History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:大奥

寒い日がつづいておりますね。コロナもはやってきているようですし、皆様もお体を大切になさってください。

きょうは大奥の奥女中について。大奥の奥女中たちは最盛期は3千人もいたというから驚きです。その大奥の奥女中たちは将軍や将軍の奥さんの御台所に仕えておりました。その奥女中たちは、いくつものランクにわかれ、それはまさにピラミッド型の巨大な組織だったのです。その大奥にはいくつもの役職がありました。きょうはその役職の話をします。その役職は大きく分けて御目見おめみえ以上と御目見以下に分かれております。御目見とは将軍や御台所に直接会うことができる身分です。御目見以下だと将軍や御台所に会うこともできないのです。さらに細かく21もの役職にわかれます。きょうは御目見以上の役職を取り上げます。

  1. 上臈御年寄じょうろうおとしより
    大奥の最高職だが権力はない。いわば名ばかり管理職。将軍や御台所の話し相手。だいたい実家が公家


  2. 小上臈こじょうろう
    上臈の見習い。こちらも権限があまりない。やはり実家が公家


  3. 御年寄おとしより
    役職の名前から言っておばあちゃんのイメージがあるが、若くても御年寄になれる。奥女中の最高権力者。大奥のすべてを取りしきる。老中に相当。有名な江島や瀧山も御年寄。実家が旗本が多い。

  4. 御客会釈おきゃくあしあらい
    御三家、御三卿(*1)、諸大名などからの女使の接待役

  5. 中年寄ちゅうどしより
    御台所つきの御年寄の代理役。御台所の献立を指示し、毒見役を務める。

  6. 御中臈おちゅうろう
    将軍や御台所の身辺の世話をする。将軍は主に「将軍付き御中瓠廚涼罎ら側室を選んだ。御中臈は側室候補。将軍の側室になれた御中臈は、お手つき御中瓩箸い錣譴拭

  7. 御小姓おこしょう
    御台所の小間使い。7歳から16歳の少女が多く、タバコや手水の世話をする。

  8. 御錠口
    「上の御錠口(*2)」を管理。中奥との取次ぎをおこなう。

  9. 御表使おんおもてづかい
    大奥の外交係。「下の御錠口」を管理し、御年寄の支持を受け大奥の買い物をというかつ。御年寄に次ぐ権力者

  10. 御右筆ごゆうひつ
    日記や書類、書状などの執筆や管理役

  11. 御次おつぎ 
    道具や献上品の運搬、対面所などの掃除、召人のあっせんを担当。

  12. 御切手書おきってがき
    「七つ口」(*3)から出入りする人々の改め役

  13. 呉服ごふくの間
     将軍や御台所の衣服をつくる裁縫係

  14. 御坊主おぼうず
    将軍つきの雑用係。将軍の命を受けて中奥へ出入りが許された唯一の奥女中

  15. 御広座敷おひろざしき
    御表使の下働き。御三卿や諸大名の女子が登城した際は食事の世話をした。


以上が御目見以上の役職です。御目見で一番トップが上臈御年寄、一番下位が御広座敷です。特に上臈御年寄、小上臈、御年寄は老女と呼ばれ大奥で権力を握っておりました。特に御年寄の権力は絶大だったのですね。御目見は実家が公家か旗本だとなれたのですね。実家が公家だと上臈御年寄、小上臈年寄に御年寄から御広屋敷まではすべて実家が旗本です。御目見のおもな仕事は儀式や儀礼や役人などの対応、それから将軍や御台所の身の回りの世話がメインでした。次は御目見以下の役職について


  1. 御三おさんの間 
    新規採用の者が配属される。御年寄、中年寄、御客会釈たちの雑用係。


  2. 御中居おなかい
    御膳所つまり台所で料理をつくる役柄


  3. 火の番
    文字通り、昼夜とわず、女中たちの部屋をまわって火の元を警戒する。昔はガスや電気などあるはずがなく、照明はすべてろうそくなどに灯った火だった。


