History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 昭和



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もう冬ですね。一年の早さを感じます。冬といえば雪。東京ではまだ雪は降っていないけれど、すでに雪が降っているところもあるようで。雪って強くなったり、積もったりしたら嫌だけれど、チラチラと雪が降る光景はロマンチックです。そのため雪は昔から歌の題材にも扱われました。雪をテーマにした歌はたくさんありますが、僕はレミオロメンの『粉雪』だな。ボーカルの藤巻良太さんの歌声にほれぼれします。Aメロの静かにも優しく歌い声からサビのパワフルな歌声。歌の主人公が雪の中を自分の気持ちを大声で叫ぶ光景が浮かびます。生で藤巻さんの『粉雪』聴きたいな。



あと、雪の歌といえば新沼謙治さんの『津軽恋女』も名曲。新沼謙治さんの美声もそうだけれど、曲が実にいいんですよね。歌詞にでてくる、「津軽には七つの雪が降るとか」というくだり。ほんとうに津軽地方に七種類の雪が降るのでしょうか。実はこれは雪の積もり方を言っているのであって、ほんとうに七種類の雪がふるわけじゃないそうです。しかも七つの雪も『津軽恋女』がオリジナルではなく、太宰治の小説『津軽』の冒頭に七つの雪がでてくるのですね。
さらに、その7つの雪も太宰治のオリジナルではなく、「東奥年鑑」に記述されているのですね。七つの雪は、戦前に東北地方の気象台・測候所が積雪の状況を協議して決めたといいます。



こなゆき 湿気ノ少ナイ軽イ雪デ息ヲ吹キカケルト粒子ガ容易ニ飛散スル
つぶゆき 粒状ノ雪(霰ヲ含ム)ノ積モツタモノ
わたゆき 根雪初頭及ビ最盛期ノ表層ニ最モ普通ニ見ラレル綿状ノ積雪デ余リ硬
(以下略)
『東奥年鑑』(昭和16)より


それが太宰治の小説、それから『津軽恋女』へと使われているのです。



という具合。


※ 参考サイト
https://www.data.jma.go.jp/aomori/pub-relations/pdf/yuki/yuki2022_03b.pdf

第二次世界大戦において、日本が破滅の道を歩んだ、その第一歩というのが日独伊三国同盟です。これは、1940年9月に調印されました。3国のアジアとヨーロッパにおける指導的地位を確認し、もし、この三国が敵から攻められたら互いに助け合うというもの。これにより、日米との対立は決定的になり、アメリカと日本の戦争につながります。

そんな日独伊三国同盟締結を反対する声はなかったのかとお思われますが、実際、日本国内でも反対意見が少なくなく、こんなものを締結したら大変なことになるという声もちらほら。西園寺公望は、「ドイツだけが得をするもので、日本にとって非常に不利なもの」と懸念を示したほど。国内の反対意見を押し切ってまで成立した日独伊三国同盟。この日独伊三国同盟を強烈にプッシュした人物がいました。その人物は大島浩。

大島浩は、陸軍軍人で、父はの大島健一は陸軍大臣にまでなったほど。大島健一は薩長出身でないにも関わらず、陸軍大臣になれたのは山縣有朋に気に入れられたことも大きかったとか。

大島浩はドイツ語が堪能で、ドイツ通と呼ばれておりました。一概に言えませんが、「○○通」と呼ばれる人は大局的なものの見方、広い視野で物事を見れない傾向があり、また自分が気に入った人物やものに深く入れ込むことがあり、客観的な判断ができないことがあるのですね。また大島にかぎらず、陸軍はナチスドイツに入れ込んでいたのですね。

大島浩は1921年以降、ドイツに断続的に滞在し、ドイツにおいて人脈を広げ、1933年以降は、ナチスの幹部とも個人的につながっていきます。そして大島はリッベントロップという人物に出逢います。リッベントロップは元々はビジネスマンでしたが、ナチスに入党して、ヒトラーに気に入られ、出世していたのです。大島はリッベントロップとの個人的な関係を通して、ドイツと日本の距離を縮めていこうとします。1936年には日本とドイツとの間で防共協定が結ばれますが、これも大島の強い働きがあったからと言います。これは日本とドイツもどちらも反共産主義を国策としてとっている。ともに共産主義、とりわけソ連と戦おうというもの。


