History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:川島芳子

今日は川島芳子とさるにまつわるお話を。

川島芳子が親友の李香蘭(りこうらん)こと山口淑子(やまぐちよしこ)さんに「人からチヤホヤされるときこそ、相手が信頼できる人間かどうかをよく見ろ。今はチヤホヤしているかもしれないが、自分が落ち目になった時に見放みはなす人間が多い」みたいな事をいったそうです。逆に言えば、「落ち目になっても相手を見放さずに、変わらぬ友情を保ち続ける人と友達になりなさい」と山口淑子さんに言いたかったのでしょうか。

芳子は日本軍の連中に利用されるだけ利用されて、利用価値がなくなると思われた瞬間しゅんかんから捨てられました。挙句あげくの果てに日本軍から命までねらわれました。そんな芳子からすれば、親友である山口淑子さんだけには自分と同じ思いをさせたくないと思ったのかもしれません。

また、昭和15年に芳子は中国の天津てんしん抗日こうにちテロ団におそわれました。そんな事が続いたから芳子は人間不信になってしまったのかもしれません。というか、そんなつらいことが立て続けに起きれば芳子じゃなくても人間不信になります・・・

芳子は中国や日本を行き来していましたが、昭和17年ごろから東京で暮らすようになります。芳子は浅草で猿を買っていはじめました。

芳子は浅草で買った猿をたいそう可愛かわいがり、そして、芳子はこんな事をつぶやきました。


「僕は、人間とは一緒いっしょに死にたくない。猿と一所で結構けっこうだ。猿は正直だ。」


戦後、芳子は日本のスパイとして中国の政府につかまってしまいます。その辺の話は次回。


オマケ

猿の話がでたので、猿の動画を。猿もかわいいですね。








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http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/1521544.html
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/1856136.html

前回までの記事

みなさん、「火の用心のおじさん」ってご存知ですか?「火の用心のおじさん」ときいてピンとくる方は、30代後半以上(2011年現在で)でしょう。その日の用心のおじさんは「日本船舶振興会」のCMに出てきて、「一日に一回はいいことをしましょう(一日一善)」を子供たちによびかけたものです。このCMには高見山大五郎さんも出ていましたっけ。

そのおじさんの名前は笹川良一ささかわりょういちです。僕も子供のころ、笹川良一の顔を見てなんとも人の好さそうなおじさんだなって思いました。が、後に彼が戦後になって政財界に大きな影響を及ぼすフィクサーだと本やネットで知りました。本当に驚きましたね。

悪名の棺―笹川良一伝
工藤 美代子
幻冬舎
2010-10



男運がいまいちな?川島芳子も、笹川良一とはわりとよい関係だったようです。笹川は芳子の国民的知名度や人気にあやかろうと(芳子を利用)していたというせつもあるようですが、笹川は面倒見めんどうみのよい人だったらしく、芳子も笹川を「お兄ちゃん」と呼んでいたそうです。軍に利用されたあげくに、軍に殺されようとしている芳子を、笹川は心のそこから同情していたようです。

ともあれ、川島芳子のつきあってきた男たちをみてきたのですが、芳子の好きなタイプはきまっておりました。芳子はたとえブ男でも権力者や金持ち、それに加えてギラギラした野心家、良く言えば肉食系男子がタイプでした。いくらイケメンでも草食系男子や、金の無い人間は当然アウト・オブ眼中がんちゅう。ただ、女性の好みって変わることもあるからなあ。漫画家のさくらももこさんは若いときは、男に求める理想は高かったが、だんだん高望みしなくなり最終的にはバカじゃなきゃいいって感じになられたとか。川島芳子は若くして亡くなったので、、もしも、芳子がもっと長生きしてたら、男性の好みも変わっていたかも。

また、芳子は浪費家だったから、男にせびる額もハンパじゃなかったそうです。金だけでなく芳子はセックス依存症だったみたいで、あっちの男、こっちの男に色目を使っていました。

男から見たら川島芳子はふしだら(※1)な女のように映るかもしれません。けれど、芳子はこんな言葉を残しております。



「僕としても、女らしい女として、口に紅の一つでもぬって、愛すべき男性があったなら、自分の特殊の念願、国への動きが完成して、万事が完成したならば、何時でも本然の女に帰って、やさしい一女性になりたい・・・」


