history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:マッカーサー

389px-Macarthur_hirohito


まずは、この写真。有名ですよね。マッカーサーと昭和天皇のツーショット。この写真は新聞に掲載され、その新聞を見た日本人は衝撃を受けたのです。今までは現人神として崇めていた天皇が正装とはいえ、平民と同じようなモーニングを着てかしこまっている。一方のマッカーサーはよく言えばリラックス、悪く言えば我がもの顔をしてふんぞり返っている。両国の力関係を感じさせる写真でした。そして、日本は負けたのだと改めて国民に再認識させるほどのインパクトがこの写真にありました。「いいや、昭和天皇は正装をしているのに、マッカーサーはラフな格好で礼儀を知らない、むしろ昭和天皇のすばらしさを物語る写真だ」という意見もありますが、終戦まで日本国民が現人神として昭和天皇の写真に礼をしていたことを考えると、これは大変なことなんですね。


日本がポツダム宣言を受けいれた最大の理由は国体の護持、つまり天皇制の存続でした。


またマッカーサーは天皇の権威を利用して、占領政策を進めようとしたのです。その一環としてマッカーサーは天皇と会う必要があると考えたのです。敗戦のみじめさを日本に思い知らせようと天皇を呼びつけようという連合国側であったのですが、マッカーサーは、「天皇を呼びつければ、天皇を国民の殉教者に仕立てあげるようになる」と言って反対。つまり、国民の反感を買って今後の占領がやりにくくなることを恐れたのでしょう。こうした日米のおもわくがマッカーサーによる天皇呼び付けに繋がりました。 



1945年(昭和20)の9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館に到着します。そして、マッカーサーの部屋に通されました。天皇のお供をしたのは通訳ただ一人。天皇が入るなり、マッカーサーは迎え入れ、すぐに写真撮影に入ったのです。撮影をするなんて天皇は全く知らなかったので、天皇もびっくりしたのです。だから、天皇も戸惑い、三枚写真を撮って、その三枚目でやっと天皇は体勢を整えることができたとのこと。


2人のツーショットは翌日(28日)の新聞で掲載される予定でした。しかし、時の内務大臣の山崎巌が「不敬フケイだ!」と激怒。結局、28日の新聞にはマッカーサーと天皇の写真は載らなかったのです。それに怒ったはGHQ。依然として日本に旧体制のものがいるとして、言論に関する一切の制限令を撤廃テッパイさせたのです。

そして結局、9月29日の新聞に2人の写真は載ったのです。

話を9月27日の天皇とマッカーサーの会談の日に戻します。写真撮影が終わってから、2人は会談をします。開戦のことと、それからポツダム宣言の履行の確認です。会談の途中、マッカーサーは不安になったのです。天皇が戦争責任を逃れようと、あれこれ言い訳をするのではないかって。

ところが、天皇はマッカーサーが思いも寄らない言葉を述べられたのです。


「私は国民が戦争遂行にああって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」


つまり戦争責任は自分にあると天皇は述べられたのです。この天皇のお言葉にマッカーサーはいたく感動。「責任を受けようとするこの男気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士しんしであることを感じた。」

会見は予定より大幅にオーバーしたといいます。会見が終わって、マッカーサーは大使館の玄関まで天皇を見送ったといいます。

しかし、連合国側には天皇を裁判にかけ、戦犯として裁くべきだという意見も根強かったのです。マッカーサーは考えました。天皇を告発したら、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊はそのまま日本の崩壊につながると考えましたし、もしそんなことをすれば日本各地でゲリラ戦が起こる恐れもあると。それで、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀長官に「過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからない」と伝え、天皇は無実であるとしました。

マッカーサーは天皇を無実にするために色々と工作をしたといいます。


  • 人間宣言をさせることで、新たな天皇像を作りあげ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとした。


  • マッカーサーはキーナン首席検事とともに、天皇をさばかれないことを前提に裁判を進めるよう他国に説得をし、同意を求めた。


「人間宣言」とは、1946年(昭和21)の元旦の新聞紙上で、昭和天皇の詔書が発表し、天皇が自ら人格性を否定したこと。日本人は衝撃ショウゲキを受けましたが、これにより天皇が独裁者であるというイメージは崩れたのですね。


しかし、そんなマッカーサーの様々な工作を水の泡にさせるようなことを言ってしまった人物がいました。

東條英機です。


東條英機は、「自分は陛下の命令に反いたことがない」と裁判で発言。これでは、天皇の命令で戦争がおこわなわれたことになります。そこでマッカーサーは東條の知人を通して、天皇に責任はないと発言するよう説得。そして東條はしぶしぶ「陛下は責任がない。全責任は私にある」と発言。

