで、京都での布教活動をしていましたが、比叡山や他宗教の圧力もあって迫害を受けていたのですね。それにもめげずに日像上人は妙顕寺ミョウケンジというお寺を開創したのですね。

翌年の建武元年(1334)後醍醐天皇が京都に戻ってくると妙顕寺を勅願寺チョクガンジ(※2)とするという後醍醐天皇の綸旨リンジ(※3)を得ました。つまり、日像上人の活動も天皇のお墨付きをもらったということです。これには日像上人の歓びもひとしおでしょう。

話を護良に戻して、護良は幽閉されてしまいますが、そこで読んでいたのが法華経だそうです。今まで戦、戦で護良は心が休まる日がなかったと思われます。閉じ込められたのはかわいそうな気もしますが、一方で時間ができたともいえます。もしかしたら、護良は法華経を読みながら、戦争で亡くなった人たちのことを思っていたのかもしれないと僕は思います。

不幸にも護良は殺されてしまいますが、護良には子供が何人かいましたが、そのうちの二人が仏門に入られたのです。すごいですね。護良も本来は仏教に縁がある方なんですね。平和な時代に生まれていたら、坊さんになって人々を救っていたかもしれませんね。

一人が日叡ニチエイ上人。鎌倉にある妙法寺というお寺を建てた人です。元々妙法寺があった場所に日蓮上人が草庵ソウアンを結んでおりました。日叡上人は日蓮上人をしのび、かつ父・護良親王の菩提ボダイトムラうためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山妙法寺リョウゴンザンミョウホウジと名付けたのです。妙法寺は苔寺コケデラとしても有名で、護良のお墓もあります。

もう一人が、華蔵姫ケゾウヒメ。護良の娘です。護良が鎌倉に幽閉されていることを知り、京にいることを不安に思った姫は、父親に会いたい一心で鎌倉に下りました。護良の捕まっている牢の中には護良はおらず、しかも、父が殺害されたことを知ったのです。護良の娘が鎌倉に来たというので、鎌倉にいては足利の人間に捕まってしまうというので姫はさらにに東に逃れ、今の千葉県東金市トウガネシ)に身を隠したといます。姫が来てからは、ここを姫島と呼ぶようになりました。

華蔵姫は、さらに安全な地を選んで、姫島の近くの要害の地に館を築き、従者の武士が周辺を警護したました。その地を家の子といい、その館は家の子御所とか呼ばれましたが、姫が出家してからは尼御所と通称したそうです。姫は出家して父の菩提を弔ったそうです。姫が出家して、どの宗派に所属したのか、そして姫が法華経に帰依してたかどうかまではわかりません。ただ、その地に妙宣寺という華蔵姫にゆかりのあるお寺があります。元々は曹洞宗だったそうですが、今は日蓮宗のお寺だそうです。

護良と法華経に関するお話といえば、神奈川県の津久井というところに護良をまつった塚があります。千部塚といい、応安4年(1371)に親王の33回忌に法華経千部を納めて建てられたと言います。





※1 皇后や皇太后、皇太子などが命令、意思を伝えるために発した文書
※2 天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと
※3 蔵人所クロウドドコロが天皇の意を受けて発給する命令分。ちなみに蔵人所とは天皇の秘書的な役割をする機関