History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:五日市憲法

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1935267.html
(五日市憲法 その1)


http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2248461.html
(五日市憲法 その2

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1936039.html
(五日市憲法 その3)


今日で、五日市憲法のお話はおしまいです。千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)や深沢権八(ふかざわごんぱち)が中心になってつくられた五日市憲法が、どのような内容だったかについてまとめておきます。

天皇陛下てんのうへいかこそエライ」という感じだったようです。

欧米諸国おうべいしょこくの人権や政治システムに深い感銘かんめいを受けている千葉たちですが、それでも五日市憲法は「主権は天皇にある」と書かれています。千葉ら民権家たちは、「悪いのは薩長藩閥さっちょうはんばつであり、天皇陛下は悪くないんだ!と思っていたからでしょうか?

五日市憲法には国帝こくてい(天皇)は、刑事裁判けいじさいばんをやり直す権利がある」とか、「天皇は、軍隊に対する統帥権とうすいけんと、外国に対する外交権をもつ」と書かれています。

天皇は三権分立から独立していて、国会の決議に対する拒否権きょひけん、裁判にも口出しをすることも、軍隊を動かすことも、外交も自由だということでしょう。国会で決めた事も、天皇陛下が「イヤだ」といえば、その案件はボツにしていいと。


五日市憲法には国会は二院制にすべきとも書かれています。今の日本も二院制ですが、五日市憲法の場合はとちがいます。

五日市憲法では民選議員と元老院の二つから成り立つと書かれています。民選議員では選挙で選ばれる議員さんですが、元老院は天皇が議員を選び定員40名、しかも定年なしです。また、先ほど天皇は国会の決議を「イヤだ」という権利があると書きましたが、国会も天皇や総理大臣が人権を侵害しんがいするようなひどいことを言ったら、「え、それはちがうんじゃないの?」って助言をしたり、修正を加えたりする権利も五日市憲法に盛りこまれています。たとえば、天皇や総理大臣が生類哀れみの令しょうるいあわれみのれいを復活させようとしたら、国会はノーということもできると。

五日市憲法草案に書かれた国会のあり方は、明治憲法とさほど変わらないのですが、少なくとも人権については進歩的です。


「人間は生まれながらにして自由で平等であり、これは後から人間(権力)が法をつくって差別・抑圧よくあつしようとしても侵す事は出来ない」というのが、五日市憲法の基本的なスタンスだそうです。

また、「大日本帝国憲法」では「国民」という言葉は使われておらず、「臣民しんみん」(※1)と書かれていますが、五日市憲法では「国民」という言葉が用いられております。


国会などの政治機構に対する考え方はウヨ的だが、人権に対する考え方は左というのが五日市憲法草案の特徴とくちょうのようですね。だから、五日市憲法草案は、「進んだ人権保障、おくれた統治機構」と批判される事もあるようです。

しかし、20〜30代の若者が国家のあり方を心配し、自分なりに憲法を考えて、行動を起こそうとした姿勢はすごいなと思いました。

※1 天皇につかえる者


※ オマケ


五日市を舞台ぶたいにした映画もあるみたいですね。



(『五日市物語』の予告編

五日市物語 [DVD]
遠藤久美子
ビクターエンタテインメント
2012-06-08




※ 参考文献

「郷土あれこれ」(あきる野市の教育委員会が発行しているパンフレッド)

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2248461.html
↑ 前回の内容

今日は、五日市憲法いつかいちけんぽう作成に大きく関わった深沢権八(ふかざわごんぱち)のお話を。

深沢権八はとっても頭がよく、15さいで深沢村(※1)の村長になった人です。15歳で村長とはすごいですね〜。


深沢権八の父親も深沢村の実力者で、前回の記事にも登場した千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)のパトロンでした。深沢権八は、千葉卓三郎とともに五日市憲法作成にかかわりました。また、深沢権八は千葉に大変なシンパシーをいだいていました。

千葉卓三郎が31歳の若さで亡くなった後も、深沢権八は民権運動を続け、明治17年8月25日には板垣退助(いたがきたいすけ)を東京の青梅おうめまねいて自由党の懇親会こんだんかいを開きました。その懇親会には200名ほど集まったそうです。明治18年1月に国会開設期限短縮建白書こっかいかいせつきげんたんしゅくけんぱくしょ元老院げんろういんに提出、さらには明治23年には29歳の若さで神奈川県会議員になります。深沢権八はやり手だったみたいですね。

