History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

タグ:テレサ・テン

  


  
  東日本震災直後台湾から200億円を超える義援金が届いたといいます。すごいですね!謝謝ですね。

このように台湾の人たちは隣人が困ったら助けてあげるという倫理観があるようですね。それと、台湾の人たちが日本人の勤勉さ、まじめさに敬意を称もっていること、哈日族(ハーリージュー)とよばれる人たちが多いこともあげられます。哈日族とは、日本の文化、たとえばアニメだとかゲームだとかファッションだとか、歌舞伎だとか能だとか伝統文化に興味をもったりするような人のことです。また、テレサ・テンさんをはじめ、ジュディ・オングさんやオーヤン・フィーフィーさん、僕の世代には懐かしいブラック・ビスケッツのビビアン・スーさんたちの日本でのご活躍も台湾の人たちには励みでもあり、誇りでもあるのではないでしょうか。



また、テレサ・テンさんのお兄さまのフランク・テンさんも280万円も震災後寄付をされたそうです。
フランク・テンさんは「被災者の方々が早く困難を克服し、災害に打ち勝ち、住まいを建て直されるようお祈りしています」とコメントされたそうです。フランクさんは妹が日本でお世話になったから、その日本に何か恩返しをしようと思われたのかもしれません。すばらしいことです。

震災といえば、2018年に台湾で大きな地震がありました。2月6日の出来事です。


  

この地震で17人が亡くなられたそうです・・・・花蓮市内では、7階建てのマーシャルホテル(統帥大飯店)や、12階建てのビル、そのほかに民家41棟が倒壊する被害が発生したといいます。ライフラインでは停電1,336戸、断水100戸の被害となっているとのことです・・・

日本からは、安倍前総理が動画で手書きで応援メッセージを寄せ、激励する動画を公開した他、外国で唯一、国際緊急援助隊専門家チームを派遣したそうです。2月12日に行われた世論調査では、台湾に最も思いを寄せた国はどこだと思うかという設問で、日本との回答が75.8%に達し、2位の中国(同1.8%)を大きく引き離したといいます。また、阿部寛さんをはじめ多くの芸能人や著名人の方々も台湾の支援をされたそうです。



また、東北でも台湾の人たちを支援しようという動きがありました。以下、新聞の記事から引用します。

6日に発生した台湾東部の地震を受け、東日本大震災で被災し台湾から多額の支援を受けた宮城県南三陸町と、町内の復興商店街は8日、地震被災地の支援に役立ててもらおうと募金活動を始めた。

町は震災で被災し2015年12月に再建された町立南三陸病院の建設費として、台湾紅十字組織から約22億円を寄付を受けた。復興支援をきっかけに台湾から400人以上の高校生が町へ教育旅行に訪れたり、大学生が町内の観光施設でインターンシップを行ったりして交流を深めている。(略)

町内では16年2月に起きた台湾南部の地震の際にも学校や企業が募金活動を行い、約614万円の義援金を送った。
『河北新報』

また、ある方は「自宅が津波で被災した経験があり、今回の地震(2018年2月6日の台湾地震)の被害を知ってとても心配している。寄付金を現地で必要なものに使ってほしい」とコメントされております。


今回の台湾震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りするとともに、東北や台湾の復興をお祈りいたします。そして、日本と台湾の友好に多大な貢献をされたテレサ・テンさんに敬意を表します。


※ おまけ
テレサ・テンさんの歌を聴きながらお別れしましょう。曲は「月亮代表我的心」。すべて中国語(北京語)で歌われております。

https://www.youtube.com/watch?v=hj4bnnek9MU
(↑クリックすると動画がでてきます)

この記事は2022年6月5日に加筆修正しました) 天安門事件のは改革派の指導者だった胡耀邦こようほう総書記が亡くなり、胡耀邦の追悼をきっかけに、北京の天安門広場にあつまった数万の学生たちが「独裁打倒、官僚主義反対」をさけびました。そして大規模なデモに発展しました。すると、共産党は、こうした事態が全国に広がることを恐れて、「深刻な政治闘争」、「動乱」として徹底的に弾圧することを決めました。それは二週間ほど続き、人民解放軍は民主化を要求する学生や市民たちに発砲をしたのです。人民を守るはずの人民解放軍が罪のない市民に銃口を向けたのです。

