History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:吉屋潤

(この記事は2022年、7月8日に加筆修正をしました)
http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1659738.html
前編

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1659765.html

中篇

こんにちは。今日も楽しくいきましょう。今日で吉屋潤(よしや じゅん)さんのお話はおしまいです。

1 挫折ざせつ
 吉屋さんとパティ・キムさんは世界各地でコンサートを開きました。しかし吉屋さんは自分のサックスのうで限界げんかいを感じていました。ハワイ公演を終えたあと、おくさんのパティ・キムさんへニューヨークで音楽の勉強をしたいから一緒いっしょについてきて欲しいと切り出したそうです。

しかし、パティさんは「突然そんな事をいわれても・・・」と首をたてにふらない。吉屋さんの気持ちも分かるが、自分の仕事も優先したい。そんな気持ちがパティさんにはあったそうです。結局、パティさんだけが帰国し、吉屋さんはアメリカに行きましたが、仕事もなく、酒と女とバクチにおぼれた生活を送っていました。そんなすさんだ生活が2年続いたそうです。

そこへやってきたのがパティ・キムさんとの離婚話りこんばなし。吉屋さんは奥さんだけでなく、最愛のむすめチョンアとも別れてしまいます・・・それは1973年の出来事でした。吉屋さんはアメリカ、パティさんは韓国と離れ離れの生活が続いたのです。

もっとも、パティ・キムさんとは離婚後もしばしば仕事をし、1973年には東京歌謡祭とうきょうかようさいに共演したそうですが。娘や奥さんと別れたさみしさをまぎらわせようと吉屋はがんばったがなかなかうまくいかない。韓国かんこくにもどり芸能プロダクションを作ったものの、これはと思う歌手は現れません。


そしてみなさん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw



2 ヘウニとの出会い そして挫折

 ある日、ヘウニさんという女性歌手が吉屋さんのプロダクションの門をたたきました。ヘウニさんのために吉屋さんは「あなたは知らないでしょうね」という曲を提供ていきょうしました。1976年(1975年?)その曲は大ヒット。ヘウニさんも大スターになりました。1977年は「貴方だけを愛して」でMBS音楽祭大賞を獲得かくとくしました。またへウニさんは日本にも来日されたことがあり、NHKの歌番組「歌謡パレード」にもご出演されました。

私生活が充実してくると、急に欲がでてきます。音楽カフェや料亭りょうていを開いたり、音楽著作権保護運動おんがくちょさくけんほごうんどう、1988年のソウルオリンピックの音楽監督かんこくなど吉屋さんはいろいろやりました。(オリンピックの時に作った曲が「朝の国から」)この「朝の国から」はキム・ヨンジャさんとう歌手がお歌いになりました。


1982年に最愛の母を失うという悲しみもありましたが、ヨンランという女性と再婚さいこん,し、アンリという娘ももうけました。吉屋さんに再び幸せがやってきました。だが、世の中なかなかうまくいかないものでして・・・

80年代に娘の名前を付けたアンリ・ミュージックという音楽関係の会社を設立しましたが、著作権保護運動などハードスケジュールで、なかなかアンリ・ミュージックの仕事に手が回らない。しかも放漫経営ほうまんけいえい(※1)がたたって、アンリ・ミュージックは多額な不渡ふわたりを出し倒産、自身が経営していた料亭りょうていも音楽カフェも閉めてしまいました。


僕の父親もそうだったなあ〜自営業やっていたのですが、やはり放漫経営がたたり多額な借金をかかえ、僕らが長年住みなれた家を手放す羽目になったっけ・・・

吉屋さんと親しかった日本人ミュージシャンは「潤ちゃんは思ったらすぐっ走る。華々はなばなしいといえば華々しい。音楽もそう。すべてそう。」と述べられました。吉屋さんのその性格が長所でも欠点でもあったのでしょう。でも、僕は好きだなあ、吉屋潤さんみたいな人。

韓国かんこくからげるように、吉屋さんは日本にもどりましたが、骨髄こつずいガンになってしまいます。長く続いた闘病生活とうびょうせいかつ。その間ラストコンサートも開きました。コンサート会場にはパティ・キムさんや田端義夫(たばたよしお)さんをはじめ仲間たちもはせ参じました。そして、1995年3月17日、ソウルの江東聖心病院にて亡くなりました。享年きょうねん68さい日韓にっかんをめまぐるしくかけ回った人生でしたが、彼が日本や韓国の音楽界に多大な功績を残したことはまちがいありません。


