history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 女工さんについて

明治6年(1873年)の6月24日に明治天皇の皇后・美子(のちの昭憲皇太后)と、明治天皇の母親である英照皇太后の両陛下が富岡製糸場に女官たちも引き連れ、行啓したのですね。この時、製糸場をみた皇后が詠んだ短歌があります。



いと車 とくもめくりて 御御代の 富雄をたすくる 道ひらけつつ



この短歌の大意は「繰糸機が早い勢いで回っている。これによって我が国の富や豊かさを盛り上げる道がひらけつつある」とのこと。富岡製糸場に対し、皇后が大きな期待を寄せていることがうかがえます。また、横田英も『富岡日記』に皇后・皇太后両陛下が女官たちとともに富岡にやってきたことの喜びが書かれております。


(両陛下の)神々こうごうしき竜顔を拝し奉り、自然に頭が下りました。(略)さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように 拝しました。(略)私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。


『富岡日記』(P39〜40)



目の前に皇后・皇太后両陛下がいるのだから、それは横田英でなくても、一生忘れない経験だと思います。そして皇后・皇太后陛下は富岡製糸場にお酒を賜ったとのことです。



この行啓の前の明治4年(1871年)に、それまで長らく途絶えていた宮中での養蚕(ご養蚕)を皇后が吹上御苑内にて復活させました。



その養蚕の行事はいまも受け継がれております。皇居の中にも蚕室があるそうです。春から初夏にかけて、歴代の皇后陛下が掃きたて(※1)や給桑きゅうそう(※2)や上蔟じょうぞく(※3)、繭かき(※4)など、いろいろな養蚕の作業をされます。皇居でつくられた絹糸は、正倉院の絹織物の復元や、宮中祭祀や外国元首へのおくりものなどにつかわれます。



明治4年に養蚕は再開しましたが、再開する際、皇后・美子は「養蚕を再開するには養蚕の知識がある人物が必要」ということで、当時大蔵省の役人だった渋沢栄一に白羽の矢が立ったのです。しかし、渋沢は辞退。かわりに田島武平という人物を推薦します。その田島武平の親類にあたる人物が田島弥平で、田島弥平の旧宅が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(世界遺産)の構成資産の一つに数えられております。



戦後になってから、幾度も皇室の方が訪れました。例えば、昭和42年には浩宮さま(いまの天皇陛下)、昭和44年には皇太子殿下と妃殿下(今の上皇さまと美智子皇太后さま)がお見えになりました。平成に入ってからも、今の上皇さまと皇太后さま(当時は平成天皇・皇后両陛下)が平成11年にお見えになられております。












※1 ふ化したばかりのカイコを桑の上にうつすこと。

※2 桑をあげること

※3 繭をつくる場所にカイコをうつすこと。

※4 繭をあつめること






※ 参考文献




富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08






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富岡製糸場とみおかせいしじょうの近くに大正時代から続いている中華料理屋ちゅうかりょうりやさんがあります。こちらのお店では中華ちゅうかそばやおだんごなども出してくれる昔ながらのお店です。

僕が食べたのは中華そば。昔ながらのまろやかな味でおいしかったです。

お値段も安いのもうれしいです。

店員のおばあちゃんも、感じがよく、また行きたくなるお店です。

富岡旅行から帰ってきて、雑誌やネットで分かったのですが、こちらのお店は富岡製糸場の工女さんたちにも愛されたそうですね。


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今日は、富岡製糸場とみおかせいしじょうの工女さんの労働条件について。その話をする前に、の写真ぎょっとしますよね。実は富岡製糸場の塀には鉄条網が張られています。おそらく、これは工女さんに逃げられないようにするためかと思われます。富岡製糸場の労働条件が工女さんが逃げ出すほど悪かったのでしょうか?では、官営時代と民営時代の富岡製糸場について2回にわたってお話します。きょうは公営時代を。






















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女工さんの話を書いた作品で有名なのは細井和喜蔵(ほそいわきぞう)の『女工哀史じょこうあいし』と、山本茂美(やまもとしげみ)さんの『あゝ野麦峠のむぎとうげ』の2冊。

