history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:勝海舟

氷川清話 (講談社学術文庫)
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1 中国との戦争に反対した勝海舟

明治のころは、朝鮮半島ちょうせんはんとうをめぐって日本と中国(しん)がはげしく対立し、両国は戦争になってしまいました。。でも、勝海舟(かつかいしゅう)は日清戦争を反対していたそうです。(日清戦争)。


2 氷川情話より


 ”かちうみぶね”じゃなかったw勝海舟がどんな事を言っていたか?それは、『氷川清話』(ひかわせいわ)に書いてあります。以下「『氷川清話』より引用します。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟ケンカだもの。犬もはないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国のやつらが分からぬに限る。支那しなの実力が分かったら最後、欧米おうべいからドシドシしかけてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」


「一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客こきゃくサ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。」


3 勝が心配していたことが現実に


 勝海舟が心配していたことは、日清戦争後に現実のものになります。日清戦争(下関条約しものせきじょうやく)で手に入れた遼東半島りゃおとんはんとうはけっきょくロシア・ドイツ・フランスが間に入って中国に返すようになったし、ロシアも朝鮮半島のちかくまで南下してしまいます。

昭和に入ってからも、日中両国の関係は悪化するばかり。そうしておきたのが日中戦争です。日本は「中国なんて弱い、ラクショーじゃんw」と思っていたようですが、実際は戦争はドロぬま化します。元日本兵だった男性は中国兵のことを「強かったですわ」と語っております。

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日清講和記念館。ここで下関条約が行われた。山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という旅館にある。

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日清講和記念館の中。実際に条約が行われたところ。


オマケ
 
今日は日本だけでなく、中国の人にも人気のある谷村新司さんの歌を。曲は「すばる」。中国では「星」という題で親しまれています。

谷村新司さんは、中国の人にとても尊敬されていて、「日中友好の使者」だと絶賛ぜっさんされています。




http://www.youtube.com/watch?v=4_UXWMwq03Q
(映らなかったらごめんなさい)

また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ。 

意味深な勝海舟の言葉

氷川清話 (講談社学術文庫)
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今年もあとわずか。今日取り上げるのは勝海舟(かつかいしゅう)。

”かちうみぶね”じゃありませんよw、”かつかいしゅう”ですから。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」で勝海舟の事を取り上げられました。勝海舟の功績は西郷隆盛(さいごうたかもり)と会談し、江戸の町を戦火から救った事です。明治維新めいじいしん後も勝海舟は、旧幕臣ばくしん面倒めんどうを見たり、ご意見番ごいけんばんとして活やくしたそうです。

勝海舟は21世紀の現代に通じるような?事を言っていました。その言葉の数々を取り上げます。





  • 「行政改革という言葉。よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。全体改革という言葉公平でなくてはいけない」


  • 「大きいものからはじめて小さいものを後にするといいよ。言いかえれば改革者が一番に自分を改革するのさ」


  • 「帰り道に裏店社会うらだなしゃかい(※1)へ立ち寄って不景気の実情を聞いたが、この先四、五日の生活が続こうかと心配している者があちこちにあったよ。今の政治家には、こんなささいな所まで注意する人はあるまい」



  • 御前ごぜんとか閣下かっかとか、そんなおべっかばかり聞いておらずに、大臣なども少しは江戸えどっ子のかざり気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」



『氷川清話』(ひかわせいわ)より



なんだか、いまの政治家たちに聞かせてやりたい言葉ですなあw

改革、カイカクといいながら、権力におぼれ堕落だらくしていく政治家は明治時代にもいたことがわかります。

明治時代というとすごくはなやかなイメージがありますが、庶民しょみんが苦しい思いをしました。それに足尾鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)など公害事件もありましたし、製糸工場の女工さんも苛酷かこくな労働を強いられていました。そうした庶民の犠牲ぎせいの上に成り立っていたのが明治という時代でした。明治政府の政治のあり方や社会のムジュンを勝海舟は苦々しく思ったわけです。

そういったムジュンを抱えたまま、明治、大正、昭和へと時は流れ、やがて日本は戦争の道を進んでんでいきます・・・






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