history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:島原の乱

キリスト教の教えは本来争いごとを否定し、島原の乱のように城に立てこもり戦って死ぬことは邪道なのですね。天草四郎以下一揆の指導者たちは、ひどい目にあった幕府を打ちのめしてやろうと企てて行ったのが島原の乱です。こんなことを言うと長崎や熊本の人に怒られるかもしれないが、彼らは一方的な被害者ではないのですね。島原の乱の指導者たちは神社仏閣を燃やしたり、お坊さんを迫害したりしてきり、無理やり人々を改宗させたのですから。 一方で、キリストの教えを信じ、キリスト教を認めてもらいたいと願っていたが、乱で亡くなった敬虔な信者さんたちもいたことも事実。無理やりキリスト教に改宗され参加した人たちがたくさんいたとお話ししましたが、本当にキリストの教えを信じて天に召された人たちもいたのですね・・・

平成になって原城の発掘調査が行われておりますが、おびただしい人骨がみつかりました。人骨の傍らには曲がった十字架もいくつか発見されました。おそらく激しい戦火で変形してしまったのでしう。きっと「私は信仰を守って死ねるのだから悔いがない」と亡くなったのでしょうね。やるせない話です・・・


島原の乱以降、幕府は鎖国をはじめ、ほとんどの外国との関係をうちきり、キリスト教の弾圧もこれまで以上に厳しくなりました。だから、キリスト教信者たちは、マリア観音をつくったり、神社をカモフラージュしてキリスト教の伝道師たちをお祀りしていて、幕府の監視におびえながらも信仰を守ってきたのです。

その島原の乱から230年、明治維新をむかえます。明治になってやっと長崎でもキリスト教が認められるようになります。

長崎にも外国から宣教師がくるようにもなりました。宣教師たちを迎えたのは、江戸時代から禁教令を耐え忍び信仰を守り続けた人たちの末裔でした。人々の信仰心に感激した神父の言葉です。

「苦難に直面しながら、彼らの信仰の精神は打ちのめされていない」

キリスト教信者たちは、長崎の地に浦上天主堂をつくりました。信者さんたちはせっせと労働奉仕をしたといいます。あいにく、この浦上天主堂も原爆で破壊されてしまいます・・・そして、1959年に再建されます。いまも、地元の信者さんたちは祈りをささげております。そして原城跡では、毎年秋に乱で亡くなった人たちを弔うためのミサが行われているそうです。




※ 参考
『その時歴史が動いた』

明けまして、おめでとうございます。今年は戌年ということで、ワンちゃんの動画から。





今日のエントリは犬に関係する人です。

1 鎖国
 島原の乱以降、幕府はキリシタンの取り締まりを一層強化しました。キリスト教への信仰心があるかどうかを判断するため踏み絵(マリアやキリストの像が彫られたもの)などをやったりしました。また、九州を中心とする沿海の防備を強化しました。

キリスト教だけでなく海外との交流も制限しました。幕府はポルトガルとの国交をやめてしまい、貿易もオランダと中国、あとは琉球王国と朝鮮くらいになってしまいました。しかもオランダとは長崎の出島と呼ばれる狭いところでしか交易がおこなわれませんでした。いわゆる鎖国です。

鎖国というとあらゆる国との国交を断ち、よく言えば自給自足、悪く言えば国際社会からの孤立みたいなイメージがありますが、そうでもなく鎖国化でも海外との貿易は行われていました。実は鎖国政策はキリスト教を広めないためでもあるが、貿易を幕府が独占することも目的の一つという人までいらっしゃるくらいですから。島原の乱で幕府は鎖国を行ったりキリスト教の取り締まりを強化したことは教科書にも書かれておりますが、島原の乱の影響はこれだけではありません。それは次の項目意向で取り上げます。

