今年の7月に安倍晋三元総理が殺されてしまったのですね。あまりに衝撃的な事件でして、僕も非常に驚きました。政治家が殺される事件はいつの時代にもありましたが、令和の時代になって起こるとは夢にも思いませんでした。政治家が殺されるのは大正から昭和初期に頻発しておりました。現職の総理さえ殺されることもありました。その人の名は、原敬。原敬は1921年11月4日に東京駅で刺されてしまったのです。警察が警備していたにも関わらず、犯人に刺されてしまったのです。右肺から心臓にまで小刀が刺さってしまったのです。警察や駅の職員たちは、すぐに医者をよんだのですが、間に合わず原は息を引き取ったのです。原が最後に残した言葉は、

「東京駅には1日どのくらい人が乗り降りするのですか❓1日の収益はどれくらいですか」

これは東京駅の駅長に尋ねた言葉です。原の周りに駅長と駅の職員、それから少し原から離れたところに警察が警備していた。そんな状況の中で、原は殺されたのですね。

犯人の名は、中岡艮一。鉄道省山手線大塚駅の職員でした。中岡は「この国賊!!」と言って原を刺したのです。中岡は、前日の新聞で、原が京都に行くため急行列車に乗車予定だと知ったのですね。それで、原のことを待ち伏せしていたのです。原は国賊呼ばわりされるほど、酷い政治をしたのでしょうか❓

いえいえ、原は平民宰相と呼ばれ、思い切った政治改革を行った人物です。しかし、原は堅実なマキャベリトで、パフォーマンスに頼るような政治家ではありません。そのため、誤解されることも多く、庶民の怒りを買ってしまったのですね。パフォーマンスに頼らない実務型の政治家というのは、いつの時代もあまり正当に評価されないのですね。原も総理になった当初は平民宰相ともてはやされたのですが、その期待の大きさの反動から、庶民の怒りもデカかったのですね。そういう意味では原は気の毒だったと。

原敬は、1856年、岩手県の今の盛岡市に生まれました。原敬の家は、盛岡藩の家老を輩出する名家でしたが、戊辰戦争で、盛岡藩は幕府の味方をしたので、朝敵、賊軍扱いだったのですね。戦争後、原家も没落したのですね。家禄も維新後はそれまでの10分の1まで減らされるほど。原敬も勉学で身を立てようと、上京して英語塾に通ったり、中江兆民がやっていた仏学塾に通ったりして、語学を学んでいたのです。そして原は郵便報知新聞社に入社しました。入社当初は翻訳の仕事でしたが、次第に記事も書くようになったのですね。そして原は井上馨の知己を得て、外務省にヘッドハンティングされたのですね。成功するためには人脈って大事なんですね。

それから原は政治家になりたいと思うようになり、立憲政友会に入ったのですね。そして62歳で総理大臣になれたのですね。それまで薩長藩閥が日本の政治を仕切っていたのが、賊軍の出身で、平民上がりということで、就任当初の原敬は国民の絶大な支持を受けていたのですね。原は、株価を安定させたり、教育改革をしたり、衆議院選挙の制度を改正して、それまで十円の税金を払っている男子しか選挙権がなかったのを、三円に引き下げたり、軍縮をおこなったりと積極的な政治改革を行ったのです。

へえ、結構いいことしているじゃん、なんで国賊よばわリされ殺されたの❓と思いますよね。実は、原敬は税金を払わなくても男子なら誰でも選挙権が得られる普通選挙に反対していたのですね。普通選挙を求める人たちは当然、原に反発。これは原がケチだったり、民主主義に理解がなかったからではありません。実は原は普通選挙には理解を示していたのです。でも、原は国民のほとんどが政治というのを理解していない状況だ、普通選挙を今の時点でやったら、それこそ愚民政治になって危険だと思ったのですね。それこそ、パフォーマンスと口ばかりで何もしないような政治家が有利になってしまう。あるいは危険な思想を持った政治家が当選する恐れもある。実際の政治というのは、すぐに成果が出るもんじゃないし、地味な仕事の積み重ねなんですね。そのことを理解できる人は当時は少なかったのですね。

