(飯盛山)
(ローマ市から送られてきた像)
(フォン・エッツドルフが送った石碑)
(石碑の説明板)
白虎隊は、外国人にも高く評価されました。会津の飯盛山にいくと、大きな鳥が羽ばたいている銅像をみかけます。その銅像はローマ市から送られたものだそうです。
また、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフも白虎隊の心意気に感銘を受け、このような碑をつくっております。
そして、もうひとり白虎隊に魅せられた外国人がいました。その名をリヒャルト・ハイゼ。
リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)は明治初期にお雇い外国人として、日本にやってきたドイツ人です。ハイゼはドイツ語教師として、東京高等商業学校(いまの一橋大学)や学習院で先生をやっていました。学習院では、昭和天皇にドイツ語をハイゼは教えていたそうです。ハイゼの授業はとてもレベルが高く、生徒達は授業についていくのに大変だったそうです。
ハイゼの教え子には、日独伊三国同盟に調印した外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)、戦後日本を代表する経済学者の久武雅夫(ひさたけまさお)などがいます。
ハイゼはとても日本びいきで、信仰もキリスト教から神道に替えたほど。20数年にもわたり日本に滞在し、日本人の妻をもち、四人の子宝にも恵まれました。妻の名前は和田ヨシ。子供は息子二人、娘二人。長男の名はエエーリヒ・カメイチロウ。次男の名前はカール・ヒロタロウといい、日本風の名前をつけたのですね。ただし、二人の娘にはドイツ風の名前をつけていたのです。またハイぜは
北里柴三郎とも交流がありました。
ハイゼは友人に奨められるまま、会津の飯盛山にもおとずれました。飯盛山の頂上にたどり着いたハイゼは、自刃した白虎隊士たちの墓の前でたたずみました。ハイゼは墓前で座り目をつぶり、若くして亡くなった少年達に思いをはせていたようです。短いながらもひたむきに生きた白虎隊の姿にハイゼは心を打たれていたのでしょう。ハイゼは白虎隊のお墓に訪れるずっと前に赤穂の四十七士のお墓に訪れた事があるのですが、四十七士のときよりも、得も知れぬような感動を覚えたようです。
ハイゼは「自分が亡くなったら、自分の亡骸はこの白虎隊の丘に埋めて欲しい」と思うようになったようです。
日本人の女性と結婚し、私生活でも仕事の面でも充実していたハイゼでありますが、そんなハイゼ一家に不幸がやってきます。なんと日本政府が、ハイゼなどの在日お雇いドイツ人の財産没収を命じたのです。なぜ、政府はわざわざ日本に招いたドイツ人にそんなヒドイことをしたのでしょうか。
その原因は、第一次世界大戦で、ドイツと日本は敵国同士になったからです。第二次世界大戦ではドイツと日本は同盟を結ぶのですが、この頃は敵同士だったのです。およそ4年にもわたる長い戦争の末、ドイツは降伏しました。英仏連合国軍は負けたドイツにむちゃくちゃなことを押し付けました。
日本政府に対しても「敵国、ドイツ人の財産を没収してやれ」と要請したそうです。それでも、北里柴三郎などのハイゼの友人達の協力もあって、日本にいたお雇いドイツ人の財産没収は免れました。財産没収は免れたものの、ハイゼは日本に居づらくなり、奥さんと子どもをひきつれドイツへ帰国します。それは1924年の出来事だそうです。奥さんが日本人と言う事もあって日本に残りたかったようですが、それもかないません。日本への想いを友人あてに手紙に書いたほど、ハイゼは日本を恋しがったそうです。
さて、ドイツにもどったハイゼ一家は苦労の連続だったそうです。(第一次世界大戦)敗戦後のドイツは大変なインフレで、国民は苦しんでいたそうです。日々の暮らしに苦しむ人々から「お前は、日本で稼ぎまくってうらやましいな!」とハイゼ一家はやっかまれました。日本で稼いだと言っても、何しろドイツは大変なインフレ。何しろパン一斤買うのに一兆マルク必要だったと言います。それくらい札束の値打ちが下がってしまったのです。これじゃあ、せっかく貯金があってもすぐに使い果たしてしまいます。ハイゼ一家も生活にこまってしまいます。もっとも日本から恩賞をもらっていましたので、うんと困っているわけではなかったのですが。
しかも、奥さんのヨシはドイツ語がわからずに苦労します。また、子ども達も学校でドイツ人と日本人のハーフということでいじめられたそうです・・・
時代は進み、1937年の秋の終わりごろハイゼは久々に日本におとずれました。会津の飯盛山にもふたたびおとずれたそうです。
ハイゼが亡くなったのは1940年。遺骨は本人の意思に従って白虎隊の丘に埋葬されることになりました。
※ 参考文献
リヒャルト・ハイゼ物語 - 白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生 [単行本]