History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 昭和

戦後、昭和天皇はテレビをよくご覧になられたといいます。特にドラマ『おしん』が大好きだったそうです。『おしん』の主人公の田倉しんは、昭和天皇と同い年という設定になっております。

ええ、その当時、今「おしん」の映画(ドラマのまちがい?)を終始見て、その当時の女性の苦労というものを非常に察していましたが、当時のそういうことはあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知ってましたけれども、それは非常におおざっぱな感想しか私はその当時は承知してませんでした。その映画を見て非常にあの時の苦労を思い出しました。


貧乏、奉公そして戦争、当時の女性というか庶民の苦労というのは風のウワサでは聞いていたが、まさかこれほどひどいものだったなんて。そんな思いを『おしん』をみて昭和天皇は衝撃を受けられたかもしれません。自分が宮中で体験した現実と庶民が味わった現実があまりに違う。もちろん、昭和天皇は昭和10年にこのような言葉をおっしゃってました。

東京のような都会に住んでいるから、そんな呑気なことを言う。東北、北海道の人たちが、今この瞬間、天を仰いでどんなに心配しているか、なぜそのことを思ってみないか。



東北、北海道の人たちが冷害に苦しんでいることは昭和天皇も戦前からご存じでした。冷害のために農村の困窮も伝え聞いておりました。けれど、まさかこれほどとはって昭和天皇は『おしん』をみて思われたそうですよ。もし、昭和天皇が平成天皇のように被災地を訪れ、被災者の人に膝をつけて、被災者の話を聞いていたら、もっと実感できたかもしれない。

また、昭和天皇は『小公女セーラ』もご覧になられたといいます。その話をきいて、僕も昭和天皇に僭越ながら親近感が持てましたw僕もセーラみていましたから。セーラは金持ちのお嬢様だったのが父親の破産でミンチン女学院のメイドになってしまい、さらにミンチン院長やラビニアから過酷ともいえるイジメを受けるのですね。そんなつらい境遇に耐え抜くセーラに僕もいじめられっ子だった自分と重ねたっけ。昭和天皇陛下はセーラを見て何を思われたか、あいにく資料はないのですが、昭和天皇陛下の心を打ったことは間違いないと思います。








朝ドラで「らんまん」が話題になっております。植物学者の牧野富太郎をモデルにしたドラマです。その牧野富太郎が「雑草という草はない」という名言を残したといいます。その牧野を皇居に招いたのが昭和天皇陛下。昭和22年(1947年)ごろから牧野を皇居によび植物学のレクチャーを受けたといいます。昭和天皇陛下は植物に関して非常に造詣が深い方。旧天皇誕生日(4月29日)が、「昭和の日」ではなく当初は「みどりの日」という名前の祝日だったこともその表れです。

昭和天皇もそんな牧野に影響を受けてか、このような言葉を述べられております。


どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのいはいけない」


名言だと思います。昭和天皇のお人柄が出ています。



※ 参考文献

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。




この昭和天皇の御言葉は昭和50年に日本記者クラブ主催の会見のもの。アメリカから帰国後すぐの会見で出た言葉。昭和天皇が訪米中、ホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という発言について記者が質問をして、その質問を受けての天皇の言葉。要するに戦争責任についてどう思われるかという事。昭和天皇の述べられた「言葉のアヤ」とか「文学方面」という意味はよくわからないのですが、正直、ごまかしているなあって。

昭和天皇に戦争責任があったかといえば、まったくなかったとは言えないです。昭和天皇は戦時中、「あまりに戦果が早くあがりすぎているよ」と喜んでみたり、「一体何処でしっかりやるのか。何処で決戦をやるのか」と軍人たちを叱責したり。また、特攻隊のことは「命を国家に捧げてくやってくれた」とほめてみたり。昭和天皇が「言葉のアヤ」と述べられたのは、昭和天皇自身が自らの戦争責任から逃れたいのか、それとも昭和天皇は戦争責任を述べたいけれど、周りの側近たちや政治家たちに制止され、「言葉のあや」と言わざるを得なかったのか。その辺はよくわかりません。

いづれにせよ、昭和天皇の発せられた「言葉のアヤ」発言は、大きくマスコミに取り上げられることもなく、この発言を批判する識者もほとんどなかったのです。ただ、昭和天皇の発言に怒りを覚えた人も少なくなかったのです。たとえば詩人の茨木のり子さんは、このような詩をそのとき詠みました。

 戦争責任を問われて その人は言った(中略)
思わず笑いが込みあげて どす黒い笑い吐血のように 噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう 文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

「四海波静」(1975年11月)より

茨木のり子さんも戦争でずいぶん苦労をされたのです。それなのに天皇は謝るどころか「言葉のアヤ」で片づけるとは何事かということでしょう。昭和天皇にはやはりあの場で謝罪の言葉を述べるべきかと思いつつも、昭和天皇があの場で戦争責任を謝罪したら、右翼や当時の保守系の政治家や言論人たちが黙っていなかったでしょうね。難しいところです。現に平成天皇陛下がかつて「先の大戦に対する深い反省とともに」と述べられた時、一部の人間が批判しておりました。