2 武断政治から転換
 この島原の乱は幕府だけでなく諸大名も衝撃を受けました。ある大名は「領民を粗末にしていると、島原の乱のようにとんでもないシッペ返し(反乱)があるぞ」と思ったそうです。島原の乱以前の日本は戦国時代の気風が色濃く残っていて、武士がえらくて領民は武士のために働くのが当たり前。逆らったら皆殺しなんて普通だったのです。そんな時代だったからこそ、島原の乱は起きたのです。

しかし、それが島原の乱で価値観が変わってしまった。そして家光から4代将軍家綱の時代になり、老中たちを中心としてそれまでの武断政策を見直し、牢人対策に力を入れるようになりました。改易(※1)を少しでも減らすために末期養子の禁(※2)をゆるめ、各藩には牢人の採用を奨励しました。こうして幕府は牢人の発生を防ごうとしたのです。島原の乱だってもともとは小西家や有馬家の牢人たちが幕府に不満をもって企てたことですからね。

牢人対策だけでなく、災害に対する取り組み方にも違いがありました。4代将軍の時代に明暦の大火という大火事が江戸であり、この火事で江戸城の天守閣が燃えてしまうのですね。このとき当時の幕閣を仕切っていた松平信綱と保科正之は江戸の住民の安全を考え、広場をつくったり、墨田川に橋をつくったり、そして家を失った人たちに食糧をと、おかゆを無料で提供したり、いろいろやったのです。

その一方で江戸城の天守閣は、いまは戦国の世ではないから再建は不要という判断が下され、天守閣の再建もなされませんでした。これは武断政治の時代では考えられないことです。戦国時代〜島原の乱までは、力があるものが正義で領民は牛馬と同じ扱いでしいたげられていました。天守閣が焼けたとならば、街の復興なんて二の次で天守閣の再建のほうが優先されます。あくまでも、領民たちの命や安全を優先したところが、いままでの武断政治と違うなと思います。

そうして幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになりました。そして、それが次の徳川綱吉の代で実を結びます。


3 生類憐みの令はよい法律?

 五代将軍、徳川綱吉はイヌ公方と呼ばれ、犬を大切にし人間を粗末にしたイメージがありますが、実際は違うようです。その綱吉がまず手を付けたのが『武家諸法度』の改正です。どのように変えたのかみてみましょう。


「文武弓道の道、専ら相たしなむべきこと」


これが武家諸法度の第一条に書かれてたことで、武士たるもの武道を大切にせよということでした。3代将軍家光は、『武家諸法度』の条項をいろいろ変えましたが、第一条だけは変えませんでした。ところが綱吉は大胆にも第一条を変えます。以下の通りに。

「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」

もちろん、武士だから武術も大事だが、学問も大事だし、忠孝や礼儀良くすることが大切だと書かれているのです。儀礼を重視し、上下の秩序を維持する論理の転換が求められていたのです。さらに綱吉は武士だけでなく庶民にも新たな価値観を植え付けさせました。それが「生類憐みの令」です。「生類憐みの令」は、「お犬さまを大切にせよ」みたいに悪名高いですが、これはワンちゃんだけでなく、生きとし生けるものを大事にしようといっているのです。

実際には老人をウバ捨て山に捨ててはいけない、捨て子もだめ、病人やいき倒れになっている人を殺すなとか社会的弱者を救済する法律でもあったのです。幕府の役人が家を持たない人たちに食事や宿の世話をするのが義務となり、囚人の待遇も改善されたそうです。この法令によって戦国時代からの価値観は否定されてしまいます。綱吉が「生類憐みの令」をおこなった意図は人々に「慈悲」や「仁」の心を持たせることでした。綱吉はなにかと悪名が高いけれど、歴代の将軍の中でもすぐれた教養の持ち主でもありました。儒学にも深い造詣ぞうけいをもち、将軍自ら儒学の講義を行うほどでした。儒学には礼節だけでなく「仁」の尊さも説いています。そうした儒学の教えを綱吉は政治にも生かしていたのですね。

