history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 幕末

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(生糸)

日露戦争でバルチック艦隊を破ったという軍艦は、国産の生糸による収入で買ったといわれております。あと、明治時代に鉄道を開通できたのも生糸のおかげだといいます。しかし、江戸時代までは生糸は日本の主要産業ではなく、中国から生糸を輸入していたほど。もちろん、江戸時代でも生糸は作られていることは作られていました。生糸は着物や織物などで使われていたからニーズはすごくあったのです。国内の生産量だけは追いつかなかったのです。そんな生糸を日本の主要産業に育て上げた人々がいました。



ところで、着物一人分をつくるのにどれくらいのカイコが必要だと思われますか?これは横浜のシルク博物館に行った時の写真なのですが、スカーフ一枚をつくるのに必要なカイコは110個ほど。写真に写っている丸いボールの容器の半分くらいの量です。

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では着物はどれくらいかというと、

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あいにく正確な量は覚えていないのですが、カイコが入ったボールの容器がたくさんありますね。写真を見る限りでは27個くらいあるのかな。着物一枚作るのにいかに多くのカイコが必要かがうかがえます。しかも、これは現代の着物における必要なカイコの量。江戸時代の着物だったら、もっと必要だったかもしれない。ましてや大奥で上のほうの位になるほど着物も豪華でしょうから。

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(江戸時代の着物)



まずは新井白石あらいはくせき。中国の輸入生糸は高価で、輸入に頼ってばかりでは日本の金銀がどんどん流出していく。その対策に新井白石は乗り出したのです。新井白石は、まず中国やオランダとの貿易量を制限し、金銀の流出を抑えたといいます。さらに白石は時の将軍、徳川家宣とくがわいえのぶにこう言われたといいます。

「我が国にもに倭錦やまとにしきと呼ばれる絹織物があったときく。外国のもので作る必要はない。国産のものでつくってみよ」

わが意を得た白石は生糸の輸入制限をしました。困ったのは、織物屋や着物屋。もちろん、お上の急な政策転換に反発も覚えたかもしれませんが、着物が欲しいお客さんもたくさんいるから、そうもいっていられない。輸入の生糸が手に入らないのなら、日本の農家の生糸を買うしかない。着物業者たちはこぞって農家にいき生糸をかったといいます。それにつられて生糸生産、つまり養蚕ようさんをはじめる農家も増え、桑畑もこれまでよりも広がったといいます。こうして日本各地で養蚕を行う農家が増えたと。しかし、養蚕はなかなか難しく、質の高い生糸をつくれる地域とそうでない地域で格差がありました。

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(クワの葉を食べるカイコ)

江戸時代半ばまでの但馬たじま(今の兵庫県)の国のもそうでした。但馬は貧しい農家が多く、質の低い生糸しか作れなかったのです。そんな状況をなんとかしようと立ち上がったのが上垣守国うえがきもりくに。彼は、1753年(宝暦3)に蔵垣くらがきで生まれました。彼は18歳のときに先進地である陸奥国伊達郡むつのくにだてぐん(陸奥国は今の福島県)に行き、そこから蚕種さんしゅ(カイコの卵)を持ち帰って蚕種改良に乗り出したといいます。すると但馬の蚕の品質も向上したといいます。しかし上垣はそれに飽き足らず信州など養蚕が盛んな地域に足を運んで、その養蚕のノウハウを吸収したといいます。そうして1803年(享和3)、彼が48歳の時に『養蚕秘録ようさんひろく』という本を書いたといいます。この本には、たとえば種の製造の仕方、カイコの育て方、マユから糸を取りだす方法、それから注意事項、たとえばカイコの天敵のネズミには気をつけろだとか、いろいろと書かれております。秘録という名がつくくらいですから、社内文書のように門外不出のものかといえば、そうでもなく、この本を多くの人に読んでもらいたいと全国で出版したといいます。

当時の人々は文字が多かったので、上垣は挿絵さしえを多く入れて、そうした絵をみるだけでも養蚕が学べるように工夫されているようです。この本を読んだ農家の人たちも、そのノウハウを吸収し、養蚕づくりのレベルアップにもつながったといいます。のちにシーボルトもこの本を持ち帰り、その本がフランスでも翻訳されたというから驚きです。それくらい、この本に書かれていることがすごいのかなって。だから上垣守国は「養蚕の父」とも呼ばれております。

カイコは、温度と桑の与え方によって成長が変化します。中でも温度と湿度の管理が難しく、それによてマユの生産、つまり生糸の生産量も左右されてしまいます。1849(嘉永2)年、陸奥国伊達郡で養蚕を営む中村善右衛門なかむらぜんえもんが体温計をヒントに蚕当計さんとうけいを作りました。蚕当計をつくるのにおよそ10年の歳月がかかったといいます。

1840年ごろのある日、中村がカゼをひいて診察を受けたときに見た体温計。今でこそ体温計は、病院どころかカラオケボックスやデパートなど至る所で見かけます。特に今はコロナ禍ですからね。が、当時はオランダから持ち込まれたばかりの珍しいものでした。中村はこの体温計を応用すれば、養蚕づくりに生かせるのではないかと思いました。そして、中村は体温計のほかにも室温を図る温度計があることを知り、温度計を早速取り寄せたといいます。今でこそ温度計は100均でも買えますが、当時は15両とメッチャ高価。なにしろ一両で米を150キロも買えたといいますからね。そこまでして中村は養蚕に生かしたかったのでしょうね。温度計のしくみを研究し、カイコの温度を測る温度計をつくろうとしたのです。

