History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 室町時代

「観応の擾乱」。この言葉を初めて知ったのは僕が大学受験生だった頃。日本史の授業で知りました。僕は当時、代々木ゼミナールに通っていて、その時、菅野祐孝先生という方に習っておりました。その先生が「観応の擾乱」を「菅野の冗談」って覚えろって言われましたw。「観応の擾乱」の「観応」は宴号、「擾乱」とは揉め事って意味です。観応の擾乱は平たく言えば、足利尊氏と足利直義の兄弟喧嘩です。

しかし、ただの兄弟喧嘩ではなく様々な人間関係が入り混じった複雑な事件でした。

事件の発端は、足利直義と高師直の対立から始まります。足利尊氏が征夷大将軍になって幕府を開き、宿敵の後醍醐天皇も亡くなったことで、南朝が生き残っているとはいえ、尊氏もまずは一安心。尊氏は軍事を、弟の直義は行政を行い、そして執事の高師直がサポートするという、尊氏、直義、高師直のトロイカ体制は盤石かと思われました。しかし、直義と師直の対立は日に日に高まるばかり。それで直義は尊氏に直訴し、師直を執事罷免させます。しかし、それでめげないのが師直。逆に師直は仕返しに直義を引退に追い込むのですね。ところが、その一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出るのですね。そして、直義は尊氏&師直に戦いを挑むのですね。とは言いましても、直義は兄貴である尊氏のことは憎んでいないのです。あくまで高師直のことが嫌だったのですね。


尊氏を裏切り直義に寝返る武将が続出し、直義軍の勝利。そして、高師直とその弟の高師泰が殺されてしまうのですね。高師直兄弟を殺めてたのは直義の仕業だとか。師直を信頼していた尊氏は悲しみ、直義との関係が悪くなるのですね。それでも尊氏と直義はすぐ和睦を結ぶのです。尊氏と直義は血を分けた兄弟。2人とも戦いたくはないのです。2人は今後の幕府の運営について話し合ったのですね。基本的に政務は尊氏の子である足利義詮が担い、直義は義詮を補佐する。武士たちに与える恩賞論考は尊氏がやると。そして、同じく尊氏の子である足利直冬を鎮西探題(九州)に任命。これで一件落着かと思いきや、この人事はのちの波乱を生むのです。

まず、次の将軍だと目されている義詮と、直義の関係が非常に良くない。まして義詮は高師直のことをとても信頼していたのですね。信頼する部下を殺した直義のことを憎んでいたのです。また鎮西探題を担うことになる直冬は、尊氏との関係がよろしくないのです。直冬は尊氏の子供は言っても、直冬の母親は身分が低かったのです。だから尊氏は直冬に対して冷たい態度をとっていたのです。その直冬を不憫に思ったのが直義。直義は、直冬を養子として迎え入れたのですね。

それと、尊氏は負けた側なのに、なぜか恩賞充行アテオコナイ権(※1)になったこともまずかったのですね。本来、恩賞は勝ったはずの直義がやるべきなのに。この時代の武士は忠義よりも恩賞をくれる大将、あるいは自分にとってメリットがありそうな大将についたのですね。。楠木正成みたいな人は珍しかったのですね。尊氏も十分な恩賞を与え満足させないと武士たちは自分の言うことを聞いてくれないことをよく知っていたのですね。逆に言えば、恩賞さえ与えれば、武士達は自分の言うことを聞いてくれる。いくらトップがヘリクツを言っても、恩賞をくれない人間の言うことなど武士は聞かない。だから、この時代、恩賞を左右する立場の人は強いんですね。尊氏は恩賞担当をやらせてくれと直義に頼んだし、直義も兄貴の言うことだかと遠慮があったのですね。