戦後、昭和天皇の戦争帰任について何度も問題になったのですね。海外でも言われ、国内でも天皇の戦争責任を問う意見も少なくなかった。今では考えられない事ですが、左派だけでなく、保守側の人でも昭和天皇の戦争責任を批判する声も少なくなかったのですね。たとえば、映画脚本家の笠原和夫さん。笠原さんは保守的な人でしたが、当時の軍部のやり方に手厳しく、昭和天皇も戦争責任を取るべきだったという考え方の人でした。今なら笠原さんはネットでパヨク認定されますね。そうした戦争責任を問う人々の声は昭和天皇の御耳にも入られました。昭和天皇が晩年に側近の小林忍侍従のにもらした言葉が↓

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」
(1987年の4月ごろの発言)




昭和天皇が「戦争責任だとふざけるな!あれは軍部が悪いんだ!俺は悪くねえ!」って思っていたら、こんな言葉は出てこないとおもう。むしろ、御自身が責任を感じていたからこそ、出てきた言葉だと思う。戦時中の自分の言動を思い出すたびに悔やむことが多かったと思います。じぶんのせいで多くの人を結果的に苦しめたと。そうした後悔の念が年々重くのしかかってきた。それで、自分の身の回りの人たちが次々と亡くなり、この年(1987年)の2月には弟の高松宮に先立たれたのですね。そんな落ち込んでいるときに、赤の他人が戦争責任をワーワー言われると、正直つらいといったところでしょうか。「戦争責任、わかっているよ。悪いと思っている。でも、そんなに戦争責任、戦争責任言わないでくれよ。俺だって、あの頃を思い出すたびつらくなる」っていうのが昭和天皇陛下の本音ではないかと。戦前は現人神とあがめられたとは言え、昭和天皇もやはり人間、スーパーマンではないのですから。

昭和天皇のこぼした言葉に、小林侍従は、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と言って励ましたといいます。

※ 参考文献


戦争責任者を連合国に引き渡すは、真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして収めるわけにはいかないだろうか。



この昭和天皇のセリフは、終戦後の8月29日に側近の木戸幸一に語られたものです。日本にマッカーサーが上陸し、いよいよ戦争責任者の処罰が執り行われようとしている、まさにその時です。昭和天皇はこのたびの戦争の責任を強く感じていたのですね。

「貴下は私について思うままになされてよい。貴下は私を絞首刑にしてもよい。しかし、私の国民を飢えさせないでほしい。」

「私は国民が戦争遂行にああって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」




いづれも昭和20年の9月に昭和天皇がマッカーサーに語った言葉です。昭和天皇がマッカーサーのもとに赴き会談を行いました。開戦のことと、それからポツダム宣言の履行の確認したのです。で、マッカーサーは昭和天皇はきっと言い訳の一つや二つをいうか、命乞いをするものだとばかり思っていたのです。それが、昭和天皇は言い訳どころか、国民のことを思い、自らの責任を述べたのです。

この天皇のお言葉にマッカーサーはいたく感動。「責任を受けようとするこの男気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士しんしであることを感じた。」

会見は予定より大幅にオーバーしたといいます。会見が終わって、マッカーサーは大使館の玄関まで天皇を見送ったといいます。

しかし、連合国側には天皇を裁判にかけ、戦犯として裁くべきだという意見も根強かったのです。マッカーサーは考えました。天皇を告発したら、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊はそのまま日本の崩壊につながると考えましたし、もしそんなことをすれば日本各地でゲリラ戦が起こる恐れもあると。それで、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀長官に「過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからない」と伝え、天皇は無実であるとしました。

マッカーサーは天皇を無実にするために色々と工作をしたといいます。


  • 人間宣言をさせることで、新たな天皇像を作りあげ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとした。


  • マッカーサーはキーナン首席検事とともに、天皇をさばかれないことを前提に裁判を進めるよう他国に説得をし、同意を求めた。


「人間宣言」とは、1946年(昭和21)の元旦の新聞紙上で、昭和天皇の詔書が発表し、天皇が自ら人格性を否定したこと。日本人は衝撃ショウゲキを受けましたが、これにより天皇が独裁者であるというイメージは崩れたのですね。




1946年(昭和21)10月16日にマッカーサーと天皇の第3回目の会見が行われました。その時は大日本帝国憲法に変わる新しい憲法が作られている時期でした。新憲法は、民主化、封建社会の否定、そして戦争放棄が盛り込まれておりました。特に戦争放棄には天皇も賛同されたといいます。

昭和天皇は

「日本国民は戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」


と語られました。するとマッカーサーは「戦争を放棄したゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」と昭和天皇を評価したのです。

ちなみに、日本国憲法が1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌年の1947年(昭和22)5月3日に施行されました。

天皇とマッカーサーの会談は、1945年の9月27日から、1951年(昭和26)4月15日まで11回行われました。回を重ねることに、天皇とマッカーサーの信頼は深まり。マッカーサーも当初は皇帝(エンペラー)と呼んでいたのが、次第に陛下と呼ぶようになったといいます。ただし、マッカーサーは一度も皇居に訪れていないのですね・・・

