history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: クイズ

今日はパラオのお話をします。パラオの話は以前にも取り上げました。パラオの国旗は日本の日の丸に似ているけれど、別に日本の国旗をモデルにしたわけじゃないというお話でした。さて、そのパラオにまつわるクイズをだします。

「Bantosang Tsukarenaosu」

これはパラオ語なのですが、日本語がもとになっております。読み方は「バントウサン、ツカレナオス」と読みます。以下の4つからお選びください。



  1. 番頭が疲れている

  2. 番頭さん、お風呂に入ろう

  3. マスター、ビールを飲みたい

  4. 板東さん、つかえ治す






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徳川家茂のことは前回の記事で書きましたが、今日は家茂の苦労話を。家茂は上洛し、孝明天皇に謁見。孝明天皇は攘夷を命令します。家茂は困惑します。アメリカなどの諸外国とは条約を結んでいる上に、武力も圧倒的に向こうのほうが上。戦争を仕掛けるわけにはいかない。かといって、天皇の命に背くわけにもいかない。家茂がトランプのような人だったら、孝明天皇の要望も「条約を結んだんだからしょうがないだろ!ガタガタ言うな!」ってキッパリ断るのでしょうが、家茂は心優しい人。悩んだ末に、孝明天皇と攘夷の約束をしてしまいます。その時の家茂は、ストレスも溜まりまくりだろうな。ましてや家茂はいい人だから、自分の心の中にあるモヤモヤを出すタイプではなさそうだし。

そんな折、1863年5月10日、長州藩が下関の関門海峡にて勝手にアメリカの商船を攻撃してしまうのですね。そうしたら報復父してアメリカの軍艦が長州を攻撃、長州藩はボロ負けしてしまいます。世にいう下関戦争です。長州戦争での負け戦の情報を孝明天皇は知ったのでしょうね。それから孝明天皇は無理な攘夷は危険だと感じたのです。家茂は再び上洛します。その時、孝明天皇が家茂に行った言葉が、

「汝は朕が赤子。朕、汝を愛すること子の如し 汝 朕を親しむこと父の如くせよ その親睦の厚薄コウハク 天下挽回の成否に関係す。」


孝明天皇は家茂に「自分を父と思え」といったのですね。家茂と孝明天皇は義理の兄弟の関係なのに、父と思えと言う言葉を賜っている。それくらい、家茂を孝明天皇は信頼しているだなって。同時に攘夷もしなくて良いといってくれたのです。その慈愛に満ちた孝明天皇の言葉に家茂もほっとしたことでしょう。家茂は一旦将軍職をやめようとしたのですね。何があったのでしょう?結論から申し上げれば、内乱と諸外国の圧力に加え、幕府内の対立が重なり、家茂の神経はすり減らし、将軍の辞職を望んだのですね。内憂外患な状況はもはや家茂のキャパを超えてしまったのですね。同じ将軍でも北の将軍様だったら、こんな状況でも図々しくふんぞり返っていたでしょうが、家茂は心優しい人物だったから余計に悩んだでしょう。

当時は、倒幕運動も盛んで、諸外国の外圧も相当なものでした。幕府は諸外国より兵庫(神戸)の開港と通商条約締結を結ぶよう強く求められていたのです。幕府内ではこのことに意見が分かれていたのです。開港やむなしという意見と、開港はダメという意見。開港やむなしと言うのは幕府の幹部たち。開港はダメというのが当時の将軍後見人だった一橋慶喜。慶喜は将軍を凌ぐほどの力を持っていて、一会桑というグループを作っていたのです。一橋家、会津藩、桑名藩からなる一大勢力で、京都を拠点としておりました。一会桑は朝廷と強く結びついていたのです。幕府の幹部連中は朝廷をコントロールしようという考え方。つまり幕府は朝廷を下に見ていたのですね。一方の一会桑は朝廷の意向を第一に考えておりました。幕府の幹部連中と一桑会の対立に、家茂は板挟みになって心を痛めました。その時、家茂がいった言葉が、

