1 尾高惇忠

 尾高 惇忠おだかあつただは富岡製糸場の初代場長です。大河ドラマ『青天を衝け』では田辺誠一さんが尾高惇忠を演じられております。また、実の娘のゆうは、富岡製糸場第一号の工女さんになっております。それまで富岡の女工さん募集をかけてもだれも集まらなかったのが、彼女が工女さんになったことで、集まるようになったのです。

尾高は1830年(文政13年)に今の埼玉県深谷市で名主の家に生まれました。渋沢栄一のいとこであり、義理のお兄さん(尾高の妹は渋沢の妻)でもあります。尾高家は農業のほか、塩や菜種油、藍玉の販売なども行っておりました。

尾高惇忠は学問に優れ、17歳で自宅に塾をひらき、近所の子供たちに論語をはじめ多くの学問を教えていたというからすごいですね。その教え子の1人が渋沢栄一。栄一が7歳の頃から通っていたと言います。いわば尾高と渋沢は師弟関係だったのです。

のちに渋沢栄一は藍香ランコウ(惇忠)ありてこそ青淵セイエン(栄一)あり」と語ったほど。

尾高の思想は「知行合一チコウゴウイツでした。知行合一とは、知識と行為は一体であり、学び得た知識は実際の行動を伴わなければならないということです。尾高は生涯、この信念を貫きましたし、教え子の渋沢栄一にもその影響を与えたのですね。

1870年(明治3年)に、尾高惇忠の人生を変える事件がおこります。「備前堀事件」というものです。深谷には備前堀という人口の用水路があったのですね。その用水路は利根川から引いてあって、尾高の家の近くに流れておりました。それが江戸時代に浅間山の噴火で、この用水路が土砂で埋まってしまうのですね。それで利根川の洪水が度々起こっていたので、備前堀に代わって、新用水路という水路を別に作ろうと役所が決定したのですね。それに猛反発したのが、備前堀を利用していた農家が「水を引けなくなる」と猛反発。それを知った尾高惇忠は、備前堀が大事だということを役所に訴え出たのです。その備前堀の修繕費は農民が負担することを条件に、新しい用水路建設中止をやめさせたのですね。

尾高の理路整然とした訴え書を読んだ民部省(※1)の人間は、「こいつはできるやつ」と高く評価。それで尾高は政府に仕官し、民部省に入ることができたのです。そして尾高は富岡製糸場建設の現場責任者に抜擢バッテキされました。これは先に民部省に勤めていた渋沢の推薦もあったからだと言います。尾高は養蚕の知識があったので、うってつけだということでしょう。

2 工場長 尾高
尾高は、ブリュナと一緒に計画立案や建設資材の調達なども行いました。そして群馬県の富岡に製糸場建設が決まりました。しかし、製糸場の建築には大量の木材が必要です。それで尾高は妙義山みょうぎさんに生えている樹齢500年もの杉の大木に目を付けました。しかし、妙義山は昔から信仰の山で、天狗てんぐが住んでいると信じられておりました。地元の住民はご神木を切り倒したら、たたりがあると大反対をしたのです。しかし、それでも尾高はあきらめません。

「日本が西洋列強の植民地にされないためには早く近代化しなければならない。そのためにはどうしてもこの妙義山の杉のご神木のお力が必要だ。日本のためならば妙義山に棲む天狗さまもよろこぶだろう」と地元の住民たちを説得したといいます。尾高の熱心な説得に地元の住民たちも納得をしたと言います。

また、富岡製糸場にはたくさんのレンガが使われておりますが、明治時代当初はレンガの製造技術やセメントの技術がまだ日本に広まっていません。それで尾形は、海外留学経験のある渋沢に相談し、カワラ職人たちにその製法を教え、作らせたと言います。そのできたレンガの量は数十万個にもなるとか。

セメントに関しては、日本には古くから漆喰しっくいの技術があったので何とかなりました。漆喰もセメントも石灰が原料。少しセメントの技術を教えて、応用を効かせれば良かったのです。

そして、富岡製糸場ができると、尾高は初代工場長となりました。資金繰りが思わしくなかった時代に、マユ相場を予測して入荷額をきめるなど、官営工場にあっても経営センスを発揮し赤字体質を立て直そうとしたのです。また場内の規律維持にも厳しく当たったといいます。


1876年(明治9年)に農家に対し秋蚕あきご(*2)をすすめるなど経営改革を尾高は試みますが、政府ともめてしまい、工場長をやめてしまいました。その後は岩手県盛岡市で第九十国立銀行の開業に積極的に協力したり、盛岡商法会議所を設立し、若い実業家たちに新しい経済理論や実務を教えたりしました。尾高のモットーは「至誠如神」。誠意を尽くせばその姿は神の如くなるという意味です。この言葉をでかでかと書いた額を富岡製糸場の場長室にかかげたといいます。そして、尾高惇忠は、明治34年(1906)に70歳で亡くなりました。

3 尾高ゆう
お次は尾高惇忠おだかじゅんちゅうの長女、尾高ゆうの話です。彼女がいなければ、富岡製糸場に工女さんが集まらなかったかもしれません。どういうことかって?