それから直義は南朝との関係を良くする試みます。一時的な和睦ではなく、今後とも仲良くしてきましょうと。が、これは不発に終わります。南朝側は元々直義のことは良く思っていなかったのです。和睦なんて口先だけで、直義は北朝の利益しか考えていないことを見抜かれてしまったのです。また、直義は南朝と北朝とで交代交代で天皇を出せば良いと主張。これに対し、南朝は「俺たち南朝こそ正統だ!」って聞かないのです。むしろ南朝はいざとなれば戦う姿勢を崩さない。それで尊氏は南朝を討つために挙兵するのです。その挙兵を、悪いことに、直義は自分を討つための挙兵だと勘違いしてしまうのですね。こうした誤解がさらなる混乱を招くのです。そして、各国の武士達は直義につくか、尊氏につくか二分してしまうのです。

さらに義詮は、観応2年(1351)に御前沙汰ゴゼンサタと言う期間を設置します。この期間は恩賞の査定だけで無く、裁判も担っていたのです。そのため、御前沙汰を作った義詮の権限は強くなり、直義の居場所がなくなったのですね。直義は逃げるように、直義側についた畠山国清や桃井直常武士達と共に北陸へ向かったのですね。そして越前(今の福井県)にあった金ヶ崎城を拠点としていたのです。そして、直義と義詮&尊氏は再び戦うことになるのです。戦いの場所は近江国(今の滋賀県)の八相山ハッソウザン。とは言いましても、直義が戦場に出向いたのではなく、畠山国清や桃井直常ら武将達にたたわせて、直義は金ヶ崎城にこもっていたのですね。やはり兄貴と直接刃を交えることに後ろめたさがあったのでしょうね。この戦では尊氏がわの勝利。観応2年10月2日、近江国錦織興福寺で尊氏と直義は対面し、和睦をしようとしますが、結局破綻。直義は鎌倉に行ってしまいます。この年の12月に、直義と尊氏は再び戦火を交える羽目になります。尊氏と直義は仲直りしたいし、足利義詮ほか一部の強硬派を除けば、武将達の間で、不毛な戦いはもうやめようって厭戦気分が漂っていたのにも関わらず。

話を少し戻して、尊氏は観応2年の8月ごろから、南朝に接近していたのですね。複雑ですね。初めは南朝も難色を示したのが、二ヶ月かかって12月3日に和平は成立。その和平の全権を任されたのが、義詮。講和の条件は二つ。

1 後醍醐天皇が行った新政の時代に戻す。つまり南朝こそ正統だと認める。
2 直義を追討する。


この条件に義詮はサインしてしまったのですね。南朝と仲良くする代わりに直義を討てと。こうなったら、直義を攻めざるをえなくなる。尊氏は不満を持ったそうです。なぜなら実の弟を討たなくてはならなくなったから。義詮と尊氏のすれ違いが感じられます。それでも尊氏は直義を討伐すべく直義のいる鎌倉に兵を向けました。本当は嫌だったろうな。義詮も自分も戦うと行ったのですが、尊氏はそれを拒否しました。おそらく尊氏は直義との和平を諦めていなかったのでは。義詮を連れてきたら、それこそ殺せと言いかねない。実際、義詮は武力で持って直義を倒せって思っていました。

でも、幕府の政治基盤を安定させるために、尊氏は実の弟である直義を犠牲にするしかなかったのかなって僕は思うのですね。幕府の跡取りは義詮に決まり、幕府も義詮中心に回りつつある。そうなると、直義の存在が義詮にとって脅威。直義を生かしたところで、直義と義詮が戦争したら、それこそ世は乱れる。直義と義詮の仲は最悪なので。実の弟を救いたいが、かと言って世の中の秩序を乱す真似はしたくない。秩序を取るか、肉親への愛を取るか、尊氏はてんびんをかけたのかなって。


そして観応2年(1351年)、駿河国(今の静岡県)にある薩埵山サッタサン で尊氏軍と直義軍は激闘。しかし、直義はこの時も出陣せず、鎌倉にいたのですね。その時の直義の心境がありありと出ている直義が詠んだ歌が残されております。

