History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:ナチス

1 成り上がり
20世紀前半、人々を興奮の渦に巻き込み、そしてナチスの預言者と呼ばれた男がいました。

エリック・ヤン・ハヌッセンです。

1930年に彼が出版した自叙伝ジジョデン『私の生命線』によると「透視能力トウシノウリョク催眠術師サイミンジュツシとして名をはせた男の人生」と自信たっぷりに書かれているのです。ここまで自己評価が高いと呆れてしまいますが、逆にコンプレックスの裏返のようなものも感じられます。

ハヌッセンはオーストリアの音楽の都ウィーンに生まれました。ハヌッセンの実家は貧しかったようです。ハヌッセンの父親は旅芸人、母親はあまり売れてない歌手。食卓に並んだのはパンとスープばかり。旅芸人だから収入も不安定。ハヌッセンは自分の父親のことを「父親は何の役にも立たない貧しい悪魔だった」と酷評したほど。それで、有名になってお金持ちになりたいと幼いハヌッセンは思ったかもしれません。

ハヌッセンは14歳で親元を離れ、サーカスの猛獣モウジュウ使いや歌手、マジックショーなど色々仕事を転々としました。どれもパッとせず結局芽が出なかったのですが、失敗の中でも、さまざまなステージのノウハウを学んだのですね。

そして彼が25歳の時に第一次世界大戦(1914)が起こり、危険な戦地に派遣されたと言います。その時彼は自分の上官に声をかけたと言います。「あなたの未来を霊能力で予言しましょう、赤ん坊が見えます。男の子です」と。言われた上官も半信半疑でしたが、五日後に本当に上官に赤ん坊が生まれたと言います。喜んだ上官はハヌッセンを危険な前線任務から外したと言います。

しかし、この予言もタネがあって、あらかじめハヌッセンは前線近くの野戦郵便局に勤めている友人を買収し、事前に上官の妻の手紙を見せてもらったのですね。インチキですね。

その後、ハヌッセンは退役し、再びステージに立ちます。ハヌッセンは今度は霊能者として再スタートします。ハヌッセンが目隠しをし、観客が無作為にマッチだとか物を隠し、その隠し場所をハヌッセンが当てるというのです。この霊能力ショーは大当たり。ハヌッセンの霊能力ショーは評判で、4万6千人以上も動員したと言います。そんなんでも各地から依頼は殺到し、月収は1000万円だとか。

さらにセレブを相手に占いも個人的にやったと言います。料金は相談者の月収の4倍で、一回約30万はくだらないと言われたほど。そうやってハヌッセンは金持ちになったのです。

それにしてもハヌッセンはそんなに霊能力があったのでしょうか。おそらくハヌッセンはそんな能力はなく、洞察力や共感力が優れていたのだと思います。また、彼は占いとか霊能力ショーをやる前に、スタッフに命じて事前に相談者や観客のデータをリサーチしていたと言います。観客の情報を公演のたびに記憶していたというから驚きです。

2 ナチスに接近
そしてさらなる名誉欲にかられたハヌッセンはナチスに近づくのです。ハヌッセンはナチスの幹部のヘルドルフに近づきます。彼はギャンブル好きで、30万ライヒスマルク(1億6000万円)もの借金を抱えていたと言います。ハヌッセンはヘルドルフの借金の半分を肩代わりしたと言います。そしてヘルドルフの人脈を生かし、ハヌッセンはナチスの幹部にどんどん接近します。

そしてハヌッセンは1931年1月に印刷所を買収し、自ら新聞を発行しました。「週刊ハヌッセン新聞」。その内容は健康情報や日常のお役たち情報、それからハヌッセンのオカルトじみた話も掲載されました。その新聞は大評判だったと言います。またハヌッセンは予言や占いの形で、「ヒトラーが政権を取るべき」と応援も始めたのですね。ナチスにとっても、人気者のハヌッセンがヨイショしてくれるのだからありがたいのですね。

そんなハヌッセンに危機が訪れます。新聞のスクープ記事でハヌッセンがユダヤ人だとスクープされます。ハヌッセンはこれまで自分がユダヤ人だといことをひた隠しをしていたのです。この報道にヘルドフルは激怒しました。そりゃナチスはユダヤ人を敵視していましたからね。ヘルドルフはハヌッセンを尋問しますが、ハヌッセンは「自分はユダヤ人の養子になっただけでユダヤ人ではない」とウソをついてその場をしのいだと言います。

