1 知っていた黒船の来航
 かつての歴史の教科書には、幕府がペリーに圧力にひれ伏して開国をしたみたいな感じで書かれていて、当時の幕府の役人たちは弱腰だったと。しかし、それはのちの明治政府が幕府を貶めるために広めた話。実際は幕府はしたたかな交渉をしたのです。

ペリーが4隻の艦隊をひきつれて(1853年)、国内は大パニックになりました。が、近年の研究では、黒船の来航を幕府は知っていたことがわかっております。1852年(嘉永5年)、幕府はオランダから「黒船がくる」という情報を得ていたのです。しかも来航する船の名前から、ペリー提督の名前まで知らされていたのです。しかし、当時の幕府はそのオランダからの情報を甘くみていたのです。「どうせデマだろ」って。だから、大した準備もしなかったのですね。それがアダとなったのです。

黒船の来航に慌てた、幕府はペリーとの交渉役に林復斎ハヤシフクサイを任命しました。林は多くの資料を読み過去の幕府の対外政策を調べ上げたのです。また、林は海外情勢に詳しい識者に相談もしたといいます。そして、林は「アメリカは補給が一切ないから戦う意図はないだろうと」と理解しました。ペリーの艦隊は大西洋を渡りアフリカ大陸の南を回って日本に来たのですが、長い航海で食料や(燃料の)石炭も不足して病人や死者まで出る始末でした。こうしたアメリカ側の弱みを林は見抜いたのです。

2 ペリーの要求
で、ペリーが要求したのは「漂流民の保護」「石炭や食糧の提供」「貿易」の三つでした。「漂流民の保護」」と「石炭と食糧の提供」については林はOKをあっさり出しました。問題は三つ目の「貿易」でした。いきなり開国をし、貿易を認めれば国内の混乱は避けられません。幕府は「貿易」に関してはNOという考え方でした。それでペリーは渋々帰国したのです。

そして翌年の1854年の正月、ふたたびペリーが来日しました。今度は9隻です。2月にペリー一行は横浜に上陸し、500人もの士官を並べ、交渉にあたったのです。おそらく、アメリカはこれだけの兵力があるぞ、いうことをきかないともっと大勢連れてくるぞと脅しをかけているのですね。それから幕府とペリーとの会談が再開しました。

ペリーは交渉の席で言いました。「我がアメリカは人命を重んじる。ところが貴国は人命を重んじるどころか、漂流民を大事にせず、海岸にくれば大砲を打ってくる。貴国がそのような態度をとるのなら戦争も辞さないと。

そして林はこう切り出します。「戦も致し方なし」。すごいでしょ。今までの歴史では幕府は弱腰なんて教えられたけれど、それはウソです。林がこう言ったのは、アメリカとマジで戦争をしたかったのではありません。むしろ、アメリカは戦争を仕掛けてこないことを見抜いていたから言えたのです。

さらに林はペリーの「人命を大事にする」という発言を逆手に取り、「さきほど人命がが第一と仰せられた。交易は利と関するもの。人命と交易は関係ない。遭難救助ソウナンキュウジョならすでに我が国はやっているし、(昔はともかく今は)大砲など打ってはいないから、それでよしとする。」

ペリーも自分の言葉を逆手に取られるとは思いませんでした。ペリーは痛いところを突かれてしまい、しばらく沈黙します。そしてペリーは、交易の話を撤回すると言い出したのです。これはペリーが交易をあきらめたというより、外交のカードを切り間違えたということでしょう。林から人命救助というのなら、交易は関係ないでしょと言われたら、ペリーもグウの声も出ません。

また、ペリーが軍人で、貿易が重要だとはあんまり思わなかったことも幸いでした。これが、ペリーではなく交易の重要性がよくわかっている優秀なネゴシエイターだったらこうはいかなかったかも。ペリーとしては港が開かれればOKと思ったのかもしれません。ともあれ、日本はピンチを免れたのです。


3 二回目の交渉でピンチに

ところが、一回目の交渉から9日目の第二回目の交渉。日本は一転してピンチになります。ペリーはこんどは「横浜のほかに5、6か所の港を定めていただきたい、さもなければ、こっちが勝手に上陸する」と切り出したのです。このペリーの発言に内心、林は驚きます。あちこち港を開いてしまえば意味がありません。これでは交易をしたのと同じこと。

しかし、林は動揺をかくし、「これまで通り長崎で行う」と主張。ペリーは「話にならない。もっと開いてほしい。」と。

しかし、林の記憶の中に、読み込んでいたアメリカの国書の一節が浮かんできました。その国書には「南に一港」とあるだけで、長崎とか横浜とか具体的な港の名前も書かれておりません。林はこの点をつきます。「長崎のほかに別の港といわれるならば、なにゆえ、貴国の国書の中に地名を一言も示さなかったのか、国書にあれば、我らもそれなりの返答もできた。さほど重大なることならば、まずは国書にて、どこそこの港、いくつ開いてほしいかを申し上げるべきかと存ずる」と。

ペリーは答えにつまります。ぺリーは「たしかに地名は書かなかった。できるだけ早く答えは欲しい。2、3日お待ちしよう。」と。

4 日米和親条約
その2回目の交渉が終わった後、林は幕府の考えをまとめ上げ、3回目の交渉の日にのぞみました。林はペリーに「伊豆の下田港、函館港の2港の欠乏の品を給与する」と伝えました。北海道の函館と伊豆の下田は幕府のある江戸から離れているため、国内の混乱を最小限に抑えることができます。そして、条約が調印されました。「日米和親条約」です。しかも「日米和親条約」が調印された日には懇親会のようなものが開かれるほど、日米両国の距離は縮まったのです。しかもペリーは「もしも日本が外国と戦争になれば、軍艦を差し向け加勢しよう」といったほど。ペリーのリップサービスかもしれないけれど、すごいことですよね。

ここまでペリーのゴリ押しに動ずることなく、冷静に対応した林の能力に驚かされます。


帰国後、ぺリーは日本人の印象をこう書き残しております。


「日本人は教育が普及しており、何にでも非常な好奇心を示す。また手先の技術について非常に器用で驚いた。日本人が西洋の技術を習得したら、機械技術の成功を目指すうえで強力なライバルになるであろう」。このペリーの予言は、明治以降現実のものとなります。

また、ペリーが見た林の印象は「立派な風采」「物腰は極めて丁重」と非常に好印象だったそうです。そして、「表情は重々しく、感情を表に出さない」と油断ができない切れ物だと評しておりました。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。