History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:富岡製糸場

Kanetaro_Katakura_III(1)

(3代目片倉兼太郎の写真。ウィキペディアより引用)
File:Kanetaro Katakura III cropped 1 Katakura Seishi Boseki Kabushiki Gaisha Soritsu 20 nen Kinen Shashincho Frame 23.jpg


今日お話しする3代目兼太郎は、片倉だけでなく、八十二銀行頭取はちじゅうにぎんこうとうどり、日本蚕種さんしゅ製造社長、諏訪電気社長、美篶商会みすずしょうかい社長を歴任し、貴族院の議員にもなったそうです。


富岡製糸場を最後に払い下げを受けた企業が片倉で、その時の社長が3代目片倉兼太郎でした。片倉は初代片倉兼太郎のおいであり、養祖父に当たります。3代目兼太郎の父親と初代兼太郎は兄弟でした。3代目兼太郎の本名は「脩一しゅういち」といいましたが、父の死を機に「兼太郎」を襲名したのです。レーヨンの登場や、戦争の長期化によって3代目は製糸業の将来を非常に案じておりました。片倉が受け継いだころの富岡製糸場は戦争の時代でした。太平洋戦争中は陸軍の空挺部隊のパラシュート用の生糸の製造をメインに作っていたそうです。戦後、片倉は財閥解体のあおりを受け、三代目も公職追放となり、その10日後の同年1月15日、死去しました。満62歳没。



また、文化にも理解があり、1941年に欧米に出かけたときにも絵画を買ったり、骨董を集めたりしていたそうです。日本の敗戦が濃厚だった1944年に諏訪湖畔すわこはんに立派な美術館を建設し「懐古館かいこかん」と名付け、自分のコレクションを一般公開したといいます。その懐古館がのちの諏訪市美術館だそうです。


また3代目は昭和13年ごろから各方面に手を伸ばして、製糸用の器具や機械工具、それから製糸にまつわる文献を集めたそうです。それらを懐古館(諏訪市美術館)に持ってきたといいます。兼太郎は養祖父の代から伝わる家業である製糸の変遷や進歩発達過程緒を機械工具を通して後世に残そうとしたのかもしれません。

その後、富岡製糸場は数ある片倉の工場の一つとして、操業そうぎょうをしておりましたが、昭和62年をもちまして、その歴史に幕を下ろしたのです。

とりあえず、富岡にまつわる人々のお話は一旦今回で終了します。富岡製糸場におきまして最も重要な人物、渋沢栄一は別の機会にじっくり取り上げます。

※ 参考文献



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横浜商業興信所 - 『日本全国銀行会社実業家信用録』桑田竜太郎 著, パブリック・ドメイン, リンクによる


(※1)

1 横浜の恩人
 横浜に三渓園さんけいえんという庭園があります。広大な土地に四季折々の植物と日本の各地から集められた建造物がある見事な庭園です。この庭園を造ったのが原三渓はらさんけいこと、原富太郎はらとみたろうです。


富太郎は原家の養子であり、元の苗字は青木でした。生まれも岐阜県ぎふけんです。17歳で上京して、東京専門学校(今の早稲田大学)で法律や政治を学びながら、跡見学校(今の跡見学園女子大学)で教師となり、歴史と漢学を教えていたのです。それが当時、跡見学校の生徒だった原屋寿やすと知り合いました。屋寿は原商店の創業者原善三郎の孫娘です。屋寿と富太郎は結婚。晴れて富太郎は原家の仲間入り。人の運命ってわからないですね。

たずさわっていました。とはいっても、原合名会社の本業は製糸貿易であり、富岡製糸場の経営は業務の一つという位置づけでした。しかし、原がかかわっていたころの富岡は、激動の時代でした。





関東大震災の時、横浜の街は壊滅的かいめつてきな打撃を受けました。自分の会社の存在すら危うい状態だったときに、富太郎は一企業の心配を胸にしまい、横浜の復興の先頭に立ち、その重責を一身に担いました。すごいですね。ですから、富太郎は「横浜の恩人」と呼ばれております。




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(原善三郎の写真)
2 文化人だった富太郎
 

また、文化活動にも熱心で、絵画や芸術品を集めたり、茶の湯にも造詣が深く、広く財界人や文化人とも交流をしておりました。日本画家の卵たちを財政的に、精神的に援助し、世にはばたかせたのです。
そうして、横山大観よこやまたいかん速水御舟はやみ ぎょしゅう,牛田雞村うしだけいそんといった画家が育ったのです。昔の経営者は、夢を追う若者のパトロンになる人が多かったのですね。