でも、ユダヤ人のハヌッセンがナチスに近づくのは危険ですよね。はじめはうまくごまかしても後でバレる可能性がある。しかし、それはハヌッセンの抜け目のないところ。ハヌッセンは先のヘルドルフをはじめナチスの幹部たちに金を貸して、その借用書も大切に保管していたのですね。もし、その借用書が世間に知れたら、ナチスはユダヤ人にお金を借りている、資金援助してもらっていることが知られてしまいます。だから、その借用書があれば仮にユダヤ人だとばれたとしても大丈夫だとハヌッセンは思ったのでしょう。のちにハヌッセンはナチスに入党しますが、それくらいハヌッセンはナチスとやっていけると自信があったのでしょう。

3 ハヌッセンの転落
そして、1933年1月30日にヒトラーが首相になります。ヒトラー政権誕生にハヌッセン新聞がヒトラー首相就任を予言したと大評判。さらに勢いにのったハヌッセンは首相ヒトラーに熱烈な提灯記事チョウチンキジを新聞に載せます。ハヌッセンはヒトラーをマンセーして良いポジションをナチスからもらおうと思ったのかもしれません。

さらにハヌッセンはベルリン中心街の高級住宅に住みました。通称オカルト宮殿。友人たちを招いては降霊術や占星術を行なっていたいました。もちろん、彼にそんな能力などあるはずがなく、部屋のあちこちに盗聴器を隠したり、スタッフにゲストの情報も事前に収集させたりしたのですね。まさにハヌッセン絶頂期。しかし、ハヌッセンの危機はすぐに訪れます。


1933年2月27日、国会議事堂が突然火事になります。ナチスはそれを共産党の仕業だと宣伝します。その事件の前夜、オカルト宮殿にハヌッセンはセレブや新聞記者を招いて交霊会を開きました。その席で「火が見える」とハヌッセンは予言しました。実は、この放火事件はナチスの自作自演と言われ、その情報を事前にハヌッセンはナチス側からリークしていたのですね。ハヌッセンは自分がいかに予知能力を持っているとアピールしたかったのですが、それが裏目に出たのです。それ以降、ハヌッセンは何者かにおびえるような発言を友人にするようになります。命をナチスから狙われるようになったのかも知れませんね。予言という形をとったとはいえ、ハヌッセンがナチスが秘密にしていたことをばらしたのですからね。

そして、ハヌッセンは1933年3月25日に突撃隊によって妻と共にベルリンで暗殺されたと言います。暗殺された理由はヒトラーがハヌッセンの存在を疎ましく思ったからだとも、権力構想に巻き込まれたかとも、ユダヤであることがバレたとか、はたまた借用書が世に出ることを恐れたナチスが暗殺したとも言われております。ハヌッセンの遺体は郊外捨てられ、その遺体はケモノの餌食になったと言います。

殺された理由はともかく、僕はハヌッセンの死に思うところがあるんですよ。ハヌッセンはナチスの御用コメンテーターであり、悪くいえば太鼓持ち。太鼓持ちって、例外もいるが、リーダーや権力者から好かれていなくて、「もし自分が落ち目になったら、こいつ裏切るぞ」って不審に思われることの方が多いんですよ。本当に尊敬してれば別ですが、上に立つ人は色々な人を見てますからね。

ハヌッセンはヒトラーに心酔してたけれど、ヒトラーやナチスを利用して自分がのしあがろうという節もありましたからね。自分の栄達ばかり考えるから、国会議事堂火災事件の件もうっかりバラしてしまう。そういうところをナチスはハヌッセンを信用しなかったのかもしれません。



ちなみに「ヒトラーは1920年代の早い時期に占星術師のハヌッセンという人物から演説や心理学の手ほどきを受けた」と言われておりますが、実際ヒトラーとハヌッセンの接点はなかったようで、そのような事実もなかったそうです。

* この記事はWikipediaやNHK「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

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1 映画と違った現実の世界


 今日は『サウンド・オブ・ミュージック』について。『サウンド・オブ・ミュージック』といえばアカデミー賞を受賞した映画で、ごらんになられた方もいらっしゃるかと。この映画の主人公であるマリアと、夫のトラップとその子供たちは、オーストリアの豊かな自然の中で歌を楽しみ、楽しく平和にくらしていたが、ナチスが現れ、一家は亡命をしてしまうというストーリーです。あのオーストリアの美しい自然、トラップ一家の温かい家族愛に僕も感動をしました

