おはようございます。前回の続きです。壇ノ浦の戦いですが、兵士の数だけなら源氏の方が優勢です。さらに義経には策がありました。海の戦いで平家を数の力で追い詰め、陸上から兄の源範頼が平家の背後から弓矢で攻撃するという挟み撃ち作戦を立てました。完璧な作戦ですね。これなら源氏圧勝のはず。しかし、世の中なかなか、うまくはいかないものでして。

合戦を次の日に控えた日の夜、梶原景時と総大将の源義経がもめたのですね。戦の先陣を巡って、二人がバトルをしたのです。まず、景時は「総大将が先陣を切るなんて聞いたことがない」と言いました。すると、義経は「これまでの戦いで勝てたのはわしのおかげ」といったのですね。先陣を切って手柄を立てたかった景時は怒ってしまいます。景時は「義経殿は主君の器ではない」と言ったら、義経は激ってしまい「そなたこそ、日の本一の愚か者じゃ!」って、まさに売り言葉に買い言葉でバトルになったのです。平家と戦う前に身内で争ってしまってはダメでしょう。見かねた家臣たちも、義経をなだめたほど。ちなみに景時と義経は屋島の戦いの時でもバトルをしていたのですね。壇ノ浦の合戦の後、頼朝と義経の兄弟仲がさらに悪くなるのですが、それも景時も一枚かんでいたのですね。

そして運命の元暦二年(1185)3月24日早朝、義経率いる海軍800隻が東側に、平家の船500隻が西側に対峙。そしていよいよ戦いの火ぶたが切って落とされたのです。兵の数では源氏の方が上ですが、得意の海上戦で、戦いを有利に進めたのですね。しかも関門海峡は潮の流れが速く、干満の潮の流れの変化を熟知していたのです。まさに地の利を知っているものは強いですね。その潮の流れに乗って一気に源氏を追い詰めようとしたのです。その潮の流れは西から東へと流れていました。平家は潮の流れに乗って、どんどん船が進む。一方の源氏は潮の流れと逆方向にいますから船もなかなか進まない。うごく歩道の逆方向で歩いたら、なかなか前に進めないのと同じですね。

さらに清盛の四男、平知盛は、源氏が三種の神器と安徳天皇を狙っていると考え、安徳天皇ら身分の高い人たちを小さな船に乗せ、造兵たちを御座船という大きな船に乗せオトリにしたのですね。本来なら天皇は御座船に乗るはずなので。源氏の兵が御座船を攻撃しているところを平家の軍勢が包囲し攻撃をしたのです。しかも平家側も死に物狂いで戦ってくる。そうして、戦は平家軍優勢になったのです。義経危うし。


そんな時、二千頭のイルカの群れが現れたのです。可愛らしいですね。清盛の三男の平宗盛はそれを神のお告げだと思い喜んだのです。そして陰陽師の安倍晴信(あべのはるのぶ)に占いをさせました。晴信は「イルカの進む方向にいる軍が負ける」と予言します。平宗盛もイルカたちの様子を見ていたのです。するとイルカたちは源氏の方へ向かわずUターンして、平家の元へ行ったのです。イルカ占いで悪い結果が出てしまい、平宗盛もショックがったと言います。



占いの結果はどうあれ、源氏が不利であることには変わりがありません。それで義経がとった策は、なんと敵の兵士ではなく、船の漕ぎ手を攻撃しろと言ったのです。これは「鎌倉殿の十三人」にも出てきましたが、当時の武士たちにとって大変恥なことだったのです。あくまで戦争は武士同士の戦いであり、非戦闘員に手を出してはいけないというルールがあったので。漕ぎ手というのは非戦闘員ですからね。この頃すでに敵の兵士が乗っている馬を攻撃するというのはありましたが、漕ぎ手を攻撃する人なんていなかったのですね。漕ぎ手を失い、船を動かす人間が居なくなって平家は大混乱。

また平家軍についていた阿波水軍も裏切ってしまったのですね。阿波水軍のボスは御座船に天皇は乗っていないことまで源氏側に教えてしまったのですね。阿波水軍だでなく、四国や九州の兵たちも平家側から次々離反。実は阿波水軍が裏切ったのは、田口成良タグチシゲヤスの息子が源氏側に捕まったからなのですね。そのことを知っていた知盛は、裏切る可能性のある田口を斬ってしまえと総大将の平宗盛に進言するが、認められなかったのですね。平知盛は、「あの時、田口を斬っておけば」と悔やんだことでしょう。

こうして義経の漕ぎ手攻撃という奇策と味方の裏切りで平家は負けてしまいます。

負け戦に、一門の者たちそして二位尼と安徳天皇が次々と入水する中で、清盛の甥っ子の平教経はなおもひとり戦い続けたのです。さんざんに矢を射て源氏の武者たちを射落とし、敵を散々斬ったのです。これを見た知盛は人を使いして「罪つくりなことをするな、よき敵でもあるまい」と伝えたほど。

「ならば、敵の大将と刺し違えん」と意を決した教経は舟から舟へ乗り移り、敵をなぎ払いつつ義経を探したのです。そして、ようやく義経の舟を見つけて飛び移り、組みかからんとするが、義経はゆらりと飛び上がるや、義経は、「これは叶わぬ」とピョーンとジャンプして八艘ハッソウもの船を飛び移って逃げたという伝説がありますが、おそらくただの伝説でしょうwでも、義経が逃げたのは事実でしょう。

義経を逃した、もはやこれまでと思った教経は源氏の大男二人を両脇に抱えて飛び込み道連れにしたと言います。武士らしい最後でした。

一方の総大将の平宗盛は船の上をオロオロするばかり。その姿に家臣は呆れて、宗盛を海へ突き落としたと言います。宗盛はおもりをつけておらず、沈まないでバタバタとおぼれてしまい、あろうことか敵方の源氏に助けてもらったと言います。平宗盛は生き恥をさらしてしまったのです。その後、宗盛は源氏の手にかかり殺されたと言いますが、引き回しの時、周囲のものたちが、嘲笑ったと言います。

平知盛は、生き恥をさらした宗盛に呆れつつも、武士らしく最後まで戦い続け「見届けるべきものは全て見届けた」と言いました。平知盛はヨロイを二つ重ねて海に飛び込み自害したと言います・・


*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

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(源義経)

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(平知盛)