暗きより 暗きに迷う 心にも 離れぬ月を 待つぞ はかなき

直義は最後の最後まで兄と仲直りしたかった。しかし、それが叶わぬような事態にまで追い込まれてしまった悲しさが伝わってきます。観応3年(1352年)1月5日に尊氏は鎌倉に入り、直義は降伏しました。この後、直義は浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉され、2月26日に急死したのですね。それから直義の死後、尊氏は九州にいる直冬に戦を仕掛けるのですね。戦に敗れたものの直冬はうまく逃げ延び、尊氏死後も生き延びたのですね。一説によれば、尊氏の孫の足利義満と直冬は和解したという話もあるほど。

こうして観応の擾乱と呼ばれる争いは終わるのです。



※1 充行とは、平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為をさして使われるようになった語。恩賞充行権とは、戦で手柄を立てた武士達に恩賞を与える権限のこと


※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。あと、こちらの本も参考にしました↓


足利義満は室町幕府3代将軍です。義満といえば、金閣寺や日明貿易のイメージがありますが、彼は策略家でした。義満は有力守護大名の力を削ぐために、内部抗争を利用したのですね。

実は室町幕府は非常に不安定な面がありました。将軍といえども強力な直轄軍を持っておらず、しかも室町幕府は財力もあまりありません。一方の斯波や土岐、細川といった守護大名たちは自分達の軍隊を持っておりましたし、土地も財力も持っておりました。特に山名氏の支配地は、丹後,因幡,伯耆,美出雲,但馬、隠岐に加え、山城,和泉,紀伊といった、山陰だけでなく、近畿にも勢力を及ぼしていたのです。それぞれの国を山名一族が支配していたのです。それで山名は六分の一衆殿と呼ばれたほど、強大な勢力を持っていたのです。日本全国の6分の1を山名が支配していたという意味です。その力は幕府よりも強かったと言います。だから幕府のいうことを聞かず勝手気ままに振る舞っていたのです。

徳川幕府は、参勤交代とか、普請やらで諸大名にお金を使わせ、その力を弱めさせておりましたが、室町幕府はそういうことはやっておらず、守護大名がどんどん力が強まっている状況でした。

しかも、守護大名たちは自分達が幕府を作ったという自負もあったのです。初代足利尊氏の時代、尊氏は諸大名と協力し後醍醐天皇率いる南朝と戦い、幕府を開いた経緯があります。しかも、朝廷が北朝と南朝が別れたまま。社会も依然として不安な状況。

南北朝の動乱というと、足利尊氏と後醍醐天皇のケンカみたいなイメージがありますが、実際は孫の義満の時代まで続いたのです。義満の父、足利義詮の時代には、有力な守護大名が南朝側に寝返り、将軍が都を追われるなんてこともあったのです。1379年には管領の細川頼之を罷免せよと守護大名たちが義満に迫ったと言います。細川頼之は諸大名から厳しすぎると評判が悪かったのです。そんな守護大名たちの圧力に将軍が屈服。将軍であっても、諸大名の圧力の前では無力であることを義満は思い知らされるのです。

このままではいかんと思った義満はまず、馬廻衆という将軍直轄の軍隊を組織します。そして、強力な力を持つ諸大名の力を削ぐ作戦に出ます。それから義満が守護大名たちの揉め事に突っ込んで、内部から崩そうとしたのです。

まず目をつけたのが土岐氏。土岐氏は尾張、美濃、伊勢の3カ国を持っておりました。それが当主の土岐頼康が亡くなり、義満は後継の土岐康行に美濃と伊勢の2カ国を持つことを許し、一方の康行の弟の土岐満貞を尾張の国一国の守護にしたのです。まもなく康行と満貞の間で争いになったのです。義満はこの内紛に介入。一方的に土岐康行を謀反人として討伐したのです。討伐後、義満は土岐氏から伊勢の国を召し上げ、土岐氏の弱体化に成功します。

