History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: ヨーロッパの歴史

「ちょっと考えてみろ。彼は狂人で、私は喜劇役者だ。しかし一つ間違えれば、その反対になっていたかもしれない。私がこうしていられるのも、神様のおかげだ」

チャールズ・チャップリンの言葉です。彼とはアドルフ・ヒトラーのこと。実はチャップリンとヒトラーは生まれた年も同じで、誕生日が4日違いなのですね。驚きですね。平和を愛し、人々を楽しませてきたチャップリン、一方のヒトラーは独裁者として人々を恐怖のどん底に陥れた。まるで正反対のようですが、実は二人の共通点はあるのですね。両者とも、ちょび髭がトレードマークで、人々を熱狂させたという意味で。また、両者とも

また、ヒトラーはユダヤ人を弾圧したことで有名ですが、意外にもチャップリンもユダヤ人を弾圧こそしなかったものの、ユダヤ人に偏見を持っていたような描写の映画を撮ったことがあるのですね。最も、それは初期の頃の話です。「チャップリンの覚悟」(1916)という作品にユダヤ人らしき人間が登場し、その人物に(チャップリン演じる)主人公が金を巻き上げられる描写が描かれているのです。しかし、チャップリン自身は自分の心の奥に潜むユダヤ人への偏見と葛藤していたようです。「チャップリンの霊泉」という映画に、初めはユダヤ人を馬鹿にしたような描写のシーンもあったのですが、そのシーンをボツにしたとも。

トーキーが流行り出しても、チャップリンは無声映画にこだわり続けました。チャップリン曰く」トーキーは嫌いだ。人類最古の芸術であるパントマイムを滅ぼし、沈黙の美を破壊するからだ」と。逆にトーキーをうまく利用したのがヒトラー。ヒトラーは演説の際、トーキー映像を使い、多くの人々に訴えることができたのですね。ヒトラーは発声法のプロ(オペラ歌手)を雇って、力みのない発声法や呼吸法を学び、演劇で使われるジェスチャーなども学んだのです。こうしたテクニックは演説の時に役立ったと言います。ヒトラーが演説の時、大きな手振り身振りをしますが、あれもこうして学んだテクニックのうちなんですね。

チャップリンはドイツでも人気がありましたが、1935年1月にドイツで上映禁止通達書が出され、チャップリンの映画も上映禁止になります。理由は、チャップリンと風貌が似ているということで、ヒトラーも神経を尖らせていたのです。実際、ドイツは「永遠のユダヤ人」というプロパガンダ映画を作り、チャップリンを批判したのですね。

そしてチャップリンは自分と容貌が似たヒトラーを笑い物にしようと「独裁者」という映画をつくり、ファシズムを批判するのです。この「独裁者」は大ヒットしました。この映画でチャップリンは一人二役で、独裁者とユダヤ人の理髪師を演じたのです。僕も前に見たことがあるけれど、面白かったですよ。ヒトラーを笑い物にするべく、嫌っていたトーキーを取り入れたのですね。ヒトラーの演説のパロディをするために。一方のヒトラーも黙っていません。ナチスはこの映画を「チャップリン特有のグロテスクで下劣な作風」と批判。それにしてもヒトラーは、この映画を実際に見たのでしょうか?チャップリンは「ヒトラー本人の感想を聞きたいね」と述べていましたが。


チャップリンとヒトラーは日本とも繋がりがありました。チャップリンは親日家であり、生涯において四度も訪れています。和食を食べたり、歌舞伎や相撲を倒しんだそうです。そんなチャップリンは日本でも大人気。チャップリンの真似をする人もいたほど。チャップリンはちょと前なら、マイケル・ジャクソン。今ならジャスティン・ビーバーのような存在でしょうか。しかし、チャップリンが来日したタイミングが悪く、一度目は5・15事件、二度目は2・26事件の時だったのですね。なお、先に挙げた「独裁者」は日本では上映されませんでした。「独裁者」が日本で初めて上映されるのは、なんと1960年。

日独伊三国同盟を結んだ後だったので、ヒトラー批判の映画は上映しづらかったのでしょうね。一方、ヒトラーは日本と同盟を組みましたが、「我が闘争」では日本人を馬鹿にしたような描写があるし、日本がシンガポールを陥落させたという知らせを受けた時は、喜ぶどころか、逆に援軍をおくってイギリスを助けたい部下に言い出す始末。口では親日だと言っていたが、本心は侮日だったのですね、ヒトラーは。