綱吉の時代に訪れたドイツ人医師ケンペルは「この国において、役人は人民に愛情と寛容をもって接している。そのためヨーロッパのキリスト教の国よりも死刑の執行は少ないのだ」と評価しました。島原の乱以前では考えられないことです。たしかに綱吉は毀誉褒貶きよほうへんがある人ですが、「生命の尊重」という価値観を人々に根付かせた功績は大きいと思います。





※ 参考文献







※1 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽い罪。それから転じて大名の領地をとりあげる意味でも使われている。大名の領地がとられれば、その大名のもとで働いていた家臣たちは牢人になる。

※2 末期養子とは江戸時代、武家の当主で子供がいない者が事故・急病などで亡くなりそうなとき、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと。 これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。その末期養子を幕府は禁じていて、跡取りがいないために家が取りつぶしになった例もある。

1 知恵伊豆登場
 前回の記事で板倉重昌が、一揆勢がたてこもる原城を攻略できないことを書きましたが、今日は原城が攻め落とされるお話をします。一揆勢が思いのほか手ごわく板倉では荷が重いと判断した幕府は知恵伊豆こと松平信綱を送り込みました。現地に着いた松平は正面からぶつかるのではなく、真綿を絞めるようにジワジワと一揆勢を追い詰めたのです。

金山の労働者を呼び寄せ、城内に坑道を作ったのですが、一揆勢はその坑道に葉っぱを燃やしてケムリでいぶしたり、うんこ(汚いw)とかを流して邪魔をしたと言いますが。

それから忍者を呼び、内情を探らせようとしますが、一揆勢は島原訛りの言葉を喋ったり、キリスト教の専門用語を使ったりするので、結局忍者たちは意味もわからなかったと言います。

そして、松平信綱は 干し殺しといって持久戦に持ち込みました。干し殺しとはお城にこもっている者たちを飢え死にさせることです。

天草四郎率いる一揆勢が原城にたてこもった理由の一つとしてポルトガルからの援軍を当てにしていたこともあげられます。ポルトガルの援軍をひたすら一揆勢は待っていたのです。でもポルトガルは世界に植民地を広げ、日本の地を狙っていたのです。ポルトガルのみならず当時のヨーロッパ列強がキリスト教の宣教師を手を組んで、いろいろな国を侵略しては植民地にしていたのです。まず宣教師を送り込み、キリスト教の信者を増やし、内乱を起こし、そのすきをついて外国の軍隊を投入し、それで植民地にしてしまおうというのがヨーロッパ列強の手口でした。そんなポルトガルの思惑を一揆勢は知らず、仲間として純粋に助けてくれるとばかり思ってたのです。もし、ポルトガルが助けなくなかったとしても、全国にちらばっているキリスタンたちが蜂起し自分たちに味方をしてくれることも一揆勢は期待していたと考えられます。


一方、幕府はそうしたポルトガルの企みを見抜いてました。だから幕府側は、一揆勢がポルトガルの軍隊と合流するのを非常に警戒しました。

それで幕府側はオランダの手も借りました。「え?オランダもヨーロッパの列強なのに、なぜ幕府はオランダの手を借りたの?」と思われるかもしれませんが、オランダは幕府と良好な関係でした。オランダはキリスト教の布教ましてや植民地化には興味がなく、純粋に日本との貿易を望んでおりました。またオランダは、ポルトガルが植民地を増やして強くなることを快く思っていなかったのです。

オランダは原城の攻撃をしました。これは原城に立てこもる一揆勢にとっては大きなショックでした。オランダの船がきて、「自分たちをたすけてくれるのかな」と思っていただけに、まさか外国が自分たちの敵となって立ち向かってくるとは思わなかったのです。

2 一枚岩ではなかった一揆勢
 また、松平信綱は心理戦をつかって一揆勢を揺さぶりました。原城城内に矢文をうち、「城をあけわたし、村に帰ってまじめに耕作につとめるのなら、今年の年貢は免除し、来年から年貢も少なくする」という内容でした。