『女工哀史』の著者は細井和喜蔵。1897年5月9日に生まれ、 1925年8月18日に亡くなっています。享年きょうねん28さい・・・若すぎる

細井和喜蔵は、子どものころから両親と別れ、13歳の時には唯一ゆいいつの保護者だった祖母にも死なれ、学校をやめてから、転々と職を変えて、大阪の紡績工場ぼうせきこうじょうではたらきました。それから『女工哀史』を初め、いくつかの本を出したたのですが、急性腹膜炎きゅうせいふくまくえんにて死去しました・・・

『あゝ野麦峠』の著者は山本茂美さん。長野県出身の作家で、1917年2月20日に生まれ、1998年3月27日に亡くなっています。

両方に共通している点は、仕事とはいえ女工さんたちが大変な思いをした事が書かれています。どちらの本もブラック会社や派遣はけん切りの問題など、今日にも通じるようなお話がたくさんありました。



どちらも工場の悲惨ひさんさを描いていますが、ちがいもあります。『女工哀史』は主に紡績業ぼうせきぎょうを取り上げているのに対し、『あゝ野麦峠』は主に製糸業を取り上げています。はじめは僕も紡績と製糸の区別がつかなかったのですが、いろいろ調べているうちに紡績と製糸はちがうことがわかりました。

紡績産業は原料(綿花や羊毛など)の繊維せんいから糸の状態にするまでの工程で、製糸産業は蚕から糸をとる産業だそうです。

紡績業は、大がかりな機械を使うためか、製糸よりも危険がともなうそうです。『 女工哀史』 にもその描写びょうしゃがでてきます。

一方の製糸業ですが、作業には手順があります。まずカイコのマユを熱湯にいれてます。ゆでたマユから糸を取りだします。カイコのマユを煮るときには、スゴクいやなにおいがするそうです。

そういや『あゝ野麦峠』にも、においの描写が出てきたっけ。

『女工哀史』の細井和喜蔵は実際に紡績工場ではたらいていただけあって、工場のひどい職場環境しょくばかんきょうや、女工さんたちの人間模様などがリアルにえがかれています。伝染病にかかった女工さんに毒を飲ませて殺したなんて描写なんて、読んでいる僕もハラがたちました。

その一方で、筆者の「資本主義は悪だ!」みたいな論調がやや鼻につきました。

従業員をこき使って自分は左団扇ひだりうちわ(※2)なんて経営者ならともかく、従業員を大切にする良い経営者だっているわけですから。

とはいえ、著者も紡績工場を非難ばかりしている訳じゃありません。福利厚生ふくりこうせい(※3)がちゃんとしている会社も存在することも書かれています。また、細井は労働組合の必要性を説く一方で、働くことの大切さも説いています。

『あゝ野麦峠』の山本茂美さんは実際に製糸工場で働いた経験はありません。しかし、ていねいに元女工さんたちのインタビューを重ね、見事なルポに仕上がっています。女工さんたちの悲惨ひさんな職場環境を描きつつも、工場でかせいだ金で田畑を買った女工さんや、農作業よりも工場の仕事の方が楽だったという女工さんの話も取り上げています。

また、山本茂美氏の弟さんが片倉の製糸工場に勤めていたというから、弟さんから製糸工場の話も聞かされていたかもしれません?

製糸工場の経営者も一方的に悪く書いていません。朝早く起きて必死に働いた経営者の姿も書かれています。女工さんカワイソス一辺倒いっぺんとうではなく、良い思いをした女工さんも取り上げる事で、かえって「本当にこんな事が本当にあったんだなァ」と納得が出来ます。

『女工哀史』も『あゝ野麦峠』も大変優れた文学作品だし、当時の時代を知る上でも非常に良いテキストだと思います。そして何よりもどちらも作者のヒューマニズムがあふれているところがすばらしいと思いました。


※1 腹膜ふくまく炎症えんしょう化膿菌腫瘍しゅようなどによって起こり、急性では虫垂炎ちゅうすいえんなどから二次的に起こることも多く、激しい腹痛や嘔吐おうと下痢げりなどをともなう。

※2 きき手でない左手でゆうゆうとうちわを使うこと。転じて、従業員をこきつかって楽しく暮らすこと。
※3 会社が従業員とその家族の福利を充実じゅうじつさせるために設けた制度や施設しせつ。保険・住宅・教育などに支出するお給料きゅうりょう以外の諸給付しょきゅうふや,社員りょう・住宅,保養施設ほようしせつなどの福利厚生施設がある。


女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
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あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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