8EB79376-435E-4F47-815A-E19EAA738928

(フェルメールの「牛乳を注ぐ女」Wikipediaより)

ヨハネス・フェルメールをご存知でしょうか?バロック期を代表する、オランダの著名な画家です。彼の作品で有名な作品はいくつもあるのですが、「牛乳を注ぐ女」は知名度が高い方でしょうか。他にもたくさんの絵があります。しかし、フェルメールの絵は1970年代以降に度々盗難にあいます。

アイルランドでもフェルメールの絵画盗難事件がありました。1986年5月21日深夜2時、アイルランド・ダブリン郊外にある貴族の館でフェルメールの傑作を含む18点の絵画が盗まれたのです。被害総額は70億円。その盗難事件は大きく取り上げられました。

そのニュースを見てほくそ笑む人物がいました。マーティン・カーヒル。アイランド1のギャングのボスです。強盗、恐喝、誘拐、ありとあらゆる悪事に手を伸ばし、部下からは将軍と呼ばれておりました。その犯行の手口は非常にあざやかで、信頼できる部下を率い、慎重かつ大胆に計画通りに素早く犯罪を実行したと言います。まさにリアル怪人20面相といったところでしょうか。一方では裏切り者は絶対許さない冷酷さも併せ持っていたのです。顔写真をテレビで見たが、すげー人相悪いの。そりゃ悪いことばっかしていればね。そのカーヒルのプライベートは意外と地味で酒もギャンブルもやらない、普段は子煩悩で、子供と一緒に並んでいる写真を見た限りでは、優しそうだった。


92D6B7B3-C4BC-4502-98D9-A81E296DAA4E

(フェルメールの「手紙を書く婦人と召使い」Wikipediaより。この絵がカーヒルに盗まれた)


アイルランドは非常に複雑な事情があるところです。かつて北アイルランドの領有を巡って、イギリスとアイルランドが長らく対立していたのですね。紛争はもとより、テロ組織による爆弾テロも多かったのです。そして貧困もすごかったのです。マーティン・カーヒルが生まれ育った場所は、アイルランドの中でも非常に貧しいスラム街だったそうです。しかも治安も最悪。そんな環境で育てば、グレてしまいます。

で、盗難事件があった1986年5月21日の数日前から、カーヒル一味はフェルメールの絵を盗むべく貴族の館に下見をしたのですね。侵入経路、赤外線警報装置などを入念にチェックしたのです。そしてカーヒルたちは館に忍び込んだのです。館の中は赤外線警報装置がはり回らされていたのですが、なんとカーヒルは堂々と中を歩き、いきなりダンスまでしたというから驚きです。そして警報が鳴り出すや、すぐ逃げたと言います。カーヒルが逃げた後、警察と管理人が駆けつけたのですが、そこには誰もいないし、絵画も無事。警察や管理人も安心。しかし誰もいないはずなのに警報がピーピー鳴り止まず、うるさい。それで、警報装置の誤作動と思って、警報装置を切ってしまったのです。警察が引き上げた後、再びカーヒルたちは館に忍び込み、18点の絵画を盗むことに成功したのです。警報が鳴り止まなかったのは、部下が警報装置に細工をしたからです。

「カーヒルは手強いやつだ」と感じたアイルランド警察は、ロンドンの警察はもちろんオランダの警察やインターポール、アメリカのFBIの力まで借りました。警察は美術商になりすましたりして、カーヒルの尻尾をつかもうとするが、なかなか捕まえられず。警察は焦るばかり。しかし焦っているのはカーヒルも同じでした。フェルメールの絵画を盗んだのはいいが、その絵画を人質?(モノ質かなw?)にして、持ち主に身代金を要求しても、身代金は払ってもらえない、絵を売ろうとしても買い手なかなか現れない。しかも、有名な作品だけに下手に売ってしまうと情報がもれ、逮捕されるリスクも高くなる。一向に絵が売れないものだから、分け前もはらえず、部下たちから不満が出てきます。