しかし、協定が結ばるその間、外務省が防共協定につきイギリスとも何らかの話し合いが必要だと言ったのですね。日本はイギリスと同盟を結んでいましたからね。それを陸軍が強硬に拒否、外務省はイギリスへの工作を伴わないで、ドイツとだけ提携しようとするのはまずいんじゃね?と反論。陸軍はそれを譲歩したと言います。合わせてこの協定がソ連を過度に刺激したり、イギリスに不安を抱かせることがあってはならないことも強調することを確認の上で協定が結ばれました。が、結局、この協定は各国に不信感を抱かせるのですね。よりにもよってナチスと結ぶわけですから。

その後駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)自らが駐独大使に就任したのですね。そして、同じ年、大島と関係の深かったリッベントロップもドイツの外相に就任します。

そんなドイツも1939年に独ソ不可侵条約が結ばれます。これはドイツとソ連が戦争するのをやめようという取り決め。それにショックを受けたのが日本。それまで日本はドイツと一緒にソ連と戦おうと約束したのに。日本は裏切られた気分でしょう。時の首相の平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇たる新情勢を生じた」と述べ総辞職をしたほど。大島もドイツの動きを見抜けなかったということで、その責任を負いドイツ大使を辞めてしまったのです。

しかし、その後もドイツは日本と同盟を結ぶことを模索していたのですね。ドイツはフランスを陥落させ、イギリスに空爆をするなど破竹の勢いでした。そんな状況でしたが、アメリカがイギリスを助けるとなると状況も違ってくる。当時のアメリカは第一次世界大戦で痛手を負っていたため、ヨーロッパの戦争に関わりたくなかったのですね。それでもアメリカが参戦すればドイツは不利になる。一方の日本はアメリカとの関係も悪くなっている。それでドイツと日本が手を結べば、いくらアメリカといえど、日本、ドイツ、それとイタリアを相手に戦うのは難しいだろうという計算がドイツにあったのですね。

また、日本もアメリカと対立が深まって、ドイツの協力が得られるのはありがたい。それとアジアの権益をドイツに認めてもらいたいという思惑がありました。独ソ不可侵条約で仲間割れするかと思いきや、ドイツと日本は再び接近します。しかし、それは友情というものでは決してなく、お互いの思惑があっての話。

1940年8月13日、ドイツはベルリンの日本大使館に正式な同盟締結に向けた交渉を通達。9月7日にリッベントロップの指揮の元で特派公使としてハイリンヒ・スターマーという人物が来日します。そのスターマーが日本に来る際、真っ先に訪れたのが大島浩の自宅だったと言います。それから、スターマーはドイツの駐日大使を伴って松岡洋右外相とあい日独伊三国同盟の交渉に当たったと言います。日独伊三国同盟の主要な条文は以下の通り。




第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。



カタカナと難しい漢字ばっかで読みづらいですねw要するに、「日本とドイツとイタリアは同盟を結びますよ、日本がアジアを支配をするのを認めますよ、でも、それぞれの国が他国から攻撃を受けたら、政治的に経済的に援助しなさい」、ということでしょう。それと、それに加えて、ドイツは自動参戦権を条文に明記しろと要求したのですね。これは、ドイツがアメリカと本当に戦う羽目になったら、日本はすぐに参戦してドイツともにアメリカと戦えというもの。もし、これを認めたら日本は自動的にアメリカと戦う羽目になる。それでなくても日本は中国と戦って泥沼化。そんな状況でアメリカと戦ったら間違いなく日本は破綻する。

松岡も馬鹿じゃないから、松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、自動参戦の件は、条約本文には書かないで、交換公文、つまり個人的なプライベートな手紙に「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」と書いたのですね。それで自動参戦条項は事実上空文化したのです。これで、日本はアメリカとの戦いは一応避けられたのです。しかし結局、1941年の真珠湾攻撃で、松岡の苦労は台無しになるのですが。

また、松岡は日独伊だけでなく、ソ連も同盟に加わってくれることを期待しましたが、それは叶わぬ夢となりました。

一方の大島は、1940年12月に駐独大使に再任されました。一度はクビになったのに、また再任されたのは、ナチスとの個人的なつながりがあるから良いだろうと思われたからでしょう。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席したと言います。戦争が終わって、松岡も大島もA級戦犯になり、松岡は裁判の途中で病死、大島は終身刑になりましたが、1955年に恩赦が出て仮釈放。その後、自民党からも議員にならないかってオファーが来ましたが、大島は拒否。大島は日独伊三国同盟締結に動いたことへの責任を感じており、重大な過ちであったと自ら認めています。

