history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:上田騒動



1 松平忠順
 上田騒動うえだそうどう(1761年)が起こったころの上田藩うえだはんのお殿様とのさまはどのような人だったのでしょうか?

お殿様の名前は、松平 忠順(まつだいら ただより)といい、上田藩の第3代目の藩主はんしゅです。上田というと真田幸村さなだゆきむらなど、真田家のイメージが僕にはあったのですが、江戸時代の中期ごろには松平家がこの地を治めていたのですね。

忠順は、享保11年(1726年)11月22日、第2代藩主・松平忠愛(まつだいら ただざね)の長男として江戸えどで生まれました。寛延かんえん2年(1749年)に父の隠居いんきょ家督かとくゆずられます。


2 意外にも良いお殿様だった
 
忠順の時代に一揆いっきがおきたのだから、さぞ悪いお殿様だったのだろうと思っていたのですが、実際はちがったようです。むしろ父である忠愛と違って有能で、儒学じゅがくを基本にした積極的な藩政改革はんせいかいかくを目指したそうです。父の時代にすでに藩財政は破綻はたんしていたため、倹約令けんやくれいなどを出したそうです。

しかし民政においては、かなり質の悪い役人が取り仕切って年貢の取り立てをおこなっていたために、結局1761年に一揆(うえだそうどう)が起こってしまったのですね。

忠順は、寺社奉行じしゃぶぎょう(※1)や若年寄わかどしより(※2)などの幕府の役職を歴任しました。

そして天明3年(1783年)2月8日、江戸で亡くなりました。享年きょうねん58才。

※1 江戸幕府の職名。寺社およびその領地の人々などを管理し,その訴訟そしょう受理じゅり裁決さいけつした。
※2 江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職



3 岡部九郎兵衛

 上田藩の家老に岡部九郎兵衛おかべくろべえという人物がいました。彼は上田騒動の事後処理にあたったといわれています。

岡部は農民代表に契約書けいやくしょ(宝暦騒動下げぶみ)を与えて、農民たちをしずめたといいます。

その宝暦騒動下げ文は二通、上田市立博物館に残っているそうです。

http://museum.umic.jp/hakubutsukan/story/matsudaira/cont_matsu/doc_matsu/073.html#1

(宝暦騒動下げ文の)筆の運びが乱雑なことから、緊迫きんぱくした状況じょうきょうの下で、急きょ農民たちのうったえを認めた様子がうかがえます。

しかし、岡部は騒動から2年後の宝暦13年12月に31才の若さで亡くなっております・・・いろいろと苦労があったのでしょうか・・・



※ 参考文献




松平氏資料集(上田市立博物館)

あとウィキペディアも参考にしました。


※ 参考文献




あと、長野県青木村でもらったパンフレットも参考にしました

江戸時代えどじだい信濃国しなののくに(今の長野県)の上田藩うえだはんで起きた上田騒動うえだそうどうという事件をご存知ぞんじでしょうか?

僕はマンガで上田騒動の事を知りました。

この上田騒動は宝暦ほうれき11年(1761年)に起きたので上田藩宝暦騒動うえだはんほうれきそうどうとも呼ばれています。

この一揆いっきは上田藩の民政みんせい根底こんていからるがした大規模だいきぼな一揆です。一揆に加わった農民の数は約一万三千人にのぼるというからオドロキです。

農民たちは、自分たちのくらしを少しでも楽にしたいという思いから立ち上がったのです。今でいえばストライキ、倍返し(半沢直樹かw)みたいなものでしょうか。


一揆ときくと、悪い代官や領主たちが農民を苦しめ、それでいて代官や領主たちは私腹を肥やしているというイメージがあります。

が、当時の上田藩は藩財政はんざいせいも苦しかったという事情もあったようです。(悪い役人もいたようですが)


そのしわ寄せが農民たちにし寄せてきたのです。干ばつなどで不作にも関わらず、上田藩の取り立ては厳しかったのです。農民たちはとてもこまっていたのです。

そんな状況じょうきょうの中で、庄屋しょうや金次郎きんじろう(田沢村たざわむら)、庄屋の太郎兵衛たろうべえ(夫神村おかみむら)、組頭くみがしら浅之丞あさのじょう百姓ひゃくしょう半平はんべいらが密談で計画を練り、一揆をおこしたのです。

農民たちの主な要求は、年貢ねんぐを軽くすること、不正を行った役人をクビにせよなど。

宝暦11年12月11日の夜に、カマ、まさかり、オノなどをこしにさして塩田しおだ村、福田村ふくたに声をかけ、次の日(12日)上田城にしかけたのです。

BlogPaint
BlogPaint
(上田城)

年が明けて宝暦12年、一揆勢の要求はほぼ通り、1か月にもおよんだ騒動そうどうもおさまりました。

しかし、一揆の首謀者しゅぼうしゃである浅之丞と半平が死罪となりました・・・

浅之丞と半平の辞世じせいの句をご紹介しょうかいします。


「散る花は むかしまことの 習いかな」(浅之丞)
「いさぎよく 散るや此世(このよ)の 花ふぶき」(半平)


二人のお墓は青木村にあります。


DSC_1293

(浅之丞の墓)

DSC_1294

(説明版)

このページのトップヘ