1 日本がはじめて参加したオリンピック
オリンピックが始まり、日本は早くも金メダルを獲得し、盛り上がっております。一方で、コロナ禍ということもあり、反対意見もありますので、なかなか難しいところですが、五十数年ぶりの東京開催ということで、多くの国民が注目を集めていることは確かでしょう。戦前も日本は何度かオリンピックに参加し、国民は熱狂しました。日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年(明治45年/大正元年)、スウェーデンのストックホルムで開催された第5回大会です。選手はマラソンの金栗四三と短距離走の三島弥彦の二人。二人とも大学生でした。役員の団長は嘉納治五郎、監督は大森兵蔵。四人は福井県の敦賀から日本海を渡り、ロシアのウラジオストックに着き、そこからシベリア鉄道に乗り換え、ストックホルムに向かったと言います。日本からストックホルムまで18日かかったと言います。昔は飛行機がない時代でしたからね。行くだけで疲れちゃいますね。
入場行進の時、プラカードを持ったのは金栗でした。そのプラカードは「JAPAN」ではなく「NIPPON」と書かれておりました。驚きですね。おそらく、日本の国名の表記について色々な主張や混乱がオリンピック委員会の間であったのでしょうね。
競技では三島が二種目を最下位で敗退し、400メートル走の準決勝を前に疲労のため棄権、マラソンの金栗も棄権。金栗は26・7キロ時点で日射病のため、意識を失い、道沿いの農家で介抱され、目を覚ました時には競技が終了していたのですね。当時のストックホルムは気温が40℃と凄まじい暑さだったのです。
そして、五十五年後の1967年、スウェーデンのオリンピック委員会は、金栗をストックホルムに招待します。オリンピック委員会も粋なことをしますね。
76歳の金栗は思い出のスタジアムをゆっくり歩き、ゴールテープを切りました。そして、日本人記者団が金栗を囲むと、金栗は「長い道中でした。その間に孫が五人できました」とユーモアたっぷりに語られたそうです。
2 日本人のメダリスト
ここでクイズです。日本人が一番最初に取ったメダルの種目は次のうちどれでしょうか?
パン食い競争という種目がオリンピックにあったら、ぜひ僕も選手として出場したいですねw僕はスポーツは苦手でも、パンが好きなので、運動会でもパン食い競争は好きでしたね。それはともかく、正解は水泳と柔道という気がしますが違います。テニスが正解です。1920年(大正9)のアントワープ大会でテニスシングルスで熊谷一弥選手が銀メダルを取ったのです。
それから、日本はオリンピックに出場し、いくつもメダルを取りました。戦前、日本が参加したオリンピックのメダルの内訳は、金15、銀15、銅16の合計46個もメダルを取っていたのですね。戦前から日本は強豪だったのですね。すごいことであり、誇らしいことであります。しかも、戦前といえば西洋のスポーツが入ってきてまもない頃です。また、現代よりも体格差が欧米人と違うのに、この成績はすごいと思います。
特に水泳は戦前からお家芸でした。「前畑がんばれ」のラジオ中継で有名になった前畑秀子選手は1932年(昭和7)のロサンゼルス・オリンピックでは銀メダル、そして1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは、なんとコーチもつけず、たった一人で挑戦し、みごと金メダルを取ります。前畑は二度目のオリンピックで非常に重いプレッシャーに押しつぶされそうになりますしかし、誰よりも練習したのだから、負けるはずがないと彼女は気持ちを切り替え、本番に臨んだと言います。前畑選手は、もしメダルが取れなかったら、「死のうかと思った」と。何も死ぬことはないじゃないですかって思うのですが、それくらい前畑は真剣だったし、当時の日本人も期待していたのですね。後年、「他人に勝つよりも、自分に勝つことの方が難しい」と前畑は語られたそうです。
3 陸上大国日本
現代の日本のオリンピックの花形は、体操、柔道、水泳といったところですが、戦前は、なんといっても陸上競技でした。1928(昭和3年)のアムステルダム・オリンピックでは織田幹雄選手が三段跳びで日本初の金メダルを取ったのですね。当時の日本は専門的なコーチがいなかったので、織田はなんと独学で練習をしたと言います。本屋を歩き回り、西洋の陸上に関する本を買っては読んだり、ことあることに天井や木の枝に飛びついてジャンプ力を鍛えていたのですね。そうした努力が実っての金メダルです。
男子だけでなく、女子でもすごい選手がいました。人見絹枝です。八百メートルで銀メダルを取ったのです。人見絹枝にはすごいエピソードがありました。人見は本来は100メートルや六種競技の選手でした。しかし、1928年(昭和3)のアムステルダムダム大会では、ことごとく敗退。「これでは日本に帰れない」といって、急遽、800メートルに出場したのです。大会本番で種目を変えたのですよ。すごくないですか?