  4. 御茶の間
    御台所が飲む茶を調達


  5. 御使番おつかいばん
    御表使の下役。「下の御錠口」の開閉を管理し、御広敷役人の取次ぎをおこなう。


  6. 御末おすえ
    一番、下っ端。掃除、風呂、水くみ、選択、駕篭かつぎなどすべての雑用を行う。



御目見以下は下働き。特に御末は重労働で、水くみ、はては駕籠かごかつぎまでやりました。その中でも特に大変だったのが駕篭かつぎと水くみでした。駕篭かつぎは姫君とかが外出のときに駕篭をかつぐのですが、かつぐ女性たちは男性に負けないくらいの屈強なものが10人。前後5人づつでかついだのです。とくに前方でかつぐ5人は姫君に尻を見せてはならないので前側の5人は後ろ向きに担ぐ必要があったのです。水くみは井戸から桶で水を運ぶのですが、おけに入った水は重くて女性二人がかりでやっと持てるという状況でした。

これらの役職はインドのカースト制のように、ずっと固定されたわけじゃなく、基本的に才覚があったり、将軍に気に入れられると最初は下位の役職でもどんどん出世して、うまくいけば御年寄にまでなれたのですね。たとえば、11代将軍家斉の側室お美代の方は、御次からスタートして将軍の側室である御手つき御中臈になりました。ただし、出世できるといいましても生まれた家柄が低いと難しく、町人や農民の出だと昇進できず、町人や農民のむすめだとせいぜい御三の間まで。綱吉の母である桂昌院のように八百屋の娘から出世したものもいますが、それは例外中の例外。自分の娘を大奥に奉公させ出世させたければ旗本の養子にするしかないのですね。お美代の方は、日啓というお坊さんの娘でしたが、中野清武という旗本の養女になったことで出世の糸口をつかんだのです。一番下っ端の御末から御年寄になれた女中はまずいませんでした。

さらに、大奥には下がいて、以下御紹介します。


御犬子供おいぬこども
無給の女中。雑用をすべておこなった。部屋ごとに5、6人いて、年齢は16歳から23歳程度。名前の由来は、大奥の食事の残り物を食べていたからとも、物売りがやってくると犬のように集まったからとも。

部屋方へやがた
上級の女中たち個人的に雇った使用人。水くみや炊事も行ったり、米の換金や町にでては買い物をしたりしていた。




*1 徳川吉宗があらたに設けた三家。田安家、清水家、一橋家。この三家からも将軍を輩出することができる。
*2 定刻になると、内と外とから大きな錠をおろされ、これを「上の御錠口」といい、奥の玄関の「下の御錠口」とは区別された。 上の御錠口には鈴が掛けられており、「お鈴の口」ともいった。
*3 江戸城大奥の出入り口の一。奥女中の外出のときなどの通用口。夕方七つ時に閉鎖された

大奥は男子禁制です。男で入ることができるのは基本的に将軍だけです。しかし、大奥に出入りできる男性の役人もいたのです。たとえば御留守居おるすい。御留守居は大奥を取り締まる最高責任者で、町奉行や勘定奉行、大目付を歴任した人物が最終的になる役職。それだけの役職を歴任したのですから年齢的には50を超えていたのですね。

毎年、節分になると豆まきが行われます。基本、豆まきは男性の役目。じゃあ大奥ではだれが豆まきをするかというと、それは御留守居の役目。御留守居は節分当日、大奥の中に入ると、まずは炒り豆で「寿」という字を畳の上につくり、そのあとで大奥の各部屋で豆をまき、それが終わると残った豆を懐紙に包み女中たちに渡したのですね。そして豆まきの役目が終わって御留守居もほっとしたのもつかの間、奥女中たちが御留守居のところになだれ込んで御留守居を布団でぐるぐる巻きにして胴上げしたり、なでたり、突っついたり、やりたい放題。奥女中たちは日頃のストレスをぶつけたのですね。大目付まで歴任し、諸大名たちにも恐れられた御留守居たちも奥女中に囲まれては形無しです。