当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。デモに参加した若者たちはテレサ・テンさんの「月亮代表我的心」を歌ったと。まるでデモというよりキャンプに来たようだったと当時の若者が語るほど。 そんな中、5月27日に香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。あとサングラスもかけていました。中国での不穏な動きにテレサさんは泣き濡れたと言います。その泣き濡れた目を隠すためにサングラスをしていたのです。 軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。

テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。


その時テレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。この歌は戦時中、抗日歌曲である「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。このコンサートには2億円の寄付金が集まったと言います。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。 しかしテレサさんの願いも虚しく中国政府は戒厳令を出し、25万もの人民解放軍を北京に集結。そして6月4日、事件は起こったのです。 装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。その犠牲者は中国当局の発表では三百十九人。しかし実際は千人は軽く超え、下手すれば一万人も超えるのではないかとも言われております。デモに参加した人は逮捕され、20年も拘束された人もいるほど。 テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が1997年に中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない。 この時、テレサさんはインタビューで「わたしチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです。だから今年の中国の出来事(天安門事件)全てに私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。私は自由でいたい。そして全ての人が移住であるべきだと思っています。それが脅かされているのが、とても悲しいです。でもこの悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰でもきっと分かり合える。その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。」と答えていたそうです。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさにテレサ・テンさんの歌の「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。 そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、フランス人男性出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。が、ケンカするほど仲が良いという事か、二人の関係はテレサさんがなくなるまで続きました。

まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。


そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。42歳の若さでした。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。最後にテレサさんの言葉を。 「初めて人前で歌った時、とても楽しかったです。賞金とかご褒美とかそういうのではないんです。歌うのが好きだったから。自分のために歌っただけです。歌えるだけで幸せだったんです。」


※ 参考文献
これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01


「映像の世紀 バタフライ・エフェクト」(NHK)

1 一生忘れらない三大ロマンス
 きょうはテレサさんのロマンスからお話しします。テレサさんは3名の男性とロマンスがありました。一人は、青年実業家、二人目は華僑の学生、そして三人目が財閥の御曹司(シンガポール華人)でした。とくに財閥の御曹司とは結婚まで考え、シンガポールに家を買ったほど。けれど、御曹司の家族が男尊女卑だったことと、歌手をやめろと言われたこともあり破談になりました。

破談はテレサさんに深い悲しみを与えました。しかし、失うものがあれば得るものはある。こうした悲しい経験は、テレサさんの歌手人生においてはプラスに働くのですね・・・あまり、こんなことは思いたくないのですが。でも、たしかにテレサさんの歌はこういう経験がないと歌えないと思います。技術的にはテレサさんの歌をうまく歌うことができても、それだけ。テレサさんが歌うと泣けるけれど、ほかの人が歌うと「うまいね」で終わってしまうことも少なくありません。

でも、テレサさんに限らず大歌手はプライベートではつらい経験をした人が多いのですね。島倉千代子さんなんて、不幸不幸の連続だったし、宇多田ヒカルさんもお母様をなくされたり、色々つらい経験をされ、それを乗り越えた今のほうが(若い時より)僕は好きですね。もちろん、プライベートも大変充実した歌手の方ももたくさんいらっしゃることも言うまでもありません。

2 荒木&三木コンビ
 失意の中テレサさんは三木たかしさん、荒木とよひささんに出会います。このお二人との出会いがテレサさんの歌手人生を大きく変えます。1984年1月に「つぐない」がリリースされます。作詞が荒木とよひささん、作曲が三木たかしさんです。しかし、発売して一週間で売れたのはたったの10枚。五週間たってもわずか50枚だけ。この曲がリリースされて1か月にテレサさんは再来日します。テレサさんが日本にきたのはパスポート事件以来5年ぶりです。(「つぐない」のレコードは日本ではなくシンガポールのスタジオで収録されたのですね。)

