History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: ヨーロッパの歴史



この動画見せてもらったが、良くないと思う。たった2問の質問だけでASD(アスペルガー症候群)と判断するのは非常に危険だと思う。ちなみに、僕は2問のうち、一問目は正解で二問目は間違えましたw。でも二問とも会ってからと言ってASDではないというわけじゃないし、またその逆でもない。この動画が良くないって言ったのは、僕が一問間違えた腹いせもあるwでも、もう一つ、この動画に潜む危機も感じる。

前回のエントリーでもご紹介した香山リカさんの御著作『発達障害と言いたがる人たち』にも書かれておるのですが、実際発達障害の診断はプロの精神科医でも難しいのです。日本では発達障害の診断をしてくれる病院やクリニックは非常に少なく、あったとしてもそこでの診療は最低2時間もかかり、診療代も最低2万円はくだらないのです。高いですよね。発達障害の診断ってコストがかかるのでしょうね。

本格的に診断するとなると、何回も病院やクリニックに通うことになるといいます。しかも、そういうきちんと診てくれるところは予約が必要だとか。予約する人もいっぱいで、なかなか予約取れないとききます。

「発達障害」と言いたがる人たち (SB新書)
香山 リカ
SBクリエイティブ
2018-06-05



それくらい発達障害か判断するのが難しいのに、たった二問の質問だけで判断するのはいかがなものかと。この動画に限らず、わずか数問の質問で発達障害かどうかを診断する動画やサイトがあるが、それをみた人たちに偏見を与えてしまうと思う。発達障害の人は、「やっぱ、俺(私)はそうなんだ」って落ち込むだろうし、逆にそうでない人は、「やっぱり、あいつは発達障害だ」って偏見の目をもつようになる。特に入社して数か月の人は仕事に慣れていないだけだと思う。それなのに、そうした人がひとたびミスをするたびに先輩たちが「あいつは発達障害だ」と判断するのは早計だと思う。

発達障害が世に広まるにつれて、そうした人たちを守ろうとか、一緒に働ける状況を作っていこうという動きが強まればよいのですが、むしろ、偏見の目で見られたり、イジメだとかパワハラだとか職場でも不利な状況に追い込まれることのほうが多そうな気がする。まして現在はストレス社会で、かつコロナ禍。そうした不安な状況において、人々のはけ口は、弱い立場の人間や自分たちと異なるものへと向かうのが人間の悪いくせ。

人間の偏見ほど恐ろしいものはないと歴史が証明しております。藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」のセリフにも出てくるのですが、人間は自分と異なるものを嫌がる傾向がある。エスパーでも魔女でも最初はすごいと珍しがっても、次第にそうした人間を避け、排除する方向へ向かう。その極端な例が魔女狩りやアメリカの中国移民排斥、ナチスのホロコースト。

冒頭で上げたこの動画の悪い面ばかり言いましたが、よい面もあります。動画の最後の方に出てくる「怖いよ、普通の奴らが」というセリフ。示唆にとんでます。魔女狩りをやったのも普通の人たち、中国人移民排斥を訴えたのも普通の人たち、ナチスドイツを支持し、その台頭を支持したのも普通の人たち。むしろ発達障害の人がナチスドイツを批判したという話も聞いたことがあります。また、軍部の台頭を許し、戦時中は戦争を反対したものをイジメたのも普通の人たち。英明な君主に従うならまだしも、我々が大人しいことを良いことに好き勝手ばかりするリーダー、あるいは声がデカいだけの、ならず者に合わせることが良いことなのか。

そうそうナチスと言えば優性思想がはびこり、障害を持った人間は迫害、最悪殺されたのです。そんな時代にアスペルガーという医師が活躍。ナチス党員ではないが、ナチスに協力。アスペルガーは自閉症の定義を決め、自閉症に該当する子供を収容所に送ったとも庇ったとも。アスペルガーは自閉症の子供には特別な能力があるとも提唱しましたが、ナチスドイツでは、そんな考え方は受け入れられません。アスペルガー症候群の語源も、この医者の名前から取ったのです。

アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源
エディス・シェファー
光文社
2019-06-19