3 離別

吉屋潤さんの名曲中の名曲「離別」(イビョル) 。1972年に作られ1973年に発表されました。パティさんと結婚後、海外に演奏旅行に立ち、ジャズの勉強のため単身ニューヨークに渡った吉屋さんが、韓国に帰国した妻への思いを込めて制作した曲です。この曲を聴くと、望郷より愛する人との別れを感じます。吉屋さんのこの時の心情を歌ったものだと僕は思ったのですが、歌詞に「山超え、遠くに離れても」とあるように、望郷の思いを歌った歌とも解釈できます。「山超え」・「海の彼方」などの歌詞の表現から故郷の北朝鮮への望郷も含まれているとの解釈もあるとか。ちなみにパティさんは、「山越え、遠くに離れても」という歌詞が1番お好きだそうです。山は韓国語で「サン」、海を「パダ」というそうです。

この歌はいろいろな方が歌われております。みな素晴らしくお上手なのですが、やはりパティ・キムさんの歌唱にはかないません。元の奥さまということもありますが、抜群ばつぐんの歌唱力と豊富な人生経験に裏付けされたパティさんの「離別」は素晴らしいです。なにしろ、パティ・キムさんは韓国の美空ひばりさんといわれているくらいですから。平成元年(1989年)のNHKの「歌謡パレード」でも「紅白歌合戦」にもパティ・キムさんはご出演され、この歌を歌われました。「歌謡パレード」では日本語で、司会の杉浦圭子アナウンサーとお話しされ、この歌は「彼と私の心が入った曲です」とはにかみながら語られておりました。

「歌謡パレード」や「紅白」では、はじめは韓国語で、それから日本語で歌いました。その時のパティさんの目頭になみだがうかんでいました。別れたとはいえ愛し続けた吉屋潤さんの事が脳裏にうかんだのかもしれません。

吉屋さんもパティさんが紅白で歌っている姿をブラウン管でみて、おもわず恥ずかしくなったとか。この平成元年の紅白にはキム・ヨンジャさんも出演され、やはり吉屋さんがつくられた「朝の国から」をお歌いになりました。ある意味1989年の紅白は吉屋さんにとっても、吉屋さんファンにとっても印象深い紅白だったのではないでしょうか。

そして、吉屋潤さんのお葬式そうしきに参列したパティさんは泣いて、泣いて、泣きぬれたそうな。





※1 会社の使用者側が会社を運営・管理する能力が無い、会社を私物化する等により、企業経営を混乱させること。

※ 参考文献



朝の国から
キム・ヨンジャ
バップ
2007-11-21




http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1659738.html

こんばんは。今日は昨日の続き、吉屋潤(よしや じゅん)さんのお話の2回目です。昨日の記事は。今日は
吉屋潤さんが日本で名をあげ、パティ・キムさんと結婚するところまでお話をします。

1 恩師との出会い そして吉屋潤と名乗るように
 戦争で廃墟はいきょになった東京で吉屋さんは小沢秀夫(おざわひでお)さんを探しました。あちこち回って、やっと吉屋さんは小沢秀夫さんに出会います。

小沢さんは吉屋さんのかたたたいて「よく私を探せたね」と吉屋さんとの出会いを心から喜びました。小沢さんは吉屋さんにサックスをやることと、田端義夫(たばたよしお)さん伴奏楽団ばんそうがくだんに入る事をすすめました。

しかし、田端義夫さんといえば演歌歌手えんかかしゅ。ジャズをやりたいのに演歌をやれとはジャンルちがいです。吉屋さんは初めは「演歌なんか歌ってええんか」って仰ったか知りませんがw、あまり気乗りしませんでした。でも、結局小沢さんの言うことをすなおに従いました。田端義夫さんの伴奏楽団には2年間がんばって、その間に吉屋さんはサックスのうでをみがく事が出来ました。

ちなみに、吉屋潤と名乗るようになったのもこのころ。それまでは崔 致蓮淵船АΕ船献絅鵝砲般松茲辰討い泙靴拭5伐綾瓩量症佞運討肋沢秀夫さん。谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうと小説家の吉屋信子よしやのぶこの二人の名前からとったそうです。

吉屋潤さんが日本に来てから二年。小沢さんは吉屋さんを事務室に呼んで、「この日を待っていたんだよ。今の君ならバンドマスターが出来るね」と言って吉屋さんのバンド独立を認めてくれました。「吉屋潤とザ・クルー・キャッツ」の誕生です。