義満が次に目をつけたのは山陰の守護大名の6分の1殿とよばれた山名氏。義満は、この山名氏もバラバラにしてやろうと、内情を探ったのです。

当主だった山名師義が死去し、山名義幸、氏之、義熙、満幸の4人の息子がいたのですが、彼らは若年であったため、中継ぎとして師義の末弟の時義が山名の当主となりました。これに対して、満幸と師義の弟の山名氏清が不満を示します。その時義が死去、当主の座と但馬・備後の2国は時義の息子時熙が、伯耆の国は氏之に与えられました。しかし、満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていったのです。ちなみに義幸は病弱でした。

また山名時熙に対し、従兄弟の山名満幸が不満を持っていたのです。早速、義満は満幸に接近、時熙をそそのかし、2人を戦わせようとしたのです。しかし、時熙はあっさり敗れて逃亡。すると今度は義満は時熙を許し、山名満幸に難癖をつけて、出雲守護職を取り上げてしまいます。それに満幸が幕府に不満を持ちます。

山名満幸は一族を集め、幕府に戦いを挑みます。それが1391年に起こった明徳の乱。そして京に攻め寄せたのです。それで義満は京の町ではなく、京のはずれの内野というところに山名の軍勢を誘き寄せます。ここは、かつて大内裏があった場所で、天皇が住んでいたところで、鎌倉時代に大内裏が焼けて、それ以降空き地になっている土地です。内野で幕府は山名勢を迎え撃ったのです。そしてわずか一日で幕府が山名を打ち破ったのです。そして義満は山名氏から8カ国を奪い、山名氏の弱体化に成功。山名は伯耆、出雲、但馬の3国だけになったのです。

この明徳の乱の翌年に義満は南朝と北朝を統一したのです。これで尊氏の時代から続いた南北朝の乱は終わったのです。

しかし、義満が亡くなってから状況が変わってきます。義満の知略とカリスマ性で何とか保たれていたバランスが崩れ、室町幕府は転がり落ちて行きます。元々室町幕府はそんなに強大な力を持っていなかったので。それで守護代の力も強いまま。応仁の乱、そして戦国の世を迎えてしまいます。

*この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

今日は楠木正成のお話を。俳優の高橋英樹さんがご出演されている歴史番組で楠木正成を取り上げていまして、冒頭で若い女性アナウンサーが「足利尊氏は知っているが、楠木正成はあまりよく知らない」と。若い世代だとそうでしょうね。でも、ある程度年配の方だと楠木正成を知っている方も多いかと思います。戦前は教科書に取り上げられて、天皇を守った忠君とされていたのです。逆に足利尊氏が天皇に反逆した悪者だと言われていたのです。さらに戦時中、全国各地の小学校などに楠木正成の像、いわゆる楠公像が設置されたのですね。要するにお前たちも楠公のように天皇につくせということでしょう。戦前・戦中は皇国史観でしたからね。もっといえば紙幣の肖像画にも楠木正成は描かれていました。

それが戦後になって皇国史観が否定され、楠木正成はGHQから軍国主義の象徴として否定されたのです。学校にあった楠公像は撤去され、教科書でもまともに取り上げられなくなりました。だから楠木正成を知らないという若者がいても不思議じゃないのです。

しかし、楠木正成がタブー視されても人々の心に残りました。楠木のことは、絵本や歌舞伎の題材にもなりました。

千早城の戦いなどの楠木正成の活躍ぶりに、高橋英樹さんは子供心にワクワクして、穴まで掘ったと番組でおっしゃっていました。高橋英樹さんは1944年生まれで、戦後教育を受けた世代ですが、その世代でも楠木正成はよく知られていたのですね。

