History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:徳川綱吉

明けまして、おめでとうございます。今年は戌年ということで、ワンちゃんの動画から。





今日のエントリは犬に関係する人です。

1 鎖国
 島原の乱以降、幕府はキリシタンの取り締まりを一層強化しました。キリスト教への信仰心があるかどうかを判断するため踏み絵(マリアやキリストの像が彫られたもの)などをやったりしました。また、九州を中心とする沿海の防備を強化しました。

キリスト教だけでなく海外との交流も制限しました。幕府はポルトガルとの国交をやめてしまい、貿易もオランダと中国、あとは琉球王国と朝鮮くらいになってしまいました。しかもオランダとは長崎の出島と呼ばれる狭いところでしか交易がおこなわれませんでした。いわゆる鎖国です。

鎖国というとあらゆる国との国交を断ち、よく言えば自給自足、悪く言えば国際社会からの孤立みたいなイメージがありますが、そうでもなく鎖国化でも海外との貿易は行われていました。実は鎖国政策はキリスト教を広めないためでもあるが、貿易を幕府が独占することも目的の一つという人までいらっしゃるくらいですから。島原の乱で幕府は鎖国を行ったりキリスト教の取り締まりを強化したことは教科書にも書かれておりますが、島原の乱の影響はこれだけではありません。それは次の項目意向で取り上げます。

2 武断政治から転換
 この島原の乱は幕府だけでなく諸大名も衝撃を受けました。ある大名は「領民を粗末にしていると、島原の乱のようにとんでもないシッペ返し(反乱)があるぞ」と思ったそうです。島原の乱以前の日本は戦国時代の気風が色濃く残っていて、武士がえらくて領民は武士のために働くのが当たり前。逆らったら皆殺しなんて普通だったのです。そんな時代だったからこそ、島原の乱は起きたのです。

しかし、それが島原の乱で価値観が変わってしまった。そして家光から4代将軍家綱の時代になり、老中たちを中心としてそれまでの武断政策を見直し、牢人対策に力を入れるようになりました。改易(※1)を少しでも減らすために末期養子の禁(※2)をゆるめ、各藩には牢人の採用を奨励しました。こうして幕府は牢人の発生を防ごうとしたのです。島原の乱だってもともとは小西家や有馬家の牢人たちが幕府に不満をもって企てたことですからね。

牢人対策だけでなく、災害に対する取り組み方にも違いがありました。4代将軍の時代に明暦の大火という大火事が江戸であり、この火事で江戸城の天守閣が燃えてしまうのですね。このとき当時の幕閣を仕切っていた松平信綱と保科正之は江戸の住民の安全を考え、広場をつくったり、墨田川に橋をつくったり、そして家を失った人たちに食糧をと、おかゆを無料で提供したり、いろいろやったのです。

その一方で江戸城の天守閣は、いまは戦国の世ではないから再建は不要という判断が下され、天守閣の再建もなされませんでした。これは武断政治の時代では考えられないことです。戦国時代〜島原の乱までは、力があるものが正義で領民は牛馬と同じ扱いでしいたげられていました。天守閣が焼けたとならば、街の復興なんて二の次で天守閣の再建のほうが優先されます。あくまでも、領民たちの命や安全を優先したところが、いままでの武断政治と違うなと思います。

そうして幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになりました。そして、それが次の徳川綱吉の代で実を結びます。


3 生類憐みの令はよい法律?

 五代将軍、徳川綱吉はイヌ公方と呼ばれ、犬を大切にし人間を粗末にしたイメージがありますが、実際は違うようです。その綱吉がまず手を付けたのが『武家諸法度』の改正です。どのように変えたのかみてみましょう。


「文武弓道の道、専ら相たしなむべきこと」


これが武家諸法度の第一条に書かれてたことで、武士たるもの武道を大切にせよということでした。3代将軍家光は、『武家諸法度』の条項をいろいろ変えましたが、第一条だけは変えませんでした。ところが綱吉は大胆にも第一条を変えます。以下の通りに。

