今日の記事ははっきりいって長いです。自分では短くまとめたつもりなのですが、何しろ要約力がないものですから・・・・

すみませんねえ。

1 事件のあらまし
 昔と比べて今の日本は治安が悪くなったと言われていますが、意外にも平成よりも昭和30年代の方が、犯罪率が高かったようです。もちろんあくまでもそれは数字の上の話であって、ヒサンな事件そのものは平成の今も起こっているのですが・・・

今日、取り上げる昭和30年代の事件は「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐ゆうかい事件」。4歳の男の子が誘拐されて、あげくに殺されてしまうというヒサンな事件です。

経済大国へと走りだした日本に突如とつじょ起きた事件。高度成長で日本人は豊かになったといわれていますが、その恩恵を受けられなかった人も少なくありません。「吉展ちゃん誘拐事件」(よしのぶちゃん ゆうかいじけん)の 犯人も例外ではありませんでした。

昭和38年3月31日の夕方、東京都台東区に住む村越吉展(むらこしよしのぶ)ちゃんが自宅近くの公園から行方不明となりました。

4月2日に村越さん宅に身代金みのしろきん50万円を新橋駅でわたせ」という電話がきたのです。警察は誘拐事件ゆうかいじけんと判断して捜査そうさに乗り出しました。警察は新橋駅で見張っていましたが、肝心かんじんの犯人は現れませんでした。その後、連日のように村越さん宅に電話をかけて受け渡し場所を指定するものの犯人は姿を見せなかったのです。

4月7日も犯人から電話があり、村越さん宅の近くに受け渡し場所を指定しました。母親が行ってみると吉展ちゃんのクツがあったので身代金を置いて帰ったのです。

しかし、警察は身代金を犯人にうばわれたあげく、犯人もつかまえられなかったというミスをおかしてしまいます。さらに札のナンバーもひかえ忘れるなど、警察は世論よろんの激しいバッシングを受けたのです。

犯人の足取りはつかめず、4月25日には警察が犯人の電話の声の録音をマスコミ(テレビやラジオ)に大々的に流して、情報の提供を呼びかけました。反響はんきょうは大きく、「かえしておくれ今すぐに」という歌までつくられたほどでした。けれど、これといった手がかりがつかめないまま、月日はむなしく流れていきました・・

2 犯人 小原保 逮捕たいほ
 警察は小原保(おはらたもつ)という人物を別件容疑べっけんたいほでタイホします。警察は小原に「お前が吉展ちゃんを誘拐ゆうかいしたのか」とせまります。

小原の取調べをしたのは「オトシの八兵衛」の異名を持つ平塚八兵衛(ひらつかはちべえ)刑事けいじ。平塚の人柄ひとがらに、はじめは犯行を否定していた小原も、とうとうウソもつけなくなり、ついに自供(※1)しました。

小原は、荒川区南千住(あらかわく みなみせんじゅ)の円通寺(えんつうじ)の墓の下に吉展ちゃんの遺体をかくしたと白状しました。事件発生から2年3ヶ月経って、犯人の自供を持って事件は解決したのです。


事件は解決しても、吉展ちゃんのご両親の悲しみは消えません。そして、吉展ちゃんのかがかしい未来も消えてしまったのです・・・



(円通寺の吉展ちゃん地蔵)

3 犯人の横顔
 ここで、事件の犯人、小原保についてふれておきます。彼は1933年(昭和8年)生まれ。小学5年のときに片足にひどい障害を負いました。足が悪いという事でバカにされた事もあったかもしれません・・・

職業訓練高をでて、14才でふるさとをはなれ、東京に出ました。まずしい生活からぬけ出したくて。 足が悪いので、座ったまま出来る仕事を探し、時計修理工になりました。小原は都会の暮らしに慣れてきましたが、次第に荒れていきます。

まずしい生活から抜け出したいという思いから、小原は務め先に内緒ないしょで時計のブローカー(※2)をしたり、横領(※3)などもしたのです。その為に、かえって借金はふくらみましたし、逮捕たいほもされてしまったのです。(吉展ちゃん事件の前に)

それで、小原はふるさとに帰り、お金をかき集めようとしました。貧しい実家に前にたたずんだ時、「金の相談などとても出来ない」と思い直して、小原は母に顔を見せただけで引き返しました。かといって、東京にもどったところで、借りられる所はありません。追いつめれた小原は、誘拐ゆうかいを思いついたのです。

僕も借金をした事があり、その返済の苦労はよくわかるのですが、さすがに犯行までは・・・

僕の場合は市役所の無料法律相談所や親に相談したのがよかったのかもしれないと思います。特に親父は自分も借金で苦労したせいか、理解を示してくれました。


 4 殺意の刹那(せつな)

 台東区の入谷南公園で遊んでいた吉展ちゃんを誘拐ゆうかいしました。ビッコを引いている小原の事をみた吉展ちゃんは「おじちゃん、足がいたいの?」と無邪気むじゃきに聞いたのです。

子供の言葉なのでまったく悪気わるぎはないのですが、この言葉に小原はカチンときたのです。それで「殺すしかない」と思ったそうです・・・

円通寺の境内けいだい付近で、吉展ちゃんを連れていた所、吉展ちゃんが「オシッコ!」とダダをこねていたので、小原は吉展ちゃんをあやしながら、おしっこをさせていました。そのとき、おぼうさんが二人の後ろを通り過ぎました。「見られた!」と思ったそのとき、「殺意が固まった」と。

小原は昭和41年に死刑が確定。小原は刑務所けいむしょの中でたくさんの短歌を読み上げました。二句ほど取り上げます。



「明日の日を 前にひたすら打ちつづく 鼓動(こどう)を指に きつつ眠る」

 「詫(わ)びとして この外あらず冥福(めいふく)を 炎のごとく声にいのるなり



話しはかわりますが、先ほど犯人からの脅迫電話きょうはくでんわ(の録音)がテレビやラジオで大々的にとりあげられたという話をしましたね。

その犯人の声をきいたある女の子が、「にくらしいほど落ちついて、両親の悲しみがわからないのかしらとおこったそうです。その女の子が次の記事で取り上げる有名な事件の被害者ひがいしゃとなるわけです・・・・

※1 自分の犯した罪や悪いことを自ら述べること。
※2 仲買人。本来は悪い意味ではないのだが、少なくとも小原のやったことは芳しくない。
※3 不法に他人の物を横取りすること。


(この記事はウィキペディアなど色々なサイトおよび下記の本を参考にして書きました。)