また、富太郎自身も絵をたしなんでおりました。僕も富太郎の絵を見たのですが、プロの画家顔負けの素晴らしい絵でした。鳥の絵をかいていたのですが、その鳥の目がなんとも優し気で、富太郎は経営者として厳しい面も持ちながらも本当は心優しい人物だったのかなって絵を見て伝わってきました。


 



3 原時代の富岡



 そして原富三郎は原合名会社の社長として辣腕らつわんをふるい、1901年の9月13日、富岡製糸場の経営をしていた三井から、原合名会社に譲渡されました。原合名会社時代の富岡は繰糸器の技術革新など思い切った設備投資をしました。



また、原合名会社は農家との連携もしました。富岡製糸場内に蚕業改良部を設置し、原料まゆの統一をめざして養蚕農家に蚕種を無償配布したり、繭の品評会を大々的におこなったりで養蚕農家の向上心を育て、ともに連携をしたのです。農家への奨励策により良質な原料繭を仕入れることができたのです。その功あってか、富岡の生糸は海外からも高く評価されました。




原合名会社は当時としては比較的社員を大事にしていました。社員は賞与の10分の1を各自の将来のために会社に預けることや毎年8日間の慰労いろう休暇を与えたり、社員のためにサークル活動を奨励しょうれいしたりしていたそうです。また、退職者(遺族を含む)には、忠勤に励んだ者には多額の一時金をだすこと、家族に不幸があれば見舞金みまいきん葬儀代そうぎだいを払うという決まりもあったそうです。



そんな原合名会社に危機が訪れます。アメリカでレーヨンが登場し、生糸にとって代わろうとしていました。さらに悪いことに生糸の最大の輸出先だったアメリカとの関係も次第に悪くなりました。

しかし、何といっても原富太郎の最大の悲劇は、長男・善一郎の突然の死でした。それは1937年の出来事でした。原善一郎は原合名会社の副社長であり、将来を嘱望しょくぼうされていました。長男の死のショックからか、富三郎は社業の整理を決断、製糸から手を引くこととなったのです。





富岡製糸場の譲渡先も片倉に決めました。その理由を富三郎は「片倉は富岡製糸場を将来にわたって大事にしてくれる企業だと思った」から。そして原富三郎は1939年8月16日に亡くなりました。



※1 原三渓こと原富太郎の肖像写真。ウィキペディアより。パブリック・ドメインFile:Tomitaro Hara.jpg作成: 1915年以前)





以下 三渓園の写真
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(在りし日の松風閣。初代善次郎が建てた。ゲストハウスとして用いられ、インドの詩人ドゴールも訪れた)


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(関東大震災で壊れた松風閣)


※ 参考文献




Hikojiro Nakamigawa.JPG
不明 - 三省堂「画報日本近代の歴史5」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる



富岡製糸場は初めは公営でしたが、三井に落札され、民営化しました。民営化され富岡製糸場(三井時代)を実質的に経営をしたのが中上川彦次郎なかみがわひこじろうです。かれは大分の、中津なかつ藩士の子として生をうけ、大阪の適塾てきじゅくで学んだあと、慶應義塾に入塾、その後福沢諭吉の資金援助でイギリスに留学し、その際井上馨いのうえかおると知り合いました。その縁で工部省、のちに外部省につとめたが下野し、福沢と共同で「時事新報じじしんぽう」を創刊したり、「山陽鉄道」の社長になったり、それから三井銀行に入行した、いわばエリート中のエリートでした。しかも中上川の母が福沢諭吉の姉だったことも大きい。彼自身が優秀だけでなく、そうした彼の人脈ものちの成功につながります。

そして、中上川は富岡製糸場の経営に乗り出しました。三井が富岡製糸場を受け持ったのは9年間だけでしたが、その9年間で設備の改良と規模拡大と改革を行ってきました。

繰糸器を増設したり、あらたに揚糸場を建設したりしました。その揚糸場で揚げ返しの作業を行っておりました。揚げ返しは巻き取った生糸をもう一度巻き返す作業です。なんのためにするかというと、繰糸くりいとの作業でとったばかりの生糸はれているのですね。それを生糸を乾燥させ、生糸の固着を防ぐために巻き返しをするのですが、官営時代は繰糸場の中に、げ返しの機械がありました。繰糸場の中は人の顔がみえないくらい蒸気があふれておりますから、湿気が多いのですね。そんなところで乾燥が目的の揚げ返しをやっても、あまり効率的ではないのですね。それで、揚げ返しの作業を繰糸場とは別の部屋でやったほうがいいということで、揚糸場をつくったのですね。