今までカーヒルは、お金だとか貴金属などをターゲットにしてきましたが、美術品を盗んだことがなかった。美術業界の特殊な実情を、盗んで初めてカーヒルは知ったのですね。

将軍と呼ばれたカーヒルも次第に追い詰められていきます。部下が次々逮捕され、警察のマークもどんどん厳しくなります。さらにカーヒルのことが、マスコミにどんどん取り上げられるようになります。マスコミに取り上げられると、地下活動をしていたカーヒルも白昼夜にさらされます。普段は、毎週のように役場の窓口に並んで失業手当をもらうなど、表向きは無職のおじさんと見せかけていたのですが、そんな彼も世間にどんどん知られていきます。

とうとうカーヒルは危険なカケに出ます。なんと北アイルランド独立運動をおこなっているテロ組織のIRAと、それに敵対するアルスター義勇軍(独立反対派)に接近。両者に絵を買ってくれと頼みます。アルスター義勇軍側が色よい返事をしますが、アルスター義勇軍に逮捕者が出て、その話は無かったことに。

そんなカーヒルにも救いの手が差し伸べられます。ベルギー人の大物ギャングがフェルメールの絵を含む絵画を8点を買いたいと言ってくれたのです。しかし払ってくれたのは、前金だけで、ほとんど後金はすぐに払ってくれない。しかも、そのベルギー人のギャングは逮捕。こうしてフェルメールの「手紙を書く婦人と召使い」の絵も回収できたのです。

こうしてカーヒルもいよいよ王手をかけられてしまうのです。カーヒル自身も、持病の糖尿病の悪化で体調も悪くなり、自宅でギャング映画のビデオを見て過ごす日々。もはや、かつての将軍の面影もありません。そして、1991年8月18日、カーヒルはレンタルビデオを返却し、家を出るところをテロ組織IRAの構成員に撃たれ死亡。享年45歳。カーヒルがIRAと敵対するアルスター義勇軍と関わっていたことが災いしたのですね。また、カーヒルが貴金属工場を襲撃し7億円を強奪した後、IRAから「俺たちが先に目をつけたから、分け前よこせ」って言ってきたのですね。それをやめりゃいいのにカーヒルが拒否ったのですね。それも IRAを怒らせた原因の一つ。しかも悪いことにIRAは単なるテロ組織ではなく、地の金曜日事件という恐ろしい事件も起こしている恐ろしい組織ですから。


カーヒルがフェルメールの絵を盗んでから、カーヒルにとって良くないことばかり。NHKの「ダークサイド・ミステリー」ではフェルエールの絵は呪いの絵じゃないか?って言っていましたが、僕はバチが当たったのだと思う。元々悪いことをしていたのに、名画を盗んだのだから、これは呪いじゃなくて天罰のような気がする。僕はフェルメールの絵を生で見たことがないが、なんとも神々しいものを感じるし、人々の心を和ませるような魂も感じられる。現在、「手紙を書く婦人と召使い」の絵画は無事返還され、ダブリンにあるアイルランド国立美術館に大事に保管されています。

※この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました。

かつてチェコスロバキアは、ソ連の衛星国でした。共産党が支配し、市民は自由を奪われていたのです。チェコスロバキアは1989年に民主化をしましたが、その民主化運動に関わったのは一人の劇作家でした。チェコの劇作家だったヴァーツラフ・ハヴェル。のちに大統領になる人物です。政治とは無関係な世界から大統領になるなんてすごいですね。でも、ウクライナ大統領のゼレンスキーも元はコメディアンですし、アメリカのレーガン元大統領だって俳優でしたから。

またハヴェルは、1960年代にアメリカに渡り、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのとりこになり、そのレコードを祖国に持ち帰ったのです。このレコードも民主化に一役を買うのです。


お話は1968年にさかのぼります。アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に就任。彼は改革派で、プラハの春と呼ばれる民主化運動を目指しました。彼は「人間の顔をした社会主義」を目指しました。社会主義国家でありながら、言論弾圧のない自由な国を目指そうとしたのです。実はドゥプチェクは自由化を進めることで共産主義体制に対する民衆の支持を集めようとしようとしたのであって共産党をぶっこわすことまでは考えていなかったのです。彼が自由化をすすめるほど、民衆はさらなる自由化と民主化を求めるようになりました。それはドゥプチェクの意図を超えており、共産党を守るどころか逆の結果になっていきます。しかし、それを面白く思わないのが、共産党の旧守派とソ連。やがて、ソ連は行動に移すのですが、それは後程。