また大奥には警備の男性も数名いたのですが、奥女中と間違いがあってはならないということで年配者が多かったのです。爺さんになってもお盛んな人だとこまりますがねw

あと五菜ごさいという役職もあります。これは上級女中にやとわれて米の換金や買い物、それから部屋方のあっせんも行いました。部屋方とは上級女中が個人的に雇った女中のことです。



新人さんは、どこの社会でも大変です。特に新人さんは慣れない仕事をするわけですから、どうすればよいのかわからず戸惑うばかり。先輩たちはそんな新人さんに優しく手をさしのべるばかりか、「そんなこともできないのか!」って怒るばかり。自分たちが新人だった頃のことも忘れて。怒るだけならともかく、新人さんイジメに発展することもしばしばです。意地の悪い先輩は新人さんをいじめてストレスを発散しているのでしょうね。

大奥にも新人いびりがありました。大みそかになると、新人の奥女中たちが集められ、いきなり全員裸にさせられてしまうのです。先輩たちの「新参舞を見しゃいな」というお囃子に乗せて、裸の新人さんたちはダンスをするのです。新参舞とよばれるイジメです。しかも、御年寄とか上級の奥女中たちもいる前で。その新参舞のはじまりは、刺青していた奥女中が過去にいて、それを防止するために始まったともいわれております。もっとも明治時代に元大奥で奥女中をつとめた女性が「裸踊りなどありえなかった」と証言していることもあり、作り話である可能性もあります。

ただ、大奥は女性たちの嫉妬と欲望がうずまく伏魔殿。裸踊りがなかったとしても、ドラマ『大奥』に出てくるような、いやがらせみたいなものはあったんじゃないかって思います。

「歴史秘話ヒストリア」で大奥おおおくの事が取り上げられていました。とても興味深い内容でした。

大奥で出世する方法や幕末の大奥御年寄おとしより瀧山たきやま(※1)の話も良かったのですが、大奥の女中じょちゅうだった桂川rt>かつらがわてやの話が特に印象に残りました。今日は”桂川てや”の話を。

桂川てやは御典医ごてんい(※2)のむすめでした。じゃあ金には困っていないジャンと思うかもしれませんが、父は年をとっていて、息子も医者ではあったが、まだ半人前でした。今で言う研修医けんしゅういみたいな感じでした。だから、てやの家はお金の余裕よゆうがあまりなかったのです。それで、”てや”は家族を養うためになんと12才で大奥で女中として働く事になります。12才といったらまだ小学校6年生です!?

”てや”は一生懸命いっしょうけんめい働き、花町という奥女中の先輩せんぱい広大院(※3)にも認められ、なんと13歳で御中籠(おちゅうろう)に出世しました。中学生1年生位でこれだけ出世するとは大変なことです。

え?御中臈(おちゅうろう)って何かって?ええと、毎年7月ごろにお世話になった人に菓子よりだとかビールだとかを送る・・・それはお中元w

調べによると、御中臈とは御台所みだいどころ(※4)の身辺のお世話をする人のことだそうです。

順調に出世をしていった”てや”ではありましたが、彼女が望んでいたのは実家に帰ることでした。てやは、医者であるお兄さんが一人前になった時に大奥の女中をやめようと考えました。幼いころから親兄弟とはなれて暮らしたんだもの、無理もありません。それに、”てや”も年ごろで、こいだってしたい年ごろですし。

やがて月日が流れ、”てや”が16歳になった時、”てや”に不幸が訪れます。皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw(松平定知さん風に)

江戸城は火事になってしまいました。当然大奥も被害ひがいを受けました。あたりが火の中で、”てや”は何とか上司の広大院を探しだします。しかし、今度は花町という大奥の仲間が見当たりません。”てや”にとって花町は自分を引き立ててくれた恩人でもありました。

