吉原では、人気の太夫や花魁おいらんの名前(源氏名げんじな)は、その見世の遊女に代々受け継がれます。そう、落語家や歌舞伎俳優のように。

有名どころでは、三浦屋の高尾太夫。吉原誕生以前の寛永期から、延享期まで120年間、11代(7代という説も)にわたり続いた名籍で、「仙台高尾」「榊原高尾」など大名とウワサのあった花魁もいました。

今日取り上げるのは仙台高尾(2代目とされる)。

仙台高尾は、万治期に仙台藩主の伊達綱宗(だてつなむね)に見初められ、自分の体重と同じ額、20貫(約75キロ。数億円に相当、八貫分の衣装、装身具もふくむ)もの大金で身請けされましたが、仙台高尾にはほかに好きな人がいたので、最後まで伊達綱宗に心を許すことはなかったそうです。

俗説では、自分に心を開かない仙台高尾に綱宗は激怒し、舟の上で惨殺したともいわれています。

ちなみに、綱宗は遊郭通いが原因で幕府から隠居されてしまいます。これが有名な伊達騒動です。伊達騒動は、山本周五郎の『樅の木は残った』(もみのきはのこった)
でも書かれています。






※ おまけ
仙台高尾を祀る高尾稲荷神社は東京の中央区にあるそうです。



※ 参考文献