History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 音楽



今日は息抜きに音楽をフリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」。1990年(平成2)の楽曲です。この年はバブルが弾けた年です。教科書を見ると1991年(平成3)にバブルが崩壊したとありますけれど違います。1990年はまだ一部を除けば、世間一般にはそのバブル崩壊の恐ろしさが広まっていなかった頃です。そんな恐ろしいことになっていることを知らずに、世間の人たちは「踊るポンポコリン」の歌詞じゃないけれど、「ピーヒャラ、ピーヒャラ」と踊っていたのですね。


僕はまだ中学三年生で受験勉強に明け暮れていた頃です。当時の僕はJPOPに興味がなく、おばあちゃんと一緒に昭和歌謡を楽しんでいました。だから、この曲を知ったのはごく最近です。フリッパーズ・ギターは小沢健二さんと小山田圭吾さんのコンビです。今見ると大変豪華なお二人。小沢健二さんの楽曲の方は「ラブリー」とかそこそこ知っていたのですが、小山田さんの方は、お名前は以前から存じ上げていて、すごいミュージシャンだということも存じ上げておりました。が、どんな歌を歌われていたのか、全く知らなかったのです。改めて聴かせていただくと、音楽性が豊かな方だなって。また、小山田さんはセカオワのFUKASEさんに歌声がそっくりでびっくりしました。その小山田さんが最近になって、物議を醸し出したのですね・・・


さて、オリンピックが今日からはじまります。めでたいといえばめでたいのですが、コロナ禍ですからねえ・・・いまいち盛り上がりにかけるというか。オリンピックになると各国から人が来るわけですから、コロナの感染者が増えるんじゃないかという懸念すらあるようで・・・オリンピックの開催には賛否が非常に分かれましてね。ただ、オリンピックを中止にしたら、これまで一生懸命頑張ってきた選手たちがかわいそうだなって。なかなか難しい問題です。


で、開会式の音楽を小山田圭吾さんが担当されるはずだったのですね。しかし、過去の彼が学生時代に陰湿なイジメをしてしまい、その問題が発覚して、小山田さんも辞退されました。しかも小山田さんは20代の時に雑誌のインタビュー(20年くらい前)で、そのイジメを武勇伝のように語ったのですね。いじめた相手も障害を持った子だったと言うから余計に問題になったのですね。ましてやオリンピックは平和の祭典であありますし、オリンピックだけでなく障害者の祭典パラリンピックも控えておりますし。それでSNSも炎上したのですね。

カズレーサーさんが、過去のことではなく、小山田さんが何らかのアクションを起こさなかったことがそもそもの問題だと仰って腑に落ちました。小山田さんは、いじめた人間に謝りたいとおっしゃっておりますが、謝りたいというなら、なぜもっと早い段階で謝らなかったのかと。確かにそうですよね。10年くらい前、遅くとも今年の春先にでも、今の私とあの時の自分は違うという発言をされていれば、ここまで叩かれなかったはず。今日まで反省しなかったのは、今回の件が発覚するまで小山田さんがイジメを悪いことだと思っていなかったのかって勘繰ってしまいます。










東日本大震災ではおびただしい被害がもたらされましたが、東北地方は意外と地震が多い地域で、1978年(昭和53年)にも宮城県で地震があったようです。震度は仙台で5でした。東日本大震災に比べると小さいかもしれないが、それでもかなり大きな地震だったようです。

宮城沖地震で、マグニチュードは7.4

死者は28人、全壊1183棟、半壊はんかい5574棟

地震が起きた日にちは1978年6月12日の17時14分25秒

亡くなった人のうち18人の方々がブロック塀などによる圧死だったとか・・・・

負傷した方々も塀や門柱の下敷したじきになったとか。また、ウィキペディアにこのようなことも書かれております。

この地震では、ライフライン等が停止し都市生活が麻痺まひした。これは、50万人以上の大都市(当時旧仙台市は人口およそ65万人)が経験した初めての都市型地震災害であるとも言われている。

仙台市では電気・水道・固定電話は8日目までにほぼ復旧を見たもののガスの復旧率が99%を超えたのは地震発生後27日目であった。


ライフラインが止まるのは怖いことです・・・

6月12日は宮城県では「県民防災の日」とされ、地震に備えた防災訓練がなされる。また、東北放送ラジオでは、毎日夕方17時14分になると「1978年6月12日、宮城県沖地震が発生した時間」であることが冒頭でアナウンスされる地震防災番組が放送されている。(ウィキペディアより引用)


また、 この年にさとう宗幸さんの「青葉城恋唄」がヒットしました。しっとりとしたいい曲です。また、さとう宗幸さんの美声にもうっとりします。カラオケのDAMでこの歌を歌うと本人映像でさとう宗幸さんご本人がモニターの画面にさとう宗幸さんは、この年紅白歌合戦にもご出演されました。この歌は復興ソングとして当時話題を呼び、東日本大震災の時も、この歌で励まされた方もいらっしゃるのではないかと。