2 日本で活躍した吉屋潤

 吉屋潤さんのバンドはクラブ専属バンドから始まったのですが、次第にコンサートまで開けるようになり、日本のジャズ界の人気者となりました。当時の吉屋さんは羽振はぶりもよく、いつも服のポケットに大金をめ込み、後輩達こうはいたちに食事をごちそうをしたそうです。面倒見めんどうみが良かったのでしょう。一方でお金にあまり細かくなかったから、かせいだお金を持ちげされた事もあったとか。でも僕はこういう人、大好きです。マジで仲良くしたいくらい。

それと吉屋潤さんについて書かれた本には吉屋さんは黒い交際もあったと批判的な論調で書かれていました。 けれど吉屋さんに限らず、黒い交際がある芸能人やスポーツ関係者は結構いたみたいです。今はコンプライアンスが叫ばれる時代になって、いろいろやかましくなったせいか、聞かなくなりました。でも、少なくとも昭和の昔はそうでした。ボディーガードになってもらったり、スキャンダルをもみけしてもらったり、仕事の面でバックアップしてもらったり、昭和の昔は芸能人のそういう人たちの関係はwinwinの関係で、そんなにヤマシイ話ではなかったし、昔は今みたいにやかましくなかったのです。むしろ、変に正義感を振りかざす現代は息苦しくて仕方がない。

黒い交際といえば、それが原因で紅白落選した歌手も何人かいらっしゃいました。逆に「自分もこのような暴力団との仕事上の付き合いはある。歌手ならこのような付き合いは避けられない」と紅白を辞退された歌手もいらっしゃいました。演出家の蜷川幸雄さんは、「一芸能番組で道徳を振りかざすNHKの姿勢は納得できない」といって憤り、その年の紅白の審査員の話を蹴られたといいます。かっこいいですね。

日本だけでなく、アメリカでもフランク・シナトラという歌手がマフィアとの関係性をたびたびウワサされました。暴力団と関わる事は本来よい事ではないのかもしれませんが、芸能界というきびしい社会で食っていくためにはキレイごとばかり言っていられないのでしょう。


3 韓国と日本を行き来して
 1959年、吉屋潤さんはいちど韓国に帰りました。吉屋さんがみた韓国の町並みは、目をおおいたくなるようなひどい光景でした。それはバラックが立ち並ぶ廃墟はいきょでした。1950年におきた朝鮮戦争のつめあとが残っていたのです・・

そんな暗い状況の中、吉屋さんは韓国の音楽業界を盛り上げたいと思いましたが、ワケがあって再び日本にもどりました。さっそく「クルー・キャッツ」の再結成をしましたが、そのころの日本はジャズ人気も下火でした。結局「クルーキャッツ」を解散してしまいます。

クルー・キャッツを解散した吉屋潤さんですが、サックスが出来たので、あちこちでお呼びがかかりました。「芸は身を助く」ですね。『サヨナラ札幌さっぽろ』という曲も作りました。しかし、クルー・キャッツ時代の様な栄光はもどってきません・・・

そこへ吉屋さんに母が危篤きとくだという知らせが入り、吉屋さんはすぐに帰国しました。「オモニ(※1)をずっと守っていくよ!」とやせ細った母親を強くきしめたとか。

やがて、吉屋さんは大物歌手のパティ・キムさんと出会います。二人はテレビ番組で何度か共演をしました。吉屋さんのためにパティ・キムさんに『四月が去れば』という歌を提供しました。吉屋さんとパティ・キムさんは番組では必ず「四月が去れば」を歌とサックスでデュエットしました。「二人の仲はあやしい」とマスコミは書きたてたが、二人はその気になっていました。それから二人はめでたく結婚けっこん

二人の間に、女の子もさずかります。その時につくった歌が「1990年」です。

しかしラブラブだった二人の仲は次第にこじれていきます。吉屋さんは仕事としょうして夜の街へ遊びにいくようになりました。その後、吉屋潤さんはどうなったか?続きはこちらをどうぞ。


http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1659807.html


※1 韓国語かんこくごで「お母さん」という意味


海程
吉屋潤
バップ
2006-11-22


(吉屋潤さんのCD)

パティ・キム - ゴールデンベスト(韓国盤)
パティ・キム
巨星レコード
2009-06-03


(パティ・キムさんのCD)


※参考文献




韓国ソングBESTヒット(1)

1 元祖韓流

昔、吉屋潤さん(よしやじゅん。韓国語かんこくごではキル・オギュンと読むらしい)という音楽家がいました。日本と韓国かんこく舞台ぶたいに50年近くにわたり、サックス奏者そうしゃとして、歌手として活やくした在日韓国人です。


海程
吉屋潤
バップ
2006-11-22


(吉屋潤さんのCD)