800メートルと100メートルでは走り方が異なるし、筋肉の使い方や呼吸の仕方、走る速さやペース配分も全然違うのです。当然周囲は反対しました。けれど、人見はそれを押し切って出場。予選を勝ち抜き見事銀メダル。しかも決勝レースでは、スウェーデンの選手と接触するというアクシデントがあったのですが、それがなければ金メダルだったかもしれないと。
その後、人見は1930(昭和5)にプラハでおこなわれた第3回国際女子競技大会では、三日間に七科目の試合をこなし、走り幅跳びでは優勝したと言います。スタンドは「ヤポン(日本)、ヒトミ」の大歓声まで起こったといいます。ところが、人見は走り幅跳びでは優勝をしたものの、総合2位で終わった上に、女子チーム全体を見ても前回大会やオリンピックに比して結果が悪かったのですね。それで、人見らが日本へ帰国するのですが、その途中の船の上で、新聞や手紙には、人見たち女子チームを非難する内容が書かれていたのですね。人見たちはショックを受けて、傷ついたといいます。
しかも、人見は選手でありながら、新聞社で働いていたのですね。仕事と選手の活動、それに講演などあって、正月まで休めなかったのですね。そうして無理がたたって、人見は1931年(昭和6)、肺炎で24歳の若さで亡くなってしまうのですね。
昭和7年のロサンゼルス大会でも、三段跳びで南部忠平選手が金メダル、大島謙吉選手も銅メダルと、、三段跳びは日本のお家芸といわれたのですね。
他にもこのロサンゼルス大会では、棒高跳びは、西田修平選手が銀メダル、1000メートル走では吉岡隆徳がメダルこそ取れなかったものの、6位に入賞するなど好成績をおさめます。吉岡は暁の超特急知呼ばれたそうです。
昭和11年のベルリン大会では、三段跳びで日本が金銀を独占しました。金が田島直人選手、銀が原田正夫選手、棒高跳びでは西田修平と大江季雄選手が銀メダルと銅メダルを取ったと言います。西田と大江はあえて、2位、3位決定戦を行わず、先輩の西田を二位、後輩の大江を三位、銀と銅のメダルを二つに割って、つなぎ合わせたと言いますこれは友情のメダルとして、後世に語り継がれるようになりました。
4 アイヌ民族が初めて参加したオリンピック
日本が国としてオリンピック初参加したのは、ストックホルム大会ですが、それ以前にアイヌ民族がオリンピックに参加していたのですね。1904年(明治37)、アメリカで行われた第3回セントルイスオリンピックです。
この大会にアイヌの人が四人参加しました。その四人のうち、一人がやり投げで3位、別のもう一人がアーチェリーで2位になりました。結構優秀な成績ですね。セントルイス大会では、セントルイス万国博覧会と同時開催をしました。万国博覧会は、技術の進化と工業化による西洋文明の進歩を宣伝し、賞賛する場でした。そのため、西洋の進歩をアピールする一方で、未開の民族の展示場も作られました。そこには、世界各地の少数民族の文化、生活をまるでめずらしい動物の見せ物のように展示していたのです。たとえば、アメリカの先住民であるスー族、フィリピンのネグリト、アフリカのピグミー族やズールー族、そして日本のアイヌ民族など。
そして、オリンピックにも少数民族の人たちをオリンピックに参加させました。オリンピックの主催側は、未開の民族がスピードやスタミナ、筋力が優れていることを示したかったのでしょう。競技種目は競争ややり投げ、アーチェリーなど。しかし、いくら身体能力が高くても、競技のルールもロクに知らされず、練習もロクにさせてもらえなかったのですね。だから、ほとんどの参加者は好記録を出せなかったのですね。要するに大会本番で笑い物にしたかったのでしょう、ひどい話です。
なお、オリンピックの父、クーベルタンはセントルイス大会に出席しなかったのですね。その理由の一つが、この少数民族の競技会だったのです。彼は先住民や少数民族を見せ物にする民族差別に反対したといわれております。
* 参考文献
