※ これらの本を参考にしました
1 サン・ジュストの演説
1792年の8月10日事件より、王権は力を失ました。同年の9月に男性普通選挙が行われ、国民公会が成立し、正式に王政が廃止され、共和制の樹立が宣言されました。いわゆる第一共和政です。
国民公会では、ジロンド派とジャコバン派は、ことあることに対立してきましたが、そんな状況の中、11月のルイ16世の裁判がはじまったのです。ジロンド派は国王の処刑には反対。一方のジャコバン派はルイ16世処刑を訴えます。国王をどうするかについて両者は意見が激しく対立したのです。
ジャコバン派のサン・ジュストは演説の国王処刑を訴えました。サン・ジュストはそのとき25歳、最年少議員で、議会で演説するのははじめてだったそうです。しかし、議会の演説が初めてとは思えないくらい、その演説は歴史に残るものだといわれております。サン・ジュストいわく、
この演説に議員たちはぐうの声も出なかったといいます。サン・ジュストは日本でいえば田中角栄さんや、ガンダムでいえばギレン・ザビのように演説がうまかったのでしょうね。

(サン・ジュスト)
2 ガマンの告白
サン・ジュストの演説によって議員たちの心は動かされましたが、それだけでは国王処刑になりません。議会が国王処刑に傾いたのは、国王の機密文書が見つかったからです。その秘密文書には、国王が反革命派と連絡を取り合っていたことが書かれておりました。その秘密文書は宮廷の隠し戸棚に入っていたのですが、フランソワ・ガマンという人物の告白により、その文書が見つかってしまうのです。ガマンとは、錠前づくりが趣味のルイ16世の師匠でした。ガマンの家は祖父の代から宮廷御用達の錠前屋をしていたのです。1792年の8月10日の政変以降、ガマンはもんもんとしていたのです。
もし隠し戸棚がみつかったら、自分はいったいどうなるのだろう?重要機密文書を隠すのに手を貸した自分は逮捕され、最悪の場合は処刑されるだろうと。しかし、国王を裏切りたくない。そんなことを考えていたガマンは夜も眠れなかったといいます。ガマンは機密文書のことを議会に言うか、ずいぶん迷ったといいます。そして、我慢wができなくなったガマンは11月20日に内務大臣ロランに面会し、すべてを告白しました。
そして、ガマンの言う通り、戸棚から機密文書がみつかったのです。書類が見つかったのはサン・ジュストの演説から一週間後のことです。この秘密文書は国王がフランスを裏切った重要な証拠となりました。
3 国王の死刑決まる
1792年12月11日に国王の裁判がはじまりました。被告人のルイ16世も二度議会にきて発言しました。ルイ16世は「自分の良心は一点のくもりもない」と言い切り、終始一貫して落ち着きを払っていたといいます。年をこした1793年1月15日、審理が終わり採決に移りました。
全会一致でルイ16世は有罪となりましたが、どんな刑にするかはまだ決まりません。
その刑をめぐり、16日夜から17日夜までまるまる一昼夜をかけて行われ、死刑賛成387票(ただ執行猶予つきが26票含まれる)、死刑反対(追放・幽閉)が334票でした。死刑の賛成票が上回ったため、国王の死刑が決まりました。
そして1793年1月21日、処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)にルイ16世は連行され、ギロチンの前に立たされます。その様子を多くの人々が見ております。そして、ルイ16世はみんなに語り掛けました。
そして、ルイ16世がギロチンにかけられ無残になくなったといいます・・・
ルイ16世は最後まで平静な態度だったといいます。それはルイ16世が信仰心があつかったからだといわれております。自分はあの世では正しい裁きを受けられるからだと思ったといいます。ルイ16世は来世の存在を固く信じて死んでいったのかもしれません・・・
4 本当に嫌われていたか?
