
(中島知久平の写真 ウィキペディアより)
1 中島知久平について
まずは、中島知久平の経歴を簡単に。1884年に知久平は群馬県の農家に生まれました。海軍に入っていましたが、民間による飛行機づくりを実現させたくて、海軍をやめて、中島飛行機を設立します。その中島飛行機はぐんぐん成長して、三菱に負けないくらいの大会社になりました。
それから、政界に入ります。鉄道大臣になったり、政友会という政党の総裁(※1)にもなりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3
※1 政党・銀行・公社などの長として、全体を取りまとめる職務。また、その人
2 中島知久平の先見の目
中島知久平の長所はなんといっても先見の目があるところです。
たとえば、日本は日露戦争でロシアのバルチック艦隊をやっつけた成功例から、巨艦信仰(※2)が根強かったのです。そんな中でも知久平は「そんな事をしていては、やがて行きづまる。能率的軍備に発想を切りかえ、一艦隊(軍艦八隻)を作る費用で八万機の航空機を作るべし」という建白書を何と大正3年に書いていたのです。
飛行機の必要性だけでなく、自動車の時代が来る事も知久平は見通していました。知久平は部下にこのようなことを言っております。
「中島飛行機は、戦争に勝っても、負けても、いずれはつぶれる。勝てば飛行機はこんなに要らない。そうなったら、低馬力の自動車工場にするより仕方がないだろう。」と。
戦後、中島飛行機の後身である富士重工業もプリンス自動車も自動車を造るようになりました。昭和30年代に富士重工業がスバル360を造ったエピソードは以前にも取り上げました。

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/1953735.html
戦時中に自動車の時代が来ることを見通していたとは、知久平の先見の明にはおどろかされます。
※2 大きな軍艦を重んじること
3 大型爆撃機を生産せよ
さらに戦局にややかげりがみえ始めた昭和17年後半、知久平は「アメリカ空軍が日本本土を爆撃してくるはずだから気をつけよ」と軍部に警告しました。
その<対策として知久平は大型爆撃機を造ることを軍部に言いました。
「日本もアメリカに優る大型爆撃機を生産して、これによってまず日本本土をねらう敵基地を大型爆弾によって使用不能にする事が先決である」と。
が、石頭ばかりの軍部は、知久平の言っていることをシカトしました。
けっきょく軍部は戦闘機の価値をさほど認めようとはせず、戦艦大和や武蔵に代表されるような大きな戦艦を重んじてしまいます・・・
知久平の意見をすなおに軍部が聞いていれば、日本の大空しゅうや原ばくの悲劇は無かったのではないかと思われました・・・
他にもソ連が日本を攻めてくるという事も知久平はわかっていました。ソ連とドイツがスターリングラードで一進一退(※3)の攻防をしている時こそ、ソ連を後方から撃って、ドイツを助けるべきだと知久平は軍部に言いました。
けれど、中島の案は受け入れらませんでした。それどころか、ソ連は日ソ中立条約(※4)を破り、当時日本の支配に置かれていた満州に攻め込みます。
※3 進んだり退いたりすること。また、事態がよくなったり悪くなったりする状態。
※4 1941年に結ばれた。お互いに戦争は止めましょうという約束事
4 正しいことをいった中島知久平が命をねらわれる?
しかも知久平は右翼から命を狙われたそうです。まちがった事を言って右翼ににらまれるのなら、ともかく、正しいことを言っているのに命を狙われるなんてヒドイなと思いました。
知久平は軍部に対してもどしどし意見を言うので、軍部から嫌われてしまったのではないかと考えれます。いくら正しいことを言っても、世間で受け入れられるとは限りませんし・・・
逆にバカでも声が大きい人の意見が通ってしまうことだってあるだから、世の中イヤになるw?
中島知久平の様な人を生かせなかった事も、日本の敗因のひとつではないか?と僕は勝手に思ってしまいます・・・
※ おまけ
今日は中島飛行機の後身会社のひとつ富士重工業のCMを。とっても良いCMです。ちなみに、スバルが好きな人をスバリストと言いますが、わが家もスバルを愛用していました。
※ 参考文献