しかし、深沢権八は議員になってまもなく、29歳の若さで亡くなってしまいます・・・

また、権八には”かね”という妻と、二人の娘がいました。

深沢権八はノートを書きとめていました。そこには本や新聞、雑誌の切りぬきや自分の考えが書かれていました。彼のノートからは、日本も欧米おうべいの様に人権を守るべきだという主張が読み取れるそうです。リベラリストだったようですね。

その一方で、国家主義者とまではいきませんが、日本が諸外国に負けないような強い国になってほしいとも願っていたようです。

たとえば、「明治20年に蚕糸(さんし)の産額(さんがく)が大きくびた」と自分のノートに赤い字で書かれているそうです。

蚕糸といえば、深沢家は専用の蚕室さんしつ(※2)があり、養蚕で結構もうけていたのです。それにもかかわらず、権八にとってうれしかったのは、自分の家が養蚕でもうかったことよりも、日本の主要産業である蚕糸が伸びたことだったようです。

ところで、深沢権八は、新聞のある記事に注目し、その記事を自分のノートにせていました。それは、京都府庁で大量の人員整理にあい、クビになった元職員が再就職の紹介しょうかいを知事にたのんだが、知事は「ダメだよ」といって断った事件です。

さらに記事に載っている知事のコメントを権八はノートに書き写していました。それは



ムシ餓死ガシスルモ依頼心イライシンヲ起コシ人二頼テ事ヲサント思ナカレ、コノ一言ヲ記憶キオクセバ紹介ショウカイヲ待タズシテ立身リッシンスルベシ」。 


これは宇宙語ではありませんwむずかしい言い回しですが日本語です。ようするに「人にたよるな!自分で何とかしろ!」ということです。

しかし、自分で何とかしろとは言っても、当時は松方デフレの真っ只中まっただなか不況ふきょうで、人々は苦しんでいる状況でした。リストラされた元職員達も、はじをしのんで、知事に「ここで働かせてください」と頼んだのでしょう。生活のため、家族のため。

さて、深沢権八は、この知事の言葉についてどの様に思ったのでしょうか。自分のノートに書き写したくらいですから、権八にとって何か思う事があったと思われます。

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深沢屋敷ふかざわやしきの入口)


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(五日市憲法が出てきたといわれる深沢屋敷の蔵)


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(深沢屋敷の説明文)



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(かつての深沢家の母屋。この母屋は小金井市の某会社に買い取られ、建物ごと移築したという)

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深沢屋敷ふかざわやしきのおとなりにあるお寺)

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(同じく、深沢屋敷のおとなりにあるお寺)


次回は、五日市憲法の内容について語りたいと思います。(↓)

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1936787.html




※1 現在の東京都あきる野市深沢あたり
※2  蚕(かいこ)を飼う部屋。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1935267.html
↑ 前回の千葉卓三郎とはどんな人物だったのでしょう?彼は旧仙台藩藩士せんだいはんはんし息子むすこでした。11さいのときに大槻 磐渓(おおつき ばんけい)という漢学者から学問を教わりました。

戊辰戦争ぼしんせんそうがおこると千葉は志願して仙台藩の兵士になりました。千葉が16歳のときです。しかし、仙台藩は新政府軍との戦いに負けてしまいます。

千葉が途方に暮れていたところに、運命的な出会いをします。キリスト教の布教をしていた酒井驚礼(さかいとくれい)です。千葉は酒井の話を聞き、目の前が開けたような気がしました。キリスト教の「人はみな平等だ」という教えに、感激したのでしょう。千葉は酒井のすすめで洗礼をうけました。

それから千葉は各地をわたり歩き、様々な学問を学び、一時は商人にもなったのですが、やがて五日市の五日市観能学校いつかいちかんのうがっこう(※1)の先生になりました。

千葉が五日市にきたころ、五日市に「学芸講談会がくげいこうだんかい」という学習結社が発足しました。この学習結社のメンバーは、神奈川県の県議会議員・土屋勘兵衛(※2 つつやかんべえ)の子分だった若者達が中心に、教師や役場や商店で働いている人たち、畑仕事をしている人たちまで参加しました。この若者達のなかに深沢権八(ふかざわげんぱち)という人物もいました。

