History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 鎌倉時代

現在放送中の、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。僕も最近は忙しくて見たり、見なかったりです。戦国と違って、あんまり馴染みのない時代のせいか、いまいち筋がわからず、途中で退屈になったりするのですが。それでも三谷幸喜さんのコミカルな脚本に笑ってしまいます。さて、鎌倉殿に源実朝が出てきて柿澤勇人さんが好演されていますね。

これまで僕が習った歴史では、実朝は政治には興味がなく、和歌と蹴鞠しか興味がなく北条氏の言いなりみたいな印象があったのですが、実は非常に政治的センスがあった人物があったのです。そのことを、この間録画した「英雄たちの選択」を見て驚いたのです。

和歌も蹴鞠も、ただ自分の趣味でやっていたのではなく、朝廷、特に朝廷のトップの後鳥羽上皇に接近するためにおこなっていたのです。後鳥羽上皇は『新古今和歌集』の編纂にも関わったほどの風流人であり、また、この時代は和歌が実際の政治を行う上で重要な役割があったのですね。

この時代は、高貴な家柄の人物が和歌を詠むことで天災、災害、天候にも影響を及ぼすとマジで信じられたのですね。武士が有力な貴族と付き合うためにも和歌は必要な教養だったのですね。後鳥羽上皇は、源実朝を大層気に入ったと言います。偉大な父源頼朝を失い、兄も暗殺され、周りにいる御家人たちも北条家を中心に面従腹背の人間ばかり。実の母親である北条政子さえイマイチ信用できない。そんな八方塞がりの状況の実朝にとって、後鳥羽上皇は頼もしい味方であり、父親代わりの人物だったのでしょうね。

ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子を思ふ



という和歌を実朝は詠んでいるのですね。意味は、動物と言えども親が子を思う心があるんだなって意味。逆に言えば、実朝には実の肉親さえ信用できない苦しい状況だ、と言う心境も伝わってきます。また、こういう和歌も後鳥羽上皇に送っております。


山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


大意は、山が裂けたり、海が浅くなるようなひどいことになっても、あなた(後鳥羽上皇)に対する忠義は忘れません。という意味。

さて、実朝は政治に関心がないどころか、実朝は承元3年(1209年)、政所を開設し、将軍の権力を高めようとしたり、幕府の御家人たちを集め朝廷の警護にあたらせたり。朝廷は独自の軍隊を持っていませんから。

北条義時に対しても意見も言っていたのですね。

ある日、北条義時が「自分の家臣の地位(ついで自分の地位も)あげてくれ」と自分を特別扱いするように求めるも、実朝はそれを拒否したのですね。でも、北条氏にとって面白くないのですね。自分達の意のままに動いてくれない将軍なんて。

そんなおり、事件が起こります1213年、幕府の有力御家人だった和田義盛が義時のやり方に耐えきれず、北条氏打倒のために兵を挙げたのです。当時の和田義盛は侍所別当という職にありました。今でいえば防衛大臣と検察庁長官を兼ねたような地位です。そんな人が兵をあげるのですから、その当時の混乱ぶりがいかにひどかったか伺えます。その和田に味方したのが、三浦義村でした。彼は戦が始まる前までは和田に同調してたのですが、いざ戦が始まると北条義時に味方したのですね。三浦は北条と密約を交わしていて、和田の動きを逐次報告していたのですね。和田は完全に孤立します。和田と北条は二日間戦い続け、そして和田義盛は死んでしまうんです。いわゆる和田合戦です。この戦に勝利した北条義時は侍所別当になります。

こうした御家人同士の混乱ぶりに、後鳥羽上皇は、実朝に対して「こいつ、政治家としての統治能力がないんじゃないか」って疑われてしまうのです。さらに悪いことに1213年には鎌倉大地震が起こります。この時代、地震とか台風とか大きな災害が起こると、為政者の政治が悪いんじゃないかってマジで思われていたのですね。今と全然違いますね。こうしたこともあって後鳥羽上皇の実朝に対する信頼も失いつつあるのですね。そこで実朝はへこたれずに、和田合戦のような出来事が起こらないように、御家人たちとコミニケーションをとって、御家人たちの不満にも耳を傾けたのですね。そうして、御家人お意見を聞きつつ積極的な政治を行った実朝の姿勢に、後鳥羽上皇も喜んだのですね。