文化の面では検閲が緩和されたことで、西側の文化や音楽も入っていきました。ハヴェルが持ち帰ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードも大量にコピーされ若者の間でも流行しました。そのヴェルヴェット・アンダーグランドに即発され、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバースというバンドがチェコで生まれました。通称PPU。

そんなプラハの春も長くは続かなかったのです。この年の8月、突然ソ連が軍事介入したのです。チェコの急激な民主化を警戒して軍事行動をしたのです。抵抗したものは容赦なく撃たれ、何人も犠牲になったのです。そんな状況の中、ニューヨークから帰ったばかりのハヴェルも立ち上がり、ラジオでソ連への抗議と民衆への団結を呼びかけたのですが、議会でもソ連の圧力に屈してしまい、軍隊のチェコ駐留も認められ翌年にはソ連の忠実なグスターフ・フサークが第一書記になり、ドゥプチェクが失脚。結局、プラハの春は短い春で、再び言論弾圧がまかり通るような重苦しい社会になったのです。正常化と呼ばれる長く暗い時代の始まりです。ソ連の侵略に反抗したハヴェルも当然、目をつけられてしまいます。ハヴェルは犬と散歩をしている時でさえ、警察に付きまとわれたと言います。さらにPPUのメンバーまで国の秩序を乱したという理由で捕まってしまいます。ハヴェルはそのことを大変憂いました。「PPUは政治的な見解を持ったことがないのに、ただ好きな音楽を歌っただけなのに・・・」と思ったそうです。ハヴェルはPPUの逮捕に抗議したと言います。そしてハヴェルは知識人たちと手を結び、憲章77と呼ばれる政府への抗議文を発表。表現の自由や人権の尊重を求めたと言います。またハヴェルは世界中のジャーナリストたちにも自国の悲惨な状況を訴えたと言います。そんなハヴェルも1979年に逮捕され4年もの実刑判決を受けてしまいます。ハヴェルは1983年に出所。さっそく民主化運動を再開したのです。

そして1989年、隣国のドイツでベルリンの壁が崩壊したことを受け、若者たちもデモを起こしたのです。そんなデモ隊に警察が動いたのです。丸腰の若者に暴力を振るったのです。そんな状況下、ハヴェルは市民に団結を呼びかけたのです。ハヴェルの呼びかけに若者だけでなく、多くの市民たちもデモに参加。しかし、共産党幹部はなおも事態の収集を図ろうとします。当時の共産党の書記長が市民の前で演説をしても、市民は「かえれコール」。そして1989年11月24日、ついに共産党の書記長が失脚。ソビエトの侵攻から20年、市民は諦めなかった。市民がリーダーに選んだのがハヴェルでした。まさに血を流さずに革命が成功したのです。この革命をビロード革命ともヴェルヴェット・レボリューションとも呼ばれました。

のちにハヴェルはこのように語っています。

「1968年、私はニューヨークからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを持ち帰りました。そのレコードはPPUという自由に満ちた若者たちを生み、彼らの逮捕から「憲章77」の人権運動が始まりました。音楽だけでは世界は変わりません。しかし人々の魂を呼び覚ます者として音楽は世界を変えることに大きく貢献できるのです」


大統領になったハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードと交流があったと言います。そしてハヴェルは2011年に亡くなりました。ハヴェルのことをPPUのメンバーが「ハヴェルには人々を団結させる力がありました。それは非暴力的で、友好的で、ささやかなものでした。しかし、その力は時に大きな力よりも強いものになり得るのです。そして、そんな彼を大統領にしたのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでした」と。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

BDEC92A6-5204-4A96-974B-2745623348CA

(ベートの絵。Wikipediaより)

18世紀のフランスで、正体不明の人喰い獣が人々を恐怖におとしいれました。1764年から3年間でなんと百人も人を殺したというから恐ろしい。その怪物はベートと名付けられました。ベートとはフランス語で野獣という意味。その姿はオオカミとも違う。むしろオオカミよりも大きく、足は大きなカギ爪。尻尾は異様に長い、背中に一筋のシマ模様。不気味ですね、この世のものとは思えません。ベートは家畜を襲わず、なぜか人間だけを襲ったのです。しかも被害者は女と子供だけ。弱いものをターゲットにしていたのです。まさに弱いものいじめですね。この怪物はフランスのジェヴォーダン地方に現れました。この地域は山に囲まれ、主な産業は牧畜で、人口は少なく、人々は肩を寄せ合って暮らしてきたのです。そんな平和な所に、この怪物が現れたのです。