1946年(昭和21)10月16日にマッカーサーと天皇の第3回目の会見が行われました。その時は大日本帝国憲法に変わる新しい憲法が作られている時期でした。新憲法は、民主化、封建社会の否定、そして戦争放棄が盛り込まれておりました。特に戦争放棄には天皇も賛同されたといいます。


ちなみに、日本国憲法が1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌年の1947年(昭和22)5月3日に施行されました。

天皇とマッカーサーの会談は、1945年の9月27日から、1951年(昭和26)4月15日まで11回行われました。回を重ねることに、天皇とマッカーサーの信頼は深まり。マッカーサーも当初は皇帝(エンペラー)と呼んでいたのが、次第に陛下と呼ぶようになったといいます。ただし、マッカーサーは一度も皇居に訪れていないのですね・・・

そして1951年の4月16日、マッカーサーは日本を後にしまいた。その時、日本人20数万人が日の丸と星条旗を持って、マッカーサーの帰りを見守ったといいます。

のちにマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」と語っておりました。天皇の協力がなかったら、占領政策は失敗していたかもしれない。また、マッカーサーは天皇個人のことを「天皇は私が話し合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」と高く評価。


昭和天皇も「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことが、国のためにも良かった。一度約束をしたことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥としての会見は今思い出しても思い出深い」とマッカーサーを評されました。確かにマッカーサーではなく、スターリンや毛沢東が日本に来ていたら大変なことになっていましたね。毛沢東もスターリンも独裁的な手法で国民を苦しめたわけですから。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。また、「図説マッカーサー」も参考にしました。

図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01

(この記事は2023年4月8日に加筆修正しました)
マッカーサーは日本の原爆投下を反対していたといいます。そもそも、マッカーサーは原爆の開発計画すら知らされていたなかったのです。1945年の7月25日付(原爆)投下命令書のコピーが届けられ始めて知ったといいます。

戦後、広島で原爆投下2周年記念日に慰霊祭イレイサイが行われましたが、マッカーサーはメッセージを送ったといいます。

そのヒロシマの教訓をマッカーサーは以下のように述べております。

「それは戦争の破壊性を助長ジョチョウするために、自然力を利用することはますます進歩して、ついには人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊するような手段が、手近に与えられるまでに発達するだろうという警告である」(『中国新聞』)



原爆を使うことは、人類滅亡につながるとマッカーサーは警告したのですね。

ところが、朝鮮半島で戦争が起こり、戦争が泥沼化どろぬまかするとマッカーサーの態度は一変。中国の義勇軍が北朝鮮側に味方したことで、国連軍側(アメリカ、韓国側)が劣勢に立たされてしたまったのです。それに対してマッカーサーは激怒。はじめは国連軍側が圧倒的に優勢で、中国と朝鮮半島との国境近くまで迫ったのです。マッカーサーは国連軍の兵士たちに「クリスマスには帰れる」って励ましたほど。しかし、それが中国の全面的な協力で無になってしまったのです。

彼は原爆使用と中国本土への軍事作戦を含む全面戦争の戦略を強く押し出し、ついにトルーマン大統領に解任させられてしまいます。「クリスマスまでには帰れる」と断言したマッカーサーのプライドはズタズタに傷つけられたのです。マッカーサーは北朝鮮や中国をぎゃふんといわせようと考えたのでしょうね。1950年のクリスマスイブにマッカーサーは機密の無線をワシントンに送りました。原爆を中国や北朝鮮に投下してほしいという内容で、実際に原爆を落とす都市のリストまで書かれていたのです。北京や大連など中国の都市だけでなくウラジオストックやナホトカとかソ連の都市まで、その年のリストに書かれていたのです。

また、マッカーサーは、1954年1月にあるジャーナリストに非公開を条件に「朝鮮戦争に10日間で勝つ方法」を語ったといいます。曰く、

「朝鮮北部に30発から50発の原爆を投下して敵の空軍を一掃いっそうし、ついで米海兵二個師団で増強された蒋介石ショウカイセキ50万を台湾タイワンから送り込む。さらに放射性コンバルトを日本海から黄黄海コウカイまで敵の主要補給戦にばらまき、朝鮮を中国東北部(かつての満州あたり)から遮断シャダンする」


というものでした。落とす原爆の数がハンパないですね。3発から5発の間違いじゃないかって。もし、マッカーサーが本当に原爆を中国や朝鮮半島に原発を落としていたら、犠牲者も多く出たであろうし、それこそ第三次世界大戦の危機に直面したかもしれない。恐ろしいですね。でも原爆投下によって第三次世界大戦の危機が訪れたとしても、そんなの関係ねえ!って感じだったようです。