「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」

もちろん、武士だから武術も大事だが、学問も大事だし、忠孝や礼儀良くすることが大切だと書かれているのです。儀礼を重視し、上下の秩序を維持する論理の転換が求められていたのです。さらに綱吉は武士だけでなく庶民にも新たな価値観を植え付けさせました。それが「生類憐みの令」です。「生類憐みの令」は、「お犬さまを大切にせよ」みたいに悪名高いですが、これはワンちゃんだけでなく、生きとし生けるものを大事にしようといっているのです。

実際には老人をウバ捨て山に捨ててはいけない、捨て子もだめ、病人やいき倒れになっている人を殺すなとか社会的弱者を救済する法律でもあったのです。幕府の役人が家を持たない人たちに食事や宿の世話をするのが義務となり、囚人の待遇も改善されたそうです。この法令によって戦国時代からの価値観は否定されてしまいます。綱吉が「生類憐みの令」をおこなった意図は人々に「慈悲」や「仁」の心を持たせることでした。綱吉はなにかと悪名が高いけれど、歴代の将軍の中でもすぐれた教養の持ち主でもありました。儒学にも深い造詣ぞうけいをもち、将軍自ら儒学の講義を行うほどでした。儒学には礼節だけでなく「仁」の尊さも説いています。そうした儒学の教えを綱吉は政治にも生かしていたのですね。

綱吉の時代に訪れたドイツ人医師ケンペルは「この国において、役人は人民に愛情と寛容をもって接している。そのためヨーロッパのキリスト教の国よりも死刑の執行は少ないのだ」と評価しました。島原の乱以前では考えられないことです。たしかに綱吉は毀誉褒貶きよほうへんがある人ですが、「生命の尊重」という価値観を人々に根付かせた功績は大きいと思います。





※ 参考文献







※1 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽い罪。それから転じて大名の領地をとりあげる意味でも使われている。大名の領地がとられれば、その大名のもとで働いていた家臣たちは牢人になる。

※2 末期養子とは江戸時代、武家の当主で子供がいない者が事故・急病などで亡くなりそうなとき、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと。 これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。その末期養子を幕府は禁じていて、跡取りがいないために家が取りつぶしになった例もある。

綱吉のニックネームは犬公方ですが、もう一つニックネームがあります。それは「ナマズを呼ぶ男」。ナマズとは魚のナマズのことではありません。地震ナマズのこと。綱吉の時代は天変地異が多かったのです。

まずは、1703年12月31日の大晦日、深夜2時ごろのこと。江戸ですごい大地震が起きました。マグニチュードは8.1。いわゆる元禄地震です。

津波(房総半島や熱海、鎌倉などで)や液化現象(平塚と品川にて)、江戸の町も火災の被害もあったそうです。また、小田原城もこの元禄地震で崩壊したというから恐ろしい。江戸は比較的被害は小さかったようですが、小田原領内の倒壊家屋トウカイカオク家屋約8,000戸、死者約2,300名だったそうです。

夜中にいきなり地震がきたらびっくりしますよね。昼間の地震も怖いけれど、みんなが寝ている時に地震が来たらもっと怖いです。ちなみに、この地震が起きた1703年は「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助以下46人の志士達の切腹を命じた年でもあります(この年の三月)。だから、この元禄江戸大地震は「死んだ赤穂浪士達のたたりじゃないか?」と江戸っ子達はウワサをしたとか。


元禄地震の4年後の1707年の10月28日に、東海・南海・東南海の3つの地域で、同時に3つの大地震が起きました。宝永地震です。マグニチュードは8.4ないし8.7と推定されています。これだけの地域で地震が起こったのだから被害は酷かっただったと思われてます。

それからこの年の12月には富士山が噴火しました。それで綱吉が生類憐みの令とか悪政を敷いたからと当時の江戸っ子は思ったかもしれません。昔は災害が多く起こるのは為政者が悪い政治を行い、天が怒っているからだと信じられていたから。

ごく最近になって生類憐みの令も、動物だけでなく弱者救済をした法令だと再評価されておりますが、昔は悪法だと言われていたのですよ。僕が中学のときだって、生類憐れみの令が治安維持法と並ぶ悪法だと学校で教えられたくらいだから、江戸時代を生きる庶民にとっては迷惑な話だったでしょう。