また、設備面では煙突、ボイラーなどの新調したり、寄宿舎や生糸乾燥所や生糸検査所なども新設しました。

工女さんの賃金体系も月給制から日給制へ、さらに出来高制に変更しました。しかし、これは工女さんたちの反感を買い、ストライキまで起こったのですね。


さて中上川は、数多くの人材を三井に採用しました。たとえば朝吹英二(彦次郎の義弟、のちの王子製紙会長)、藤山雷太(のちの芝浦製作所所長、大日本精糖社長)、武藤山治(のちの鐘淵紡績社長。鐘淵紡績かねがふちぼうせきはやがて化粧品のカネボウになる)など、その後の実業界を担った人材を集め、育てたのですね。

しかし、富岡製糸場の経営はあんまり思わしくなかったのですね。それで売りに出そうという意見も出たのですが、中上川は断固として反対していたのです。そんな中上川も1901年、48歳の若さで世を去るのですね。

※ 参考文献


今日は速水堅曹はやみそうけんについて。彼は民営化の道筋をたてた富岡製糸場の所長です。速水は天保てんぽうの時代に埼玉県の川越の生まれ、幕末に前橋に移住しました。財政悪化からの脱出を図る前橋藩の命を受け、藩で生産される生糸の売買を横浜ではじめましたが、ヨーロッパでの生糸の売値が日本の2倍近いことをしり、生糸の品質を向上させて輸出すれば大儲けできると思ったのです。1870年(明治3年)、神戸に住んでいたスイス人を雇い、前橋藩が運営する前橋製糸場の建設に速水が携わりました。この前橋製糸場こそ日本最初の製糸場で富岡よりも古いのですね。



その後内務省の役人になった速水はすぐに富岡製糸場の経営実態調査におとずれました。経営の状況だけでなく、女工さん達の話も聞くなど広い視野で富岡の経営状況を分析します。その結果「経費削減と利益追求」が必要で、外国人を解雇し、民営化もしたほうがいいということでした。



1878年(明治11年)、ヨーロッパでの富岡製糸場の生糸の評判が落ちたので、内務卿ないむきょう(※1)の伊藤博文が心配したのです。伊藤は速水に相談を持ち掛けます。速水は「一刻も早く民営化」をと主張します。しかし、伊藤は「まずは官営の製糸場の改革が大事」といいました。そして速水は富岡製糸場の所長になります。しかし、速水は富岡民営化をあきらめませんでした。







速水はその後所長をやめ、富岡製糸場の生糸を独占して外国に輸出する会社を設立しました。これも富岡製糸場民営化の呼び水としたかったからだといわれております。



そして1885年(明治18年)、速水はふたたび富岡製糸場の所長に復帰し、民間なみの会計制度を導入するなど民営化の準備をします。そして富岡製糸場は三井に払い下げられ、民営化するのです。速水は粘り強かったのですね、粘り強さって大事ですね。排水溝のぬめりのような粘り強さw?

速水は工場内に木を植えたり、工女さん達に道徳を教えたり、工女さんの生活改善も行いました。1880年(明治13年)の正月には年始の行事をおこない、二日間に及んで役員、工女さんたちが宴会を行ったといいます。気さくな一面もあったのですね。



また、速水は三井に払い下げられたとき、このような歌を詠みました。





想ひきや 手植の菊も 此頃このごろの 雨と風とに 逢はんものとは









富岡製糸場を菊になぞらえ、民営化することへの期待と、これから待ち受ける雨風に、この菊は耐えられるだろうかという不安の気持ちが入り混じった歌を詠んだのです。





※1 、明治時代の太政官制における事実上の首相。旧内務省を指揮監督した。後身は内務大臣

※ 参考文献




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今井 幹夫
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1 尾高惇忠

 尾高 惇忠おだかあつただは富岡製糸場の初代場長です。大河ドラマ『青天を衝け』では田辺誠一さんが尾高惇忠を演じられております。また、実の娘のゆうは、富岡製糸場第一号の工女さんになっております。それまで富岡の女工さん募集をかけてもだれも集まらなかったのが、彼女が工女さんになったことで、集まるようになったのです。