そして1951年の4月16日、マッカーサーは日本を後にしまいた。その時、日本人20数万人が日の丸と星条旗を持って、マッカーサーの帰りを見守ったといいます。

のちにマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」と語っておりました。天皇の協力がなかったら、占領政策は失敗していたかもしれない。また、マッカーサーは天皇個人のことを「天皇は私が話し合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた」と高く評価。


昭和天皇も

「東洋の思想にも通じているあのような人(マッカーサーの事)が日本に来たことが、国のためにも良かった。一度約束をしたことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥としての会見は今思い出しても思い出深い」


とマッカーサーを評されました。確かにマッカーサーではなく、スターリンや毛沢東が日本に来ていたら大変なことになっていましたね。毛沢東もスターリンも独裁的な手法で国民を苦しめたわけですから。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。また、「図説マッカーサー」も参考にしました。

図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01




昭和天皇は軍部の暴走を止められなかった要因の一つとして日本人の国民性をあげていました。

先ず我が国の国民性について思うことは、付和雷同が多いことで、これは大いに改善の要があるとかんがえる。(略)かように国民性に落ち着きがないことが、戦争防止の困難であった一つの要因であった。将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、また宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。


え?「付和雷同」の意味が分からないって?僕もうまく説明できないのですが、意味は、自分にしっかりした考えがなく、むやみに他人の意見に同調すること。ってところでしょうか。もちろん、自分の意見も持たず戦争にやみくもに賛同した人間も多かったことは事実です。ただ、戦時中にも結構いたのですよ、戦争をやめろって人が。議員の斎藤隆夫とか安倍晋三元総理の祖父である安倍寛とか。斎藤隆夫なんて軍部の妨害を受けながらも二位当選しているし、安倍寛もギリギリながら当選している。この選挙結果をみるにつけ、当時の日本人が皆が皆戦争に賛同するどころか、軍部のやり方に不満を持って、反軍部、反大政翼賛会の議員に投票する人も結構いたのですよ。だから日本国民皆が皆、付和雷同したわけじゃない。

しかし、そうした意見を封じてしまったのが、当時の軍部。当時の選挙なんてひどいもので、戦争反対を訴えた議員は露骨に選挙妨害をされたり、大政翼賛会から公認をもらえなかったり。そして戦争に反対する人間を憲兵をつかって弾圧したのですから。また言論人や文化人だって戦争に反対する人間には仕事がもらえなかったといいます。一方のアメリカは戦争に反対する人間でも、何とか飯は食えたといいます。そんな話を市川房江さんをされて嘆いていたっけ。逆に戦争を賛美したり政府をマンセーするような言論人はウハウハだったといいます。代表的なのは火野葦平ひのあしへい。火野葦平は戦後、自らの戦争責任を悔い自殺をするのですが・・・・ちなみに俳優の火野正平さんという方がいて、火野正平さんと火野葦平間違いやすいですが、まったく二人は血縁関係などなく、赤の他人同士です。

火野は中国の戦地に赴き、戦争マンセーの小説を書いたのです。それが彼の代表作『麦と兵隊』。火野は「愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った」と書いたほど。まさに今でいうウヨ作家。火野の成功を受けて結成されたのが従軍ペン部隊。林芙美子ら人気作家が名を連ねておりました。これは中国の戦地に赴いては、日本軍のちょうちん記事とか文章を書いていたのです。戦争で仕事が減っていた作家たちにとって、これはありがたい話だったのです。ペン部隊の作家たちは国から支度金として国から700円、今の価値でおよそ200万円支給されたというから驚きですね。危険な戦地に行くとは言え、戦争マンセー記事や小説を書いただけで200万もらえたのです。

麦と兵隊・土と兵隊 (角川文庫)
火野 葦平
KADOKAWA
2021-02-25



そういえば、9・11以降、アメリカは異様な雰囲気で、イスラムやアルカイダを戦争でぶっ潰せみたいな雰囲気だったそうですが、そんな中でもマイケル・ムーア監督はブッシュ大統領を批判し、戦争の愚かさを言い続けましたが、それで彼が干されることはなかったもんなあ。かたや日本は、落語家の桂歌丸さんが笑点で政治家の批判をたびたび繰り返したら、ある政治家から「あんまり批判するな」みたいに圧をかけられたといいますからね、民主主義の今でもこの調子だから、戦時中なんてもっとでしょう。

誰だって自分の命が惜しい。国民性というより、当時の政府の弾圧や締め付けがひどかった面が大きいと思います。


また「宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」という天皇の御言葉。統一教会のことが問題になっている今では物議を醸しだしそうな発言ですね。信仰自体が悪いというより、家族の崩壊を招くほどはまり込んだり、他人まで巻き添えにして迷惑をかけたりするのが問題なんですよね。信仰を通して、心のケアになったり支えになったりする場合もありますし。仏教にしてもキリスト教にしてもも本来は哲学なんですよね。それを運用する人間の責任であり、また、それを悪用するのが問題なのであって。

※ 参考文献





また、この記事は『映像の世紀 バタフライ』を参考にして書きました。

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