ここのところ、YouTubeとかSNSでもマザー・テレサの暗黒面がいろいろ取り上げられ、それを見た人たちが、「マザーってこんな悪い奴だったんだ!」とか「騙された」って声もききます。そう思うよね、普通の人ならば。僕も見させてもらったが、マザーの暗黒面をのせたサイトや動画をみたところで、直ちに「マザーって悪いやつ」って思わないですね。何しろ僕は変わり者だからw僕が安易にマザー批判に踏み込まない理由は三つ。

  • 自分がマザーのことを批判できるようなことをしていない。


  • マザーの批判する意見はマザーの死後に多く、そう思うんだったら、なぜ彼女の生前にもっと言わなかったかのかって批判者に対して反発を覚えたから。


  • ネットで書かれていることがどこまで本当なのかわからないから。




まず、僕が孤児院を経営していて人助けの活動をバリバリやっていたら、多少はマザーの批判ができるかもしれないが、人助けなんてしたことがない。マザーを批判したところで、じゃあ、お前もやってみろよと言われたらそれまでだし。また、僕も何度かマザーのことをブログで取り上げる際、記事を書くための参考として、いろいろ本を読んだりや映像を見させてもらったが、自分にはマザーみたいなことできないよねって。注射針の使いまわしだとか、鎮痛剤を使わないとか、独裁者との関係だとか、死を待つ家が劣悪な環境だとか、いろいろ、まずい面を割り引いても、マザーってすごいなって。マザーのおかげで救われた命も多い。ただ批判するだけなら誰でもできる。批判ばかりで、人助けしなかったら、それじゃあ立憲民主党の議員と変わらない。

何かと非難の対象になる死を待つ家はそもそも医療施設ではなく、今も亡くなりそうな浮浪者や医者からも見捨てられた患者を受け入れ、死をみとるところ。死を待つ家でシスターたちの献身的なケアで奇跡的に一命をとりとめた人も少なくありません。助かるものが助からなかったと言うなら非難されても仕方ないけれど。それにマザーは、助かりそうな命なら病院に搬送したそうですよ。

ちなみに、注射針の使いまわしは日本でさえ、かつてはやっていたんですね。僕が子供のころでも、そんな感じでしたよ。

よく、マザーを批判する人がこういうのですね。マザーは莫大な貯金を持っているのだから、その貯金を使って立派な病院を建てるべきだと。確かにその通りなのですが、その立派な病院を建てたところで、維持費もかかるだろうし、それだけ患者に対して医療費もかかるのです。いくら所得がないものでもタダって訳には行かないでしょう。ましてインドでは国民皆保険制度が存在せず、ほとんどの人々は個別に民間の医療保険に加入しなくてはならない。医療保険も結構高いので、中間層やお金持ちしか民間の医療保険に入ることができず、マザーの施設にお世話になるような所得の低い人じゃあ保険料もまともに払えない。莫大な預貯金で立派な病院を作り尚且つ所得の低い人を医療費ほぼ無料でみてやれといっても、これではすぐに病院の経営傾くし、マザーの莫大な預貯金とやらもあっという間に底をつく。それでもマザーが、ご存命のうちは良いが、やがては経営も立ち行かず結局インドの勝ち組のための病院になることが目に見えています。


ちなみにインドは、憲法で全ての国民に医療を保証し、公的医療機関では無料で受診することができるのですが、あくまで受診のみで、薬や検査は有料。しかも公的医療機関は床にはゴミや埃が散らかってたりで本当に衛生状況が最悪で、マザーハウスどころじゃないとか。それでも貧しい人は何時間もその公的医療機関に並ぶそうです。まともな治療が受けられないことが分かっていても、お金がないから公的医療機関を利用するしかない。マザーを批判するよりもインドの医療の現状を非難した方が現実的なような気がする。


それにマザーの批判をする人って、ほとんどマザー本人が亡くなってからのほうが多いんですね。本人を前に批判したり、死を待つ家の改善を求めたりするのなら、話は分かりますが。死人に口なしというけれど、反論できない死人に対してムチを打つのは僕は嫌いだな、はっきり言って。ある意味、立憲の議員より悪質かもしれない。

ただ、マザーテレサが「痛みに耐えなさい」といって鎮痛剤を与えなかったのはまずかったなあ。こうした痛みに耐えろみたいな発想は日本のブラック企業とかでもみられる。痛みというのは、そもそも体や心がSOSを出している表れ。それに耐えろと言ったら、耐えるほうは苦しいだろうし、それを我慢し続けると取り返しのつかない事になる。そういや、某ブラック企業の社長さんはマザー・テレサのことを尊敬していたけれど、まさか、彼女の痛みに耐えろという思想に共感したんじゃあるまいなw?