ここの所、K−POPが話題になっています。日韓ガールズグループTWICEやIZ*ONE。それからBTS(防弾少年団)とかすごいですよね。しかし、元祖韓流がんそかんりゅうといえば吉屋潤だとボクは思います。吉屋潤さんの生涯しょうがいを今日から3回に分けてお話します。


2 吉屋さんの生い立ち

 朝鮮半島ちょうせんはんとうがまだ日本の植民地だった1927年(昭和2年)、吉屋潤(芸名)こと崔 致蓮碧槎勝チェ・チジュンと読むらしい)が、寧辺(ヨンビョン。現在は北朝鮮にある)という所にうまれました。吉屋潤さんの父親は医者で裕福ゆうふくな家庭でしたが、跡継あとつぎのいない叔父おじの養子となりました。

小学校時代の友人が、子どものころの吉屋潤さんをこう語っています。

「学芸会があると、普通ハーモニカは一本で吹きますが、崔は二本持ってきて、上下のくちびるを使って二本のハーモニカをたくみにいていました。なぜ二本いっしょに吹くのかと聞くと『二本使わないと出ない音がある』というんです」

子供のころから音楽の才能があったのでしょう。吉屋潤さんが高校生になると、日本人の先生からラッパを吹いてみろと言われて、ラッパを吹いたそうです。僕も昔ラッパ吹いた事があるけれど、あれって音出すの難しいんですよ〜

吉屋潤さんは音楽だけでなく文学も愛しました。吉屋さんがよく読んだのが日本の小説(夏目漱石なつめそうせき谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうなど)。ちなみには吉屋潤さんは親日派。後年になって「自分は日本の人から差別なんてうけたことがないよ」と明るく笑っていたそうですね。ほかにも吉屋さんは絵をくことも好きだったので、将来は画家になりたいと思うようになりました。


3 音楽の道へ

 が、彼の両親から反対されてしまいます。当時の朝鮮半島の若い人たちは日本兵として戦争に行くのが当たり前だったそうです。彼の母親は吉屋さんに「私はお前の夢をかなえてあげたい。でも、今の世の中は生き残る事が大事だよ。こんな時代がいつまでも続くとは思えない。医学部や理工学部の学生には徴兵延期ちょうへいえんきの制度があるから。」さとしました。

やはり親の愛ってありがたいですねえ。吉屋潤さんは親の言いつけに従い、京城歯科医学専門学校ソウルしかいがくせんもんがっこう(現ソウル大学歯学部)に入学しました。それは1944年(昭和19年)の出来事でした。

しかし、理工科系の学生の徴兵延期制度は昭和19年に廃止はいしされます。当然、理工科系に行った学生にも赤紙が来たのです。戦争がドロぬま化したのでしょう・・・

そんな状況じょうきょうの中、吉屋さんにとっての楽しみが音楽。下宿先の先輩せんぱい(日本人)と一晩中、ギターと女の話で盛り上がっていました、おっとそれはB'zか(笑)。

今まで徴兵を免れていた吉屋さんもいよいよ徴兵ちょうへいかという矢先に終戦をむかえました(1945年)。早速、吉屋さんは父母の疎開先そかいさきへ向かいました。そこで吉屋さんは父母と再会し、おたがいに元気な姿を見て喜び合ったそうです。

その後、京城歯科医学専門学校に吉屋さんは復学しました。学業の傍ら、吉屋さんは音楽活動にのめりこみす。吉屋さんは仲間達ともにジャズバンドを組み、米軍キャンプなどを回りました。当時韓国でジャズが流行はやっていたのです。

1949年、吉屋潤さんはソウル大学歯学部(旧京城歯科専門学校)を無事卒業しました。吉屋さんが通っていた京城歯科専門学校は1946年にソウル大学歯学部となったのですね。

大学を出た吉屋潤さんは音楽で身を立てたいと思うようになっていきます。「音楽で身を立てるためには音楽の学校を出たほうがいい。」。そう思った吉屋さんは音大に入ろうとしたが、父親に反対されてしまったそうです。

4 日本に密入国
 吉屋潤さんは日本でもジャズがブームになっている事を知り、アメリカに行く前に日本で修行しようと思いました。日本へ旅立とうとした矢先、吉屋さんは韓国人ピアニストから「日本に行ったら小沢秀夫(おざわひでお)という人物に会え」と言われたそうです。

一般人が、日本にわたるのはゆるされていないので、吉屋さんは日本に密入国をしました。密入国とはパスポートなし、許可もなしに他国に入り込むことです。密入国は良くない事かも知れませんが、その信念にすごいなと思います。日本に来て吉屋さんはどうしたか?続きはこちらを

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1659765.html

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