history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:広島

※ 参考文献

はだしのゲン わたしの遺書
中沢 啓治
朝日学生新聞社
2012-12-19





原ばくでは多くの子どもたちが亡くなり、かわいそうだと思います。また、原ばくで生き残ったとしても、お父さんやお母さんが亡くなった子どもたちもいました。いちおう両親がいる僕(今年母が亡くなったものの)には全く気持ちはわからないけれど、幼いころに親を失うことの悲しさは相当のものだと思います。

原ばくで親を失った子どもたちは親せきの家でお世話になったり、施設しせつに預けられたりしたそうです。

ある子どもは、施設しせつ慈悲じひ深く育てられたり、また別の子どもは優しい親せきにわが子のように育てられたり。ほかにも原ばくでお母さんを失い、お父さんが再婚さいこんし、新しいお母さんをむかえ、新しいお母さんへの感謝の気持ち、よろこびを作文につづった子どももいたようです。


しかし、一方で不幸になった子どももいました。

たとえば、孤児(こじ)を預かった、施設しせつがお金にこまってしまい、「忘れられたこどもたち」として再び野放しにされた(施設を追い出された)子もなかにはいたそうです・・・

もちろん、施設しせつを追い出された子どもだけでなく、施設しせつの規律のある生活にたえられず、げ出す子どももいたといいます。

親せきに預けられたとしてもそれで安心とはいえません。

たとえば、戦時中は裕福ゆうふく陸軍大佐りくぐんたいさの息子がいたそうです。その子は、いいくらしをしていたおぼっちゃんでしたがが、原ばくで家族をみんな死んでしまい、戦後はいっさいがっさい親せきに財産をとられてしまった子どももいたようです・・・

そうやってたよるところを失った子でおとなしい子はそのままえ死に、負けん気の強い子はクツみがきなどの仕事をしたりして、なんとか生きてきたのです。

また、原ばくの孤児こじがワルの道に入り、鉄砲玉てっぽうだまとしてヤクザに利用されたケースもあったようです。

ちなみに「はだしのゲン」に近藤隆太という少年がでてきます。その少年のモデルになった子がいたのです。その少年も原ばく孤児こじで、ワルの世界に入り、そして刑務所けいむしょに入ってしまったのです・・・


前回は原爆資料館のお話をしましたが、今日から数回にわたって広島の原子爆弾げんしばくだんと、その原爆げんばく被害ひがいにあった子どもたちについてふれます。


僕自身は、広島の出身ではないのですが、僕の母の親せきが広島出身です。また、僕が中学時代にお世話になった先生も広島出身で、広島とは少なからずえんがあるのです。

広島出身でない僕が、原ばくのことを語るのもおこがましいし、原ばくの被害にあった人しかわからないこともたくさんあります。

けれど、原ばくと被害ひがいにあった子供たちのことを通して、平和の尊さと、昔の日本にもこんな時代があったんだよということが伝わればと思います。




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(原爆ドーム)

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(夜の原爆ドーム)

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(元安川と原爆ドーム)

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(元安川)

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(元安川)



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(いれいひ)



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(「安らかにねむってください」の石碑)



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(平和のともしび)



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(爆心地)


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(爆心地のすぐ近くの地蔵さん)

※ おまけ

きょうご紹介する歌は中山千夏さんの「広島の川」。

https://www.youtube.com/watch?v=dHQBdTqbdXk


僕がこの歌を知ったのは、こちらのCDです。

歌謡曲日本一周
オムニバス
Sony Music Direct
2004-10-20





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