History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:中島知久平

1 自動車がすでに走っていた

 中島飛行機の中島知久平は、社員に「これからは自動車の時代がくる」と言っていました。中島飛行機といえば主に戦闘機を作っていましたが、そこの社長が自動車の時代がくると予言していたのです。ちなみに中島飛行機の後進が自動車メーカーのSUBARU。かつては富士重工株式会社と言われておりました。戦後になってから車のスバルを造りました。自動車というと戦後のイメージが僕にはあったのですが、すでに戦前から日本では自動車が走っていたのですね。日本にはじめて自動車が入ってきたのは明治の末期だといいます。



それが大正十年代には2万台を超えたといいます。



しかし、車の数が増えたということはよろこばしいことばかりではありません。交通事故も増えました。1926(昭和元年)の交通事故死は175人、負傷者は9679人でしたが、1935年(昭和10)には死亡者525人、負傷者は1万8684人と急増しているのですね。

また、戦前は外国の車が多かったといいます。それでも、明治三十七年には山羽虎夫という人物が蒸気自動車を、明治四十年には内山駒之助という人物もガソリン車を造ったそうです。彼らだけでなくトヨタや日産も国産車の製造にとりくんでいました。



2 タクシーがふつうに使われていた

  1912年(明治45年)8月5日、日本にタクシーが登場しました。タクシー自働車株式会社という会社がタクシー業を始めたのです。数寄屋橋すきやばしのかたわらに本社を置き、6台でスタートしました。



初乗り料金は最初の1マイルが60銭、以後1マイル毎に10銭増しであったといいます。山手線の一区間が5銭だったことを考えると、タクシーは今も昔も高い乗り物だなって思います。



ちなみに料金メーターもこのころすでに搭載とうさいされていたようですね。

その後タクシーは全国に普及するのですが、当初は料金体系がバラバラでクレームも多くなってきたので、市内を一円で走るタクシーが大阪に登場しました。これを円タクといいます。それは1925年(大正14年)のできごとです。そして、その円タクは東京にも登場するようになりました。


3 電車と市電
 戦前からすでに山手線とか中央線、東海道線、中央線、京浜線など国鉄の電車がありました。これらの電車は沿線の街の発展に大きく貢献しました。例えば、山手線。それまで東京の中心といえば、銀座や浅草でした。それが、山手線開通により、交通が便利になり、それまで郊外だった新宿、池袋、渋谷といったところが商業地として栄えるようになったのですね。他にも山手線周辺にも住宅が次々と生まれたのですね。

国鉄だけでなく、西武鉄道株式会社、京浜電気鉄道、玉川電気鉄道、小田原急行鉄道、京王電気軌道、武蔵野鉄道、東武鉄道などいくつもの私鉄も誕生しました。

これらの電車の開通は、やはり沿線の発展に大きく貢献しました。

小田原急行といえば、「東京行進曲」という歌でも歌われました。その歌の歌詞に「小田急で逃げましょうか」ってあります。小田急(おだきゅ)る」という言葉がはやるほど、この曲は大ヒットしたのです。ところが、この歌詞に小田原急行のお偉いさんがみ付いたのですね。「『小田急』って略すとは何事だ」って。小田原急行が正式名称で、小田急は当時は通称だったのですね。また、「小田原急行が駆け落ち電車とは何事だ」とお偉いさんは怒ったのですね。

それが、のちに小田原急行鉄道の会社名が「小田急電鉄」と改名されると、「よい宣伝になった」と手のひらを返したのですね。「東京行進曲」の作詞家の西条八十サイジョウヤソは終身有効の「優待乗車証」が支給されたのです。

しかし、戦前最も使われた乗り物は市電でした。いわゆる路面電車です。戦前は東京でもあちこち路面電車が走っていたのですね。今じゃ東京に残っている路面電車は、東京さくらトラム(都営荒川線)と、東急世田谷線だけになりました。東京以外だと、結構路面電車が使われておりますね。神奈川県の江ノ電なんてそうですし。僕も鎌倉に行く時ちょくちょく利用します。また、以前に広島に訪れたことがあるのですが、その際、広島の路面電車にはずいぶんお世話になりました。

昭和初期、市電の料金は7銭均一でした。今の物価に換算すると300円ないし400円でしょうか。そんなに安くないのですが、どこまで遠くまで乗っても7銭で、しかも乗り換えも何度もできたので、コスパは悪くなかった。また午前6時までに乗ると片道5銭、往復9銭という早朝割引もあったから、お得です。