テレサさんは日本に来るなり、パスポート事件のことを謝罪し、会見がおわったところでミニライブが開かれ、「つぐない」が披露されました。それから「つぐない」が有線放送でどんどん順位をあげ、大ヒットにつながります。そして、この曲は有線大賞を受賞します。

そして翌年の1985年は荒木、三木のコンビで「愛人」が大ヒット。前年に続き有線大賞を受賞。そして、テレサさんはこの曲で紅白に初出場。まるで楊貴妃のような衣装でこの「愛人」を歌いあげました。 

しかし、テレサさんはこの「愛人」の歌詞にはじめは納得しなかったようです。「どうして私がこんな歌を歌わなければいけないんですか。悪いことをそそのかす女のひとの歌」とテレサさんはおっしゃったそうです。それもそのはず「愛人」は不倫がテーマの曲ですからね。しかし、仕事だから歌わないわけにはいけない。テレサさんは中国語で意味する「愛する人」について歌うのだと自分を納得させ、純粋な気持ちで歌うことにしました。歌詞に不満があったけれど、語尾に気持ちを表現することで切なさを伝える独特な歌唱法は、ここでも優れた冴えを見せました。

1986年には「時の流れに身をまかせ」をリリース。やはり荒木、三木コンビによる名曲です。この曲で3年連続有線大賞受賞、レコード大賞も受賞、この年の紅白にも出場されました。「時の流れ」は徳永英明さんら色々な方がカヴァーされており、今でもカラオケで上位に上がるほどの素晴らしい曲です。

翌年の1987年には「別れの予感」が大ヒット。しかし、この年の紅白は落選してしまうのですね。この年の紅白はオペラだとかシャンソンだとか、そういう歌手を出す一方で、流行歌手や人気歌手の何人かがあおりを食ったのです。テレサさんが紅白に再出場したのが1991年です。この年には「時の流れに身をまかせ」を歌いました。しかし、それ以降テレサさんは紅白に出ておりません。テレサさんは生涯三回しか紅白に出場しておりません。なぜでしょう?「長い時間拘束されるのが嫌」とか「演歌歌手と共演するのが嫌だ」「ギャラが安すぎ」みたいな理由で辞退したからではありません。むしろ、彼女は紅白に出たかったそうです。しかし、様々な事情があって紅白に出ることはかならず、1995年に亡くなってしまうのです。本当に惜しいなあ。

さて、テレサさんが日本についてこうおっしゃっていたそうです。

日本人は本当にあったかくて嬉しかった。歌は愛です。私の歌で一人でも日本の人の心が優しい気持ちになれば、それが本当に嬉しい。

1986年にテレサ・テンさんが1986年の紅白にご出場された時、当時の司会者がテレサさんの言葉を曲紹介の時に語ってくれたもの。日本では辛いこともあったが、それでもテレサを温かく支えてくれた日本人も少なくなかった。だからこそ言えた言葉なのです。

3 香港という曲
 それからテレサ・テンさんの歌で「香港」という歌があります。この曲も荒木・三木コンビの歌です。1989年につくられた曲で、エキゾチックな曲調の歌です。この曲は個人的に大好きな曲です。イントロと間奏の二胡の音色とテレサさんのどこか悲しげなボーカルが印象的。

1989年といえば中国に香港が返還されることが決まった年です(実際に返還されたのが1997年)。

その香港返還を記念して作られた曲らしいのです。この年に放映された日本の歌謡番組にテレサさんは香港からの中継でご出演されました。1989年当時のテレサさんは香港を拠点にしておりました。そして、「香港」を歌ったのですが、歌っている最中に泣き出してしまうのです。彼女はなぜ泣いたのでしょう?


