(生糸)
日露戦争でバルチック艦隊を破ったという軍艦は、国産の生糸による収入で買ったといわれております。あと、明治時代に鉄道を開通できたのも生糸のおかげだといいます。しかし、江戸時代までは生糸は日本の主要産業ではなく、中国から生糸を輸入していたほど。もちろん、江戸時代でも生糸は作られていることは作られていました。生糸は着物や織物などで使われていたからニーズはすごくあったのです。国内の生産量だけは追いつかなかったのです。そんな生糸を日本の主要産業に育て上げた人々がいました。
ところで、着物一人分をつくるのにどれくらいのカイコが必要だと思われますか?これは横浜のシルク博物館に行った時の写真なのですが、スカーフ一枚をつくるのに必要なカイコは110個ほど。写真に写っている丸いボールの容器の半分くらいの量です。
では着物はどれくらいかというと、
あいにく正確な量は覚えていないのですが、カイコが入ったボールの容器がたくさんありますね。写真を見る限りでは27個くらいあるのかな。着物一枚作るのにいかに多くのカイコが必要かがうかがえます。しかも、これは現代の着物における必要なカイコの量。江戸時代の着物だったら、もっと必要だったかもしれない。ましてや大奥で上のほうの位になるほど着物も豪華でしょうから。
(江戸時代の着物)
まずは新井白石。中国の輸入生糸は高価で、輸入に頼ってばかりでは日本の金銀がどんどん流出していく。その対策に新井白石は乗り出したのです。新井白石は、まず中国やオランダとの貿易量を制限し、金銀の流出を抑えたといいます。さらに白石は時の将軍、徳川家宣にこう言われたといいます。
「我が国にもに倭錦と呼ばれる絹織物があったときく。外国のもので作る必要はない。国産のものでつくってみよ」
わが意を得た白石は生糸の輸入制限をしました。困ったのは、織物屋や着物屋。もちろん、お上の急な政策転換に反発も覚えたかもしれませんが、着物が欲しいお客さんもたくさんいるから、そうもいっていられない。輸入の生糸が手に入らないのなら、日本の農家の生糸を買うしかない。着物業者たちはこぞって農家にいき生糸をかったといいます。それにつられて生糸生産、つまり養蚕をはじめる農家も増え、桑畑もこれまでよりも広がったといいます。こうして日本各地で養蚕を行う農家が増えたと。しかし、養蚕はなかなか難しく、質の高い生糸をつくれる地域とそうでない地域で格差がありました。
(クワの葉を食べるカイコ)
江戸時代半ばまでの但馬(今の兵庫県)の国のもそうでした。但馬は貧しい農家が多く、質の低い生糸しか作れなかったのです。そんな状況をなんとかしようと立ち上がったのが上垣守国。彼は、1753年(宝暦3)に蔵垣で生まれました。彼は18歳のときに先進地である陸奥国伊達郡(陸奥国は今の福島県)に行き、そこから蚕種(カイコの卵)を持ち帰って蚕種改良に乗り出したといいます。すると但馬の蚕の品質も向上したといいます。しかし上垣はそれに飽き足らず信州など養蚕が盛んな地域に足を運んで、その養蚕のノウハウを吸収したといいます。そうして1803年(享和3)、彼が48歳の時に『養蚕秘録』という本を書いたといいます。この本には、たとえば種の製造の仕方、カイコの育て方、マユから糸を取りだす方法、それから注意事項、たとえばカイコの天敵のネズミには気をつけろだとか、いろいろと書かれております。秘録という名がつくくらいですから、社内文書のように門外不出のものかといえば、そうでもなく、この本を多くの人に読んでもらいたいと全国で出版したといいます。
当時の人々は文字が多かったので、上垣は挿絵を多く入れて、そうした絵をみるだけでも養蚕が学べるように工夫されているようです。この本を読んだ農家の人たちも、そのノウハウを吸収し、養蚕づくりのレベルアップにもつながったといいます。のちにシーボルトもこの本を持ち帰り、その本がフランスでも翻訳されたというから驚きです。それくらい、この本に書かれていることがすごいのかなって。だから上垣守国は「養蚕の父」とも呼ばれております。
カイコは、温度と桑の与え方によって成長が変化します。中でも温度と湿度の管理が難しく、それによてマユの生産、つまり生糸の生産量も左右されてしまいます。1849(嘉永2)年、陸奥国伊達郡で養蚕を営む中村善右衛門が体温計をヒントに蚕当計を作りました。蚕当計をつくるのにおよそ10年の歳月がかかったといいます。
1840年ごろのある日、中村がカゼをひいて診察を受けたときに見た体温計。今でこそ体温計は、病院どころかカラオケボックスやデパートなど至る所で見かけます。特に今はコロナ禍ですからね。が、当時はオランダから持ち込まれたばかりの珍しいものでした。中村はこの体温計を応用すれば、養蚕づくりに生かせるのではないかと思いました。そして、中村は体温計のほかにも室温を図る温度計があることを知り、温度計を早速取り寄せたといいます。今でこそ温度計は100均でも買えますが、当時は15両とメッチャ高価。なにしろ一両で米を150キロも買えたといいますからね。そこまでして中村は養蚕に生かしたかったのでしょうね。温度計のしくみを研究し、カイコの温度を測る温度計をつくろうとしたのです。
カイコを育てるのに適している温度は華氏75度。つまり75度になるまで部屋を暖めればよいのです。それまで養蚕農家のひとたちは、経験やカンに頼ってカイコを飼育していたのですが、この蚕当計のおかげで温度の管理ができるようにあり、マユの品質向上に大きく貢献したといいます。
※この記事は『英雄たちの選択』を参考にして書きました。