実は一揆勢も一枚岩ではなく、なかには一揆の指導者たちに対して不満を持つ人たちも少なくなかったし、無理やりキリシタンに改宗させられ一揆に加わった人たちなんてなおさら不満でしょう。ましてや、松平信綱による干しごろし作戦で、食糧が少なくなり腹を空かせている人たちもたくさんいましたから。

当然、信綱からの矢文に内心「やった、やっとこんな生活から抜け出せる」と喜んだ人たちもいたことでしょうが、一揆勢の指導者たちは「裏切り者は許さないぞ!」みたいな感じで目を光らせておりました。現に山田右衛門作は幕府と内通していたのですが、それが天草四郎にばれてしまったのです。ぶち切れた天草四郎たちは見せしめに山田の妻を殺してしまったのですね・・・

そんな最中一揆勢に衝撃が走ります。天草四郎の袖に銃が当たったのです。不死身と思われていた四郎にそんなことが起こったのです。この事件を機に一万人もの人たちが幕府軍に投降したと言います。僕は島原の乱において一揆勢は皆殺しにされたとばかり思っていましたが、幕府に投降し、無事生還した農民が一万人もいたことを最近読んだ資料で知り驚きました。

3 無惨に殺された一揆勢
 干し殺し作戦が功を奏したのか、一揆勢の方から焦りも出てきて、幕府軍に闇討ちをかけて武器や食料を奪おうとするものまで出てきたのです。そうして松平信綱が生け捕った一揆勢の人間を尋問したところ、一揆勢は食料が尽きて、草まで食べて飢えをしのいでいることを信綱は知りました。

それから、幕府側と一期側の睨み合いが長く続いたのです。しびれを切らしたように鍋島軍が原城の攻撃をしました。松平信綱はやむなく総攻撃の命令をだしました。

一揆軍は幕府軍と激しい戦いをします。一揆勢は小石からナベやカマまで投げてまで幕府軍と抵抗したましたが、3か月の籠城で食糧や弾薬がついてしまい、12万の幕府軍と戦える状態ではありませんでした。そして、天草四郎以下指導者たちはもちろん、女こどもまで3万人が皆殺しにされたと。

以前に「さかのぼり日本史」や「その時歴史が動いた」をみたとき、原城の発掘調査で人骨が大量にでてきたのをみました。なかには頭ガイコツに穴が開いているのもあり、いかに無残な殺され方をしたのだなと見て思いました・・・

そうして殺された者たちの死体は丁重に葬られるどころか、穴にほうりこまれ放置されたといいます。乱から120年後になって、地元のお坊さんと村人たちによって原城の前に、島原の乱で亡くなった人たちの菩提を弔うために、お地蔵さんをつくったといいます。それまで亡くなった人たちをまつることさえ許されなかったといいます。



※ 参考文献および参考にした番組

『その時歴史が動いた』『さかのぼり日本史』(いづれもNHK)









1 苦戦した幕府軍
 天草四郎をトップにたて一揆勢は原城に立て篭もり幕府と戦いました。幕府軍は最初は勝てると思ったのですが、思わぬ苦戦をさせられます。 

一揆勢がたてこもった原城もまた難攻不落の城だったのです。城は三方を有明海にかこまれておりました。有明海の潮の流れはとても早く、城のそばに船を停泊させることは非常に困難だったのです。そのため幕府が海から原城を攻撃できるのは一日二回の潮どまり(※1)の時だけ。

そして陸側というと、こちらは湿地帯。ぬかるみに足をとられて城に近づくのもままならなかったのです。しかも一揆勢はガケの上に板塀を張り巡らせて敵の侵入を防ぐなど周到な準備をしておりました。一揆勢は板塀の影にかくれ、城壁をよじ登ってくる幕府軍を鉄砲で狙いうちにしたのです。地の利を生かして幕府の大群と槍あったのです。まさにベトナム戦争でベトナムがゲリラ戦でアメリカ軍をやりあったのと共通するものがあります。