それは本人に聞いてみないとわかりません。けれど、彼女が泣いたのは1989年6月4日におきた天安門事件と何らかの関係がありそうです。その辺のお話はまた次回。



※ 参考文献


これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01

テレサ・テンさんは失意のうちに日本を離れアメリカに渡りましたが、テレサさんはすでにアジアでの人気は桁外れだったので生活に困ることはなかったようです。東南アジアでも華僑の間で大人気。毎日忙しい日々にテレサさんですが、それでもテレサさんは「疲れは感じません。苦しい時もあれば楽しい時もあります。でも自分の決めた道ですから、困難なんか恐れず、楽しくハッピーにしないとね。ただ楽しく歌って、たまには恋もできたら良いですね」と前向き。

中国大陸でもテレサさんの曲は人気でしたが、次第に中国政府は一旦は容認した外国の文化や芸術を再び禁止。とりわけテレサ・テンさんの「何日君再来」を革命精神を堕落させる歌だとして禁止しました。小平は「精神汚染の害は甚大である。社会主義の指導者の不信感を撒き散らしている」と。しかし、人々はそれでも、平気でこの歌を歌ったり聴いたりしていました。「小圧倒老」(かわいいが年老いたを負かした)などという人もいました。小平によってテレサの曲とりわけ「何日君再来」は禁じられても、みんなテレサのことを愛し、逆に小平のことを煙たがっていたということでしょう。

一方、1980年にアメリカから台湾に帰国したテレサ・テンさんは、まっさきに中国との国境の島、金門島きんもんとうを訪れました。というか本人の意思というより台湾当局の要請です。そして兵士たちと歌を合唱し、大陸にむかって「『何日君再来』をいっしょに歌ってください」とよびかけました。台湾の国民政府は、中国でも人気を博していたテレサさんを利用したのでした。

当時の台湾は、大陸反攻政策をとり、中国大陸を共産主義勢力から奪還することを目指していたのです。さらに台湾当局はテレサさんに軍に協力するよう求めたのです。台湾では長年にわたって戒厳令を敷かれており、テレサさんが台湾当局の要請を断るのは不可能でした。「映像の世紀」でテレサさんが軍服を着て軍事演習に参加するシーンを見ましたが、その時のテレサさん、悲しげな表情でした。

そんな最中、事件が起こりました。中国人民解放軍の呉栄根少佐が台湾に亡命したのです。到着後、真っ先に呉栄根が面会を求めたのがテレサ・テンでした。二人は会うなり固く握手。呉が記者会見をしている横で、テレサさんは泣いていました。


※ 参考文献

これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01





(この記事は2022年6月5日に加筆修正しました)
1 「空港」のヒット
 テレサ・テンさんの台湾での活躍に、日本でデビューさせたいと考える音楽会社は何社もありました。テレサさんは1974年に日本デビューしたものの、当時はアグネス・チャンさんだとか、オーヤン・フィーフィーさんらの活躍の影になりほとんど注目を浴びませんでした。一枚目にだしたシングルもまったく売れません。音楽会社の関係者の人たちは「はじめはこんなもんだよ」とテレサさんを励ましたのですが、テレサさん本人の気は晴れません。テレサさんはすでにアジアでは大スターでしたから、なんで日本の人はわかってくれないんだって思ったかもしれない。

また、テレサさんは慣れない日本の生活で戸惑いも多くありました。台湾や香港では美空ひばりさん並みの歌手として扱われていたのに、日本では新人という扱いでしかありません。新曲キャンペーンのためにドサ回りもしなければいけないし、音楽番組に出ても楽屋は個室が与えられず、ほかの歌手と相部屋でした。アグネス・チャンさんには個室の楽屋が与えられたのに。

しかし、テレサさんにとって一番の悩みは言葉の壁でした。たとえば「わたしは」も「わだしは」になるなど、なかなか習熟することができません。それがつらく、なんども台湾に帰りたいと母親に訴えたそうです。しかし、テレサさんが日本で歌手として成功するには越えなければいけない壁でした。

テレサさんは「酔っ払いの前で歌いたくない」と泣くこともしばしばでした。テレサさんは台湾でもクラブで歌っていたから、そうした場の雰囲気には慣れていたのですが、日本と台湾では客の対応が違うようです。一緒に踊れとか、デュエットをしろと言われるのはもちろん、ひどいときは「脱げ」なんて言われたことも。それからテレサさんはだんだんクラブなどでは歌わなくなりました。