実は富岡製糸場が完成して、工女さんを募集ぼしゅうしたのですが、まったく集まらなかったのです。

富岡製糸場がブラック会社だというウワサがたったから?ちがいますww実は富岡製糸場で技術指導をするフランス人たちがブドウ酒を飲んでいたのですが、それを見た地元の人々は血を飲んでいるとカンちがいしたようです。「あのケトウ(※3)は、吸血鬼きゅうけつきだぞ!!」とか、「あんなところにいったらオ〇コされたあげくに殺されるぞ!」と人々は思ったに違いありません。





(当時の人々は製糸場の外国人をこんな風にイメージしたw?)



年ごろのかわいい娘をそんな怪しげなところにやろうなんて親は思わないでしょう。工場長の尾高惇忠は、「ウワサをしんじちゃいけないよ」なんていったかどうかは知りませんがw、ともかく尾高惇忠は人々の誤解を解こうとしますが、それでも人々から「製糸場の外人は血を飲む」というウワサはなかなか消えません。これには尾高はもとより、時の大蔵省もおどろいたそうです。いくら立派な工場ができても、肝心かんじんの工女さんが集まらなければ意味がありません。


まず尾高惇忠は、工女の募集条件を15歳から30歳までとしました。それまでは25歳までだったのに引き上げたのですね。さらに食事の支給や毎日の入浴などの高待遇をアピールしたのです。そして極め付けは、最愛の娘ゆうを富岡製糸場で働かせたのです。ゆうはまだ少女でありましたが、父の思いを感じ取っていました。自分が富岡で働くことで「富岡製糸場はこわくない」ことを証明するためでもあり、自分が父とともに製糸業と言う国家プロジェクトを担うんだという強い決意から、自ら志願したのです。


尾高惇忠の熱意と、ゆうの強い決意が、人々の心を変えていったのです。工場長の娘が製糸場に働くということで、「女の子の生き血を吸う、吸血鬼がいる」なんてデマだということが証明されたのです。そうして、じわじわと富岡製糸場の工女を志願する女の子たちが増えていったのです。


そうして集まった女工さんたちはせっせと技術を習得していったのです。そうして2〜3年富岡で修行をした女工さんたちは故郷ふるさとに帰って、後進の指導を行ったのです。


尾高ゆうは、がんばって一等工女の資格を得て、富岡を去ることになりました。それは明治8年1月、彼女が17才のことでした。そして二年後に結婚けっこんします。しかし、ゆうの夫は明治37年に53才の若さで亡くなります・・・・

残された”ゆう”は四男二女(五男三女を産みましたが、長女と二男は早世そうせい(※4))をかかえて苦労をしました。しかし、ゆうは女手ひとつで一家を必死に支えました。子供たちの成長後は、平穏へいおんな暮らしを送り、大正12年に64才で亡くなりました。


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不明 - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://www.city.fukaya.saitama.jp/syougaigakusyu/web_rekisi_bunkazai/history/history6.htm">http://www.city.fukaya.saitama.jp/syougaigakusyu/web_rekisi_bunkazai/history/history6.htm</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる




(尾高の肖像画 ウィキペディアよりFile:Odaka atsutada.jpg)



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(尾高の屋敷)

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(藍玉)





※1 国内行政の管轄。のちに大蔵省と合併。

※2 夏以降に蚕を孵化フカさせた蚕のこと。当時、蚕は春に一回だけ、孵化した蚕を飼育し繭をとっていた。繭は年に一回、春だけしか取らないので、それでは供給が間に合わないだろうと。特に不作の年は繭の供給が不足した。それで、尾高は春と夏以降の2回にわたって繭を取ろうとした。ちなみに、春に孵化した蚕のことを春蚕はるごという。

※3 漢字で書くと毛唐(けとう)。毛色の変わった人たちという意味。昔、西洋人のことをこのように言う人もいた。

※4 若いときに亡くなること。










※ 参考文献並びにテレビ番組




BS・TBSの『にっぽん歴史鑑定』

『郷土の先人 尾高惇忠』(萩野勝正)








富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08



(*この記事は2022年2月2日に加筆修正をしました。)