犠牲者があんまり多かったので、時の国王ルイ十五世が立ち上がりました。1764年10月、ジェヴォーダン地方に野獣を討伐させる軍隊を送り込んだのです。その軍隊の名前を竜騎兵、別名ドラゴン。竜騎兵というと、空飛ぶ竜に乗った兵士を、RPGゲーム好きな僕はつい連想しちゃいますがw違います。竜ではなく馬に乗っていました。竜に例えられるくらい強かったということでしょう。

ジェヴォーダン地方にやってきた竜騎兵はベート狩りを始めたものの、捕まえたのはオオカミばかり。ベートはうまく逃げたのでしょう。しかも竜騎兵は戦争には慣れているものの、狩りは慣れていません。狩りには欠かせない猟犬を使わなかったこともベートを発見できなかったのです。しかも竜騎兵は、村人たちを助けるどころか、山狩りに強制参加させたり、食事や寝床の世話まで強制したり、ひどいもので、竜騎兵は、村人にとってある意味ベートより厄介な存在でした。そんな竜騎兵が好き勝手やている最中でも、ベートは女と子供を襲い続け、竜騎兵が滞在して四ヶ月間の間に死者二十人もいたのです。本当に何をやっていたんだか。焦る竜騎兵たちは、ベートが女と子供を襲う性質を利用して、女装までしたと言います。呆れた話です。結局、ベートは仕留めることができないまま、1765年2月に竜騎兵は撤退します。やはりルイ十五世が現場の状況を知らなかった事が大きい。ルイ十五世のいるヴェルサイユとジェヴォーダン地方は離れております。今日のようにLINEも携帯もテレビもない時代。これでは的確な現場の状況などわかるはずもない。

ルイ十五世は次の手を打ちます。ベートに懸賞金をかけたのです。懸賞金は6000リーブル。およそ950万円。すると、静かなジェヴォーダン地方に次々と人が押し寄せました。すると猟師の一人がベートを発見、鉄砲を3発撃って命中したのですが、なんとベートは起き上がり逃げたのです。不死身なのか?

そしてルイ十五世は1765年6月、王宮一の射撃の名手アントワーヌ・ド・ボーテルヌを派遣します。彼は射撃の腕だけでなく頭脳明晰でした。彼はイタズラに探すのではなく、襲撃現場の調査を行い、ベートの行動範囲などを探ったのです。調査をすること三ヶ月。ベートの居場所がわかったのです。すると大きな獣の気配。ボーテルヌは撃ちました。見事命中。しかしボーテルヌが撃ったのは大きなオオカミ。ベートの特徴とは違い、背中にシマ模様もない。むしろあらかじめ巨大なオオカミを用意して、それを仕留めたという、いわばヤラセの疑いもあるほど。しかし、ルイ十五世は王家の威信を守るべく、「事件を解決したのは王家」と宣言し、事実上の終息宣言。その後もベートは子供を襲う事件が起こったのですね。王家に「ベートは生きています」って手紙を書いても「それはオオカミの被害」という有様。王家の威信を守るために、村人を見捨てたのです。

村人たちは失望し、教会に行き神の助けを得ようとしたのです。そしてジェヴォーダンで最も大きな街のマントにある教会の司教の言葉がひどいものでした。

「この怪物によって子供たちが殺され、苦しみの淵にいる両親たちよ、なぜこんなことになったのか。あなた方の育て方が悪く、信心が浅いため、神がこの災害を引き起こしたのです。」

ひどいですよね。こんなことになったのは天罰だと言わんばかりですね。信仰者は困っている人や苦しんでいるに寄り添っていかなくてはならないのに。なぜ「かわいそうだね、大変だね、」って言葉が言えないのか。そのたった一言でも人は救われるのに・・・・村人は子供が殺されて打ちひしがれているのに、まさに傷に塩を塗るようなもの。

もはや地元の人たちで戦うしかない。1767年6月19日、村人たちは必死の山狩りをし、ベートを発見。無事撃ち殺すことができたのです。国家が倒すことができなかった化け物を村人自らが討ち取ることができたのです。こうしてジェヴォーダン地方に平和が訪れたのです。このベートの正体は今も謎です。