しかし、この映画の世界観と、当時のオーストリアの現実は異なっていたそうです。

第一次世界大戦後のオーストリアはゴタゴタしていて経済力もダウンしてきました。失業率も20パーセントを、ウヨクっぽい政治家が力をつけてきたのです。議会制(※1)は停止、左翼政党さよくせいとうも解党、労働組合も解散させられたのです。なんと!オーストリアにもナチスが誕生し、非合法(※2)ながら勢力をのばしていたのです。オーストリア・ナチは反乱をおこし首相を暗殺してしまったようです・・・

そしてヒトラー率いるナチスが本格的にオーストリアに進出しました。その時、ほとんどのオーストリア国民は抵抗ていこうするどころか、ヒトラーを歓迎かんげいしたのです。そんなことはこの映画には一切出てきません。それどころか、ナチスの野蛮やばんさばかりが映画では強調されています。僕がオーストリアがナチスを支持したを知ったのはこの映画ではなく、NHKのドキュメンタリー番組の『映像の世紀』でした。

また、意外なことですが『サウンド・オブ・ミュージック』は長らくオーストリア国内で上映されなかったそうです。もっとも2011年になってルツブルグという町にて上映されたようですが。若いオーストリア人は、この『サウンド・オブ・ミュージック』を知らず、年配の人はこの映画を不快がるそうです。年配の方がこの映画を良く思わない理由の一つは、この映画が戦前のオーストリアを擁護ようごする映画とみなされているからでしょう。

それは、映画の中のパーティ―でトラップが着た服装ふくそうの首につけた徽章きしょうは古いファシズムを表す徽章きしょうなのです。そんなファシズムの象徴しょうちょうのようなものを身に着けるなんてとんでもないというのが古いオーストリア人の言い分なのでしょう。日本に例えれば「七生報国(しちしょうほうこく)」と書かれたハチマキをしめた俳優がひんしゅくを買うようなものです。

それに、『サウンド・オブ・ミュージック』がトラップがいい人のようにえがかれています。しかし、オーストリアの年配の人たちからみると、ファシストなトラップを美化しているようにしか見えないのです。日本に例えれば東条英機を美化する映画のような感覚なのでしょう。


この映画はアメリカで作られたものであり、オーストリアの映画ではありません。従いましてオーストリアのプロパガンダ映画ではありません。が、この映画は結果的に「オーストリアはナチスにおどかされたかわいそうな国」だと世界に広めてしまったのです。

戦後、オーストリアは永世中立国になりましたが、同時に「自分達はナチスの犠牲者ぎせいしゃで、今は世界平和のために貢献こうけんしているという認識も持っていたようです。自分達がナチスに協力した事をあいまいにし、悪い事は全てナチスのせいにしてきたのでしょう。もちろん、当時のオーストリア人の中にはナチスに反発する人も少なからずいましたが。






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ヒトラー並びにナチスの経済政策は本当はあまり行っていなかったのです。失業者の減少だって実際はそんなにうまく行っていない。実態のない経済政策は、いつかはまやかしだったことがバレてしまう。それでナチスがやったことはスケープゴートを見つけて迫害することです。そうやって国民の不満を自分達ではなくスケープゴートに向けさせたのです。独裁国家がよくやる手段です。ナチスがやったのは、ユダヤ人、障害者、ロマなど。

とりわけユダヤ人には厳しかったのです。ユダヤ人は当時のドイツで銀行員だとか、弁護士だとか医師だとかいわゆる勝ち組だったのですね。だから恨まれていたのでしょうね。また第一次世界大戦のドイツの敗北もユダヤ人のせいだと当時のドイツでは信じられていたのです。全くの誤解ですが、世の中は誤解が誤解を生む、誤解が悲劇を生むことはよくあることですから。

さらにユダヤ人は古くから迫害され、それこそ魔女狩りの時代からありました。そういう歴史的背景もあったのですね。

ナチスは銀行、弁護士、医療などの職業からユダヤ人を追放し、商業の権利を奪い、ドイツ人のものにして良い、こんなひどい法律がまかり通っていたのです。こうしてユダヤ人から合法で略奪した金品は国の財源に充てる一方、格安で競売にかけドイツ国民に分配されたのです。収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としたのです。ドイツ人たちは持ち主が収容所送りになって2度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのですね。