千葉もこの学習結社に参加し、討論会とうろんかいをやったり、名の知れた民権家を呼んで講演こうえんを開いたり、本を読んだりしたそうです。

千葉は深沢権八らとともに五日市憲法草案いつかいちけんぽうそうあんをつくるためにはげみました。千葉卓三郎は、その草案を明治14年の10月の初旬に開かれる国会期成同盟(※3)の第三回全国大会に持ちよろうとしたのでしょう。

深沢と千葉たちは第三回全国大会に何とか間に合わせようとせっせと草案作りにはげみました。しかし、残された時間はあまりありません。そんな草案づくりと教師の仕事との二足のわらじをやっていた千葉ですが、突然とつぜん、千葉は五日市観能学校を退職たいしょくしました。これは憲法草案づくりに集中するためでもありますが、政府の通達つうたつ(※4)があったからだと思われます。

そして、千葉は「学校をやめた身で、これ以上五日市にとどまることはできない」と五日市を去りました。これには学芸講談会の仲間たちもおどろきました。特に深沢権八は、千葉のことを兄のようにしたっていたのでショックが大きかったようです。

千葉は東京府多摩郡奈良橋村とうきょうふたまぐんならはしむら(※5)に引っ越します。ここでも千葉は「どうしたら、すばらしい日本の憲法ができるか」を考えていました。千葉は新しい仕事につくことなく、ひたすら資料とにらめっこをし、条文を書いては手直し、そんなことをり返していました。

そんな千葉に良くないことが起こりました。それは明治14年の10月12日に政府が国会開設のみことのりが出てしまったのです。詔の内容は「欽定憲法きんていけんぽう(※6)を制定し、明治23年に国会を開くことを約束するよ」という内容です。

「なんだ、いい事ジャン」と思われるかもしれませんが、実はこの詔「オレたち(政府)が、天皇陛下の名のもとに憲法をつくってやっから、おマイら(民間の者)は、憲法草案なんかつくるんじゃねえ、政治活動なんかすんな」と言っているようなものです。

草の根の民権運動を行ってきた千葉にとってありがたいことではないのです。千葉だけでなく、日本各地でつくられた憲法草案は、検討けんとうされる機会も失いました。

このころ、千葉の体調も悪くなっていきました。千葉の病気は肺結核はいけっかくでした。明治のころの結核は不治の病でしたから・・・・

そんな千葉のもとに五日市から手紙がとどきました。深沢権八からです。手紙の内容は「五日市観能学校の校長になってほしい」というものでした。深沢をはじめ五日市の仲間たちが千葉の帰りを待ち望んでいたのです。持つべきものは友だちだねと言いたいところですが、千葉の病気は悪くなるばかり。それでも校長の仕事をなんとか続けていきました。

そして、千葉は明治16年に東京の病院で亡くなってしまいます。深沢ら仲間たちに見守られながら31さい生涯しょうがいでした。・・・・

さらに、千葉たちが必死になって作った憲法草案も深沢家の土蔵どぞうにおくら入り。戦後に憲法草案が発見されるまで、五日市憲法は日の目を見なかったのです・・・


※1 いまの東京都あきる野市立五日市小学校
※2 五日市の戸長をつとめた人物。戸長とは、今で言う市長みたいなもの。土屋はのちに神奈川県会議員も勤めた。五日市も昔は東京ではなく神奈川県だったとか。
※3 明治時代に日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社。自由党の母体ともなった。
※4 「公立学校の教職員を官吏かんり(役人)と同等のあつかいにする」とう通達。一見いいことを言っているようだが、公立学校の教職員に政治活動をできなくするための意図がこめられている。
※5 現在の東京都東大和市

※6 天皇がさだめる憲法のこと
※ 参考文献


今日から、4回にわたって五日市憲法いつかいちけんぽうのお話をします。
五日市憲法とは、東京の五日市(※1)の民権家みんけんかたちがつくった憲法草案けんぽうそうあん(憲法の下書き、原案)のことです。今日は憲法のお話を続けましょう。




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