本能寺の変の直後、徳川家康は堺におりました。織田信長にまぬかれて堺に居たのですが、その信長が明智光秀に討たれてしまいました。当然、信長と同盟関係にあった家康は大ピンチです。うかうかしていては明智のものに命を取られてしまう。しかし、従う家臣は40人ほど。明智の軍勢と戦うといっても無理な話。それで、家康は堺から自国の三河に逃げ延びようとしたのです。明智の目をごまかして、無事に三河にたどり着くには、どうしたらよいか。それは危険な山道も通らなくてはなりません。その時、活躍したのが伊賀忍者の服部半蔵。服部は仲間の伊賀の忍びのものに、家康を逃避行に協力するように命令。そうして、甲賀から伊賀の山中を通って伊賀を抜け、船で海を渡って無事三河にたどりついたと。その時の功績を買われ、服部半蔵は家康にやとわれ組頭となったといわれております。
しかし、その話もどうも真相は違うみたいなのです。まず服部半蔵についてですが、彼は伊賀越えの時すでに40代前後でしたが、実は父親の代から伊賀から岡崎へ移住した後に生まれ、つまり半蔵は岡崎生まれの岡崎育ち。従って伊賀の土地カンもなければ、伊賀に知人もいるわけじゃないのです。だから、服部半蔵が伊賀の仲間を集めてなんて話は無理があると。仮に家康を道案内せよといわれても、見知らぬ土地を案内するのは無理。ましてやガイドブックだとか、グーグルマップだとか便利なアプリなんてない時代ですからね。伊賀の忍者たちが伊賀越えに協力したというけれど、果たして半蔵の頼みとはいえ、どこまで協力してくれるかどうか。なにしろ、家康は信長の同盟相手。伊賀の人にとって信長は憎き敵。天正伊賀の乱で伊賀は信長のせいで散々な目にあいましたからね。そんな憎き敵の同盟相手なんかに協力できるか、むしろ殺してやりたいと思う人のほうが多かったのではないかと。
伊賀越えで家康の逃亡劇に積極的に協力したのは、むしろ甲賀の忍者たちだといわれております。のちに甲賀のものたち20人近くが旗本として採用されたといいます。伊賀国から採用されたのは10人に満たぬといいますから、それくらい家康は甲賀のものたちに感謝しているのだなって。
また、家康が通ったルートも実際はよくわかっていないのですね。甲賀から伊賀の山中を渡って伊賀に抜けと言いますが、その家康が通ったルートを示す一次資料がまだ見つかっていないそうですね。また、本能寺の変が起こった直後、伊賀国で大規模な一揆が起こり、北伊賀にいた仁木氏(※1)を攻撃したといいます。そんなところに信長の盟友の家康が訪れたら殺されてしまう可能性もあり、下手すりゃ家康は伊賀の国を避けた可能性もある。
※1 伊賀国の守護。ただし伊賀国全体を支配していたわけじゃない。信長側に近い。
しかし、その話もどうも真相は違うみたいなのです。まず服部半蔵についてですが、彼は伊賀越えの時すでに40代前後でしたが、実は父親の代から伊賀から岡崎へ移住した後に生まれ、つまり半蔵は岡崎生まれの岡崎育ち。従って伊賀の土地カンもなければ、伊賀に知人もいるわけじゃないのです。だから、服部半蔵が伊賀の仲間を集めてなんて話は無理があると。仮に家康を道案内せよといわれても、見知らぬ土地を案内するのは無理。ましてやガイドブックだとか、グーグルマップだとか便利なアプリなんてない時代ですからね。伊賀の忍者たちが伊賀越えに協力したというけれど、果たして半蔵の頼みとはいえ、どこまで協力してくれるかどうか。なにしろ、家康は信長の同盟相手。伊賀の人にとって信長は憎き敵。天正伊賀の乱で伊賀は信長のせいで散々な目にあいましたからね。そんな憎き敵の同盟相手なんかに協力できるか、むしろ殺してやりたいと思う人のほうが多かったのではないかと。
伊賀越えで家康の逃亡劇に積極的に協力したのは、むしろ甲賀の忍者たちだといわれております。のちに甲賀のものたち20人近くが旗本として採用されたといいます。伊賀国から採用されたのは10人に満たぬといいますから、それくらい家康は甲賀のものたちに感謝しているのだなって。
また、家康が通ったルートも実際はよくわかっていないのですね。甲賀から伊賀の山中を渡って伊賀に抜けと言いますが、その家康が通ったルートを示す一次資料がまだ見つかっていないそうですね。また、本能寺の変が起こった直後、伊賀国で大規模な一揆が起こり、北伊賀にいた仁木氏(※1)を攻撃したといいます。そんなところに信長の盟友の家康が訪れたら殺されてしまう可能性もあり、下手すりゃ家康は伊賀の国を避けた可能性もある。
※1 伊賀国の守護。ただし伊賀国全体を支配していたわけじゃない。信長側に近い。