彼女はさみしかったのかもしれません。幼いころに祖国を失い、父は父で愛情らしい愛情を芳子にそそがなかった。だから、多田駿のように父親ほど離れた男に惚れたのも父の愛に飢えていたんだろうなって。

大人になってから、寄ってくる男は芳子を利用しようとする人間ばかり。で、本当の意味で芳子を愛した人はほとんどいない。テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」の歌じゃないけれど平凡だけど普通の暮らしにあこがれていたのかもしれませんね、芳子は。


※1 けじめがなく、だらしがない様

※ おまけ
今日は、中国の伝統楽器、二胡にこ演奏えんそうを。曲は「時の流れに身をまかせ」




※ 参考文献

男運のない?川島芳子 前編

前編の続きです。今日は芳子が付き合った3人の男を紹介します。田中隆吉たなかりゅうきち多田駿ただはやおそして伊東ハンニです。あいにく伊東ハンニの写真だけは見つからなくて、田中と多田の写真だけを紹介します。

150px-Tanaka_Ryukichi
                   (田中隆吉の写真。ウィキペディアより。)


175px-Tada_Hayao
                   (多田駿の写真。ウィキペディアより)



1 田中隆吉(たなかりゅうきち)との出合い
 昭和五年、芳子は上海で田中隆吉と出会いました。田中は、戦後になって軍部の暴露本ばくろぼんを出しております。題は『敗因を衝く―軍閥専横の実相』。僕も昔読んだことがあって、へえ田中隆吉って勇気あるなって本を読んで感心したのですが、彼はもともとは東條の茶坊主だっで、いろいろな工作に関わった当事者にもかかわらず、東京裁判の時は他人事のようにかつての上司や同僚たちを糾弾し始めたことををのちに知りました。それから、僕はこの人の評価が変わりました。

事実「田中だけは絶対に許さない!化けて出てやる!」と呪いの言葉を吐いて死んでいった人もいたそうです。そんな調子だから田中は「日本のユダ」とも呼ばれたとか。ともかく評判の悪かった田中でありましたが、一方で戦後になって自殺未遂をしているのですね。その時の遺書にはこのようなことが書かれておりました。


日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。

既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず。


田中も責任は感じていたのですね。

戦時中の田中隆吉の仕事は上海における諜報ちょうほう(※1)活動でした。田中は芳子をスパイとして育て上げる一方で、芳子と田中は男女の関係にまで発展したのです。

諜報活動といえば、芳子と田中が、昭和7年に起きた上海事変しゃんはいじへん(※2)にも関わっていたといいます。なんでも、この事件の脚本きゃくほんを書いたのが田中で、川島が関東軍からわたされた軍資金ぐんしきん2万円を使って反日中国人をあおって、日本人の坊さんをおそわせたとか。

しかし、芳子と田中の2人の仲はだんだん冷えていき、しばしば口ゲンカするようになったため田中と芳子はとうとう別れてしまいます・・・

2 多田駿(ただはやお)との出合い
 お次は多田駿について。多田は陸軍大将りくぐんたいしょうにまで上りつめた人物で、日中戦争中は日本と中国が仲良なかよくすることをのぞみ、東条英機(とうじょうひでき)とも対立しました。また、多田は中国における日本人が暴力ぼうりょくをふるうことをやめさせる訓示くんじやパンフレットを作るなど中国人からも一目を置かれたような人物でした。

芳子はそんな多田の事をパパとよんだそうです。何しろ50代の多田に20代の川島芳子と親子ほど年のはなれた年の差カップルですから。

多田が満州国軍政部最高顧問まんしゅうこくぐんせいぶさいこうきかんつとめていたころ、多田は芳子の監督者かんとくしゃであり、よきおじさんであったそうです。この時期(昭和7年〜9年ごろ)の芳子にとって多田と芳子は公私にわたるパートナーでした。

多田と芳子のただならぬ関係に田中隆吉も焼きイモじゃなかったwヤキモチをやいたほど。もっとも、川島芳子に利用価値がないと感じ始めると、多田は「芳子を暗殺あんさつせよ」と命令を出したと言われています。