そんなテレサさんに転機がおとずれました。二曲目にだした「空港」がヒットしたのです。20代のOLをターゲットにしたのですが、この曲は40歳代の男性の心も捕らえました。この曲がヒットしてからテレサさんはだんだん忙しくなりテレビやラジオにも出るようにもなったのですが、地方公演やクラブやキャバレーなどの営業もひと月に4、5回こなしたといいます。忙しい日々が続き、月に一日しか休みがとれなかったといいます。テレサさんに限らず芸能人は本当に大変だと思います。本当に歌とか演技をすることが好きじゃないとやっていけない仕事だと思います。

2 月亮代表我的心
1977年、テレサさんが24歳の時に代表曲として名高い曲が生まれます。「月亮代表我的心」(月が私の心を映している)。もちろん中国語の歌です。のちにこの曲は多くの人にカヴァーされ、現在においても親しまれております。

中国では月は遠く離れた人と人を結びつけるモチーフとして詩や絵画に描かれてきたのです。この曲は台湾だけでなく、世界各地の華僑の人たちの心を揺さぶりました。華僑二世、三世となると中国語もわからない、中国大陸に一度も足を踏み入れていない人も少なくありません。そうした人たちの心にも、まだ見ぬ中国大陸への郷愁を感じたのでしょう。

そしてテレサの歌声は、生涯テレサさんが訪れることがなかった中国にも届くことになります。この頃の中国では嵐のような文化大革命の混乱が収拾にむかい、小平を中心に改革開放政策がおしすすめられました。改革開放政策とは、中国は社会主義の国でありながら、資本主義の良いところも取り入れていこう政策です。海外の情報や文化も様々なルートから入ってくるようになりました。

当時の中国人たちは、文化大革命の混乱でほとほと疲れていたので、平和におだやかにすごしたいという気持ちを強くおもっていました。そんなときにテレサさんのやさしい歌声が当時の中国人たちに響いたのでしょう。それまで外国の音楽を聞くことは法律で禁じられたのですが、この頃になると解禁、ラジカセも爆発的に売れたのです。ちなみに、若き日の習近平は、テレサ・テンさんの歌をテープが擦り切れるほど聴いたと言います。テレサさんの曲は中国大陸でも圧倒的な人気を得たのです。そのテレサ人気に危機感を感じたのが小平率いる中国政府。その辺のお話は次回触れます。

3 偽装パスポート事件
 順風満帆でいくかと思われたテレサさんですが、ここで事件が起こります。人生塞翁さいおうが馬といいますが、いいことばかり続かないのですね・・。シンガポールなどで公演していたテレサさんが、パスポートを偽装したという嫌疑で、東京入国管理事務所によって収監されてしまったのです。それは1979年の出来事です。

テレサさんは本来の台湾のパスポートではなくインドネシア発行のパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受けたのです。当時、1972年の日中国交正常化の影響で日本は台湾とは国交を断絶していました。そのため、台湾のパスポートでは日本に入国の際に非常に煩雑な手続きが必要でした。日本は1972年にいまの中国(中華人民共和国)と国交を結びましたが、そのとき台湾との国交を断絶してしまったのですね。

そんな煩雑な手続きを避けようとしてテレサさんはひそかにインドネシアのパスポートを入手して使ったのです。そこで彼女はインドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していました。これはテレサさんだけでなく当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを持っていたそうです。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかったのです。

そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となりました。この事件で日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求しました。「テレサを返せ」といわんばかりに。しかし当時テレサさんのプロデューサーが「要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろう」と考え、彼女をアメリカに渡らせることにしました。日本と台湾の政治的事情が、テレサさんの芸能活動にも支障をもたらしたのですね・・・

アメリカで暮らしたテレサさんが再び日本の土を踏むことになります。その辺のお話はまた次回に。





※ 参考文献 


これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01



「映像の世紀 バタフライエフェクト」(NHK)

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