History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:吉原

1 格付けされた遊女
 遊女さんは器量などで格付けをされました。江戸中期以降になると細かくランク分けされるようになりました。それは以下の通り。

呼出ヨビダシ
昼三チュウサン
附廻ツケマワシ
座敷持ザシキモチ
部屋持ヘヤモチ
切見世キリミセ



一番上位が呼出で、下位が切見世です。呼出から附廻までを花魁オイランと言いました。客が支払う揚代は、最下級の切見世は100文。現在の金額に直せば2500円です。それで呼出の揚代は2両。これは現代の価格に直すと、なんと20万円です!!そのため花魁達を相手にしたのは上客と呼ばれたお金持ちや身分の高い人たち。




2 遊女さんの格差
遊女さんの年季明けとは、だいたい10年で、年季ねんきが明けるといいます。年季とは奉公する約束の年限のことです。遊女さん達の多くは借金の形に売られてきた貧しい農家の出です。禿カムロと呼ばれる雑用係から始めた娘はもっと長いですが、大体10年で年季明けです。


年季があければ、遊女さんたちは吉原を出てフリーになれます。フリーになってから、おなじみさんと結婚する遊女さんもたくさんいました。お相手は大工さんだったり、左官屋さんだったり、だんなさんと一緒におそば屋さんを始めたりした遊女さんもいました。

また、「身請けみうけ」といって、大名やお金持ちのお客さんが遊女さんの借金を清算して全額支払い、その遊女さんを大名やお金持ちのお客さんが自分の嫁さんにしてしまうのです。

しかし、10年の間に出費も膨大です。化粧代や衣装代も数千万かかるし、習い事にかかる費用や、世話をしている禿の生活費も見なければなりません。さらに客をもてなすために使う布団まで遊女さんの自腹。だから、年間に800両(約8000万円)稼がないと食っていけないのです。遊女さんがせっかく稼いでも、稼いだお金はほとんどお店に搾取され、手元にはほとんど残りません。足りなければ妓楼の主人からさらに借金をしたと言います。借金を返しながら、仕事をしたのえ苦界10年と言われたのです。10年働いて借金を返し終わらなければほかの見世に売られたと言います。そのため馴染み客にお金の無心をしたといいます。無心状という手紙を馴染み客に送ったのです。その手紙には「貸してくれないと、いま死にます」と切実な思いがつづられているのです。

また、中にはやり手になって吉原に残る女性もいました。やり手とは遊女さんの世話をしたり、遊女さんを監視かんししたり、客が遊女さんにキケンなことをしないか(部屋に二人きりになるから)を監視する役目をする女性のことです。やり手と言いますと冷酷非情れいこくひじょうなあくどい年増としま女というイメージもありますが、そんな女性ばかりではなかったようです。やり手は遊女上りがおおく、遊女さんの苦労もわかるのではないかと。

しかし、年季までに無事につとめ上げた遊女さんばかりではありません。け落ちや心中をした遊女さんもいたし、病気にかかり命を落とす遊女さんも多かったようです。過酷な労働で自ら命を絶った遊女さんもいたとか。

病気で息をひきとった下級遊女さんの末路まつろはほんとうにかわいそうでした。病気で亡くなった下級遊女さんの遺体いたいはコモ(あらくったムシロ)に丸めて包み込められ、若い衆(遊郭の男性の従業員)が夜中に投げ込み寺へ運ばれたといいます。

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(いづれも投げ込み寺の浄閑寺の写真)

※ 参考文献






1 吉原の概要
今日から数回にわたって吉原の遊女ゆうじょさんのお話をしたいと思います。吉原には250軒も妓楼ギロウがあり、約3000人の遊女がいたそうです。江戸幕府公認の遊郭だったのです。旦那さんたちが吉原に落としたお金は一日に千両、現代の価格に直すと一億円、があったと言います。すごいですね。お金持ちじゃないと吉原で遊べませんよね。

その吉原の付近に見返り柳があります。これは、吉原で遊んだ旦那衆が名残惜しくなって、見返り柳があるところから吉原のある方を見返ることから、見返り柳というようになりました。見返り柳から吉原の大門に行く途中の道が、およそ90メートルくらい、くねくねと曲がっております。なぜでしょう?