しかし、一方でヒトラーへの心酔ぶりは晩年まで変わらなかったようで、「ヒトラーはいろいろ悪く言われるようだけでも、天才であることは間違いない」って評していたそうです。そんな大島も1975年に亡くなりました。享年89歳。




※ この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

また、こちらの本も参考にしました。




1945年8月15日。この日に戦争が終わりました。日本は神国だ、戦争に負けぬと誰しもが信じたのですね。しかし、実際は違った。結局、日本は負けてしまい、本土は焼け野原になりました。住む家を失った人もたくさんいたのですね。僕の祖父母もそうで、家は空襲で燃えてしまったと。祖母と子供たち(僕の父や親戚シンセキのおばさん)は疎開ソカイをしていたから無事だったのですが、祖父はなぜか一人東京に残ったそうです。祖父は体が弱かったので戦地には行かなかったのですが、空襲が激しかった東京に一人のこされ、さぞコワい思いをしたろうな。祖母は夫を残して子供と共に安全なところに逃げていたのですね。おばあちゃん、ひどいねえ、おじいちゃんがかわいそうだよ。まあ、僕の祖母はすげえきつい性格で鬼嫁でしたからね。僕にとっては優しいおばあちゃんでしたが、母には結構辛く当たっていたし、祖父のことも年中怒鳴っていたのを子供心に覚えております。ともあれ、家は焼かれたものの、命だけは助かったのが不幸中の幸いでした。

人々は敗戦国となった現実に打ちのめされ、食糧不足は深刻で毎日のように餓死者ガシシャが出たといいます。まさに『火垂ホタるの墓』の世界ですね。戦災孤児コジも12万人以上、街頭ガイトウには浮浪児フロウジもあふれたといいます。僕の母は昭和17年生まれですが、自分が小学生のころ、戦争で両親ともに亡くなった同級生が何人かいたと話してましたっけ。

そんなひどい状況の中で、連合国軍の兵士がある日本人に話しかけたところ、その日本人はガソリンに火がついたようにまくし立てたのです。それは戦争へのうらみ言。

訳もわからず、さんざ引き回され、訳もわからぬうちに、丸裸マルハダカで放り出され、どうしていいかもわからない。


そして、東條英機のことも呼び捨てにして、頭ごなしに批判したと。同じことを考えている人は少なくなかったことでしょう。実際、戦時中に兵隊たちが「いっそのこと、トルーマンと東條英機を狭い部屋に押し込んで、ケンカさせよう。そして俺ら兵隊たちがそれを高みの見物するのだ」と言ったくらい。今でこそ東條英機を神格化する人もいますが、戦時中や戦後まもない頃は本当に評判悪かったのですよ。

また、戦死した男たちに代わって女たちは働いたのですね。戦争で家族や財産を失って生活に困ってやむを得なく売春に従事することを余儀ヨギなくされた女性が多かったのです。在日米軍将兵を相手にした、いわゆるパンパンです。しかし、パンパン狩りといって米兵にひどいことをされた者も少なくなかったと言います。映画「人間の証明」でも米兵に女性が暴行され子供まで生まされた描写が出てきます。松本清張の『ゼロの焦点』でもパンパンが出てくるそうですね。
僕の知り合いのおばあちゃん(祖母の友達)は売春こそはしなかったもののGHQの兵士たちが出入りするバーで働いたといいます。

人間の証明 角川映画 THE BEST [Blu-ray]
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KADOKAWA / 角川書店
2019-02-08



ゼロの焦点(新潮文庫)
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新潮社
2011-06-01



そんな女性たちの心情を歌ったのが、「星の流れに」。昭和22年(1947)に作られました。この曲を作詞したのは清水みのる。作曲は利根一郎。清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだそうです。もと従軍看護婦ジュウグンカンゴフ」だった彼女は、奉天ホウテンから東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身をなげいていたといいます。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にしたのです。こみ上げてくるいきどおりをたたきつけて、戦争への告発コクハツ歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲したと言います。

初め、この曲を淡谷のり子に歌ってもらいたかったようですが、彼女は拒否。、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池章子に吹き込みを依頼したと言います。彼女は歌の心をよく把握はあくし、戦争の犠牲ギセイになった女の無限のかなしみを切々とした感覚で歌い上げたのです。菊池章子の淡々とした歌い方がかえって当時の女性たちの苦しみが伝わってくるのですね。

完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であったそうです。ところがGHQから「日本人の反米感情をあおるおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となったそうです。確かに、女性たちが苦労する羽目になったのは戦時中の日本政府にも責任があるかもしれないが、空爆を行ったアメリカの責任大ですからね。