いくら綱吉が弱者救済したとかいっても、マスメディアやSNSもない時代です。綱吉の良い話など庶民になかなか伝わらず、悪い話ばかりがどんどん伝わるのです。昔から悪事千里を走るというくらい、悪いウワサや評判の方が広がりやすいのです。うなぎもダメ、魚もとってはダメだから商売もできないし、中野に犬小屋を作ったために莫大バクダイな維持費がかかり、その維持費を庶民に払わせようとしたのですから。そりゃ庶民はたまったもんではありません。「忠臣蔵」の話だって庶民があそこまで赤穂浪士たちに喝采かっさいを送ったのは、生類憐れみの令への不満の裏返しかもしれない。

綱吉は、天の怒りというより、将軍になった時期が悪かったのです。大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられており、こうした巨大地震は周期があるようです。綱吉がいたころは日本の地底で大規模な地殻変動チカクヘンドウが起きていたのかもしれません。

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/784545.html
(こちらの記事では綱吉の生類憐れみの令について触れました)


(小田原城 このお城は昭和に再建したもの)

(この記事は2022年8月20日に加筆修正しました)
5代将軍徳川綱吉とくがわつなよしといえば、生類憐みの令しょうるいあわれみのれいで悪名高いです。イヌを殺しただけでなく、なんとボウフラやシラミ、を殺しただけで島に流されてしまったのです。

そんな法律が出来たら大変な事です。蚊やゴキブリも殺しちゃダメ。家の中が害虫だらけになりますね。魚もとってはだめ、うなぎやドジョウも食べちゃだめ。そうなると食べ物屋さんは大変ですね。商売になりません。また、うなぎをアナゴと称して販売したものもいたのですが、その人は見せしめとして牢に入れられたのですね。スズムシやキリギリスをペットとして飼ってもだめ。また、今では考えられませんが、江戸時代は犬を食べる風習があったそうです。それが生類憐れみの令以降、犬を食べる人も減ったと。もっとも犬食いの習慣が完全になくなるのは戦後ですが。

生類憐みの令のおかげで犬目付という役人が動物をいじめていないかと庶民しょみんを見はるようになりました。戦時中の特高とっこう(※1)みたいなものですね。ともあれ、庶民にとっては迷惑めいわくな法律なわけです。

しかし、生類憐れみの令を評価する意見もあり、後ほどお話ししますが良いところもあるにはあります。そもそも徳川綱吉はそれまでの武断政治から文治政治に転換した人物で、綱吉が将軍になって早々「民は国の本なり」としたほど。かつては徳川15代一の暗君のレッテルを貼られた綱吉も近年は再評価されているのです。綱吉に謁見えっけんしたドイツの医師ケンベルは綱吉を「ヨーロッパには綱吉のような生命を大事にする君主はいない」って賞賛ショウサン
したのですね。

特に綱吉が将軍に就任して間もない頃は堀田正俊ホッタマサトシ(老中のちに大老)と共に幕政改革を行いました。綱吉が将軍になった頃は飢饉キキンで人々は苦しんでいたのです。それにも関わらず、代官たちは年貢を不当に取り立てるなど代官たちの横暴がひどかったのですね。将軍になって、たった一ヶ月で綱吉は、代官たちに農民たちに思いやりを持って接せよと命じたのです。悪徳代官は罷免ヒメンさせられ、良い代官に変えたのです。

そんな綱吉に変化が生じたのは堀田正俊が暗殺されてからです。堀田の死後、貞享ジョウキョウ2年(1685)、悪名高い❓生類憐ショウルイアワレみの令が発令。悪名と言いましても、元々は戦国時代の荒々しい風潮を改め、人々が命を大切にする慈悲ジヒの心を人々に根付かせることが、その生類憐れみの令のねらいなのですね。


お犬様だけでなく、捨て子や病人、弱い立場の人間を救済したり保護することを義務付けられたのです。何も動物ばかりを可愛がれといっているわけではないのですね。捨て子を見つけたら養い親が見つかるまで大事にしなさいとか、生活に困っている人には米を支給したりと良いこともしていたのですね。綱吉は囚人シュウジンに対しても優しく、牢屋ろうや格子戸コウシドを設けて風通しを良くした上で、囚人には毎月5回行水をさせ衛生状況をよくしたと言います。月に5回しか行水できないとは現代の感覚ではひどいかもしれませんが、囚人を人間扱いしてくれない当時としては破格の対応なのですね。

