History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:原爆の子

※ 参考サイトおよび参考文献

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex4.html






平和記念資料館には、焼けてスミになってしまったお弁当箱と水筒すいとうがあります。これは、広島県立第二中学校1年生の折免滋(おりめんしげる)くんの弁当箱と水筒すいとうです。

1945年の8月6日に、しげるくんたち1年生322名が建物疎開作業たてものそかいさぎょう(※1)のため、中島新町にいました。

8時10分ごろ、空でB29をみつけるなり、生徒たちは「敵機だ」「ビー(B29のこと)だ!」と口々にいい、にげようとしました。

しかし、すぐに原ばくが落ちてしまい、多くの生徒が大やけどをしたり、レンガや飛んできた木にうめられたり、ふきとばされたのです・・・

滋くんのお母さんが心配になって8月9日の朝、、しげる君を探しに行きました。

しかし、お母さんがみたものは、しげる君の変わり果てた姿でした・・・・

しげるくんは、戦争に行っている父と兄に代わって、山や竹やぶを開こんして畑を作っていました。その日のお弁当の中身は、その畑から初めてとれた作物でつくったおかずでした

しげる君のお母さんは、それを食べることなく死んでしまった滋くんのことをかわいそうに思ったそうです・・・。

※1 ところどころの家や建物を撤去てっきょしたりして空地をつくり、空しゅうがあっても燃え広がらないようにするためにする作業。その作業をするに国民学校高等科や中学校、女学校の1〜2年生およそ8000人ほど動員され、5900人近くがぎせいになった。




http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex2.html#


広島の平和記念資料館に、さびていまにもこわれそうな三輪車と鉄のかぶとが展示されております。この三輪車と鉄のかぶとの持ち主が、鉄谷伸一(てつたに・しんいち)ちゃんという男の子でした。


伸一しんいちちゃんは当時3歳でした。この伸一しんいちちゃんのお話は、絵本にもなりました。

伸一しんいいちゃんの一家は、お父さん、お母さん、おばあちゃんに、しんちゃん、お姉さんの路子(みちこ)ちゃんと生まれたばかりの妹の洋子ちゃんの6人家族でした。

8月6日、伸一しんいちちゃんの家は爆心地ばくしんちから1500メートルほどしか離れていなかったので、爆風ばくふうで家がこわれてしまったのです。伸一しんいちちゃんのお父さんは、伸一しんいちちゃんのお母さんを助けるのがやっとでした。

伸一しんいちちゃんは庭で三輪車にのったまま被ばくをしたのです。庭でたおれていた伸一しんいちちゃんを、たまたま外に出ていたおばあちゃんに助けられました。


けれど、伸一しんいちちゃんは、原爆の熱線のためにひどいヤケドを負い、その日の夜に亡くなりました。

伸一しんいちちゃんのお父さんは、3歳の子どもを一人でおはかに入れてはさみしいだろうと思い、大好きだった三輪車と一緒に、自宅の裏庭に伸一しんいちちゃんのなきがらをうめたといいます。

伸一しんいちちゃんといっしょに遊んでいて死んだ近所の女の子と手をつながせ、三輪車と共に庭にうめました。

それと、お姉さんの路子(みちこ)ちゃんと洋子ちゃんも原ばくで亡くなったそうです。

原ばく投下から40年後の1985年の(昭和60年)の夏、お父さんは、伸一しんいちちゃんのなきがらを庭からり出して、お墓に納めたそうです。




※ おまけ


今日は平和へのいのりをこめて合唱曲「折り鶴 おりづる 〜 平和への祈りを込めて 〜 」を。










※ 参考文献









広島に原ばくが落ちたのが昭和20年8月6日、8時15分だといわれております。8時16分だという説もありますが、いづれにしても、朝っぱらであることはまちがいありません。

8時15分前の広島の様子は、「原爆の子」という本によると平和そのものだったそうです。外で川に泳ぎに行ったり、おばあちゃんとお寺参りをしたり、部屋でのんびりとていたり、そんな感じだったようです。


そんな戦時中とは思えぬようなのんびりとした光景が、8時15分後に地獄(じごく)の光景にかわってしまうとは、当時の広島の人たちは夢にもおもわなかったことでしょう。

とはいいましても、昭和19年以降にちょこちょこと空しゅうがあったようです。また、8月5日の深夜に空しゅう警報けいほうがありました。ただし、このときはどういうわけか、空爆くうばくはなかったようです。



夜中に空しゅう警報けいほうがあったので、市民は深夜にもかかわらず、防空壕ぼうくうごう逃>げ込んだといいます。そんなこともあって寝不足ねぶそくの市民もいたようです。

そして、夜が明けた午前7時ごろには、今度は警戒警報けいかいけいほうがなります。

その当時の様子を『原爆の子』(げんばくのこ)にのっている女の子の作文から引用します。



私は八月五日の晩のく空しゅうでぼうくうごうに入ったまま、朝になるのをまっていました。いよいよ朝になっても、空しゅうはやみません。(略)すると、けいかいけいほうになったので、すぐぼうくうごうから出て家に帰りました。



警戒警報けいかいけいほうのサイレンがなったので、すぐいつものように防空壕ぼうくうごうに入っていたら、まもなく警戒警報けいかいけいほう解除になり、僕は防空ずきんを放り投げて遊びにでかけた。


ところで、文中に警戒警報けいかいけいほうと空しゅう警報いう言葉が出てきますが、両者はそれぞれちがうようですね。調べによりますと、敵の航空機が近づくと、警戒警報が出るそうですね。それで、空しゅうのキケンが予想されると空しゅう警報が発令されるそうです。

空しゅう警報は危険度が高く、警戒警報のほうが危険度が低いということですね。

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/testimony/02_1words/testimo02_1_05.html#(参考サイト)

警報が解除されたので、広島の人々は安心して防空壕ぼうくうごうの外に出て行ってしまったのですね。もし、警報が解除されなかったら、防空壕ぼうくうごうの中にいた人たちは助かったかもしれません。



そして、8時15分。運命の時間がやってきます・・・





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