ともあれ『星の流れに』は大ヒット。それこそ大人から子供まで口ずさんだそうです。この曲を聞いて自殺を思いとどまった人もいたといいます。歌の力はすごいですね。しかし、この大ヒット曲も今では知っている人もだんだん減ってきて、今の10代、20代の若い人は知らないだろうなって。知っていたとしても極めて少数だろう。どんなに良い曲でも後世に残すのは難しいのだなって。僕は懐メロ番組よく見ていたし、母がときどき口ずさんでいたから、この曲を知っています。ただ、この曲が生まれた背景を知ったのは、ごく最近のことです。



※この記事はウィキペディアを参考にして書きました。

前回の記事で、テニアン島のテニアンスクールの話をしましたが、その続きを。

「人と人が直接に知り合っていれば憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係がない時に人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです」

このセリフは爆撃機に乗り、日本本土を無差別爆撃を行った、ある兵士が語った言葉です。彼は命令されるまま、テニアン島にある基地を飛び出し、日本の都市部への爆撃を行いました。任務が終わってテニアン島に帰還して、爆撃機に乗っていた乗組員たちが、立ち寄ったのがテニアン島にあったテニアンスクール。テニアンスクールには日本人捕虜の子どもたちがたくさん。子どもたちの無邪気な笑顔を見て、兵士たちも心も和みます。そして一緒にスポーツをやったり、パーティーをやったり楽しんだといいます。爆撃で殺したのも、今目の前にいる子どもたちも同じ日本人。だからこそ、冒頭の言葉を述べた兵士は苦しんだのです。爆弾を落としている自分と子どもたちを可愛がっている自分の矛盾に苦しんだ兵士たちは少なくなかったのですね。さまざまな事情で戦争になってしまったけれど、同じ人間同士ってことですね。

今、ウクライナが大変なことになっておりますが、冒頭の兵士の言葉が響きますね。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

戦時中、日本は鬼畜米英のスローガンの元、敵性語ということ英語が使われなくなりました。野球であれば、「ストライク」を「よし一本」、「アウト」を「ひけ」という具合に。これは政府が国民に命じたわけではなく、マスコミのキャンペーンから始まって、それがいつの間にか英語を使っちゃいけない空気になったのですね。それは教育の場にも及び、学校の英語の授業のコマ数が減らてしまったのですね。エリートとか、海軍とか英語を普通に使っていたようですが、基本的には英語を使ったものは非国民扱いでした。

孫子に「敵を知り、己を知 れば百戦危うからず」という言葉があるように、戦争に勝ちたいのなら、相手のことを知る必要があります。外国語を学ぶということは、外国の文化や習慣などを学ぶことでもあり、相手を知ることが勝つためにも大事なのですが。

一方のアメリカの方は日本語を禁じるどころか、日本の文化を簡単にまとめたドキュメンタリー映画を作ったり、日本語の研究をしていたというのです。アメリカ海軍は対日諜報戦に勝つために、日本語学校まで作って、日本語を操る情報士官、いわばスパイのような士官を育成しました。そうした人たちを日本語情報士官と言いました。今でこそ日本語がペラペラなアメリカ人は珍しくなく、僕なんかよりも日本の文化に詳しくて恥ずかしいくらいなのですがw、この時代、日本語を喋れるアメリカ人は全米でも50人程度。だからこそ、日本語養成学校が必要になったのです。そうしてできたのが海軍日本語学校(コロラド大学ボルダー校)。学校の講師は強制収容所に収容された日系人から選ばれました。

日本文学研究の第一人者のドナルド・キーンさんも実は、この学校のご出身。若かり頃のキーンさんは『源氏物語』を読んで日本に興味を持って、それで入学したいと志願されたそうです。この学校では、文法を教えず、授業では、ひたすら日本語を使い、耳から聞いた言葉を読んだり、書いたりして日本語を叩き込まれたと言います。それも1年間で。漢字はもちろん、漢字の旧字体や崩し字まで叩き込まれたというから驚きです。海軍日本語学校のある生徒は「頭脳が優れたI.Qの高い人たちで、言語習得力のある人たちだった。漢字はとても難しかったからね。」とこぼしたほど。そりゃ漢字の旧字体や崩し字まで勉強したんだもの。日本人の僕だって旧字体や崩し字なんて書けないしw