第三次世界大戦になることを恐れたトルーマン大統領はマッカーサーをすべての職を解任。これによってマッカーサーは日本を去ることになりました。帰国するマッカーサーを当時の多くの日本人たちは見送りました。当時の日本人はマッカーサーは軍国主義から救ってくれた平和主義者のイメージがあったのですが、まさか彼が中国に原爆を落とそうと考えていたとは知る由もありません。マッカーサーはアメリカでも当時、非常に人気が高く太平洋戦争の英雄だとみなされていました。マッカーサーをクビにしたトルーマン大統領の人気は急落。トルーマンは民主党の所属でもありましたから、民主党の支持率も低下。それが、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワー大統領が当選につながったのです。

もっともマッカーサーのインタビューは彼が死後公開され、話題になり、マッカーサーの名声は失墜シッツイしたとか。




最後に1951年のマッカーサーの退任演説の一部を引用します。

わたしはいま生きている誰よりも戦争については知っています。私にとってはこれほど嫌悪すべきものはほかにありません。しかし、いったん戦争が我々に押し付けられれば、これを迅速に終わらせるためには使えるすべての手段を使う以外に選択肢はありません。


そして、マッカーサーは有名な言葉で締めくくります。

老兵は死なず ただ消え去るのみ


* 参考文献
図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01



あと「映像の世紀」も参考にしました

GHQの最高権力者だったマッカーサーは1951年(昭和26)に解任させられます。公務に関して明軍政府と国連の政策を心から支持しないというのが原因とされておりますが、トルーマン大統領との対立が抜き差しならぬものとなっていたのも大きいでしょう。突然のマッカーサー解任にアメリカ国内の保守派は怒り、共和党議員の中にはトルーマンを辞めさせようといきまいていた者もいました。そして、朝鮮戦争の行きづまりにいらだっていたアメリカ国民の多くは、戦争の英雄であるマッカーサーの解任したトルーマンに怒りをぶつけました。いたるところで、トルーマンのワラ人形が作られ、その人形に火をつけられたといいます。というか、アメリカにもワラ人形ってあったのですね。ワラッてしまいますねw

おっとくだらないギャクを言ってすみませんw

一方、日本の国民はマッカーサー解任にショックを受けました。そして、マッカーサーよりも偉い人がいたのかと当時の日本人は驚いたといいます。何しろマッカーサーは当時の日本では天皇より偉い人でしたから。

マッカーサーが日本を離れるとき、日本人の多くは別れを惜しみ、マッカーサーを見送ったといいます。羽田までの沿道を人々は埋め尽くし、新聞はその数20数万人と報道しました。ちょっと前までは鬼畜米英キチクベイエイと言っていたのがウソみたい。最も、戦時中に反米感情をあおっていたのはマスコミと右派くらいで、アメリカに対して親しみのような感情を持っていた人の方が多かったのですね。戦前はジャズがはやっていたし、若き日の田中角栄は、従軍中、アメリカの女優のプロマイドを戦地に持っていって、それで上官に張り飛ばされたエピソードがあるくらいですから。

さて、マッカーサーが日本を離れて、「マッカーサー元帥の記念館を東京に建て、日本に対する功績を永久に記念しよう」という計画が本格化したのですね。その発起人に、秩父宮夫妻、金森徳次郎国会図書館長、田中耕太郎最高裁長官や、朝日新聞や毎日新聞などの有力紙の社長ら十四名がえらばれました。最も、この計画は、マッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙ケイモウ施設の建設計画を発展させたものであり、マッカーサーの記念室だけでなく、プール、運動場、図書室、宿泊施設などを合わせた壮大なものだったといいます。

発起人たちが記念館建設計画についてアメリカに問い合わせたところ、ホイットニー元GHQ民政局長の名で「マッカーサーはこの申し出を非常に光栄におもっている」という承認の返事が来ました。

その後、先のメンバーに藤山愛一郎(日本商工会議所会頭)、浅沼稲次郎(社会党書記長)、安井誠一郎(東京都知事)らも加わり、4億5千万円の予算で三宅坂の旧参謀本部跡に鉄筋コンクリート3階建てのビルを建設する計画まで立てられました。

マッカーサーが日本を離れた翌年の2月にマッカーサー記念館建設のための募金が始まりましたが、なんと1ヶ月で8万4千円くらいしか集まらず、それで宣伝費も60万も使ってしまい、1年後に300万円の借金を残して募金運動は終わったといいます。

そして、マッカーサーがアメリカに帰国後、「日本人は12歳発言」で、日本人は失望してしまいます。日本人の12歳発言の真意は、日本人は幼稚だと馬鹿にしたのか、それとも日本は成長の余地があるからと日本の発展を期待した発言なのか、解釈が分かれるところです。ともかく、12歳発言がダメ押しとなり、マッカーサー記念館計画は幻に終わったのです。