「なんとも致呉候」

どうにでもしてくれ、という意味。とうとう朝廷に辞表を出し、将軍職に慶喜を譲ろうとしたのです。しかし、慶喜は家茂を説得し、家茂の将軍辞職を思い止まらせたのです。慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えたのでしょうね。

そして長州藩が幕府に立ち向います。家茂は大阪城に行き総大将として迎え討ちますが、突然、喉の痛みと胃腸の異常、そして足が腫れるのです。脚気です。家茂は虫歯が30本もあったくらい、甘いものが好きでした。家茂出陣の際にも甘いものが届けられたのです。糖分は脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させるのですね。それで症状が悪化したのです。孝明天皇は家茂の治療に自らの御典医を送ったものの、家茂は慶応2年(1866)7月20日に大阪城にて死去。将軍在位は8年9ヶ月、21歳の若さでした。家茂は若くしてなくなりましたが、幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いだのですね。バランスが良く、人との信頼関係を上手に築ける人物でした。逆に言えば調整型の人物。こういう人との信頼関係を作りつつ、ことに当たる政治家は平時はともかく激動の世には向かないのですね。戦後の政治家で言えば、竹下登元首相や羽田孜元総理みたいな方でしょうか。特に羽田元首相は金丸信から「平時の羽田」(*1)と言われたくらいですから。激動の世には吉田茂のような強いリーダーシップが必要なのですね。しかし、大変慕われていたリーダーであることは間違いなく、勝海舟は、家茂の死を持って「幕府の終わり」とつぶやいたほど。

*1 ちなみに金丸は「平時は羽田、乱世は小沢(一郎)、大乱世は梶山(静六)」といった



クイズです。今日は、深谷ねぎについて。さて、この深谷ねぎは普通のネギとちがい、特徴があります。その特徴とは次のうちどれでしょうか?





  1. メロンなみに甘い




  2. 玉ねぎにちかい形をしている




  3. 防虫効果がある




正解は1番です。利根川がたびたび氾濫はんらんをおこすのですが、その氾濫により肥沃ひよくな土が上流から運ばれるのです。そうした栄養分が豊富な土壌が深谷ネギのおいしさにつながっているのですね。僕は昨年、大河ドラマ「青天を衝け」に影響されw、埼玉県の深谷にいってきました。深谷は渋沢栄一の故郷です。行ったら、ネギ畑がたくさんあって、その広大な景色にまるで北海道のようでした。お土産にネギも買ったけれど、美味しかったこと。僕が深谷ねぎのことを知ったのは数年前に放送されたNHKの高校講座の地理でした。番組を見て「ネギが甘い?そんなことあるもんか」と思っていたのですね。でも、いつかは食べてみたいとずっと思っていたのが、昨年念願かなったのです。食べてみたが、普通のネギとは明らかに違い甘味があって美味しかったです。NHKの高校講座での深谷ねぎの話は本当だったと確認できてよかったです。

深谷ねぎの由来は、明治初期に藍の値が暴落したことをきっかけです。「青天を衝け」にも出てきましたが、深谷は元々は藍の産地でした。渋沢栄一の実家でも藍を愛を込めてw育てていたのですね。幼い頃から藍の売買を手伝い、それで渋沢栄一は商売のコツを身に付けたと言います。藍だけでは苦しくなったので、明治30年頃から新しい作物としてネギの本格的栽培が始まったのです。大正時代にネギの価格が暴落したのですが、その時農業指導者の渋沢治太郎は、地元の乾物問屋に頼んで、北海道・東北地方へ深谷ねぎの商標を付けて出荷したそうです。これが、深谷ねぎの名称の始まりであると。ちなみに渋沢治太郎は、渋沢栄一の甥だそうです。

また、深谷にある渋沢栄一の生家にも訪れました。そこのすぐ近くにある、飯屋さんがあるのですが、そこで、渋沢栄一が好きだったという煮ほうとうをいただきました。ネギも入ってて、美味でした。ほうとうというと山梨県のイメージがあり、味噌やカボチャを入れるのですが、深谷のほうとうは、味噌も入れず、あっさりとした味です。

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(ねぎ畑)

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(いづれも深谷の景色)
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(煮ほうとう)

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