楠木正成は元々は河内にいた地方の武士で、地元の人々から慕われていたのです。平和な時代ならば、楠木正成は平凡で普通の暮らしだけど、幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、楠木がいた時代はまさに大乱世でした。時の天皇の後醍醐天皇が野心を抱き、幕府を倒そうとしていました。しかし兵をもたない天皇が強力な軍隊を持つ幕府に敵うはずがありません。そこで天皇が目をつけたのが楠木正成。

楠木正成が後醍醐に謁見すると、後醍醐は意外な話をするのです。後醍醐は「夢を見た」と。その夢の内容というのが、後醍醐が不思議な場所に来て、そこには大きな木があったというのです。しばらくすると2人の子供が出てきて、その子供たちが「陛下が座るところは、この木しかありません」と告げたと。その木は南側にあったのです。木という漢字と南という漢字をドッキングさせると「楠」という漢字になります。それで後醍醐は楠木こそ自分を助けてくれる人間だと神様が教えてくれたと思ったのでしょう。

その話を聞いた楠木は感激し、「少ない兵力でも知略を尽くせば、幕府に勝てる」と力強く後醍醐に言いました。

もっとも、この夢の話は「太平記」に出てきたことで、本当に後醍醐がこんな夢を見たかどうかはわかりません。おそらく、後醍醐があちこちの武士たちに声をかけたが断られ、たまたま楠木に声をかけたらOKしてくれたという話だと思います。



早速、楠木正成は後醍醐のために立ち上がりました。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に立て篭もり、幕府と戦ったのです。後醍醐に呼応して、楠木は河内の赤坂に城を築いて立て籠ったのです。しかし楠木に味方したは、わずか五百人。これに対し幕府は、鎌倉だけでなく、京にある出先機関の六波羅探題と合わせて数万の兵士を派遣したのです。その中には足利高氏もいたのです。高氏はこの頃は幕府側だったのです。結局、笠置山に立てこもった後醍醐は負けてしまい、隠岐に流されてしまいます。

一方の楠木は幕府の大軍相手に善戦をしたのです。赤坂城は山城だったのですが、城から丸太やら岩を落としたり、奇想天外なゲリラ戦で立ち向かったのです。最後に楠木は城に火を放ち、退散したのです。赤坂城が炎上し、幕府側は楠木が死んだと思ったのです。その後、1年間、楠木は身を隠していたのです。


しばらく身を隠していた楠木は再び兵をあげ北条勢が占領していた赤坂城を取り戻したのです。今度は金剛山に千早城をつくり、楠木軍は千早城に立てこもりました。死んだと思っていた楠木が現れたことに幕府は驚いたのです。さらに後醍醐天皇の息子の護良新王が吉野で挙兵。幕府は衝撃を受け、楠木正成と護良親王に賞金首をかけます。

金剛山は険しい山でそこに築かれた千早城は深い谷に囲まれた、守りの硬い山城でした。正成はヨロイを着せたワラ人形で敵をおびきよせ、上から石を落としたり、熱湯や、おしっこやウンチ💩wまで投げたと言います。ばっちいぃな。そうやって幕府の大軍を苦しめたのです。楠木正成がこのように籠城したのは自らが幕府軍に勝つためではなく、あくまで時間稼ぎ。全国に鎌倉幕府に不満を持っている武将たちはたくさんいる。自分達が粘り強く幕府と戦えば、そういった武将たちも反旗を翻すと。楠はそれを待っていたのです。

元弘3年(1333)には隠岐に流された後醍醐天皇は地元の豪族の力を借りて島を脱出。そして全国の武士たちに幕府討伐の綸旨を出したのです。それは幕府側にいた足利高氏にも声がかかりました。そして、綸旨を受けた足利高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻撃。同じ頃、新田義貞も鎌倉を攻撃。これで鎌倉幕府はほろんだのです。それから楠木正成は、天皇の護衛役を命じられたのです。