でも、語学を学ぶのに文法を教えないというのは、いい教育法だと思う。

僕はラジオの「基礎英語in English」(全て英語、日本語一切なし)とか「英会話タイムトライアル」とかで英語を学び直しているのですが、文法を学ぶだけでは頭になかなか入らないし、何より退屈なのですね。逆に耳からどんどん英語を聞いて、そして講師の先生が言った英語のフレーズを真似した方が、覚えるし楽しいのですね。最近では字幕で『ゴースト・バスターズ』とか『グーニーズ』など昔見た映画を字幕抜き、日本語吹き替え抜きでYouTubeで見たり、洋楽を聴いたり歌ったりしてますね。初見の映画はともかく何度もみた映画なら、役者がしゃべる事細かなセリフはわからなくても、あらすじは知っているので、こんなことを言っているんだろうなってなんとなく想像ができるし、その方が耳が鍛えられますね。洋楽は英語の発音を学ぶのはいいですね。カラオケで洋楽歌うのも楽しいし。

おっと、話が脱線してしまいましたねw失礼。こうして海軍日本語学校を卒業し、情報士官になった人たちはボルダー・ボーイズと呼ばれました。彼らは太平洋艦隊司令長官ニミッツの配下となり諜報活動を行なったといいます。例えば1943年5月のアッツ島の戦いでは、ドナルト・キーンさんも派遣され、戦場で押収した日記や文章の翻訳をして、情報収集をしたと言います。日記には自分の胸の内、家族への想いも綴られていました。それを見たドナルト・キーンさんはこう思ったそうです。

「アメリカ軍は日本人を自分達と全く別の狂信的な民族と思い込んでいました。しかし日記を読んでいくうちに我々と変わらない。同じ人間だったということがわかってきたのです。」


日記や文章の翻訳だけでなく情報士官は捕虜となった日本人の尋問にも当たりました。もちろん捕虜から日本の情報を引き出すためです。そんなアメリカ側の思惑を知ってか知らずか、日本人捕虜たちは尋問にはなかなか素直に応じようとしない。なぜなら、当時の日本は捕虜になることを恥だと叩き込まれており、中には殺してくれと頼む人もいたほど。それで、情報士官は日本語で、日本人捕虜の心を和ませたりしたと言います。もちろん、日本人捕虜の中には、聞いてもいないのに日本軍の上官の悪口とかをベラベラしゃべったものもいたと言いますが。

また、捕虜の中には幼い子供たちも少なくありません。そうした子供たちを殺すわけには行かないので、情報士官のテルファー・ムックさんは子供たちのためにマリアナ諸島のテニアン島に学校を作ってあげたのですね。テニアン・スクールといい、1944年の11月に開校しました。授業は日本語で行い、英語や体育の授業まであったと言います。英語の授業はムックさん自ら教鞭にたったとか。

そこの元生徒さんは「日本の軍国教育下では敵国の悪口しか教えられなかったが、この学校は違った。ムック先生も優しかった」というほど。ちなみにテニアン島には広島や長崎に落とされた原子爆弾を収納されたピッドがあったのですね。このテニアン島の飛行場からB29が飛び立ち、原爆が落とされたのですね。奇しくも今日は広島に原爆が落とされた日ですね。その飛行場から程近いテニアン・スクールの子どもたちはいつもと変わらぬ日常だったといいます。

戦後、ボルダー・ボーイズは退役し、それぞれ名分野で活躍しました。テルファー・ムックさんは戦後はアメリカにて法律家、聖職者を歴任。1991年に初めて日本にも訪れ、かつてのテニアン・スクールの生徒たちと46年ぶりの再会。ムックさんは「日本語はほとんど忘れてしまったが、皆さんのことは覚えています」と同窓会で、元生徒たちに語りかけました。テニアン・スクールの子供たちは戦後は沖縄にわたりました。そして、教え子たちの中には教師になった人もいたといいます。教え子たちは、沖縄の復興を担う若者たちを育てたのですね。ムックさんが生涯大事にしていたのは、日本人形。この日本人形はテニアン・スクールの生徒さんがかつて作ったもの。そのムックさんも2008年に亡くなられます。

ドナルド・キーンさんは日本文学の研究を行いました。キーンさんは京都大学の大学院に留学し、永井荷風や谷崎潤一郎、三島由紀夫など多くの作家と親しくなったのです。さらにキーンさんは東日本大震災で東北の人々たちの心に感動し、日本国籍を取得。鬼怒鳴門と名乗ったのです。キーンさんは日本人となって日本人として死ぬことを選んだのですね。そしてキーンさんは2019年にお亡くなりになりました。

※ この記事は映像の世紀を参考にして書きました。

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