多田もひでえことをするなと思いますが、芳子は芳子でひどいことをしているのです。実は多田と付き合っていた時も、他の男に「ねえ、私のお相手をつとめてくださらない?」って誘惑ゆうわくしたそうです。芳子はどうもセックス依存症だったといわれております。


3伊東ハン二

 芳子は伊東(いとう)ハンニという男とも付き合っていました。彼の本名は松尾正直(まつおまさなお)。株でもうけた人で、派手なパフォーマンスをやっていました。芳子とハンニは、結婚までウワサされたほどの仲でした。

もっとも芳子はハンニが好きだったというより、ハンニがお金持ちだったから近づいたのです。芳子の養父・川島浪速(かわしまなにわ)の古希(※3)のお祝いにかかったお金もハンニが出したそうです。ハンニが詐欺事件や右翼結社とのつながりが原因で逮捕されてしまうと、芳子はハンニとあっさり縁を切ってしまいます。要するに金の切れ目が縁の切れ目ってやつでしょう


※1 敵情をひそかに探って知らせること。ようするにスパイ
※2 中国にいた日蓮宗の坊さんたちが中国人労働者達におそわれる事件
※3 数え年の七十歳の称。


次回の記事はこちら
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2086998.html





※ 参考文献

評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)
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敗因を衝く―軍閥専横の実相 (中公文庫 R 29)
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今日は川島芳子(かわしまよしこ)と彼女をめぐる男たちのお話。

今回のお話ははっきり言って長いです。「トイレの神様」よりも長いかもw?


1 川島浪速(かわしまなにわ) 
 芳子の養父ようふの川島浪速(かわしまなにわ)はおこりっぽい人で芳子を怒鳴どなったり、手を上げたりしていたそうです。芳子と性行為をしたというウワサもありますが、そこまでははっきりしません。いづれにせよ、芳子にとってはあまりよい養父とはいえません。

でも、後年になって浪速が70才になったときのおいわいパーティーが開かれるのですが、そのパーティーも芳子が中心になってとりおこないました。自分を育ててくれた人だという思いも芳子の中にあったのかもしれません。

ところで、川島浪速とはどんな人物なのでしょうか。彼は信濃国いまの長野県の生まれ。中国語を学び、日清戦争・義和団の乱に陸軍の通訳官として従軍したそうです。明治34年(1901年)清朝の依頼により北京に警務学堂を創設し、警察官の養成にあたったそうです。大正元年(1912年)辛亥しんがい革命により清朝が滅ぶと、粛親王しゅくしんのうの旅順脱出に協力しました。生涯にわたって満蒙つまり満州とモンゴルの独立を主張し続けた人物です。大きなロマンを持った人物ですね。芳子にやったことは問題あったけれど、男として生まれたからには何か大きなことをしたいものですね。

2 初恋はつこいの人 山家亨(やまがとおる)
 芳子の初恋の人である日本軍の山家亨(やまがとおる)との仲も長続きしなかったのです。山家亨は、信州の松本にあった川島家に度々出入りしていました。そうして芳子と仲良くなりました。若かりし頃の山家は初心うぶでためらい勝ちで、ほんとうに好青年って男でした。しかし、山家の上司から「軍人として生きるか、軍をやめて女を取るか、どっちにしろ!!」と言われてしまい、山家は信州松本から中国へ転勤してしまいます。

ところで、芳子は初恋の人の山家亨の話には続きがあります。芳子は中国で山家と再会します。山家の印象は芳子と初めてあったときと変わっていました。山家は「王嘉亨」(読み方わかりません。)と名乗り、軍の特務機関とくむきかんという、決して表に出ることのない世界の人間になってしまったのです。さらに中国の有名女優じょゆう達ともご乱交らんこう(※1)。

いわば、バンプの歌の世界に出てきそうな青年が、「ゴッドファーザー」の愛のテーマが似合いそうなおそろしい親父に変わってしまったのでしょう。月日はこうも人間を変えてしまうのか・・・

その後、山家亨は国家反逆罪こっかはんぎゃくざい機密きみつろうえい罪(※2)、麻薬まやくに手をだしたなどの容疑ようぎでタイホされてしまいます。戦後になって山家は出版の仕事を始めたのですが、二百万円の不渡ふわたり手形(※3)を出し、警察けいさつわれ、昭和25年に自殺したといわれています・・・悲しい話です・・・