そして後醍醐天皇は自ら政治を行いました。いわゆる建武の新政です。しかし、あまりに性急な政治改革だった上に朝令暮改を繰り返したので、世の中は混乱し、人々の不満が高まったのです。さらに恩賞も公家には厚く、武士には薄くという不公平なものだったのです。これには武士たちも怒ったのですね。足利高氏は優遇された方で、尊氏という名前も後醍醐からもらったのです。が、後醍醐は尊氏を警戒し、征夷大将軍も護良親王に命じたほど。強力な軍事力を持つ尊氏が幕府を開くことを恐れたのです。

北条氏の残党を討伐するために尊氏は鎌倉に派遣されましたが、戦の後、京に戻らず、天皇の許可もなしに味方に恩賞を与えたのです。そのことに怒った後醍醐は、新田義貞を派遣し、尊氏を討伐しようとしたのです。それは建武2年(1335)のこと。

尊氏は新田軍を撃破、逃げる新田を追い京に上ったのです。しかし、大軍を率いて東北からやってきた北畠顕家の応援を得て、新田義貞、楠木正成らの軍勢が総攻撃。たまらず尊氏は九州に逃げ延びたのです。

延元元年(1336)、尊氏は西国の武士たちを味方につけた上に、光厳上皇から新田討伐の院宣を得たのです。光厳上皇は持明院統で大覚寺等の後醍醐とは対立していたのです。この上皇の院宣で尊氏は朝敵ではなくなったのです。そして、尊氏軍は京に登ろうとしたのです。後醍醐大ピンチです。

その時、正成は後醍醐に進言したのです。まず、天皇は都から離れると。海からやってくる尊氏を京に誘き寄せると。そのすきに正成たちが尊氏の水軍を攻撃し、補給をたつ。そして、都にいる尊氏を攻撃すると。しかし、その案を天皇は却下。天皇の側近、坊門清忠など公家たちが「帝が京を逃げたら対面が悪い」と批判したのです。公家たちは軍事を知らなかったのですね。

そして後醍醐は、新田と共に尊氏と戦えと命令するのですね。これはまさに負け戦。楠木正成にとって死刑宣告のようなもの。

死を覚悟した楠木正成は大阪の桜井にて息子に別れを告げたと言います。そして息子を母の元に帰したと言います。かくて新田一万騎と楠木700騎は、摂津の湊川付近で、尊氏の大軍と戦いましたが、この戦で楠木正成は戦死します。

実は楠木正成が世に出て活躍したのは5年くらいしかなく、彼の生い立ちなど詳細なことはわかっていないのですね。それでも、楠木正成の戦いぶりは後の世から高く評価され、人々に語り継がれて行ったのです。

NDL-DC 1307845 01-Tsukioka Yoshitoshi-後醍醐天皇第三皇子大塔宮護良親王誦読於鎌倉土牢法華経図-明治30-crd
(Wikipediaより。護良親王が法華経を読誦している様子を描いた絵)


護良親王モリヨシシンノウ。は幼い頃から比叡山ヒエイザンに入れられております。護良は勉強そっちのけで武芸の稽古ケイコばかりしていたと言いますが、20代で天台座主テンダイザスになれたくらいです。仏教のことをまるで知らないで天台座主になれるわけないので、護良にも素養はあったはず。また、比叡山は数多くあるお経の中で大切にしているのが「妙法蓮華経ミョウホウレンゲキョウ」、つまり「法華経」です。法華経を大事にしているといえば日蓮宗もそうです。

日蓮宗といえば、このようなエピソードがあります。後醍醐天皇が幕府に歯向かい隠岐島オキノシマに流されました。元弘3(1333)年供養を護良は日蓮宗の日像上人に命じて父の帰還供養をするように令旨リョウジ(※1)を出しました。



日像上人とは、日蓮宗の開祖・日蓮上人のお弟子さんです。日像上人は、法華経以外の教えを邪道と考えていた節があったようで、京都での布教活動をしていましたが、比叡山や他宗教の圧力もあって迫害を受けていたのですね。それにもめげずに日像上人は妙顕寺ミョウケンジというお寺を開創したのですね。