とはいえ、その範囲は、動物どころか虫や貝にまで及んだので庶民たちは大変だったのですね。特に厄介だったのは野良犬。野良犬が増えたのは鷹狩たかがりを廃止したため。鷹狩に使う猟犬もそうですが、鷹狩では、鷹のエサとしても犬を飼育していたのですね。鷹って犬の肉を食べるんですね。鷹狩が無くなったことで行き場を失った犬たちが野良犬になってしまったのですね。それから犬を食べる人も減ったことも手伝ってますます野良犬が増えたのですね。それで江戸の街は野良犬であふれたのですね。こええな。僕は犬が苦手なので、この時代に生まれなくてよかったw腹をすかせた野良犬が人間や捨て子まで襲ったり、逆に生類憐れみの令でストレスがたまりまくっている武士たちが腹いせに犬を斬る事件が多発したのですね。









(上の写真はいづれも中野駅周辺でとった犬の銅像)


 綱吉は今の中野(JR中野駅北口あたり)にでっかい犬の屋敷やしきをつくったそうです。その屋敷もどんどん広くなって、最終的にはなんと29万坪。東京ドーム20個ぶんの広さです。やしなった犬の数も最盛期に10万匹。エサ代も年間9万8千両。現代の貨幣価値に直すと120億円にもなるというからすごいですね。こんなお金を幕府は持っておりません。それでこの財源をどうしたかというと、なんと民に背負わせたのですね。犬小屋の維持費用を命じていたのです。新たな税負担に町民たちの不満は高まります。

しかし、この犬屋敷には、江戸えどの町でうろうろしていたコワいノラ犬も収容していたので、そのおかげでノラ犬が出なくなったという意見もあるようです。

生類憐れみの令は、その後も改められることなく、綱吉が亡くなる宝永6年(1709)まで続いたと言います。綱吉は亡くなる際、次期将軍となる徳川家宣を枕元に呼び寄せ、生類憐みの令の継続を頼んだと言います。それも向こう100年間!大変ですね。しかし、家宣はこう答えたと言います。


「私自身は100年後までも守りましょう。しかし天下万民は免除を願わしゅう」


家宣は自分は人間や動物の命を大事にするが、それを民にまで押し付けることはしたくないと。偉いですね。実際、家宣は就任早々、生類憐れみの令を廃止しました。

ある歴史番組で「生類憐れみの令」が悪法かいい法律かを視聴者にきいていたのですが、70パーセント以上の人が悪法と答えました。別に多数決に同調するわけじゃないけれど、自分も悪い法だと思われます。

動物をかわいがる事自体はすばらしいけれど、それを関係ない他人にし付けるのはどうかと僕は思います。動物をかわいがりたければ、綱吉一人がやればよかったんじゃないの?そういった綱吉の姿勢をみた家臣や人々が、「天下の将軍様も動物を大事にしているのだから自分たちも大事にしようかな」と思えばいいわけでして。

もっとも「生類憐れみの例」は江戸や天領てんりょう(※2)では、かなりきびしくやっていたようですが、それ以外の諸藩しょはん外様とざま大名の領地)や地域では割とゆるやかだったという説もあるようです。

また綱吉は毀誉褒貶キヨホウヘンがありますが、それまでの武断政治を文治政治にチェンジしたこと、生命を重んじる風潮を人々に根付かせた功績は大きいと思います。ただ、どんなに素晴らしい理念があったとしても、作った政策や法律がダメってことが歴史上少なくないのですね。理念が素晴らしくても、それが現実に基づいたものでなくては失敗するのですね。理念と実際の政治に生かすことがいかに難しいか考えさせられます。



※ おまけ


よろしければアンケートをお願いいたします。




※1 特別高等警察とくべつこうとうけいさつのこと。治安を守るためにつくられた。戦争を反対したり、共産主義的な人たちを捕まえるだけでなく、市民の生活も監視かんしするようになった。

※2 幕府が直接おさめていた土地


※この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

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