もちろん、マザーのことは今後もいろいろと調べさせていただきますが、ネットだけの情報だけで、マザーが悪いやつと判断するのも危険かなって思いますね、現状では。同じくネットの情報ですが、マザー個人のお金とマザーの財団の運営とは分けて考えた方が良いという意見もあります。マザー本人は立派でも、財団の運営者の連中が銭ゲバでよくないって話も聞いたこともあります、そういえば、マザーテレサの映画でも採算を考えずに、人助けしたいマザーと、人助けするにもまず金だと考えるマザーの側近との対立構造が描かれていましたっけ。マザーが悪人というより側近がワルなのかもしれない。それにマザーにあこがれて、奉仕活動や慈善活動を行っている人が本当に多い。慈善活動とは違うけれど、テレサ・テンもマザーに憧れて、テレサという芸名を名乗ったそうですよ。マザーだけでなく、そういった人たちへの影響力、そしてマザーのおかげで救われた人も多い。こうした功績を考えると、やはりマザーすげえなって。

「ジェノサイド」という言葉。大量虐殺の意味ですが、この言葉は古くからある言葉ではありません。ギリシャ語の 「geno(ジェノ)」(種族)とラテン語 の「cide(サイド)」(殺戮)の合成語なんですね。この言葉を考えたのは、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン。レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチルのBBC放送演説における「われわれは名前の無い犯罪に直面している」という言葉によると言われております。その名前のない犯罪とはナチスドイツによるユダヤ人虐殺のこと。

戦後、ドイツのニュルンベルク裁判(1945年)で、この言葉が使われました。ナチス幹部が「人道に対する罪」で告発され、 「ジェノサイド」という言葉も起訴状に盛り込まれたのですね。

1948年12月9日、レムキンのたゆまぬ努力もあって、国際連合は、ジェノサイド犯罪の防止と処罰に関する条約を採択したのですね。 それも国連の満場一致で。この条約により「ジェノサイド」は国際犯罪と定められ、締約国は「防止と処罰を行う義務」を負うことになったのです。ジェノサイドが行われた国に、締結国はジェノサイドが行われた国や地域で、虐殺をおこなっている当事者に「そんなことはやめようぜ」って介入する義務があるのですね。こうした条約が結ばれたのは戦前のユダヤ人虐殺の苦い経験があったのですね。

実はユダヤ人がナチスによって虐殺されているという報道は戦前からされていたのです。にもかかわらず、ほとんどの国は黙認し、ナチスの蛮行を止められなかった苦い経験が。戦時中、ヤン・カルスキというユダヤ人収容所に潜入した人物がいたのですが、彼はわざわざアメリカの大統領ルーズベルトに会ったのに、ユダヤ人虐殺の話はロクに聞いてもらえず、ルーズベルトがいった言葉が「我々(連合国)は戦争に勝つ」だけ。つまり連合国にとって戦争に勝つことが大事で、ユダヤ人が殺されようが、なんだろうか関係ねえって態度だったのですね。

また、広島、長崎の原爆もジェノサイドですよね。アメリカのジャーナリストのジョン・ハーシーはこう書いております。

アメリカに対し、何者にも消し難い恨みを抱き続けていく。ある医師がいった。『ちょうど今、東京で裁判をやっています。原子爆弾の使用を決定した連中をあの裁判にかけて、みんな絞首刑にすべきではないか』って」



にもかかわらず、東京裁判では戦勝国の都合のみで、原爆を落としたアメリカには罪に問われることがなかったのは歴史が証明する通り。それどころか、戦争を終わらせるためには原爆投下が必要だったという理屈がアメリカでまかり通っているのですね。ひどい話です。

こうした戦時中のジェノサイドを防止しようと決めたのがジェノサイド防止条約なのですが、戦後になっても、中国とか台湾、カンボジア、イラクなど世界の各地でジェノサイドが行われました。そして、今日取り上げるのは1994年に起こったルワンダ虐殺。


ルワンダ逆殺の始まりは、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1994年にかけ、フツ族中心の政府軍、ツチ族のルワンダ愛国戦線 との間で内戦があったのですね。いわゆる民族紛争ですね。ルワンダにおいて、フツ族は多数派、ツチ族は少数派だったのです。それが激しい対立になったのですね。そして1994年の4月7日から虐殺が始まったのですね。フツ族の民兵が中心になってツチ族及び穏健派のフツ族に対して虐殺をおこなったのです。