翌年の建武元年(1334)後醍醐天皇が京都に戻ってくると妙顕寺を勅願寺チョクガンジ(※2)とするという後醍醐天皇の綸旨リンジ(※3)を得ました。つまり、日像上人の活動も天皇のお墨付きをもらったということです。これには日像上人の歓びもひとしおでしょう。

話を護良に戻して、護良は幽閉されてしまいますが、そこで読んでいたのが法華経だそうです。今まで戦、戦で護良は心が休まる日がなかったと思われます。閉じ込められたのはかわいそうな気もしますが、一方で時間ができたともいえます。もしかしたら、護良は法華経を読みながら、戦争で亡くなった人たちのことを思っていたのかもしれないと僕は思います。

不幸にも護良は殺されてしまいますが、護良には子供が何人かいましたが、そのうちの二人が仏門に入られたのです。すごいですね。護良も本来は仏教に縁がある方なんですね。平和な時代に生まれていたら、坊さんになって人々を救っていたかもしれませんね。

一人が日叡ニチエイ上人。鎌倉にある妙法寺というお寺を建てた人です。元々妙法寺があった場所に日蓮上人が草庵ソウアンを結んでおりました。日叡上人は日蓮上人をしのび、かつ父・護良親王の菩提ボダイトムラうためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山妙法寺リョウゴンザンミョウホウジと名付けたのです。妙法寺は苔寺コケデラとしても有名で、護良のお墓もあります。

もう一人が、華蔵姫ケゾウヒメ。護良の娘です。護良が鎌倉に幽閉されていることを知り、京にいることを不安に思った姫は、父親に会いたい一心で鎌倉に下りました。護良の捕まっている牢の中には護良はおらず、しかも、父が殺害されたことを知ったのです。護良の娘が鎌倉に来たというので、鎌倉にいては足利の人間に捕まってしまうというので姫はさらにに東に逃れ、今の千葉県東金市トウガネシ)に身を隠したといます。姫が来てからは、ここを姫島と呼ぶようになりました。

華蔵姫は、さらに安全な地を選んで、姫島の近くの要害の地に館を築き、従者の武士が周辺を警護したました。その地を家の子といい、その館は家の子御所とか呼ばれましたが、姫が出家してからは尼御所と通称したそうです。姫は出家して父の菩提を弔ったそうです。姫が出家して、どの宗派に所属したのか、そして姫が法華経に帰依してたかどうかまではわかりません。ただ、その地に妙宣寺という華蔵姫にゆかりのあるお寺があります。元々は曹洞宗だったそうですが、今は日蓮宗のお寺だそうです。

護良と法華経に関するお話といえば、神奈川県の津久井というところに護良をまつった塚があります。千部塚といい、応安4年(1371)に親王の33回忌に法華経千部を納めて建てられたと言います。





※1 皇后や皇太后、皇太子などが命令、意思を伝えるために発した文書
※2 天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと
※3 蔵人所クロウドドコロが天皇の意を受けて発給する命令分。ちなみに蔵人所とは天皇の秘書的な役割をする機関

護良親王は首を切られてしまい、しかもその首は野に捨てられてしまいました。そのことを不憫フビンに思ったのが、護良親王の側室の雛鶴姫ヒナヅルヒメです。雛鶴姫といえば、小説「キミノ名ヲ」(漫画化もされた)で知ったという方もいらっしゃるのではないかと。雛鶴姫は、護良の首を拾い、従者とともに、今の神奈川県の戸塚にある王子神社に足を運び、そこの井戸で護良の首を洗い清めたと言います。その井戸は首洗い井戸と言われております。鶴姫一行は京へ向かおうとしたのですが、足利の追手から逃れるために山道を通ったのです。

