「ジェノサイド」という言葉。大量虐殺の意味ですが、この言葉は古くからある言葉ではありません。ギリシャ語の 「geno(ジェノ)」(種族)とラテン語 の「cide(サイド)」(殺戮)の合成語なんですね。この言葉を考えたのは、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン。レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチルのBBC放送演説における「われわれは名前の無い犯罪に直面している」という言葉によると言われております。その名前のない犯罪とはナチスドイツによるユダヤ人虐殺のこと。

戦後、ドイツのニュルンベルク裁判(1945年)で、この言葉が使われました。ナチス幹部が「人道に対する罪」で告発され、 「ジェノサイド」という言葉も起訴状に盛り込まれたのですね。

1948年12月9日、レムキンのたゆまぬ努力もあって、国際連合は、ジェノサイド犯罪の防止と処罰に関する条約を採択したのですね。 それも国連の満場一致で。この条約により「ジェノサイド」は国際犯罪と定められ、締約国は「防止と処罰を行う義務」を負うことになったのです。ジェノサイドが行われた国に、締結国はジェノサイドが行われた国や地域で、虐殺をおこなっている当事者に「そんなことはやめようぜ」って介入する義務があるのですね。こうした条約が結ばれたのは戦前のユダヤ人虐殺の苦い経験があったのですね。

実はユダヤ人がナチスによって虐殺されているという報道は戦前からされていたのです。にもかかわらず、ほとんどの国は黙認し、ナチスの蛮行を止められなかった苦い経験が。戦時中、ヤン・カルスキというユダヤ人収容所に潜入した人物がいたのですが、彼はわざわざアメリカの大統領ルーズベルトに会ったのに、ユダヤ人虐殺の話はロクに聞いてもらえず、ルーズベルトがいった言葉が「我々(連合国)は戦争に勝つ」だけ。つまり連合国にとって戦争に勝つことが大事で、ユダヤ人が殺されようが、なんだろうか関係ねえって態度だったのですね。

また、広島、長崎の原爆もジェノサイドですよね。アメリカのジャーナリストのジョン・ハーシーはこう書いております。

アメリカに対し、何者にも消し難い恨みを抱き続けていく。ある医師がいった。『ちょうど今、東京で裁判をやっています。原子爆弾の使用を決定した連中をあの裁判にかけて、みんな絞首刑にすべきではないか』って」



にもかかわらず、東京裁判では戦勝国の都合のみで、原爆を落としたアメリカには罪に問われることがなかったのは歴史が証明する通り。それどころか、戦争を終わらせるためには原爆投下が必要だったという理屈がアメリカでまかり通っているのですね。ひどい話です。

こうした戦時中のジェノサイドを防止しようと決めたのがジェノサイド防止条約なのですが、戦後になっても、中国とか台湾、カンボジア、イラクなど世界の各地でジェノサイドが行われました。そして、今日取り上げるのは1994年に起こったルワンダ虐殺。


ルワンダ逆殺の始まりは、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1994年にかけ、フツ族中心の政府軍、ツチ族のルワンダ愛国戦線 との間で内戦があったのですね。いわゆる民族紛争ですね。ルワンダにおいて、フツ族は多数派、ツチ族は少数派だったのです。それが激しい対立になったのですね。そして1994年の4月7日から虐殺が始まったのですね。フツ族の民兵が中心になってツチ族及び穏健派のフツ族に対して虐殺をおこなったのです。

ツチ族とフツ族の対立の歴史は1990年代にいきなり始まった訳ではありません。ことの発端は植民地時代からさかのぼります。19世紀末からドイツがルワンダ一帯を支配し、第二次世界大戦後にはベルギーの支配下に置かれたました。。元々フツ族とツチ族は同一の由来があったのに、ベルギー植民地時代に完全に異なった人種として扱われていたのですね。そしてフツ族とツチ族の格差が広がり、双方の不満がどんどん高まっていったのです。

しかし、植民地支配末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起きました。そして、1962年にルワンダ共和国として植民地支配からの独立を果たしました

そして、ベルギー植民地時代の末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起き、1962年にルワンダ共和国として独立。独立したのはよいものの、ルワンダ国内の様々な矛盾が浮き彫りになったのですね。1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のハビャリマナ大統領(フツ族)によるツチ敵視の政策によってますます対立が深まったのですね。1994年4月6日にハビャリマナが突然暗殺されると、重石が取れてしまったのですね。実際、ハビャリマナは独裁政権をしき、ツチ族を敵視していたものの1993年には和平交渉するなど努力もしていたので。

そして大統領暗殺翌日の、1994年の4月7日から始まったジェノサイドは100日にも及び、その間に80万人も虐殺されたと言います。

実はルワンダ虐殺が起こる数ヶ月前から、国連はPKO部隊を派遣しました。しかし、派遣したものの、混乱は治らず、虐殺はひどくなるばかり。虐殺が起こる前から危険を察知していたにもかかわらず。ただ、彼らは手を拱いて傍観するしかなかったのです。これじゃ、PKOがいても無駄ということで、次第にPKO部隊の数も縮小していったのです。特にアメリカは、ルワンダの出来事はアメリカの国益とは無関係ということで、ルワンダの治安安定に消極的だったのです。PKO部隊長だったロメオ・ダレールはこう嘆きます。

私たちはジェノサイドを防ぐことができただろうか。端的に言えばイエスだ。何らかの対応をすべきだということについては、ほとんどの国家は同意していたが、どの国もこの問題に対してすべき国家は自国ではないという言い訳をしていた。本当のところ、このルワンダ人の物語は危機にさらされた人々の助けを求める声に耳を傾けることのできなかった人類の失敗の物語である



結局、1998年にルワンダ虐殺の当事者たちは裁判にかけられ、有罪判決も出ました。終身刑となって今も服役中のものもいます。その後、ルワンダは経済発展を遂げ、アフリカの軌跡とまで言われるようにになりました。虐殺が起こった4月7日はジェノサイドの日とされ、毎年、あの悲劇を繰り返さないようにと国民が誓うのです。

最後にダレールの言葉を再び引用します。

私は何度も問いかけてきた。私たちは同じ人間なのだろうか。あるいは人間としての価値には違いがあるのだろうか。間違いなく先進国で暮らす私たちは、自分達の命の方が地球上の他の人々の命よりも価値があると信じているような行動をとる。もし私たちが全ての人間が同じ人間であると信じているのならば、私たちはどのようにしてそrを証明しようとするのだろうか。私たちの行動によってしか証明しようがないのだ。


※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。