吉原は東北の大名たちからの侵攻を防ぐための城塞ジョウサイの役目があり、敵が中を見通せないようにするためという説もあれば、外から遊郭が見えないようにするためだと言われております。

大門の近くには四郎兵衛会所という自警団の詰所がありました。ここでは遊女たちが逃げないように監視していたのです。吉原は日本堤という堀に囲まれております。幅3・6メートル、深さ1・8メートル。遊女さんを逃さないためでしょう。お歯黒ドブとも呼ばれておりました。


入口も大門しかなかったので、これでは遊女さんも逃げにくい。もし遊女さんが逃げたら、ひどい折檻セッカンを受けたと言います。遊郭での生活がつらくなって脱走したり、客と駆け落ちしたり、心中するものが多かったため、吉原から外へ出ることは固く禁じられるようになったのです。

大門をくぐると、そこは不夜城、夜のパラダイス。大門からまっすぐ仲之町と呼ばれるメインストリートがあります。花魁道中や、季節ごとのイベントがここで行われました。江戸っ子たちは吉原に行くことを、「仲へ行ってくらぁ」って言っていましたが、その仲というのが仲之町のことだったのです。仲之町には引手茶屋がひしめいていて、遊廓との仲介をする場所です。引手茶屋の話は後ほどお話しします。

2 遊女さんのあの手、この手
 さて、こう言っては悪いけれど、遊女さんはウソをつくのが商売です。好きでもない男の客に対して「愛している」とか心にもないことを言うのは当たり前のことでした。「女郎じょろうの誠まことと卵の四角、あれば晦日みそかに月がでる」といわれたほど。

遊女さんたちは、あの手この手を使って男の客をひきつけました。そういったあの手この手の手段のことを、「手練手管てれんてくだ」といいます。そうした手練手管を用いて、自分たちのいる遊郭ゆうかくに通ってくるように仕向けるのです。そうして男をおだてては、金をむしり取るのです。

遊女さんたちが具体的にどのような手段を用いて男たちを口説いたのかは下のサイトによくまとまっています。

http://matome.naver.jp/odai/2142093408831217701

手紙をつかったり、うまいことを言って口説くだけでなく、入れ墨をいれたり、自分の髪かみやツメ、それから指を切ったりしてまで、「私はあなたのことを愛しているのよ」とアピールしたようです。

もっとも好きでもない男のために自分の指を切る遊女さんなんてそうそういるわけじゃなく、たいていは「しんこ細工」(お米を粉にして、それを水でこね、さらに蒸したもの)でつくられたニセの指を男に差し出していたり、死人の指を差し出したといいます。入れ墨もニセモノが多く、かんたんに落とすことができたといいます。


3 冷やかしの語源
 吉原で遊部と金がかかると申し上げましたが、吉原に訪れたのは金持ちだけではありません。多くは庶民でした。江戸時代は今みたいにゴルフや映画、音楽、ネットなどの娯楽も少なかった時代。吉原で遊ぶことはいわばテーマパークに行くような感覚だったのです。しかし庶民はお金があまりありません。

そこで庶民は直接、妓楼に行きます。その妓楼の見世先の格子越しに遊女さんが並んでいるので、その遊女を品定めするのです。見世先の様子はこんな感じ。格子越しに並んでいる遊女さんはランクは低く、太夫さんはまず並んでおりません。それでも可愛い子がいるということで目の保養になります。だから、遊ばなくても、遊女さんを眺めて帰る男も少なくなかったそうです。

また、江戸時代にはすでに再生紙があって、紙クズ収集屋さんがいて、集めた紙クズから再生紙を作る専門の職人さんもいたのです。紙クズを煮て冷やして再生紙を作るのですが、煮た紙を冷ましたり、水槽に古紙を入れて水を含ませ軟らかくする工程のことを「冷やかし」と言います。

その紙が柔らかくなるのに二、三時間はかかったといいます。それでヒマだからといって、職人は吉原見物をしたそうです。職人は吉原で遊ぶことなく、ただ見物して帰るのです。そこから冷やかしという言葉が生まれたとか。しかし、「冷やかし」は嫌われました。せっかくきたんだったら遊びに来いということでしょう。


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(Wikipediaより)



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(見返り柳)

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(大門まで行く道。くねくね曲がっている)

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(お歯黒ドブの跡。昔はこの辺りに堀があった。今は堀がなくなって段差だけが残っている)

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