尾高は1830年(文政13年)に今の埼玉県深谷市で名主の家に生まれました。渋沢栄一のいとこであり、義理のお兄さん(尾高の妹は渋沢の妻)でもあります。尾高家は農業のほか、塩や菜種油、藍玉の販売なども行っておりました。

尾高惇忠は学問に優れ、17歳で自宅に塾をひらき、近所の子供たちに論語をはじめ多くの学問を教えていたというからすごいですね。その教え子の1人が渋沢栄一。栄一が7歳の頃から通っていたと言います。いわば尾高と渋沢は師弟関係だったのです。

のちに渋沢栄一は藍香ランコウ(惇忠)ありてこそ青淵セイエン(栄一)あり」と語ったほど。

尾高の思想は「知行合一チコウゴウイツでした。知行合一とは、知識と行為は一体であり、学び得た知識は実際の行動を伴わなければならないということです。尾高は生涯、この信念を貫きましたし、教え子の渋沢栄一にもその影響を与えたのですね。

1870年(明治3年)に、尾高惇忠の人生を変える事件がおこります。「備前堀事件」というものです。深谷には備前堀という人口の用水路があったのですね。その用水路は利根川から引いてあって、尾高の家の近くに流れておりました。それが江戸時代に浅間山の噴火で、この用水路が土砂で埋まってしまうのですね。それで利根川の洪水が度々起こっていたので、備前堀に代わって、新用水路という水路を別に作ろうと役所が決定したのですね。それに猛反発したのが、備前堀を利用していた農家が「水を引けなくなる」と猛反発。それを知った尾高惇忠は、備前堀が大事だということを役所に訴え出たのです。その備前堀の修繕費は農民が負担することを条件に、新しい用水路建設中止をやめさせたのですね。

尾高の理路整然とした訴え書を読んだ民部省(※1)の人間は、「こいつはできるやつ」と高く評価。それで尾高は政府に仕官し、民部省に入ることができたのです。そして尾高は富岡製糸場建設の現場責任者に抜擢バッテキされました。これは先に民部省に勤めていた渋沢の推薦もあったからだと言います。尾高は養蚕の知識があったので、うってつけだということでしょう。

2 工場長 尾高
尾高は、ブリュナと一緒に計画立案や建設資材の調達なども行いました。そして群馬県の富岡に製糸場建設が決まりました。しかし、製糸場の建築には大量の木材が必要です。それで尾高は妙義山みょうぎさんに生えている樹齢500年もの杉の大木に目を付けました。しかし、妙義山は昔から信仰の山で、天狗てんぐが住んでいると信じられておりました。地元の住民はご神木を切り倒したら、たたりがあると大反対をしたのです。しかし、それでも尾高はあきらめません。

「日本が西洋列強の植民地にされないためには早く近代化しなければならない。そのためにはどうしてもこの妙義山の杉のご神木のお力が必要だ。日本のためならば妙義山に棲む天狗さまもよろこぶだろう」と地元の住民たちを説得したといいます。尾高の熱心な説得に地元の住民たちも納得をしたと言います。

また、富岡製糸場にはたくさんのレンガが使われておりますが、明治時代当初はレンガの製造技術やセメントの技術がまだ日本に広まっていません。それで尾形は、海外留学経験のある渋沢に相談し、カワラ職人たちにその製法を教え、作らせたと言います。そのできたレンガの量は数十万個にもなるとか。

セメントに関しては、日本には古くから漆喰しっくいの技術があったので何とかなりました。漆喰もセメントも石灰が原料。少しセメントの技術を教えて、応用を効かせれば良かったのです。

そして、富岡製糸場ができると、尾高は初代工場長となりました。資金繰りが思わしくなかった時代に、マユ相場を予測して入荷額をきめるなど、官営工場にあっても経営センスを発揮し赤字体質を立て直そうとしたのです。また場内の規律維持にも厳しく当たったといいます。


1876年(明治9年)に農家に対し秋蚕あきご(*2)をすすめるなど経営改革を尾高は試みますが、政府ともめてしまい、工場長をやめてしまいました。その後は岩手県盛岡市で第九十国立銀行の開業に積極的に協力したり、盛岡商法会議所を設立し、若い実業家たちに新しい経済理論や実務を教えたりしました。尾高のモットーは「至誠如神」。誠意を尽くせばその姿は神の如くなるという意味です。この言葉をでかでかと書いた額を富岡製糸場の場長室にかかげたといいます。そして、尾高惇忠は、明治34年(1906)に70歳で亡くなりました。

3 尾高ゆう
お次は尾高惇忠おだかじゅんちゅうの長女、尾高ゆうの話です。彼女がいなければ、富岡製糸場に工女さんが集まらなかったかもしれません。どういうことかって?