今日は息抜きに音楽を。サーカスの「風のメルヘン」。この曲はアニメ「まんが日本史」のエンディングソングです。名曲です。サーカスといえば「ミスターサマータイム」とか「アメリカン・フィーリング」とか名曲がいろいろありますが、個人的には「風のメルヘン」が好きです。曲調も綺麗だし、サーカスのハーモニーがまた美しい。また曲を聴いていると歴史のうねりさえ感じます。「まんが日本史」は僕が子供の頃に放映され、今もcsのヒストリーチャンネルで再放送してます。アニメですが歴史の勉強になるし、また声優陣が永井一郎さんとか大御所がずらり。見応えがあります。


GOLDEN☆BEST/サーカス 歌の贈り物
サーカス
ソニー・ミュージックハウス
2003-03-19

今日は水森かおりさんの「安芸の宮島」。水森かおりさんといえば、ご当地ソングの女王と呼ばれておりますが、数ある水森さんのレパートリーの中でもこの曲が印象に残っております。僕自身も以前に安芸の宮島に訪れたことがあるのですね。安芸の宮島は広島にあります。広島駅から路面電車に揺られて終点が宮島なのです。大変、景色が素晴らしく僕も驚きました。宮島にある厳島神社訪れたのですが、竜宮城みたいでした。


厳島神社の社伝によると、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされております。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説があるとか。

厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えらております。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされております。僕もロープウェイで登ったことがあるのですが、すごいところです。


そして厳島神社の社殿を整えたのが平清盛です。
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風の盆恋歌 (新潮文庫)
高橋 治
新潮社
1987-08-28



風の盆恋歌
テイチクレコード
2017-08-09



きょうは石川さゆりさんの「風の盆恋歌」。紅白でも二回歌われております。石川さゆりさんの大京曲の一つですが、紅白では「天城越え」や「津軽海峡・冬景色」ほど歌われておりません。この曲はとても情緒があって美しい曲調の歌です。もっと歌われてもいい歌だとおもうのですが。

この曲の舞台は、富山県の八尾。毎年9月1日から3日にかけて行われる「おわら風の盆」というおまつりがモチーフになっております。毎年このお祭りを一目見ようと全国から観光客が八尾に訪れますが、この八尾の「おわら風の盆」が注目されるようになったのは、そんなに昔の話ではないのです。少なくとも昭和30年代のころまでは地元の人たちがひっそりと続けてきた静かなお祭りだったのです。

昭和60年(1985年)に高橋治さんの小説「風の盆恋歌」が出版されました。八尾などを舞台にした大人の恋の物語、というか不倫がテーマのお話です。僕も昔読んだことがあります。おっと、僕は不倫の恋にあこがれてなんかいませんよw

そして平成元年(1989年)に石川さゆりさんの、この曲がヒット。その年には大トリで石川さんは「風の盆恋歌」を歌われました。ちなみに二回目にこの歌が歌われたは平成10年(1988年)でした。
小説と、歌のヒットで「おわら風の盆」は注目されるようになったのです。

それでは、「おわら風の盆」の歴史を語らせていただきます。

「おわら」がいつ始まったのかは、はっきりはわかりません。なにしろ正確な文献がないものですから。「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩のお殿様から下された「町建御墨付まちだておすみつき」を取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。

え、「町建御墨付」って何かって?それは、「ここに町をつくっていいですよ」という許可書だそうです。八尾の街をつくったのは米屋少兵衛(こめやしょうべえ)という人物でした。

江戸時代初期の寛永13(1636)年、米屋少兵衛が、加賀藩から町建御墨付を拝領して町をつくったといいます。その町こそ八尾町というわけです。

しかし、元禄15年になって八尾の役人が米屋少兵衛の子孫に町建御墨付の書類を返すように求めました。なぜ、役人が書類を返してほしいといったのか、僕にはわかりません。ともかく、八尾の役人たちにとって、その書類が必要であったことは間違いないでしょう。

少兵衛の子孫は書類を渡そうとしなかったので、役人は一計を案じ、桜の季節に八尾の町衆にお花見をはじめ、どんちゃん騒ぎをしたといいます。そのどさくさにまぎれて米屋の蔵から書類を持ち出させました。無事に書類が戻ったということで、役人はお祝いに「3日間昼夜を問わず、踊ったり歌ってもしてよいぞ」というお触れを出しました。それが、おわら風の盆の始まりだということです。

どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物もジャンジャン鳴らして派手にやったといいます。風の盆は、三味線と幻想的な胡弓の音色に合わせてしっとりとした踊りをするお祭りなのです。が、江戸の昔は派手にやっていたのですね。

これをきっかけに花見の季節だけでなく孟蘭盆会うらぼんえ(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて台風の被害がなくなることを祈って風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。






※ 参考サイト

https://www.yatsuo.net/kazenobon/history/index.html

http://www.dydo-matsuri.com/archive/2010/owara/

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