こうした国を挙げたナチスのユダヤ人迫害にドイツ人たちは見てみぬふりをしていたのです。それどころか、勝ち組だったユダヤ人たちが落ちぶれていくのをみて内心「ザマアミロ」って思ったのですね。それは戦時中の日本も同じ。戦時中は華族の息子や勝ち組たちが徴兵で危険な戦地にいかされたり、空襲で立派な家や会社が燃えたり、そんな状況を見て負け組たちは内心「ザマアミロ」と思ったとか。

そして、ドイツ人たちのユダヤ人に対する不満は頂点に達します。それが水晶の夜。11月9日にドイツ全土のユダヤ人街やシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)をナチ突撃隊が襲撃したり、放火をしたのです。発端は1938年11月7日。フランスのパリでユダヤ人青年によるドイツ大使館職員が銃撃されるという事件が起こったのです。それからシナゴーグが焼かれたり、ユダヤ人街襲撃が始まったのです。ユダヤ人の商店の窓は叩き割られ、ドイツ人がユダヤ人女性の髪の毛をつかんで路上を引きずり回していたと言います。その様子を警察は見てみぬふりをするばかり。シナゴーグが燃えても、消防隊は火を消そうとしなかったと言います。さらに突撃隊だけでなくドイツ人の一般市民まで暴動に加わり、ユダヤ人に暴力を行ったり、ユダヤ人商店の商品の略奪をしたそうです。

ナチスの宣伝大臣のゲッペルスは、それを止めるどころか「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている。しかし、この行動はあくまで自然発生的なので抑える必要はない」という有様。このような暴動を国がお墨付きを与えたようなものです。確かにゲッペルスは直接暴動を起こせと命じておりませんが、ひどい話です。しかも、ゲッペルスは、こうした暴動はドイツ人国民が勝手にやったこと、ナチスは、そんなの関係ねえって態度でした。

この水晶の夜事件で、放火されたシナゴーグは1400棟。破壊されたユダヤ人商店は7500軒、負傷者多数、死者百人以上。さらにひどい話で、この事件はユダヤ人が悪いということで、ユダヤ人3万人が逮捕されたと言います。頭を丸刈りにされ強制労働をするか、財産を放棄して国外退去をするかの選択を迫られたと言います。

それからユダヤ人は強制収容所に入れられ、毒ガスで殺されたり、いわゆるホロコーストが始まるのですが、その辺のお話はまた別の機会に。

なお、ユダヤ人が失職したことで、ユダヤ人が持っていたポスト、例えば弁護士、銀行の役員、医師などの欠員をドイツ人が埋めることができたかといえば、そうとは言えなかったのですね。弁護士や医師はそりゃ勉強しなきゃなれないし、難しい国家資格も必要です。職場のポストだってドイツ人で埋められたわけじゃない。むしろ、お金儲けがうまかったユダヤ人がいなくなったことで、逆に職場や仕事が減ったようです。ユダヤ人が経営していた商店で働いていたドイツ人も失業しちゃいますし。椅子取りゲームのように誰かを追い出せば自分にチャンスが回ってくると思う人も少なくないと思いますが、現実はそううまくいかないものなのですね。

ヒトラーといえば、労働者を製糸工場の女工さんのように朝から晩まで働かせるイメージがあります。けれど、ヒトラーは意外と労働者のことに気を配っていたようです。8時間労働を実現させたり、企業に健康保険を義務付けたり。意外ですね〜最も8時間労働を初めて言い出したのはヒトラーではなくワイマール時代から定められたそうです。しかし、ワイマール時代に実際に8時間労働が守られることもなく、10時間労働がザラだったのですが。それをヒトラーが8時間労働を守れと企業に命じたのですね。

けれど、ヒトラーがいくら8時間といったところで、労働時間も年々伸びたそうです。1933年における一週間の平均労働時間は43時間だったのに、1937年には47時間に延びています。さらに1942年には50時間にも延びてしまい、戦争末期には60時間〜80時間に延びることも。

8時間労働はヒトラーの手柄みたいに語られることが多いが、言い出しっぺはワイマール共和国だし、ヒトラーが権力を握った後も、8時間労働は、あまり守られていなかったみたい。

それよりももっと僕が驚いたことは、ナチスは有給休暇を奨励していたことです。有給休暇の日数もワイマール共和国時代に比べて2倍に増えたそうです。

しかも企業が休暇期間や休日手当てを削ることも禁じたり、ドイツの自治体の中には有給休暇をとらせることを義務付ける所まであったそうです。まったく日本も見習って欲しいものですなw?