実は富岡製糸場が完成して、工女さんを募集ぼしゅうしたのですが、まったく集まらなかったのです。

富岡製糸場がブラック会社だというウワサがたったから?ちがいますww実は富岡製糸場で技術指導をするフランス人たちがブドウ酒を飲んでいたのですが、それを見た地元の人々は血を飲んでいるとカンちがいしたようです。「あのケトウ(※3)は、吸血鬼きゅうけつきだぞ!!」とか、「あんなところにいったらオ〇コされたあげくに殺されるぞ!」と人々は思ったに違いありません。





(当時の人々は製糸場の外国人をこんな風にイメージしたw?)



年ごろのかわいい娘をそんな怪しげなところにやろうなんて親は思わないでしょう。工場長の尾高惇忠は、「ウワサをしんじちゃいけないよ」なんていったかどうかは知りませんがw、ともかく尾高惇忠は人々の誤解を解こうとしますが、それでも人々から「製糸場の外人は血を飲む」というウワサはなかなか消えません。これには尾高はもとより、時の大蔵省もおどろいたそうです。いくら立派な工場ができても、肝心かんじんの工女さんが集まらなければ意味がありません。


まず尾高惇忠は、工女の募集条件を15歳から30歳までとしました。それまでは25歳までだったのに引き上げたのですね。さらに食事の支給や毎日の入浴などの高待遇をアピールしたのです。そして極め付けは、最愛の娘ゆうを富岡製糸場で働かせたのです。ゆうはまだ少女でありましたが、父の思いを感じ取っていました。自分が富岡で働くことで「富岡製糸場はこわくない」ことを証明するためでもあり、自分が父とともに製糸業と言う国家プロジェクトを担うんだという強い決意から、自ら志願したのです。


尾高惇忠の熱意と、ゆうの強い決意が、人々の心を変えていったのです。工場長の娘が製糸場に働くということで、「女の子の生き血を吸う、吸血鬼がいる」なんてデマだということが証明されたのです。そうして、じわじわと富岡製糸場の工女を志願する女の子たちが増えていったのです。


そうして集まった女工さんたちはせっせと技術を習得していったのです。そうして2〜3年富岡で修行をした女工さんたちは故郷ふるさとに帰って、後進の指導を行ったのです。


尾高ゆうは、がんばって一等工女の資格を得て、富岡を去ることになりました。それは明治8年1月、彼女が17才のことでした。そして二年後に結婚けっこんします。しかし、ゆうの夫は明治37年に53才の若さで亡くなります・・・・

残された”ゆう”は四男二女(五男三女を産みましたが、長女と二男は早世そうせい(※4))をかかえて苦労をしました。しかし、ゆうは女手ひとつで一家を必死に支えました。子供たちの成長後は、平穏へいおんな暮らしを送り、大正12年に64才で亡くなりました。


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不明 - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://www.city.fukaya.saitama.jp/syougaigakusyu/web_rekisi_bunkazai/history/history6.htm">http://www.city.fukaya.saitama.jp/syougaigakusyu/web_rekisi_bunkazai/history/history6.htm</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる




(尾高の肖像画 ウィキペディアよりFile:Odaka atsutada.jpg)



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(尾高の屋敷)

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(藍玉)





※1 国内行政の管轄。のちに大蔵省と合併。

※2 夏以降に蚕を孵化フカさせた蚕のこと。当時、蚕は春に一回だけ、孵化した蚕を飼育し繭をとっていた。繭は年に一回、春だけしか取らないので、それでは供給が間に合わないだろうと。特に不作の年は繭の供給が不足した。それで、尾高は春と夏以降の2回にわたって繭を取ろうとした。ちなみに、春に孵化した蚕のことを春蚕はるごという。

※3 漢字で書くと毛唐(けとう)。毛色の変わった人たちという意味。昔、西洋人のことをこのように言う人もいた。

※4 若いときに亡くなること。










※ 参考文献並びにテレビ番組




BS・TBSの『にっぽん歴史鑑定』

『郷土の先人 尾高惇忠』(萩野勝正)








富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08



(*この記事は2022年2月2日に加筆修正をしました。)






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