雛鶴一行は険しい道を歩き続け、今の神奈川県の津久井を通って、それから今の山梨県の秋山というところまで辿タドり着きました。しかし、雛鶴姫のお腹の中には赤ちゃんがいたのですね。しかも時期も悪く、12月の終わり。年の暮れ。とっても寒い時期です。こんな時期に妊娠中ニンシンチュウの女の人が寒いところを歩き回るのは危険極まりない。

雛鶴姫の従者は村の人たちに「一晩泊めてくれ。女が一人お産なのだ」と頼み込みますが、村の人たちは皆「ダメです」って断るのです。なぜかって?村人たちは一行が身なりとか、立ち振る舞いからして、護良親王の関係者だってことがわかったし、もし自分たちがカクマえば、足利の者からとんでもないおトガめがあると思ったから。ひどい話だと思いますが、いざとなったら自分が可愛いもの。僕だって村人と同じ立場だったら、同じように断っていたかもしれない。

そうこうしているうちに雛鶴姫は産気付いてしまうのです。従者たちは木の枝や木の葉を集めて、そこに雛鶴姫を寝かせたのです。そして雛鶴姫は子供を産みました。しかし雛鶴姫はその子供を産んで息を引きとったのです。冬の寒さと飢えが原因です。かわいそうに・・・

従者たちは深く悲しみました。村人たちが親切に泊めてあげれば、雛鶴姫は死なずに済んだかもしれない。あんまり村人が冷たくて薄情だから、この村は無情(情がない)で、とうとう無生野ムショウノと呼ばれるようになったとか。

雛鶴の亡骸ナキガラは従者たちによって、亡くなった場所で手厚く葬られたと言います。

また、せっかく雛鶴姫が命をかけて産んだ子も幼くして亡くなってしまうのです。

そうして護良の首は、富士吉田の富士山下宮小室浅間神社フジサンシモミヤオムロセンゲンジンジャに塚がつくられ、その塚に護良の首がめられているとか。

一方で、山梨県都留市ツルシ石船神社イシフネジンジャにも護良の首がマツられていると言います。この首は頭蓋骨ズガイコツには金箔キンパクられ、目には水晶スイショウがはめこめられていると言います。ちなみにこの首は普段はお目にかかることができず、年に一回しか公開されないそうです。

さらに、この記事の初めの方でも触れた神奈川県戸塚にある王子神社にも、静岡県の清水町の智方神社チカタジンジャにも、護良の首が祀られているというのです。それから栃木県の佐野市、ラーメンで有名なところですよね。その佐野市にある浅沼八幡宮に護良の首が持ち込まれたという伝説があるのです。

どれが本物なのでしょうね。まさか護良は首が5つあったw?だとしたら化け物ですよね。そんなことありませんからwこの5つの神社のうち、一つは本物の首が祀られ、残りの4つは護良の霊を慰めるために祀られている(いた)のだと思われます。あくまで僕が感じたことなのですが、富士吉田の小室浅間神社の塚から何か神々しいものを感じたのですね。ここに護良の首があるかどうかはわかりませんが、護良の思いみたいなものはすごく感じられました。

* おまけ
かつて秋山の村人たちは雛鶴姫に冷淡な態度を取りましたが、秋山の人たちは本当は心苦しかったといいます。無生野の大念仏 ムショウノノダイネンブツはかわいそうな雛鶴姫の供養のために始まったとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されております。




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(富士吉田の小室浅間神社)


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(説明板 写真をクリックすると拡大します)

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(護良の首があるという桂の木)

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(同じく桂の木)

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(石神神社)
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石神神社の説明板


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(雛鶴神社。雛鶴神社と呼ばれる神社はどうも二社あるみたいで、ここはその一社)

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(雛鶴神社の説明板 写真をクリックすると拡大します)


* 参考文献

キミノ名ヲ。(魔法のiらんど文庫版)1-4巻セット
梅谷百
アスキー・メディアワークス
2013T




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