さらに、実朝は将軍の権威を高めようと、大きな船を作ります。大きな船を作って宋に渡って、貿易を行おうとしたのでしょうね。しかし、造船には莫大な金がかかるということで御家人の長老であり、将軍の諌め役の大江広元たが大反対するのですね。それでも実朝は造船を強行。結局、設計の失敗で、船は出航できず。

一方、実朝は朝廷の権威を持って御家人を抑えようとします。そんな実朝の心に応えるかのように後鳥羽上皇は実朝に官位を授けます。1211年の非参議から始まって、1218年10月には内大臣、同年12月には右大臣にまで昇進。あまりにも急な官位の上がりっぷりに御家人の間でも不安に思う声も上がり亜ます。この時代、あまりに短期間で官位が上がると不吉だと信じられていたのですね。

こうして後鳥羽上皇と強いつながりを持っていた実朝ですが、ウィークポイントがありました。それは跡取りがいないことでした。為政者に子供がいないというのはこの時代は致命傷です。なぜなら、この時代は為政者は世襲なのが当たり前。為政者が世襲だと何かと叩かれる令和とは、まるで違います。そこで、実朝は自分の後継者を後鳥羽上皇の皇子を自分の後継者として迎え入れようとしたのです。これは後鳥羽上皇にとっても悪い話ではありません。息子を実朝の跡取りになることで、実質的に朝廷は東国の強大な軍事力を手にいれ、幕府も思いどおりに支配できると。

そんな後鳥羽上皇と実朝の構想に不満を持つ人たちがいました。北条家はいうまでもありませんが、もう1人、公暁という人物です。公暁は、実朝の兄、源頼家の子供です。公暁と実朝は、おいと叔父の関係ですね。公暁だって将軍になれる資格があったのに、自分を差し置いて、将軍に天皇の子を迎えるなんて、とんでもないって思ったのです。実際、公暁が実朝に対する呪詛をしているというウワサもあったほど。

そして、公暁は実朝を呪い殺すことをやめ、実朝を実際に殺すことを企てます。1219年正月28日、実朝の右大臣拝賀の儀式がおこなれました。これは実朝が右大臣になったことにお礼をいう儀式です。その儀式が鶴岡八幡宮で行われました。儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の階段を降りていく途中、公暁に突然斬られてしまうのです。その公暁も三浦義村に殺されてしまいます。

実朝暗殺の知らせをしった後鳥羽上皇は大層驚きます。我が子当然のように接してきた実朝の死に後鳥羽上皇は激怒。朝廷と幕府の関係は悪化。これが承久の乱につながります。もし、実朝が殺されなかったら、承久の乱も起こらなかったし、南北朝の動乱だって起こらなかったかもしれない。そして、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

※ この記事は「英雄たちの選択」を見て書きました。


戦が終わり、平和な時代になったらなったらで色々問題が出てきます。まず、鎌倉幕府は御恩と奉公という間柄で、御家人たちに忠誠を誓わせる一方で、褒美として土地などを与えてきたのです。だから、御家人たちはどこかの国みたいにカルト的な忠誠を誓わせたわけじゃないのです。貰えるものがなければ、幕府に不満を持ってしまうのです。戦争があったときは、負けた方の領地を御家人にあげることができましたが、戦争がなければ土地も与えられず、御家人の不満も出てきます。「俺たちにタダ働きさせるんじゃねえ!鎌倉殿はひでえやつだ」って。与えるパイがなければ、それまでなんです。与えるパイが少なくなると、その今度は親戚同士で揉めるのですね。俺のだ、俺のだって。そうなると訴訟も多くなります。

与えるパイもそうですが、戦争があったときは、共通の敵がいたので、一致団結して戦うことができたのです。が、平時になると、共通の敵がいなくなります。すると起こりやすいのが内紛です。「Zガンダム」でも、ジオンという敵がいなくなり(残党がいるものの)、地球連邦軍がエゥーゴとティターンズという二つの軍閥に分かれ内戦を起こしてしまうのですね。

今「鎌倉殿の十三人」やってますが、頼朝というトップの元、北条以下、有力な御家人たちがひしめき合っているのです。仲良くやるのが1番なのですが、それぞれが幕府の実権を握ろうと虎視眈々としていて、最悪、御家人同士が相争うこともあるのです。そんなことにならないように頼朝は御家人同士のパワーバランスに気を遣っていたのです。