ツチ族とフツ族の対立の歴史は1990年代にいきなり始まった訳ではありません。ことの発端は植民地時代からさかのぼります。19世紀末からドイツがルワンダ一帯を支配し、第二次世界大戦後にはベルギーの支配下に置かれたました。。元々フツ族とツチ族は同一の由来があったのに、ベルギー植民地時代に完全に異なった人種として扱われていたのですね。そしてフツ族とツチ族の格差が広がり、双方の不満がどんどん高まっていったのです。

しかし、植民地支配末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起きました。そして、1962年にルワンダ共和国として植民地支配からの独立を果たしました

そして、ベルギー植民地時代の末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起き、1962年にルワンダ共和国として独立。独立したのはよいものの、ルワンダ国内の様々な矛盾が浮き彫りになったのですね。1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のハビャリマナ大統領(フツ族)によるツチ敵視の政策によってますます対立が深まったのですね。1994年4月6日にハビャリマナが突然暗殺されると、重石が取れてしまったのですね。実際、ハビャリマナは独裁政権をしき、ツチ族を敵視していたものの1993年には和平交渉するなど努力もしていたので。

そして大統領暗殺翌日の、1994年の4月7日から始まったジェノサイドは100日にも及び、その間に80万人も虐殺されたと言います。

実はルワンダ虐殺が起こる数ヶ月前から、国連はPKO部隊を派遣しました。しかし、派遣したものの、混乱は治らず、虐殺はひどくなるばかり。虐殺が起こる前から危険を察知していたにもかかわらず。ただ、彼らは手を拱いて傍観するしかなかったのです。これじゃ、PKOがいても無駄ということで、次第にPKO部隊の数も縮小していったのです。特にアメリカは、ルワンダの出来事はアメリカの国益とは無関係ということで、ルワンダの治安安定に消極的だったのです。PKO部隊長だったロメオ・ダレールはこう嘆きます。

私たちはジェノサイドを防ぐことができただろうか。端的に言えばイエスだ。何らかの対応をすべきだということについては、ほとんどの国家は同意していたが、どの国もこの問題に対してすべき国家は自国ではないという言い訳をしていた。本当のところ、このルワンダ人の物語は危機にさらされた人々の助けを求める声に耳を傾けることのできなかった人類の失敗の物語である



結局、1998年にルワンダ虐殺の当事者たちは裁判にかけられ、有罪判決も出ました。終身刑となって今も服役中のものもいます。その後、ルワンダは経済発展を遂げ、アフリカの軌跡とまで言われるようにになりました。虐殺が起こった4月7日はジェノサイドの日とされ、毎年、あの悲劇を繰り返さないようにと国民が誓うのです。

最後にダレールの言葉を再び引用します。

私は何度も問いかけてきた。私たちは同じ人間なのだろうか。あるいは人間としての価値には違いがあるのだろうか。間違いなく先進国で暮らす私たちは、自分達の命の方が地球上の他の人々の命よりも価値があると信じているような行動をとる。もし私たちが全ての人間が同じ人間であると信じているのならば、私たちはどのようにしてそrを証明しようとするのだろうか。私たちの行動によってしか証明しようがないのだ。


※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。





かつて、イギリスの首相だったチャーチルがアメリカが世界における役割について、印象的な言葉を残しております。以下、引用します。

我々は生涯に二度も運命の長い腕が大洋を超えて伸び、アメリカを戦いの最前線に招き入れた。ヨーロッパの災いが発生すると、その破滅的な猛威はアメリカにも及び、決して逃れられないことが証明される。アメリカ国民は世界的責任から免れることはできない。

私たちはほとんど予測できない激動の時代に生きているが、アメリカが富と権力において前進するたびに、この過程が強化されることは、間違いないだろう


今日のウクライナ情勢における、アメリカの動きを見るたびに、チャーチルは半世紀以上も前に、こうなることを言っていたのだから、慧眼だなって。チャーチルがこのような言葉を述べた背景を順を追ってお話しします。