オリンピックが始まり、日本は早くも金メダルを獲得し、盛り上がっております。一方で、コロナ禍ということもあり、反対意見もありますので、なかなか難しいところですが、五十数年ぶりの東京開催ということで、多くの国民が注目を集めていることは確かでしょう。戦前も日本は何度かオリンピックに参加し、国民は熱狂しました。日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年(明治45年/大正元年)、スウェーデンのストックホルムで開催された第5回大会です。選手はマラソンの金栗四三と短距離走の三島弥彦の二人。二人とも大学生でした。役員の団長は嘉納治五郎、監督は大森兵蔵。四人は福井県の敦賀から日本海を渡り、ロシアのウラジオストックに着き、そこからシベリア鉄道に乗り換え、ストックホルムに向かったと言います。日本からストックホルムまで18日かかったと言います。昔は飛行機がない時代でしたからね。行くだけで疲れちゃいますね。
入場行進の時、プラカードを持ったのは金栗でした。そのプラカードは「JAPAN」ではなく「NIPPON」と書かれておりました。驚きですね。おそらく、日本の国名の表記について色々な主張や混乱がオリンピック委員会の間であったのでしょうね。
競技では三島が二種目を最下位で敗退し、400メートル走の準決勝を前に疲労のため棄権、マラソンの金栗も棄権。金栗は26・7キロ時点で日射病のため、意識を失い、道沿いの農家で介抱され、目を覚ました時には競技が終了していたのですね。当時のストックホルムは気温が40℃と凄まじい暑さだったのです。

そして、五十五年後の1967年、スウェーデンのオリンピック委員会は、金栗をストックホルムに招待します。オリンピック委員会も粋なことをしますね。

2 日本人のメダリスト
ここでクイズです。日本人が一番最初に取ったメダルの種目は次のうちどれでしょうか?
- 水泳
- 柔道
- パン食い競争
- テニス
パン食い競争という種目がオリンピックにあったら、ぜひ僕も選手として出場したいですねw僕はスポーツは苦手でも、パンが好きなので、運動会でもパン食い競争は好きでしたね。それはともかく、正解は水泳と柔道という気がしますが違います。テニスが正解です。1920年(大正9)のアントワープ大会でテニスシングルスで熊谷一弥選手が銀メダルを取ったのです。
それから、日本はオリンピックに出場し、いくつもメダルを取りました。戦前、日本が参加したオリンピックのメダルの内訳は、金15、銀15、銅16の合計46個もメダルを取っていたのですね。戦前から日本は強豪だったのですね。すごいことであり、誇らしいことであります。しかも、戦前といえば西洋のスポーツが入ってきてまもない頃です。また、現代よりも体格差が欧米人と違うのに、この成績はすごいと思います。
特に水泳は戦前からお家芸でした。「前畑がんばれ」のラジオ中継で有名になった前畑秀子選手は1932年(昭和7)のロサンゼルス・オリンピックでは銀メダル、そして1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは、なんとコーチもつけず、たった一人で挑戦し、みごと金メダルを取ります。前畑は二度目のオリンピックで非常に重いプレッシャーに押しつぶされそうになりますしかし、誰よりも練習したのだから、負けるはずがないと彼女は気持ちを切り替え、本番に臨んだと言います。前畑選手は、もしメダルが取れなかったら、「死のうかと思った」と。何も死ぬことはないじゃないですかって思うのですが、それくらい前畑は真剣だったし、当時の日本人も期待していたのですね。後年、「他人に勝つよりも、自分に勝つことの方が難しい」と前畑は語られたそうです。
3 陸上大国日本
現代の日本のオリンピックの花形は、体操、柔道、水泳といったところですが、戦前は、なんといっても陸上競技でした。1928(昭和3年)のアムステルダム・オリンピックでは織田幹雄選手が三段跳びで日本初の金メダルを取ったのですね。当時の日本は専門的なコーチがいなかったので、織田はなんと独学で練習をしたと言います。本屋を歩き回り、西洋の陸上に関する本を買っては読んだり、ことあることに天井や木の枝に飛びついてジャンプ力を鍛えていたのですね。そうした努力が実っての金メダルです。
男子だけでなく、女子でもすごい選手がいました。人見絹枝です。八百メートルで銀メダルを取ったのです。人見絹枝にはすごいエピソードがありました。人見は本来は100メートルや六種競技の選手でした。しかし、1928年(昭和3)のアムステルダムダム大会では、ことごとく敗退。「これでは日本に帰れない」といって、急遽、800メートルに出場したのです。大会本番で種目を変えたのですよ。すごくないですか?