また、戦争がなくなれば、武士の存在価値が薄れていくのですね。幕府もいわゆる軍事政権。世界の歴史を振り返ってみても軍事政権で成功した例はあまりないのですね。平和になると軍人の政治から、官僚の政治に変わらなきゃいけない。統治システムが必要になります。その統治システムで1番いらないのが武力、もっと言えば暴力です。今まで戦しかやらなかった人たちに、いきなり刀を捨てろと言われても困ってしまうのです。武家でも北条義時のような人なら問題ないのですが、そんな人ばかりじゃない。結局、京都から公家や官僚を招いて、幕府の運営にあたらせると。公家はこうした官僚的な仕事が強いですからね。こうなると武士は肩身が狭くなります。

そんな最中、頼朝に次男、千幡が生まれます。のちの源実朝です。その乳母夫(後見人)に北条時政が選ばれました。これは千幡に北条家が後ろ盾になるということです。一方、頼朝の嫡男の頼家の乳母夫に比企能員ヒキヨシイエがいました。頼家の後ろ盾に比企家。頼朝の死後、跡目を巡って比企と北条が対立する危険性があります。それで頼朝は、比企の娘と北条義時を結婚させたのです。

これで、幕府も安泰と思って起きたのが、曽我騒動。頼朝はどう動くか。なんと、頼朝は事件の後、御家人たちの大粛清を行います。御家人や武士団たちの所領を没収したり、有力な御家人を無理やり出家させたり。さらに弟の源範頼もターゲットになったのです。罪状は、曽我兄弟の敵討ち事件直後、頼朝が死んだという知らせが鎌倉に伝わったのです。その時、範頼が北条政子に「私がいるから大丈夫」と語ったと。頼朝は死んでいないのに、範頼は死んだと勘違いしたのですね。範頼としては野心というより、鎌倉幕府を守らなきゃという使命感からきた行動だと思うんですよ。でも、頼朝はそうとらなかった。自分に対する裏切りとしか思わず、範頼を幽閉の上、暗殺。

甲斐源氏の御家人、安田義資も首を刎ねられます。理由は永福寺の供養の最中に女官に恋文を渡したからだとか。永福寺は、頼朝が奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため建立した寺院であり、その供養の際の義資の態度が、安田一族の粛清の口実にされたと思われます。

曽我事件を期に、鎌倉に不満を持つものや嫡男の頼家に歯向かいそうな御家人を粛清したのですね。そして、頼朝が最も気になったのが北条時政。北条時政は女房の政子の父であり、鎌倉幕府の功労者。粗末に扱うわけにはいきません。しかし、曽我兄弟の弟の五郎元服した時の烏帽子親だったのが時政だったのです。五郎に時政の一字を与えています。しかも敵討ちの際は時政は協力したという噂もあったほど。そんな時政に頼朝は不信感を抱いています。でも、結局頼朝は時政を粛清することなく、それ以降も重んじたのです。さらに遠江の領地も与え、時政は伊豆、相模、遠江の3カ国の守護になれたのです。時政はまだまだ幕府のために必要だと頼朝は判断したのでしょう。

*この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

北条時頼といえば、鎌倉幕府5代執権です。彼は20代で執権の地位に立ちましたが、彼が執権になってそうそうクーデータ未遂事件が起こるのですね。いわゆる宮騒動と呼ばれるものです。

鎌倉幕府は将軍と執権がおりまして、将軍は君臨すれども統治せずの立場で、執権が政治の実権を握っていたのです。源頼朝の時代はともかく、執権、つまり北条氏が権力を握っていたのです。頼朝の直系は3代で途絶えているので、幕府は摂関家から将軍をお迎えしていたのです。北条時頼の時代の将軍は、九条頼嗣でした。しかし、九条頼嗣はまだ若く、前将軍だった九条頼経が大きな顔をしていたのですね。そこへ御家人の名越氏が、御家人の三浦氏や九条頼経をそそのかし、クーデターを起こそうとしたのです。しかし、それは執権時頼が反乱の兆候を捉え、事前に取り押さえることができたから、大きなことにならなかったのです。歴史学者の磯田道史さんは北条氏のことを「地獄耳に千里眼の北条氏」とおっしゃっていたのですが、そうした北条氏の情報網はすごいなって。

おそらく名越氏と九条頼経らは、軍勢を集めているうちに北条に嗅ぎつけられたのでしょうね。軍勢を集めるとなると時間もかかるし、軍を集めるとなると、大掛かりな話になりますからね。やるんだったら、もっと秘密裏にやって、北条時頼を油断させて、暗殺するというやり方の方が良かったのでしょうが、名越氏はそれをしなかったのでしょうね。