それではルイ16世は国民から嫌われていたのでしょうか?ルイ16世を嫌っていた国民は「ざまあ」と思ったかもしれません。しかし、ルイ16世とアントワネット夫妻を日本の天皇皇后両陛下のように慕う国民もすくなくなかったのです。ルイ16世ファンの女性は王が処刑されたと聞き、セーヌ川に身を投げ、ある本屋は発狂し、昔役人をしていた男はショックのあまり死亡したといいます。
ルイ16世は「無能な王」だとか「でくのぼう」といわれていますが、実際はそうでもなかったのです。むしろ英明で、時代がもっと平和な時代だったら、名君とよばれていたかもしれないのです。
彼は1754年、ブルボン朝にルイ15世の孫として誕生します。幼少のころから自分の容姿に自信がもてず、 口下手で引っ込み思案な性格でした。一方彼の兄であるブルゴーニュ公は、活発で両親からも愛され、将来は王家を継ぐはずでした。しかし、ブルゴーニュ公は結核で死去。それで王位はルイ16世にまわってくるのです。 ルイ16世は幼いころから勤勉で、帝王学も学んでいました。 そして何よりも優しい性格で、国民のことも第一に考えていました。
ルイ16世の趣味は狩猟と錠前づくりした。狩猟は当時の貴族や王様にとっては当然たしなむものでした。貴族と付き合うためにも王は狩猟を覚えておく必要があったのです。接待ゴルフならぬ接待狩猟ですね。
ルイ16世が扉の錠前づくりをするようになったのか、彼の趣味というより、ブルボン朝の伝統にのっとっただけでした。実はブルボン朝の人間がなんでもいから手作業を何か一つ覚えて、それを趣味にしなさいという家訓があるのです。面白い家訓ですね。伺った見方をすれば、手に職をつけておけば、王家が滅ぼされたとしても、王家の人間が食うに困らないだろうということかもしれません。
趣味の錠前づくりばかりしているアホな王様というイメージが世間にはあるのですが、実際は国民思いで改革にも熱心だったのです。国王が熱心に改革を行おうとしたからからこそ、三部会開催など物事がポンポン進み、それが皮肉にも革命の糸口を開いてしまったという専門家もいるほど。
フランス革命がおこったとき、ルイ16世は事の成り行きを楽観視していました。軍隊をだせば何とかなると思っていたのです。もし、ルイ16世が革命の芽を早めにつぶしていれば、フランス革命は防げたかもしれない。また、ルイ16世は気が弱い面もあって、周りの人の意見に振り回されやすいところもありました。良くも悪くもルイ16世は調整役みたいな人で、トランプ大統領みたいに強力なリーダーシップなどありません。そういう彼の性格もまた災いしたのかなって思いました。
※ 参考文献
1 サン・ジュストの演説
1792年の8月10日事件より、王権は力を失ました。同年の9月に男性普通選挙が行われ、国民公会が成立し、正式に王政が廃止され、共和制の樹立が宣言されました。いわゆる第一共和政です。
国民公会では、ジロンド派とジャコバン派は、ことあることに対立してきましたが、そんな状況の中、11月のルイ16世の裁判がはじまったのです。ジロンド派は国王の処刑には反対。一方のジャコバン派はルイ16世処刑を訴えます。国王をどうするかについて両者は意見が激しく対立したのです。
ジャコバン派のサン・ジュストは演説の国王処刑を訴えました。サン・ジュストはそのとき25歳、最年少議員で、議会で演説するのははじめてだったそうです。しかし、議会の演説が初めてとは思えないくらい、その演説は歴史に残るものだといわれております。サン・ジュストいわく、
「いかなる幻想、いかなる習慣を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり・・・一国民全体の無知蒙昧さによっても正当化され得ない不法行為のひとつである。・・・秘湯は罪亡くして国王たり得ない・・・国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者である。]
この演説に議員たちはぐうの声も出なかったといいます。サン・ジュストは日本でいえば田中角栄さんや、ガンダムでいえばギレン・ザビのように演説がうまかったのでしょうね。

(サン・ジュスト)
2 ガマンの告白
サン・ジュストの演説によって議員たちの心は動かされましたが、それだけでは国王処刑になりません。議会が国王処刑に傾いたのは、国王の機密文書が見つかったからです。その秘密文書には、国王が反革命派と連絡を取り合っていたことが書かれておりました。その秘密文書は宮廷の隠し戸棚に入っていたのですが、フランソワ・ガマンという人物の告白により、その文書が見つかってしまうのです。ガマンとは、錠前づくりが趣味のルイ16世の師匠でした。ガマンの家は祖父の代から宮廷御用達の錠前屋をしていたのです。1792年の8月10日の政変以降、ガマンはもんもんとしていたのです。