アメリカは、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の戦争に関わりました。実は第二次世界大戦の時、アメリカ国内では厭戦気分が漂っていたのですね。第一次世界大戦にアメリカは参戦し、たくさんの犠牲者を出したのですね。戦争はゴメンだという意見が圧倒的に多かったのです。ちなみに、かのリンドバーグも戦争反対を唱えていたのですね。リンドバーグと言いましてもバンドの名前ではありませんよw、飛行機で世界一周をした有名なパイロットです。

当時、アメリカはイギリスのチャーチル首相から、ヨーロッパでナチスドイツが暴れ出し大変なことになっているから、助けて欲しいと矢のような催促をアメリカにしていたのです。しかし、ルーズベルト大統領は、本音ではイギリスを助けたいけれど、国内の厭戦気分を無視できなかったのです。1939年の世論調査ではイギリスの軍事支援を賛成する意見は、わずか16%足らずだったのです。それが1940年6月のナチスドイツのフランス侵攻、さらに同年7月にドイツがイギリス本国空爆、といったニュースを知り、アメリカ国民は衝撃を受けます。世論調査でもイギリスを助けるべきという意見が50%を超えたと言います。それでも、1940年にアメリカで徴兵制が導入されるや否や、国民の間で、それに反発する意見も大きかったのです。イギリスに物資や兵器を輸送するなどで支援するのは賛成だが、自分達が戦争に巻き込まれるのはゴメンだということでしょう。それが1941年12月の真珠湾攻撃で、アメリカ世論も戦争に参戦すべきが圧倒的になるのですが。結局、アメリカは二度の大戦に巻き込まれてしまったのですね。

二つの戦争が終わった後も、アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と色々な戦争に関わっております。今回のウクライラでも、武器貸与法を77年ぶりに復活させました。77年前もルーズベルト大統領が、この法律でもってヒトラーと戦う姿勢を示しました。アメリカのバイデン大統領も、ロシアのプーチンをヒトラーと同一視したってことでしょう。また、ウクライナに世界中から義勇兵が集まっておりますが、アメリカからは5000人も集まっているというから、驚きます。かなりの人数ですね。アメリカは世界の警察をやめたといった矢先のウクライナ戦争ですから。チャーチルの言葉が今も生きているんだなって。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

海賊というと数多おりますが、今日は何人かの海賊のプロフィールについて。


  1. キャプテン・キッド(1645〜1701)

  2. 海賊といえば、この人の名前を浮かべる人が多いかもしれません。しかし、意外と海賊としての活動は少なかったようです。イギリス国内の政争に巻き込まれ、イギリスを追われたキッドは、ボストンに入港するさいちゅうに逮捕されたといいます。絞首刑になる直前、「ある場所に宝物を隠した」と言い放ったといいます。そのお宝がどこにあるのか言わぬまま処刑されてしまったため、そのキッドが隠した財宝がいまどこにあるか、人々にロマンを与えております。

  3. フランシス・ドレイク(1543〜1596)

  4. イギリス人としてはじめて世界一周をし成し遂げた航海者であり、最強の海賊だといわれております。航海中に奪った財宝を当時のイギリスの女王エリザベス1世に献上したといいます。彼が奪った財宝はなんとイギリスの国家予算を超えるほどだったというから驚きです。そのおかげでイギリスは借金を返すことができて、その功績が認められ、イギリスの海軍副司令官に抜擢され、スペインの無敵艦隊を打ち破り、イギリスを勝利に導いたといいます。エリザベス一世は彼のことを「私の海賊」と呼んだとか。

  5. フランシス・ロロシア(1639〜1667)

  6. 大変、残虐な人物としられ、ロロシアに会うくらいなら死んだほうがマシと言わしめたほど。ロロシア一行が陸に上がりお宝を求めて森を探索中、スペイン兵たちと出会します。ロロシア一行とスペイン兵たちは抗戦。スペイン兵を何人か捕虜にすると、ロロシアはなんと短刀を抜き、スペイン兵の捕虜の1人の胸を切り裂き、心臓を手づかみして取り出すと、「安全な道を教えろ。お前たちもこうするぞ」って脅かしたのですね。見せしめのため、別の捕虜の口に心臓を突っ込んで食わせたと言います。こええ、

  7. エドワード・ティーチ(1680年? - 1718年11月22日)