また、北条時頼の抜け目のないところは三浦氏を味方につけたのですね。それで三浦氏と名越氏は仲違いさせることに成功したのですね。この宮騒動の結果、名越氏は流罪。九条頼経は鎌倉から追放され京都に送還されたのです。

しかし、時頼を悩ませる事件が翌年に起こります。宝治元年ホウジガンネンにおこた宝治合戦。これは安達景盛と三浦泰村の争いです。この事件の背景は安達氏と三浦氏の権力争いが背景にありました。

安達氏は北条時頼の母方の実家で、本来なら外祖父として権力を握れる立場なのですが、意外とそれほど権限はなく、三浦氏の方が大きな権力を持っていたのですね。三浦氏は人事に大きな発言力を持っていたと言います。三浦氏は名門であるし、宮騒動の時にも北条時頼に味方しましまたからね。三浦氏の専制ぶりに安達氏は不満を抱いていたのです。こうした三浦氏と安達氏の両家の対立に時頼は心を痛めておりました。

また、三浦氏当主である三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったのですが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍だった九条頼経の京都送還に同行し、九条頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていたとか。

だから、時頼は三浦氏を非常に警戒したのですね。実際、三浦氏は武具を集め、兵を集め、北条氏を倒そうとしているという噂も流れたとか。

時頼は三浦泰村邸に使者を派遣しました。泰村は「自分は、ありもしない噂を流され迷惑している」と答えたそうです。しかし、三浦館内に武具が揃えられていたのですね。三浦家は戦いの準備をしていたのです。時頼は悩んだことでしょう。鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、時頼は自分の腹心である平盛綱を泰村邸に送り、和平の義を成立させました。長期間の緊張を強いられていた泰村はこの和議を喜び、この直後に湯漬けを食して吐き戻したとか。


これで鎌倉も平和になると思いきや、その事を知った安達景盛は、三浦氏に戦いを挑んだのです。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を襲ったのですね。奇襲を受けた泰村は仰天し舘に立て籠もって迎撃の構えを取りました。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、事態はめちゃくちゃになったのですね。

さらに悪いことに、それまで中立の立場だった北条時頼までも安達氏に味方してしまったのですね。三浦氏の館を攻め込まれ、三浦泰村は戦う意志を失ったのです。三浦光村は最後まで戦うべしという感じでしたが、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして、三浦泰村は弟の光村に法華堂へ来るように命じたのです。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かったのです。法華堂は源頼朝が祀られていたのです。三浦氏いや当時の御家人たちにとっては源頼朝は神様のような存在でしたから。


三浦泰村は死ぬ間際にこういったと言います。

「北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、私の父である三浦義村は他の一族の多くを滅ぼし、その罪は深い。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたといいます。

そして三浦氏にまつわるものたち500人余りが自害したとか。


それではクイズです。鎌倉幕府の成立は何年でしょうか?


  1. 1192年

  2. 1180年

  3. 1183年

  4. 1184年

  5. 1185年

  6. 1190年

  7. 4192年



明らかに違う7番以外は、どの年号も正しいとも間違いともいえないのです。ちなみに4192年とは「良い国」ですw


僕が習ったのが「いい国つくろう鎌倉幕府」で「1192年」でしたが、現代の教科書では1185年と書かれた教科書が多いのです。もちろん、鎌倉幕府の成立年は諸説があって、どれが正しくて、どれが間違いとはいえないのです。そんな話をしていきたいと思います。続きを読む

今日は楠木正成のお話を。俳優の高橋英樹さんがご出演されている歴史番組で楠木正成を取り上げていまして、冒頭で若い女性アナウンサーが「足利尊氏は知っているが、楠木正成はあまりよく知らない」と。若い世代だとそうでしょうね。でも、ある程度年配の方だと楠木正成を知っている方も多いかと思います。戦前は教科書に取り上げられて、天皇を守った忠君とされていたのです。逆に足利尊氏が天皇に反逆した悪者だと言われていたのです。さらに戦時中、全国各地の小学校などに楠木正成の像、いわゆる楠公像が設置されたのですね。要するにお前たちも楠公のように天皇につくせということでしょう。戦前・戦中は皇国史観でしたからね。もっといえば紙幣の肖像画にも楠木正成は描かれていました。

それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。

しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。

千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。

楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。

楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。

その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。

もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。



早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。

一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。


しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。

金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。ばっちいぃな。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。

元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。

そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良親王に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。

北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。

尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。

延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。

その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。

そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。

死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。

実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。

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