広大院は花町を助けよと”てや”に命じました。”てや”は花町を助けるべく、燃え盛る火の中へ飛びこんでいきます。「この行灯を持っている死体があったらそれは私です」という言葉を近くにいた女中に言い残して。

火が治まったのち、行灯を強くにぎった死体がみつかります。その死体はてやだという事がわかったのです。16才の短い命でした。かわいそうに・・・

自分の主のため、世話になった人間のために命を投げ打つなんて「忠臣蔵ちゅうしんぐら」のようです・・・

最愛の娘の死を知った父は、亡き娘の絵をいたそうです。その絵は今も残されています。ヒストリアでも、その絵が紹介しょうかいされましたが、本当にきれいな人だなって思いました。


※1 ,16才で江戸城大奥にあがる。徳川家慶(いえよし)の侍女となり,のち年寄。家慶から慶喜(よしのぶ)まで4代の将軍につかえ,江戸開城まで大奥につとめた。明治9年1月4日死去。71才。ちなみに御年寄とは大奥の役職で大奥で一番の実力者で、老中ろうじゅうにも匹敵ろうじゅうするほど

※2 将軍かかりつけの医者

※3 徳川11代将軍徳川家斉とくがわいえなりの正室(奥さん)。島津重豪しまづしげひでの娘。島津重豪は薩摩藩さつまはん(鹿児島県)の藩主。
※4 将軍の奥さん。正室。

あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年最初のエントリーは天英院の話。天英院は絵島事件にも関わっているし、八代将軍に吉宗がなるときにも、この人が関わっていました。12チャンネルで放送されたある歴史番組では、天英院は実は倒幕をたくらんでいたと。天英院の実家は近衛家、つまり朝廷側です。徳川家をうらんでいた島津家と組んで徳川を倒そうとしたのです。

島津家は幕府から、実際の石高よりも大目の税をとるなどいろいろと嫌がらせをされていたとか。

そこで、綱吉の養子でもあり、天英院の子飼いでもある竹姫を島津家に嫁がせ、幕府と島津家を和解させます。しかし、それは表面的なものでした。

幕府に島津家に対するいやがらせをやめさせる一方で、竹姫に幕府を倒すように洗脳(せんのう)をさせます。やがてその倒幕の志が島津家の子から子へと受け継がれ、13代将軍家定の代になって、島津家の娘の篤姫を家定に嫁がせ、将軍家定を毒殺したというものでした。

これが本当だったら怖い話ですね。

でも、天英院が本当に幕府を倒すつもりがあるのならば、7代将軍家継の後継を名君の吉宗ではなく、あまり領民からの評判のよくなかった尾張家の継友を推薦(すいせん)したと思います。しかも尾張家と近衛家は親せき関係だったそうですし。

というか、本当に天英院が倒幕派だったら、家継が亡くなった時の将軍不在のドタバタをもっと利用したはずです。将軍が決まらない状況なんて、幕府を倒すまたとないチャンスですからね。

それに、幕末の時代の島津久光は倒幕どころか、初めは佐幕派(幕府の味方)でした。後に倒幕へと傾くのですが、それはあくまで外国のこわさを理解し、日本が植民地になったらやばいと判断したからであって、個人的なウラミだとは僕には思えません。

竹姫は久光のひいおじいちゃんである島津重豪の養育をして、彼の藩政に影響を与えたのは事実ですが、倒幕どころか、むしろ幕府を憎まないように養育したんじゃないでしょうか?

島津重豪の娘は11代将軍の家斉の元に嫁ぎましたし。篤姫も、朝廷が幕府を本格的につぶそうとしたときに、和宮とともに徳川家の存続を薩長に対して懇願したといわれています。話を天英院に戻して、もしも天英院がいなかったら幕府はもっと早く滅んでいたと私は思います。




続きを読む

このページのトップヘ