  8.  通称、黒ひげ。かなり有名な海賊です。黒ひげ危機一髪なんてオモチャがありますが、実在の黒ひげはもっとやばい人です。豊かにたくわえられた髭には、ところどころに導火線が編み込まれていました。黒ひげの決め台詞は「俺は地獄からきた。今からお前をそこへ連れてやろう」。黒ひげは、ある日、仲間を1人を突然、銃で殺したのです。その時いったセリフが「手下の一人でも殺しておかないと、俺がだれか忘れられてしまう」と言ったと。ともかく怖い人でした。一方で合理主義者でもあり、黒人奴隷を仲間にしたりしておりました。

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    (黒ひげの絵。ウィキペディアより)

  9. ブラック・シーザ

  10.  黒ひげの側近で、元は黒人奴隷。黒ひげに出会う前は、白人の海賊と親しかったのですが、その友人と1人の女性をめぐって対立。結局、その友人をシーザは殺してしまうのですね。大変勇敢で、黒ひげの信頼も厚かったと言います。

  11. アン・ホニー

  12.  女性の海賊です。元々は裕福な家の出でしたが、恋愛気質で情熱的。1人の船乗りに惚れ込み、そのまま駆け落ち。さらに海賊の船長と恋仲になり、そのまま海賊になったのです。銃の名手であり、男たちを罵ったと言います。敵との白兵戦になった時、甲板で身を隠す男性の海賊たちに、意気地がない!戦えって怒鳴ったというから、すごいですね。

  13. アルヴィルダ(詳細不明。五世紀ごろだといわれている)

  14. 王族の娘として生まれた伝説の女海賊。親から勧められた縁談を拒否し、海に逃亡。その際、海賊団と遭遇。その海賊団は船長を失ったばかり。アルヴィルダの美貌と勇敢さが気に入られ、そのままアルヴィルダが新しい船長になりました。それから、アルヴィルダを忘れられなかった元婚約者が彼女を探しに海を渡ったといいます。そして婚約者はアルヴィルダと無事に結ばれたといいます。

  15. 鄭夫人ていふじん夫人(18世紀末〜19世紀初頭)

  16. 中国の女海賊。もともとは娼婦だったが、海賊の首領だった鄭乙チョンイーと出会い結婚。これがきっかけで鄭夫人は海賊となる。鄭乙が急死したので、鄭夫人が夫にかわり首領になります。厳しい掟を強いることで、海の荒くれものたちをまとめあげ、自国の清だけでなく、イギリスやポルトガルにとっても手に負えない大海賊となったといいます。掟を守らぬ部下には問答無用で首をはねたといいます。おそろしいですね。

  17. ヘンリー・エイヴィリー(1659年? - 1696年?)

元々は海賊を取り締まる側にいました。ある夜、船長が寝ている間に、船を乗っ取り、自ら船長になります。そして乗組員たちと共にそのまま海賊になってしまいます。要するに取り締まるより自分が海賊になった方が儲かるから。船と乗組員を乗っ取り、略奪のかぎりを繰り返します。そうしていつの間にか400人以上の部下と6隻の船を持つ大海賊のボスになりました。ある日エイヴィリーは奪った財宝を6隻の船にバラバラに積むと誰かがちょろまかすから、ボスである俺の船に全部詰め込めとエイヴィリーは言ったのです。すると、隙を見てエイヴィリーは5隻の船を置き去りにして、逃げたのですね。財宝を独り占めしたのですね。ひどい話です。本国に帰ったエイヴィリーはそうして独り占めした財宝を商人に売り渡そうとしたのですが、その商人は、「あなたがどんな経緯でその財宝を手に入れたか知っているよ、私が役人にチクったら、あなたは死刑だよ」って言ってしまい、ただ当然で財宝を買い叩いてしまうのです。こうしてエイヴィリーは一文なし。37歳で死亡。自分の棺を買うお金もないほど落ちぶれたとか。

  • 村上武吉ムラカミタケヨシ(1553〜1604)
    瀬戸内海を牛耳っていた村上海賊のボス。1576年の石山本願寺の戦いでは本願寺側に味方し、織田信長の船団をさんざんに蹴散らしたのですが、その後、織田信長に味方した九鬼水軍に負けてしまい、瀬戸内海の制海権を失ったのです。ちなみに九鬼水軍も海賊でした。瀬戸内海の制海権が織田信長に移ってからは能島を拠点としていたが、豊臣秀吉が海賊停止令を発令したことにより、村上海賊は終焉を迎えたといいます。





    ※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。あとこちらの著作も参考にしました。

    新世界 海賊の作法
    ジー・ビー
    2021-05-25



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