* 参考文献
図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01



朝鮮半島は戦後、国土が分割占領ブンカツセンリョウ・分割統治トウチされ、北朝鮮と韓国に分かれてしまいました。今も朝鮮半島は分断されたままです。また、かつてのドイツも、東と西に分かれていたのです。それは戦後から1990年にドイツが再統合されるまで45年も続いたのですね。国が分断される悲劇。日本に住んでいる我々には想像がつかない世界です。幸い、日本は国が分断されておりませんが、一歩間違えれば、そうなるところだったのです。

戦争末期、ワシントンで日本の分割占領が検討されていたのです。米統合参謀本部に統合競争計画位委員会というのがあって、日本を四分割する案が討議トウギされていたのです。

北海道と東北がソ連、関東甲信越と東海がアメリカ、近畿がアメリカと中国の共同統治、四国が中国、中国地方と九州がイギリス。そして、東京はドイツのベルリンと同じく、四カ国の共同統治という案でした。ちなみに中国とは今の中共が支配する中華人民共和国ではなく、蒋介石ショウカイセキが支配していた中華民国です。もし、この案が通っていれば、北海道と東北は北朝鮮と同じ社会主義国家になって、北朝鮮ならぬ北日本という国が誕生したかもしれない。ゾッとしますね。

では、なぜこのような分割案が出されたのでしょうか。色々理由があるのですが、最大の理由は、日本が本土決戦を選んだ場合の米軍の犠牲者ギセイシャを最小限に抑えるためでした。アメリカは、もし日本が本土決戦をしたら、百万の犠牲者が出るだろうと計算したのです。実際、当時の日本のウヨとか指導者は一億総玉砕って息巻いてましたから。

その犠牲を最小限に止めるため、ソ連に参戦を求め、さらに80万名は必要とみられる日本降伏後の占領要員も、分割占領によって30万名にとどめようとしたのです。すでに戦争末期で、アメリカは占領後のことまでシュミレートしていたのですね。

つまり、本土決戦という事態を防ぐための4分割だったと。



もし、本土決戦をしてマジで一億総玉砕していたら日本は間違いなく分割統治されたでしょうね。

北海道、本州、四国、九州を行き来するのにパスポートが必要になります。不便ですよね。特に北海道と東北がソ連に占領され、北朝鮮みたいになってたら大変でしたよね。そうなるとパスポートどころか今の北朝鮮のように北海道や東北に訪れること自体が難しくなるかもしれない。

それどころか、日本人がほぼ絶滅した隙をついて朝鮮人やら中国人やら、その他外国人が押し寄せてきたでしょうね。これは、国士さまにとって最悪のシナリオでしょう。神国日本が外国人だらけになるのだから。

近衛文麿は「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」と天皇に警告していたのですね。つまり一億総玉砕なんてやったら、それこそ国内はめちゃくちゃになり、共産党の人間が革命を起こしやすくなるって。まさにソ連の思うツボになってましたね。内乱どころか、そのどさくさに紛れソ連が日本に侵攻する可能性だってあります。このような懸念をしていたのは近衛文麿1人ではないはず。実際、ゾルゲ事件のように、ソ連のスパイが日本の中枢に潜り込んでいましたからね。当時、一億玉砕だの本土決戦だの主張する国士が少なくなくなかったのですが、そんな国士様の中には、国士のフリしたソ連のスパイだっていたかもしれませんよ?

ところが、日本は本土決戦という道を選ばず、アメリカの想定よりも早く日本が降伏したのですね。それで日本を分割する必要がなくなったのです。本土決戦の空気の中、降伏の道を選んだ当時の日本政府の要人たちの苦労がしのばれます。

また、アメリカでも、日本分割案に反対する人がいたのです。ジェームズ・F・バーンズ国務長官をはじめ、国務省は分割占領は反対。トルーマン大統領もソ連を入れての分割占領には反対。トルーマンはすでにソ連を警戒していましたから。そして誰よりもマッカーサー元帥ゲンスイが分割統治に絶対反対していたのです。

マッカーサーは、他国の対日占領の参加を快く思っておらず、特にソ連の日本占領参加には絶対反対だったのです。マッカーサーはめっちゃ反共でしたから。

日本の降伏と、アメリカ政府の要人の反対もあって、日本の4カ国分割は免れたのですね。




ちなみに、ネットというかテレビでもスリランカが日本の4分割を救ったと言っておりますが、間違いです。1951年にアメリカで開催されたサンフランシスコ講和会議には、スリランカのジャヤワルダナ氏が日本の4分割について抗議したと言いますが、4分割云々が言われたのは戦時中。サンフランシスコ講和会議当時の日本は、GHQの支配がとっくに終わり、日本が国際社会に復活しております。だから、ジャヤワルダナ氏と4分割は時系列的にありえないのですね。





* 参考文献
図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01






このページのトップヘ