籠城となると食糧の調達が重要になります。その点も一揆勢は抜かりなく、海の事情を知る彼らは、夜にこっそり船を出し、籠城のために必要な武器や食料を調達することができたのです。だからこそ、長く戦うこともできたのです。

そして一揆勢が強かったのは、かつての関ヶ原の合戦の猛者たちが指揮を取っていたのもそうですが、農民も侮れなかったのですね。農民は鉄砲を使って、走り回っているイノシシや鳥を取っていたのですね。だから、生じかの武士よりも鉄砲の腕がすごかったのです。

ちなみにこの戦いには宮本武蔵も幕府軍に加わっていたのですね。彼ほどの剣豪が「拙者、足に石が当たって動けない」と弱気なことをいう有様。

2 板倉がやってきたものの
 事態を重くみた幕府は板倉重昌を送り込みます。板倉は三河国(いまの愛知県)深溝藩主でした。徳川家光に命じられ島原の乱の平定をしようとしたのです。板倉は、相手はたかが農民の一揆いっきだとタカをくくっていたのでしょう。ところが、重昌は原城にたてこもっている一揆勢に苦戦を強いられます。

さらに援軍にきた肥後(いまの熊本県)の細川氏と肥前国(いまの佐賀県)の鍋島氏は、指揮官である板倉の言うことをきいてくれません。なぜなら、板倉の領地の石高が1万5千石なのに対し、細川氏は54万石、鍋島氏は35万7千石と、板倉よりも鍋島や細川のほうが格上なのです。いわば中小企業の社長さんが、それこそ経団連に名を連ねるような大手企業の社長さんの上にたち命令をするようなもの。これでは軍の統制がとれません。



そんななか、幕府から老中の松平信綱まつだいらのぶつながやってくるという知らせが板倉の元に届いたのです。これにあせった板倉は強引に原城総攻撃を開始。しかし幕府軍の足並みはそろわず。板倉は弾丸を受けて戦死しました。一揆勢は松平信綱によって平定されるのですが、その辺の話は次のエントリーでお話しします。

3 板倉重政が眠るお寺
 東京中野区に宝泉寺というお寺があります。。このお寺には板倉重昌いたくらしげまさのお墓があります。板倉は島原の乱で戦死しました。

ちなみに、この法泉寺のすぐ近くにある萬昌院功運寺には「忠臣蔵」でおなじみ吉良上野介きらこうずのすけのお墓があります。僕も吉良上野介のお墓参りのついでに板倉重昌の墓参りをしようとしたのですが、あいにく板倉重昌の墓がわかりませんでした。板倉の墓を探そうと宝泉寺の墓地の中をしばらくウロウロしていたのですが、次の予定が入っていたのでそのまま帰ってしまいました。それに墓地の中をあんまりウロウロするのも気持ちいいものではないしね。

法泉寺の最寄り駅は西武新宿線の新井薬師前駅です。といっても、けっこう駅から離れているし、ちょっとわかりにくい場所にあります。

最後に板倉重昌の人となりがわかるエピソードをお伝えします。大坂冬の陣における豊臣方との誓紙交換せいしこうかん(※2)精子交換の際、豊臣方は誓書のあて名を大御所の徳川家康か将軍の徳川秀忠のどちらにするか迷って板倉に質問しました。すると板倉は迷うことなく家康にするように述べました。江戸に帰った後、家康にそのことを問われると「私は二君の使いではなく、家康公の家臣です」と板倉は述べました。その板倉の忠誠心を家康にほめられたそうです。

※1 満潮と干潮時に,潮の満ち引きが一時とまること。

※2 誓紙とは誓いの言葉を記した紙。起請文。誓紙交換とは、その起請文を交換しあうこと。ちなみに起請文とは自己の行動を神仏に誓って守るべきことが書かれた文書。違反した場合は罰を受ける旨も記されている。

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