もし隠し戸棚がみつかったら、自分はいったいどうなるのだろう?重要機密文書を隠すのに手を貸した自分は逮捕され、最悪の場合は処刑されるだろうと。しかし、国王を裏切りたくない。そんなことを考えていたガマンは夜も眠れなかったといいます。ガマンは機密文書のことを議会に言うか、ずいぶん迷ったといいます。そして、我慢wができなくなったガマンは11月20日に内務大臣ロランに面会し、すべてを告白しました。
そして、ガマンの言う通り、戸棚から機密文書がみつかったのです。書類が見つかったのはサン・ジュストの演説から一週間後のことです。この秘密文書は国王がフランスを裏切った重要な証拠となりました。
3 国王の死刑決まる
1792年12月11日に国王の裁判がはじまりました。被告人のルイ16世も二度議会にきて発言しました。ルイ16世は「自分の良心は一点のくもりもない」と言い切り、終始一貫して落ち着きを払っていたといいます。年をこした1793年1月15日、審理が終わり採決に移りました。
全会一致でルイ16世は有罪となりましたが、どんな刑にするかはまだ決まりません。
その刑をめぐり、16日夜から17日夜までまるまる一昼夜をかけて行われ、死刑賛成387票(ただ執行猶予つきが26票含まれる)、死刑反対(追放・幽閉)が334票でした。死刑の賛成票が上回ったため、国王の死刑が決まりました。
そして1793年1月21日、処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)にルイ16世は連行され、ギロチンの前に立たされます。その様子を多くの人々が見ております。そして、ルイ16世はみんなに語り掛けました。
「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように、私は罪なくして死ぬ」
そして、ルイ16世がギロチンにかけられ無残になくなったといいます・・・
ルイ16世は最後まで平静な態度だったといいます。それはルイ16世が信仰心があつかったからだといわれております。自分はあの世では正しい裁きを受けられるからだと思ったといいます。ルイ16世は来世の存在を固く信じて死んでいったのかもしれません・・・
4 本当に嫌われていたか?
それではルイ16世は国民から嫌われていたのでしょうか?ルイ16世を嫌っていた国民は「ざまあ」と思ったかもしれません。しかし、ルイ16世とアントワネット夫妻を日本の天皇皇后両陛下のように慕う国民もすくなくなかったのです。ルイ16世ファンの女性は王が処刑されたと聞き、セーヌ川に身を投げ、ある本屋は発狂し、昔役人をしていた男はショックのあまり死亡したといいます。
ルイ16世は「無能な王」だとか「でくのぼう」といわれていますが、実際はそうでもなかったのです。むしろ英明で、時代がもっと平和な時代だったら、名君とよばれていたかもしれないのです。
彼は1754年、ブルボン朝にルイ15世の孫として誕生します。幼少のころから自分の容姿に自信がもてず、 口下手で引っ込み思案な性格でした。一方彼の兄であるブルゴーニュ公は、活発で両親からも愛され、将来は王家を継ぐはずでした。しかし、ブルゴーニュ公は結核で死去。それで王位はルイ16世にまわってくるのです。 ルイ16世は幼いころから勤勉で、帝王学も学んでいました。 そして何よりも優しい性格で、国民のことも第一に考えていました。
ルイ16世の趣味は狩猟と錠前づくりした。狩猟は当時の貴族や王様にとっては当然たしなむものでした。貴族と付き合うためにも王は狩猟を覚えておく必要があったのです。接待ゴルフならぬ接待狩猟ですね。
ルイ16世が扉の錠前づくりをするようになったのか、彼の趣味というより、ブルボン朝の伝統にのっとっただけでした。実はブルボン朝の人間がなんでもいから手作業を何か一つ覚えて、それを趣味にしなさいという家訓があるのです。面白い家訓ですね。伺った見方をすれば、手に職をつけておけば、王家が滅ぼされたとしても、王家の人間が食うに困らないだろうということかもしれません。
趣味の錠前づくりばかりしているアホな王様というイメージが世間にはあるのですが、実際は国民思いで改革にも熱心だったのです。国王が熱心に改革を行おうとしたからからこそ、三部会開催など物事がポンポン進み、それが皮肉にも革命の糸口を開いてしまったという専門家もいるほど。
フランス革命がおこったとき、ルイ16世は事の成り行きを楽観視していました。軍隊をだせば何とかなると思っていたのです。もし、ルイ16世が革命の芽を早めにつぶしていれば、フランス革命は防げたかもしれない。また、ルイ16世は気が弱い面もあって、周りの人の意見に振り回されやすいところもありました。良くも悪くもルイ16世は調整役みたいな人で、トランプ大統領みたいに強力なリーダーシップなどありません。そういう彼の性格もまた災いしたのかなって思いました。
※ 参考文献