ちなみに、絶世ぜっせいの美人の李香蘭(りこうらん ※4)満洲映画協会まんしゅうえいがきょうかい(※5)に入れたのも山家亨の働きかけがあったようです。李香蘭こと山口淑子さんは、山家のことをお世話になったとほめていました。

それから川島芳子は自分のかみを切ったそうです。髪を切るなんて男の人にとっては、どうって事がないかもしれませんが、女の人にとって大変な事なのです。しかも、単に短くしたのではなく、坊主頭にしてしまったのです。

美容室で髪を切ってもらうのとワケがちがいますね。僕だっていきなり自分のカノジョが髪を切ったらビックリします。一体カノジョに何があったのかと思ってしまいます。

芳子が髪を切った理由は、山家亨との失恋しつれんだとか、養父川島浪速のDVだとか、清朝復興のためだとか、いろいろ説があるが、はっきりした理由はわかりませんが、このころから芳子は髪を短くし、男性のような衣装をするようになります。どんな理由かわかりませんが、女を捨てる覚悟を芳子は・・・でも、芳子は完全に女を捨てきれなかったのですね。実際芳子は結婚もするし、ほかにもいろいろな男性との関係を結びます。芳子の男性遍歴はまた次回にお話しします。


3 カンジュルジャップ

 川島芳子(かわしまよしこ)はカンジュルジャップという男性と結婚けっこんしました。カンジュルジャップとは蒙古もうこ(モンゴルのこと)の将軍バプチャップの次男で、芳子とカンジュルジャップは幼馴染おさなじみだったのです。芳子はジャップについては特に恋愛感情れんあいかんじょうはなかった様ですね。かといってきらいでもなかったようです。芳子とカンジュルジャップの結婚生活も数年は続きました。けれど芳子は不満ふまんいだいておりました。

芳子自身の言によれば「およめさんになって2年半(中略)、おとなしい、あきらめた、つらいおよめさんになって台所してゐました」とのこと。芳子(満州族)とカンジュルジャップ(モンゴル族)の文化のちがいもあったし、カンジュルジャップの家族ともうまくいかなかったようです。

カンジュルジャップ本人は、やさしい夫で芳子の事を気にかけていたそうです。「へえ〜いいダンナさんじゃないか」と僕は思うのですが、それが芳子にとっては物足りなかったのかもしれません。何しろ、芳子はバービーボーイズの歌じゃないけれど、やさいしい男だけは物足りないという人です。家庭におさまるタイプじゃなかったのでしょう。

芳子の結婚生活けっこんせいかつはおよそ3年ほどで終わってしまいました。とはいっても、芳子とカンジュルジャップは離婚りこんしてからも関係は続き、カンジュルジャップが17さいの女性と再婚さいこんした時、芳子が結婚式場けっこんしきじょうに現れ、おいわいをしたそうです。

川岛芳子与甘珠尔扎布结婚典礼

(川島芳子とカンジュルジャップの写真。ウィキペディアより。右の男性がカンジュルジャップ。おとなしそうだけど、よさそうな人ですね。) 







※1 男女が集まって、それぞれ不特定の異性といやらしいことをすること。
※2 秘密にしていたことをもらすこと。人にしゃべること。
※3 小切手 こぎってや 手形 の 支払いをことわられること。 支払しはらい人である 銀行から支払いをことわられた小切手を, 不渡ふわたり小切手という。
※4 戦前に活躍した女優でもあり歌手。本名は山口淑子さん。戦後はタレントや政治家になる。

※5 かつての満州国にあった映画会社。日本にとって有利な政策を行うために政府の援助えんじょによってつくられた半官半民はんかんはんみんの映画会社。日本ってこんなにいい国なんだぜとアピールするような映画がたくさん作られた。




男運のない川島芳子 中篇


※ 参考文献
李香蘭 私の半生
山口 淑子
新潮社
1987-07




川島芳子(かわしまよしこ)のことはこれまでテレビで何度も取り上げられたけれど、歴史秘話れきしひわヒストリアで初めて知った事も少なくありません。

(番組を見て)特におどろいたのが、川島芳子が歌を歌っていたという事。曲名は「十五夜じゅうごやの娘」。

とてもシンプルな歌詞です。



http://www.youtube.com/watch?v=A5nwJCmDZTU
(↑彼女の歌声)



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