800メートルと100メートルでは走り方が異なるし、筋肉の使い方や呼吸の仕方、走る速さやペース配分も全然違うのです。当然周囲は反対しました。けれど、人見はそれを押し切って出場。予選を勝ち抜き見事銀メダル。しかも決勝レースでは、スウェーデンの選手と接触するというアクシデントがあったのですが、それがなければ金メダルだったかもしれないと。
その後、人見は1930(昭和5)にプラハでおこなわれた第3回国際女子競技大会では、三日間に七科目の試合をこなし、走り幅跳びでは優勝したと言います。スタンドは「ヤポン(日本)、ヒトミ」の大歓声まで起こったといいます。ところが、人見は走り幅跳びでは優勝をしたものの、総合2位で終わった上に、女子チーム全体を見ても前回大会やオリンピックに比して結果が悪かったのですね。それで、人見らが日本へ帰国するのですが、その途中の船の上で、新聞や手紙には、人見たち女子チームを非難する内容が書かれていたのですね。人見たちはショックを受けて、傷ついたといいます。
しかも、人見は選手でありながら、新聞社で働いていたのですね。仕事と選手の活動、それに講演などあって、正月まで休めなかったのですね。そうして無理がたたって、人見は1931年(昭和6)、肺炎で24歳の若さで亡くなってしまうのですね。
昭和7年のロサンゼルス大会でも、三段跳びで南部忠平選手が金メダル、大島謙吉選手も銅メダルと、、三段跳びは日本のお家芸といわれたのですね。
他にもこのロサンゼルス大会では、棒高跳びは、西田修平選手が銀メダル、1000メートル走では吉岡隆徳がメダルこそ取れなかったものの、6位に入賞するなど好成績をおさめます。吉岡は暁の超特急知呼ばれたそうです。
昭和11年のベルリン大会では、三段跳びで日本が金銀を独占しました。金が田島直人選手、銀が原田正夫選手、棒高跳びでは西田修平と大江季雄選手が銀メダルと銅メダルを取ったと言います。西田と大江はあえて、2位、3位決定戦を行わず、先輩の西田を二位、後輩の大江を三位、銀と銅のメダルを二つに割って、つなぎ合わせたと言いますこれは友情のメダルとして、後世に語り継がれるようになりました。
4 アイヌ民族が初めて参加したオリンピック
日本が国としてオリンピック初参加したのは、ストックホルム大会ですが、それ以前にアイヌ民族がオリンピックに参加していたのですね。1904年(明治37)、アメリカで行われた第3回セントルイスオリンピックです。
この大会にアイヌの人が四人参加しました。その四人のうち、一人がやり投げで3位、別のもう一人がアーチェリーで2位になりました。結構優秀な成績ですね。セントルイス大会では、セントルイス万国博覧会と同時開催をしました。万国博覧会は、技術の進化と工業化による西洋文明の進歩を宣伝し、賞賛する場でした。そのため、西洋の進歩をアピールする一方で、未開の民族の展示場も作られました。そこには、世界各地の少数民族の文化、生活をまるでめずらしい動物の見せ物のように展示していたのです。たとえば、アメリカの先住民であるスー族、フィリピンのネグリト、アフリカのピグミー族やズールー族、そして日本のアイヌ民族など。
そして、オリンピックにも少数民族の人たちをオリンピックに参加させました。オリンピックの主催側は、未開の民族がスピードやスタミナ、筋力が優れていることを示したかったのでしょう。競技種目は競争ややり投げ、アーチェリーなど。しかし、いくら身体能力が高くても、競技のルールもロクに知らされず、練習もロクにさせてもらえなかったのですね。だから、ほとんどの参加者は好記録を出せなかったのですね。要するに大会本番で笑い物にしたかったのでしょう、ひどい話です。
なお、オリンピックの父、クーベルタンはセントルイス大会に出席しなかったのですね。その理由の一つが、この少数民族の競技会だったのです。彼は先住民や少数民族を見せ物にする民族差別に反対したといわれております。
* 参考文献