4 地下鉄

 昭和2年(1927年)、東京の上野ー浅草間で地下鉄が開業しました。開業当時、上野駅には「はやく乗りたい」と人々が押し寄せたといいます。最近の北陸新幹線が開通し、多くの人たちがし寄せましたが、きっと地下鉄開業したときは、もっと熱気に包まれていたと思われます。なにしろ日本初の地下鉄ですからね。しかも、この地下鉄開業は日本のみならず、アジア、オセアニア諸国でも話題になったといいます。



当時「東洋唯一ゆいいつの地下鉄道」というキャッチフレーズが生まれたほどですからね。



この地下鉄をつくったのが早川徳次(はやかわとくじ)。シャーペンをつくった早川さんと同姓同名ですが、ちがう人です。



この日本初の地下鉄は、やがて新橋まで延びていって、それから東京高速鉄道という会社が開通させた渋谷しぶやー新橋間と鉄路が結ばれました。これがのちの銀座線になるわけです。



銀座線に「三越前」って駅があります。デパートの名前が駅名になってすごいですね。実は銀座線が作られる時、三越百貨店が資金の一部を出したのですね。地下鉄を引いて、駅が店舗に直結すれば、客が増えると三越側が思ったからです。三越の資金提供に応える形で、駅名が「三越前」となったのですね。他の百貨店、例えば松坂屋や高島屋や白木屋も同じように銀座線に資金提供したのですが、その金額が三越ほどではなかったのですね。だから、それらのデパートの店名が駅名に採用されなかったのです。


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(地下鉄の父、早川徳次。シャープ社長の早川徳次とは別人)









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(いづれも当時の地下鉄)



※ 参考文献および参考サイト

http://www.taxi-tokyo.or.jp/100th_anniv/history/index.html









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(中島知久平の写真 ウィキペディアより)


1 中島知久平について 

まずは、中島知久平の経歴を簡単に。1884年に知久平は群馬県の農家に生まれました。海軍に入っていましたが、民間による飛行機づくりを実現させたくて、海軍をやめて、中島飛行機を設立します。その中島飛行機はぐんぐん成長して、三菱みつびしに負けないくらいの大会社になりました。


それから、政界に入ります。鉄道大臣になったり、政友会という政党の総裁(※1)にもなりました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3

※1 政党・銀行・公社などの長として、全体を取りまとめる職務。また、その人

2 中島知久平の先見の目

 中島知久平の長所はなんといっても先見の目があるところです。

たとえば、日本は日露戦争にちろせんそうでロシアのバルチック艦隊かんたいをやっつけた成功例から、巨艦信仰きょかんしんこう(※2)が根強かったのです。そんな中でも知久平は「そんな事をしていては、やがて行きづまる。能率的軍備に発想を切りかえ、一艦隊かんたい軍艦八隻ぐんかんはっせき)を作る費用で八万機の航空機を作るべし」という建白書を何と大正3年に書いていたのです。

飛行機の必要性だけでなく、自動車の時代が来る事も知久平は見通みとおしていました。知久平は部下にこのようなことを言っております。

「中島飛行機は、戦争に勝っても、負けても、いずれはつぶれる。勝てば飛行機はこんなに要らない。そうなったら、低馬力の自動車工場にするより仕方がないだろう。」と。

戦後、中島飛行機の後身である富士重工業もプリンス自動車も自動車を造るようになりました。昭和30年代に富士重工業がスバル360を造ったエピソードは以前にも取り上げました。

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/1953735.html

戦時中に自動車の時代が来ることを見通していたとは、知久平の先見の明にはおどろかされます。

※2 大きな軍艦を重んじること


3 大型爆撃機を生産せよ


 さらに戦局にややかげりがみえ始めた昭和17年後半、知久平は「アメリカ空軍が日本本土を爆撃ばくげきしてくるはずだから気をつけよ」と軍部に警告しました。

その<対策たいさくとして知久平は大型爆撃機おおがたばくげききを造ることを軍部に言いました。

「日本もアメリカにまさ大型爆撃機おおがたばくげききを生産して、これによってまず日本本土をねらう敵基地を大型爆弾ばくだんによって使用不能にする事が先決である」と。

が、石頭ばかりの軍部は、知久平の言っていることをシカトしました。

けっきょく軍部は戦闘機の価値をさほど認めようとはせず、戦艦大和せんかんやまと武蔵むさしに代表されるような大きな戦艦せんかんを重んじてしまいます・・・

知久平の意見をすなおに軍部が聞いていれば、日本の大空しゅうや原ばくの悲劇は無かったのではないかと思われました・・・

他にもソ連が日本を攻めてくるという事も知久平はわかっていました。ソ連とドイツがスターリングラードで一進一退いっしんいったい(※3)の攻防こうぼうをしている時こそ、ソ連を後方から撃って、ドイツを助けるべきだと知久平は軍部に言いました。


けれど、中島の案は受け入れらませんでした。それどころか、ソ連は日ソ中立条約(※4)を破り、当時日本の支配に置かれていた満州にみます。


※3 進んだり退いたりすること。また、事態がよくなったり悪くなったりする状態。
※4 1941年に結ばれた。お互いに戦争は止めましょうという約束事



4 正しいことをいった中島知久平が命をねらわれる?
 
