(このエントリーに出てくる主な登場人物の相関関係)
今回の記事は色々な人物が出てくるので、今日の記事に出てくる主な人物の相関関係を図にしてみました。南北朝の動乱は色々な登場人物が入り乱れるので、ややこしいので、こういった相関関係を把握しないと後でわからなくなるのですね。僕は南北朝の動乱を描いた「太平記」(子供向け)を読んでいるのですが、子供向けの内容でさえ、物語に色々な人が出てきて頭がこんがらがるもの。そういう意味で「太平記」と「Zガンダム」は似ているなって。今日は護良親王が絶体絶命のピンチになってしまうというお話し。
前回の記事で、護良親王が奈良の般若寺で身をひそめたことを触れました。般若寺を後にした護良は山伏に姿を変え、後から護良の元へかけつけた九人の武士たちともに紀伊国熊野方面を目指したのです。その九人というのが光林房玄尊、赤松則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎、村上彦四郎です。
この頃、護良は還俗(*1)をしました。護良はそれまでお坊さんの肩書だったのですが、それを捨ててしまったのですね。
熊野三山は霊山として名高く、参拝する人も少なくなかったのです。それで、護良一行は参拝者に紛れこみ、鎌倉幕府打倒のチャンスを待っていたのですね。ところが、熊野三山の別当(*2)である 定遍僧都が完全に幕府よりだったので、仕方なく護良一行は十津川へ向かったのです。
十津川までの道のりは険しいものでした。何しろ山岳地域に入らなくてはならない上に、道も整備されておりません。さすがの護良一行も疲れ果て、汗はダラダラ流れるし、足はガクガク、ワラジには血がにじむほどでした。しかも食べ物もろくにないから腹は減る。何しろ車も自転車さえもない時代でしたからね。それでもみんな弱音をはかず、互いに腰を押し、手を引っ張り合いながら、どうにか十津川にたどり着きました。
十津川に入った一行は、現地の武士である戸野兵衛の妻が病にふしていたので、護良が加持祈祷を行い、千手陀羅尼も唱えたと言います。すると、妻の病気はたちまち良くなったと。兵衛は感激し、護良の味方になったのですね。また、兵衛のおじの竹原八郎も護良に協力するようになったにです。それから半年ばかり護良一行は、十津川に滞在していたのです。護良に訪れたつかの間の平和な日々でした。しかし、それから半年たって護良が十津川にいるといううわさが広まったのです。護良をつかまえたものは賞金を与えるというおふれまで出たのです。護良はお尋ね者になったのです。こうなると護良は十津川にいられません。護良は十津川を後にしました。
「太平記」によると、護良一行が十津川から逃げる途中で、荘園の役人に引き止められ、護良一行が持っていた大事な錦の御旗(※3)を取られてしまうのですが、遅れてやって来た村上彦四郎が、その役人から錦の御旗を取り戻すというお話が出てきます。
護良一行に、またしてもピンチが訪れます。今度は幕府側の玉置荘司の軍勢に囲まれてしまいます。
護良、絶体絶命。護良はもはやこれまでと部下に「自分は自害するから、面の皮を剥ぎ、鼻を切って誰の首かわからなくして捨てよ。」とまで言ったとか。死を覚悟していたのですね。そこへ紀伊国の住人の野長瀬六郎と野長瀬七郎の兄弟が3000騎を率いて護良を助けたのです。護良は絶体絶命のピンチを切り抜けたのです。よかったですね。
そして護良は吉野入りを果たし、挙兵をしたのです。吉野に立てこもった護良はどうなったか。そのお話はまた次回取り上げます。
*1 度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
*2 紀州熊野三山(本宮,新宮,那智)を統轄,管理した首長。
*3 この旗は天皇方であることの印であり、これを奉ずることで逆賊(天皇にそむくもの)ではないという証になる。
(村上彦四郎の像)
* 参考文献
今回の記事は色々な人物が出てくるので、今日の記事に出てくる主な人物の相関関係を図にしてみました。南北朝の動乱は色々な登場人物が入り乱れるので、ややこしいので、こういった相関関係を把握しないと後でわからなくなるのですね。僕は南北朝の動乱を描いた「太平記」(子供向け)を読んでいるのですが、子供向けの内容でさえ、物語に色々な人が出てきて頭がこんがらがるもの。そういう意味で「太平記」と「Zガンダム」は似ているなって。今日は護良親王が絶体絶命のピンチになってしまうというお話し。
前回の記事で、護良親王が奈良の般若寺で身をひそめたことを触れました。般若寺を後にした護良は山伏に姿を変え、後から護良の元へかけつけた九人の武士たちともに紀伊国熊野方面を目指したのです。その九人というのが光林房玄尊、赤松則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎、村上彦四郎です。
この頃、護良は還俗(*1)をしました。護良はそれまでお坊さんの肩書だったのですが、それを捨ててしまったのですね。
熊野三山は霊山として名高く、参拝する人も少なくなかったのです。それで、護良一行は参拝者に紛れこみ、鎌倉幕府打倒のチャンスを待っていたのですね。ところが、熊野三山の別当(*2)である 定遍僧都が完全に幕府よりだったので、仕方なく護良一行は十津川へ向かったのです。
十津川までの道のりは険しいものでした。何しろ山岳地域に入らなくてはならない上に、道も整備されておりません。さすがの護良一行も疲れ果て、汗はダラダラ流れるし、足はガクガク、ワラジには血がにじむほどでした。しかも食べ物もろくにないから腹は減る。何しろ車も自転車さえもない時代でしたからね。それでもみんな弱音をはかず、互いに腰を押し、手を引っ張り合いながら、どうにか十津川にたどり着きました。
十津川に入った一行は、現地の武士である戸野兵衛の妻が病にふしていたので、護良が加持祈祷を行い、千手陀羅尼も唱えたと言います。すると、妻の病気はたちまち良くなったと。兵衛は感激し、護良の味方になったのですね。また、兵衛のおじの竹原八郎も護良に協力するようになったにです。それから半年ばかり護良一行は、十津川に滞在していたのです。護良に訪れたつかの間の平和な日々でした。しかし、それから半年たって護良が十津川にいるといううわさが広まったのです。護良をつかまえたものは賞金を与えるというおふれまで出たのです。護良はお尋ね者になったのです。こうなると護良は十津川にいられません。護良は十津川を後にしました。
「太平記」によると、護良一行が十津川から逃げる途中で、荘園の役人に引き止められ、護良一行が持っていた大事な錦の御旗(※3)を取られてしまうのですが、遅れてやって来た村上彦四郎が、その役人から錦の御旗を取り戻すというお話が出てきます。
護良一行に、またしてもピンチが訪れます。今度は幕府側の玉置荘司の軍勢に囲まれてしまいます。
護良、絶体絶命。護良はもはやこれまでと部下に「自分は自害するから、面の皮を剥ぎ、鼻を切って誰の首かわからなくして捨てよ。」とまで言ったとか。死を覚悟していたのですね。そこへ紀伊国の住人の野長瀬六郎と野長瀬七郎の兄弟が3000騎を率いて護良を助けたのです。護良は絶体絶命のピンチを切り抜けたのです。よかったですね。
そして護良は吉野入りを果たし、挙兵をしたのです。吉野に立てこもった護良はどうなったか。そのお話はまた次回取り上げます。
*1 度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
*2 紀州熊野三山(本宮,新宮,那智)を統轄,管理した首長。
*3 この旗は天皇方であることの印であり、これを奉ずることで逆賊(天皇にそむくもの)ではないという証になる。
(村上彦四郎の像)
* 参考文献