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1 本国と同化される一方で
沖縄の近世と近代の歴史をお話も今日で4回目になります。
前回の記事で琉球処分にて琉球王国はなくなり、沖縄県として日本国の領土の一つとなったと書きました。そして、沖縄は明治政府に支配されます。
沖縄は独自の生活習慣や文化を持っておりましたが、それらは古い、遅れた慣習だと明治時代に否定され、禁じられ、さらに本国との同化も進められてきました。
そうした中で事件が起こったのです。1903年に起きた人類館事件です。大阪で第5回観行博覧会が開かれました。会場には見世物小屋が立ち並び、その中の一つに「人類館」がありました。ここでは日本人の他にアイヌや琉球、朝鮮、台湾の先住民、中国人、インド人、ハワイの人たちが集められ7種の土人と呼び、それぞれの地域の風俗や習慣を見世物にしようとしたのですね。そうしたら、中国人留学生や韓国の留学生から抗議の声があがったのです。
彼らだけでなく沖縄の人まで抗議したのです。「人類皆兄弟、人を見世物にするなんてSDGsに反する」と抗議した?違います。「俺たちを台湾人やアイヌと同一にして見世物にするな」って抗議したのです。つまり、あいつらと一緒にするなってことでしょう。よく考えればひどい話ですが、当時の沖縄人は自分達も本国と同じ皇国公民として認識していたのですね。実が太田朝敷(おおた ちょうふ)と呼ばれる人物も同じ意見でした。そのが太田朝敷の話を次の項目で触れます。
2 太田朝敷(おおたちょうふ)について
そんな沖縄について「これはいかん」と嘆き、沖縄の自立を目指した人が少なくありません。その一人が太田朝敷(おおた ちょうふ)。あいにく僕はHK教育テレビの高校講座「日本史」を見て初めてこの人の名前を知りました。
太田朝敷とはどんな人物かというと、主に明治時代から昭和初期にかけて活躍したジャーナリストです。明治26年に沖縄最初の新聞「琉球新報」の創刊に加わったそうです。ちなみに「琉球新報」は「紙ハブ」と呼ばれ恐れられていたようです。なかなか過激な論調だったのかな?
昭和5年に「琉球新報」の社長になり、その後、県会議員,首里市長もつとめたそうです。
「他府県」に「我から進んで同化する」こと「若し消極的に同化させやうとすれば・・・、幾多の不利を感じなければならぬようになります」
『女子教育と沖縄県』(太田朝敷)

下手に本国といがみ合うよりも、現実を受け入れ、日本に従ったほうが被害が少ないと太田は思ったのかもしれません。そのうえで近代化すれば沖縄の人たちの意識も変わるだろうと。沖縄人の意識も変われば、沖縄自立の道へと進むだろうと太田は思ったのでしょう。
太田は精神面だけでなく経済面でも沖縄の自立を目指そうとしました。沖縄の主要産業はサトウキビ。太田は製糖業の振興をすることで沖縄の経済発展を進めようとしましたが、沖縄と同じく製糖業が盛んな台湾に押されてしまい、これはあまりうまくいかなかったようです。
3 太田朝敷の学歴
太田朝敷は慶應義塾大学の出身だったそうです。平成のいまは沖縄出身の学生が東京の大学に入る事は珍しい事ではありません。僕のいた大学にも沖縄出身の人がいました。
だけど、明治時代の当時はとても珍しい事だったそうです。
慶應義塾大学といえば福沢諭吉(ふくざわゆきち)。
福沢諭吉は国家の自立を説いた人物で、そのためには西洋の文化を取り入れよとも言っていたそうです。後の太田の行動を見ていると、福沢の影響を受けたのだろうなとおもいました。
それでは、みなさんぐぶりーさびら!!(沖縄の方言でさようなら)
※ おまけ
喜納昌吉さんの『花』をどうぞ。映らなかったらごめんなさい)
※ 今回の記事は「高校講座 日本史」などを参考にしました。