※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

2C98604E-E931-4F42-A0D6-74B605C4372D



今、ゴールデンウィーク。どこを行っても、人、人、人。ここ2年はコロナで自粛ムードだったから、静かだったけれど、今年は少しはコロナがおさまったせいか、今までの自粛のうっぷんを晴らすかのような人だかり。かくいう僕も、浅草に行ったのですが、驚きましたよ。島倉千代子さんのうたじゃないですが、お祭りみたいににぎやかでした。観音様にお参りに行くことは良いことですが、去年のGWに行った時は比較的少なかっただけに驚いています。100年前のスペイン風邪が収束するのに3年かかったと言いますが、コロナも3年目、そろそろマジで収束してほしいなって。

さて、そのスペイン風邪とはインフルエンザのことです、スペイン風邪は世界で5億人が感染、4000万人も死亡したと言われ、亡くなった人もたくさんいました。電子顕微鏡が発明されるまで、ウィルスの存在が知られておらず、スペイン風邪の原因は菌の仕業だと思われていたのですね。スペイン風邪はウィルスの仕業なのに、菌を殺したところで、ウィルスを殺すことができません。そんなんじゃスペイン風邪はいつまで経っても治りっこないのですね。電子顕微鏡が発明されてから、ウィルスが発見。それをもとにワクチンも発明されたのですね。

さて、このスペイン風邪が第一世界大戦を終わらせたと言われております。第一次世界大戦は、泥沼化したのですが、スペイン風邪が兵士たちの間で大流行して、戦争どころじゃなくなったのです。一方でスペイン風邪が第二次世界大戦の引き金でもあったと聞いて驚かれる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

1919年1月、フランスのパリ、ベルサイユ宮殿で、ベルサイユ講和会議が開かれました。この会議は戦争の後始末について話し合われました。焦点は敗戦国ドイツについて。イギリスとフランスは多額の賠償金を課そうとしました。それに対しアメリカの大統領ウィルソンは大反対。過酷な要求は恨みを残し、次の戦争の火種になると考えたから。会議は長引き3月になっても続きました。この頃、フランスのパリでもスペイン風邪が流行り、イギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、そしてウィルソン大統領も感染してしまったのです。特にウィルソン大統領は症状はひどかったと言います。

僕も昔インフルエンザにかかったことが何度かありますが、あれは苦しいですよ。熱は出るし、頭もガンガン痛いし、体がすごくだるくなるの。僕はゲームが好きなのですが、インフルの時は好きなゲームどころか、何もしたくない状況でしたもの。おそらくウィルソンも同じ状況で、立っているだけでもつらかったと思いますよ。


本来のウィルソンはいつも俊敏で、すぐに結論を出す人物だったのですが、この時のウィルソンは、覇気がなく、決断を迫られても、のらりくらりとはっきりしない感じだったのです。そりゃインフルにかかれば、そうなりますよね。そして1919年6月、パリ講和条約の調印式が行われました。結局、イギリスとフランスの言い分が通り、ドイツに巨額の賠償金が課されるようになったのです。その金額はドイツの国家予算の20年分に相当すると言うから驚きです。ウィルソンが元気だったら、断固として反対していただろうけれど、スペイン風邪にスタミナと判断力を奪われたウィルソンに、自らの信念を語る力もありませんでした。講和会議でそんなムチャが通ったことで、ウィルソンは「私がドイツ人なら、何があっても署名しないだろう」と吐き捨てました。


むちゃくちゃな賠償金はドイツ経済を圧迫、人々は苦しみ、フランスやイギリスといった連合国への恨みはどんどん強くなったのです。そんな中で、登場したのが、あのアドルフ・ヒトラーです。ある意味、スペイン風邪がヒトラーを生み出したようなものです。もし、ウィルソン大統領がスペイン風邪に感染していなかったら歴史は変わっていたかもしれない。

今年、コロナ禍のなか、ロシアがウクライナに侵攻しました。コロナ禍でヨーロッパ各国が苦しんでいる、そのスキをぬうかのように侵攻しました。プーチンの暴走を見るたびに、ヒトラーとダブってしまい、恐ろしいなって思いました。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

このページのトップヘ