さらに原にとって不幸だったのは、株価の暴落から始まった不況、さらに南満州鉄道資金提供疑惑(原率いる政友会の政治家が関わった)、アヘン密輸疑惑(※1)という汚職や疑惑が国民の反感を買ったのですね。こうした疑惑はマスコミが大々的に報道。人々は「原はとんでもないやつだ!けしからん」って思ったのですね。そういうマスコミの加熱した論調に、中岡も共感したのかもしれない。さらに悪いことに1920年には官営八幡製鉄所で大規模なストライキが起き、原は警察や憲兵を使って、それを鎮圧し、250人もの職工が解雇されてしまったのですね。原は庶民に厳しく、身内に甘いという評価をされてしまったのですね。実際の原はマキャベリストで、慎重にかつ着実に政治を行っていくタイプ。こういう政治家は、政治家としては非常に優秀で、むしろ今の日本に必要なくらいなんですが、こういうタイプの政治家は概ね庶民から人気がないのですね。大した成果を上げなくても、見たくれとか、パフォーマンスばかりに頼る政治家の方が軍配が上がってしまう。

そうした原に対する世論の反発、マスコミの影響で平民宰相•原に対する憎しみが中岡の心の中でフツフツと湧いてきたのですね。

それでは中岡の生い立ちについて。中岡の実家は土佐藩士で、土佐藩は、明治維新では薩長土肥の一因として重要な役割を果たしました。まさに明治維新の勝ち組です。中岡も成績も優秀で、うまくいけば官僚になって政治家になれたかもしれない。ところが、父親が大病し、中岡の家は没落。それで原は家族を養うために印刷会社で働くのですね。そして父の死後、中岡は転職し、鉄道省山手線大塚駅で働くことになったのですね。鉄道の仕事は激務で、ほぼ24時間勤務。そのうち休みは3時間だけ。その3時間は仮眠時間。当時は労働三法とか36協定なんてない時代でしたからね。大変だったと思います。しかも給料は安くて95銭。今の価値に直せば15万円。労働時間の割に安すぎですね。これじゃあ不満も高まりますね。ましてや中岡は土佐藩の出。中岡の目から見た原は、「賊軍の出のクセに総理になるとはとんでもない、しかも大した政治をやっていないじゃないか」って感じだったのでしょうね。

中岡は単独犯とされておりましたが、中岡をそそのかした人物がいたのではないかってウワサも当時からありました。その黒幕の名前として噂にあがったのが、頭山満。彼は福岡で玄洋社という結社を作り、アジア主義を掲げました。日本が中心になって西洋列強と戦おうというもの。いわゆる大アジア主義です。その頭山と中岡は知己だったのですね。原内閣は、第一次世界大戦後の国際協調の動きに合わせ、軍縮をおこなったのですね。そのことに頭山たちは反感を持ったのですね。これから軍備を整え、列強と戦わなかきゃいけないのに、西洋列強のペースに乗っかるとは何事かって。

それで頭山は中岡を唆し、原を殺させたのだと。中岡は事件後、頭山を頼ったといいますし、中岡も裁判では検察側は死刑を求刑したのですが、なぜか無期懲役、さらに恩赦が出て11年三ヶ月に刑期が減ったのです。そして、あろうことか中岡は満州に渡り、陸軍司令部の職員にまで主任にまでなったと。考えられます❓安倍総理を殺した犯人が、減刑され、自衛隊に再び入って管理職になったようなものです。そんなおかしなことが戦前、戦時中はまかり通っていたのだから、そりゃ日本は無茶な戦争をするわけだって思いましたもん。中岡が陸軍の職員になれたのは玄洋社の働きかけもあったのかもしれない。玄洋社は政界や軍部に大して大きな影響力を持っていましたから。

原の話に戻します。実は原は殺される前から、度々脅迫状が届いていたのですね。原は命の危険を感じて、遺言書を生前に書いていたのです。そこには「葬儀は生まれ故郷の盛岡で質素に行うこと」と書かれておりました。変わり果てた原は盛岡に運ばれましたが、その時、3万人もの人々が沿道に詰めかけ原の死を惜しんだといいます。葬儀は実に質素に行われました。原の妻の浅も健気に夫を見送ったとか。実は、腹が殺された当日、妻の浅は原敬に「今日は寒いから厚手のオーバーを着ませんか」って勧めたのですね。それを原敬は、大丈夫って拒んだのですね。もし原敬が妻のいうことを聞いて厚手のオーバーを着ていたら、そこまで深傷を負わず助かっていた可能性がありました。

原敬の死後、政友会はバラバラになり、政党政治は弱体化。それに伴い軍部が力をつけてきて、5•15事件、2•26事件と政府の要人が殺される事件が次々起こり、日本は危険な道をたどってしまうのです。

※この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。








※1 原がアヘンの密売をやっていたのではなく、拓殖局(満州など植民地経営に携わった役所)の長官の指図というウワサが立つ。その長官が原の側近だったので、原は避難されたのですね。