 しかも知久平は右翼うよくから命をねらわれたそうです。まちがった事を言って右翼うよくににらまれるのなら、ともかく、正しいことを言っているのに命をねらわれるなんてヒドイなと思いました。


知久平は軍部に対してもどしどし意見を言うので、軍部からきらわれてしまったのではないかと考えれます。いくら正しいことを言っても、世間で受け入れられるとは限りませんし・・・

逆にバカでも声が大きい人の意見が通ってしまうことだってあるだから、世の中イヤになるw?

中島知久平の様な人を生かせなかった事も、日本の敗因のひとつではないか?と僕は勝手に思ってしまいます・・・

※ おまけ
 今日は中島飛行機の後身会社のひとつ富士重工業のCMを。とっても良いCMです。ちなみに、スバルが好きな人をスバリストと言いますが、わが家もスバルを愛用していました。




※ 参考文献




1 剣(つるぎ)のおそろしい仕掛しか
 「剣」は一言で言ってしまえば、実用化されなくてよかった軍用機だと思います。「剣」の機体の大部分は木製です。(主翼しゅよくはジェラルミンを使いましたが)

まあ、「剣」の試作がされたのが戦争末期で物資が少なかったころですから、木を使うのもやむを得ないといえばやむを得ないのかもしれません。しかし「剣」のおそるべき最大の工夫は、離陸りりくすると車輪が外れてしまうことです。

だから、「剣」でいったん飛び立てば、どこにも着陸することはできません。飛び立った瞬間しゅんかんが「死」そのものだったのです・・・

しかも「剣」の機体の下部が深くえぐられ、そこには大きなバクダンを装着そうちゃくするようになっていたのです。まさに特攻とっこうにふさわしい軍用機です・・・


2 「剣」の試作機を見た学徒がいた

「剣」の試作機をみた、ある理系の動員学徒は、自分の友人がこの飛行機で出撃しゅつげきすることを考え、なみだを流したといわれています・・・

これは100機ほど製造されたそうですが、テストパイロットの結果、陸軍は実戦に使用することを認めませんでした。

それは飛行中、あまりに安定性が悪く、訓練不足くんれんぶそくのパイロットにはとても操縦そうじゅうできないと思ったからです

3 剣は特攻用ではない!!
 一方で、「剣」の設計せっけいに関わった青木邦弘さんは「剣」は「特攻用として造った飛行機ではない」とだんじています。

家庭用の金物までかき集めるような状況じょうきょうで、つくれる飛行機といったら必要最低限の装備そうびにするしかありません。装備が軽い分、早いスピードを出す事ができます。もちろん、この飛行機で敵の戦闘機せんとうきや空母と戦うのはムリでも、軍事物資を運ぶ護送船くらいは攻撃こうげきできるはずです。

さらに青木さんは以下のように語られました。

「激しい空襲くうしゅう下で国家存亡ぞんぼう時機じきが近づいたと感じた一群いちぐん(※1)の若い技術者達が、自分達の持っている唯一ゆいいつの能力(飛行機を造る能力)をふりしぼって必死になって最後の飛行機を設計した。そこには、特攻機などと言う考えは入りこむ余地よちはまったくなかった」


『中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い』より引用



この剣を特攻機として使うかどうかは、それはあくまで軍の判断によるもの、少なくとも現場の技術者達ははじめから特攻用の戦闘機なんて造るつもりはないとの事でしょう。

いづれにせよ、「剣」は実戦で一度も使われることなく、終戦をむかえました。

※1 一つの群れ




※ 参考文献


中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い (光人社NF文庫)
中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い (光人社NF文庫)


武器・兵器でわかる太平洋戦争―科学技術の粋を集めた日米の兵器開発戦争 (学校で教えない教科書)
武器・兵器でわかる太平洋戦争―科学技術の粋を集めた日米の兵器開発戦争 (学校で教えない教科書)


歴史のなかの中島飛行機
桂木 洋二
グランプリ出版
2002-04



中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い (光人社NF文庫)
中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い (光人社NF文庫)

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