有給休暇だけでなく、長期休暇も与えられたというから驚きです。何でもヒトラーは「労働者には長期休暇が与えられなければならない、学生に夏休みがあるように労働者にも夏休みがなければならない」と言ったそうです。某ブラック企業の社長が絶対に言わないコメントw?

祝日もありました。ナチスは1938年までに、11の祝日や祭りの日を設けたそうです。政権獲得記念日だとか、ヒトラー誕生日だとかミュンヘン一揆記念日だとか。ただ、国民は祝祭日を全く自由に過ごせたわけではなく、ナチスのプロパガンダのための催しや集会などに参加しなければいけないこともあったようです。せっかくの休みなのにナチスのイベントに参加しなきゃいけないなんて辛いですね。せっかくの休みなのに会社の運動会でつぶれるようなものですね。



また、ヒトラーはお金持ち向けのレジャーを一般の労働者にも開放したのですね。歓喜力行団という団体が中心になってレジャーが提供されました。歓喜力行団とは今でいえばイベント会社みたいなもので、旅行だとかコンサートだとか、さまざまな余暇を国民に提供したのですね。

労働者の1ヶ月の賃金が約7万円(150ライヒスマルク)の時代、絶景が魅力なシュヴァルツヴァルトの森への一泊三食付きでなんと約1400円(2・8ライヒスマルク)。エルツ山地への温泉旅行へ8泊9日は約一万二千円(25ライヒスマルク)。驚きですね。安すぎます。日本に例えれば箱根や草津、沖縄といった観光地が格安で行けるようになる感覚ですね。旅行好きの僕には大変ありがたい話で、あの時代のドイツに僕が生まれてたらヒトラー総統を支持していたかもw?


これはヒトラーの「よく働いたら、よく休み、国家のために力を蓄えてくれ」という発想からきたものなんですね。「よく働いたら、休まず、会社のため死ぬまで働け」という日本のブラック企業の社長さんよりも良心的ですね、ヒトラーはw

しかし実際に歓喜力行団が主催する旅行に参加した労働者は少なかったのですね。むしろ、割とお金を持っていた人が利用していたのですね。

*この記事は2022年1月に加筆修正をしたものです。

ヒトラーの最大の功績と言われた、アウトバーン。これで多くの失業者が救われたと言われておりますが、実際はちょと事情が異なるそうです。

そもそもアウトバーンはヒトラーが登場する以前からアイデアがあり計画が進んでおりました。つまりワイマール時代から末に進められていたのです。あたかもヒトラーの功績のように語られているのです。

ヒトラーはアウトバーンの工事で60万人の雇用を約束すると曰いましたが、実際に雇用されたのは10万人程度。

またアウトバーンの工事には近代的な機械は使われず、人海作戦をとっておりました。ほとんど手作業だったため手間暇がかかり、重労働だったのですね。当然工事の最中に亡くなった人も少なくないでしょう。あまりの重労働に不満を持った人たちもいて、ストライキを起こしてはゲシュタポに取り締まれたとか。またさまざまな不満を手紙にしたため、ヒトラー宛に送った人もいたと言います。

このようにアウトバーンの工事は、失業者問題の根本的な解決にはならなかったのです。それでも、教科書とかを見ていると失業者が減っているように書かれております。これにはカラクリがあって、失業している若者を勤労ボランティアに動員したり、失業した女性を専業主婦にすることで、そういった人たちを失業者としてカウントしなかったのです。それであたかも失業者480万人(1933年)を翌年に272万(1934年)に減らしたかのようになっているのです。さらに1935年以降は戦争が始まったので、徴兵や軍需産業へ動員された人たちもいますから、結果的に減ったのですね。

これをヒトラーはあたかも「経済政策の成功」だと宣伝して回ったのですね。まさにサギも良いところ。しかし、そんなサギまがいなことでも人々は騙され、ヒトラー並びにナチスを支持したのです。数字は嘘をつかないと言いますが、そんなことはないのですね。数字を誤魔化すことはいくらでもできるのです。それをナチスはやったのですね。

*この記事は「ダークサイドミステリー」などを参考にして書きました。

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