カイコを育てるのに適している温度は華氏75度。つまり75度になるまで部屋を暖めればよいのです。それまで養蚕農家のひとたちは、経験やカンに頼ってカイコを飼育していたのですが、この蚕当計のおかげで温度の管理ができるようにあり、マユの品質向上に大きく貢献したといいます。




※この記事は『英雄たちの選択』を参考にして書きました。




映画『峠』をご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。僕も見ました。感動しました。幕末もので、主人公は越後の長岡藩の河井継之助。河井役を役所広司さんが演じられました。これぞ男だと思いました。しかし、一方で主戦論者で、新政府軍と戦うことを選んだのですね。そのために長岡藩で多くの犠牲者が出たんですね。河井は英雄と言う意見と、長岡の町を焼け野原にし、民を苦しめた大悪人だという意見に分かれ賛否両論サンピリョウロン

まず河井の評価できる点は「民は国の本 は民の雇い」と言う書を書いたほど、民こそが大事で、役人つまり武士は民の雇われ人にすぎないという考え方を持っていたこと。

河井継之助は若い頃から勉学に励んだ人物で、中国の古典にも通じていたのですね。特に彼がのめり込んだのが陽明学。河井が17歳の頃「十七 天に誓いて 輔国ほこくに擬す」と誓ったほどで、国のために尽くそうと河井は思ったのでしょうね。その河井がそう思ったのは藩の危機的な財政赤字にありました。藩の再建を河井は考えたのです。河井は意見書を書き、その意見書が長岡藩主、牧野忠雄の目にとまり、そして河井は藩の役職を与えられるようになったのです。河井は重臣たちの会議に参加し、そこでも重臣たちに面倒向かって批判したものだから、重臣たちは激怒。また河井に長岡藩藩主の若様の教育係をしてくれと頼まれたが、それを河井は拒否。筋を通す人物だったのですね。

一方で河井は基本的に、この戦は勝つか負けるか関係ない、最後は武士らしく潔く死のうと言う考え方なんですね。男の美学としてはかっこいいが、それを民百姓まで巻き込むのはどうかと言う見方もできるのですね。厳しい見方ですが、道徳とか正義と、政治は別物。道徳や正義と言うのは心情的に美しければそれで良いが、政治はあくまで結果責任。どんなに道徳的に素晴らしくても、実際の政治となると成果が問われ、成果が挙げられなくても被害は最小限に抑えなくてはならない。新政府軍に一旦は恭順して、政権の中に入りその中で実権を握る選択を取れば、民百姓を犠牲にせずにすんだかもしれないのに、河井はそれができなかったのですね。太平洋戦争もそうだったなあ。最後まで戦い抜いて日本人が滅びようと、後々日本人は誇り高い民族だったと語られると。しかし、その考えは多くの国民の命を犠牲にしたと言う点では間違っているのですね。


そんな河井も一旦は長岡藩を離れますが、やがてその行動力を買われ、河井は郡奉行に抜擢バッテキされます。信濃川の治水工事をして米の増産に成功、信濃川の通行税を廃止し、人の往来をしやすくし流通の促進、商業の規制緩和など経済を発展させ、長岡藩は2年でおよそ10万両を蓄えるようになったのです。

しかし、長岡藩財政再建も束の間、世の中は幕末という激動の時代。大政奉還をしたにもかかわらず、徳川と新政府は戦をしてしまうのです。このままでは長岡藩も戦乱に巻き込まれると思い、河井は武器を買い集めます。河井は新政府軍と戦うためにガトリング砲を2台買ったのですね。ガトリング砲は一台3000両。2台で6000両。例えば、一万石の小さい藩の年収は4000両ですから、ガトリング藩は小さい藩の年収ではとても代えない代物でした。長岡藩は7万4000石あったから、まだ買えたのですしょうね。

新政府軍は破竹の勢いで各藩を恭順させ、長岡藩にも降伏を進めます。そして軍資金を3万両差し出せと命じます。長岡藩の重役たちの意見は割れます。恭順か、交戦か、意見はまとまらず。苛立つ新政府軍は長岡藩に迫ってきます。そんな藩の危機の中、河井は家老上席兼軍事総督に就任。事実上の最高責任者になったのです。そして交戦でもない、恭順でもない新たな道を探ります。新政府にも幕府にもつかず、武装をしたまま中立を保つと言う立場を取ったのです。いわば、スイスのような永世中立国の立場を取ったのですね。スイスは中立国と言いましても軍隊も持っていますし、徴兵制もとっていますし。

しかし、どっちつかずな長岡藩の態度に新政府軍はイラつくばかり。そして河井は嘆願書を携え、新政府軍のところに赴きました。河井は、長岡藩中立だけでなく、争いをやめ、日本は今で言う連邦国家みたいな国になって日本中が豊かになるべきだと訴えました。しかし新政府軍は軍備を揃えるための時間稼ぎだとしか思わず、わずか三十分で新政府軍は立ち去り、嘆願書すら受け取ってくれなかったのです。それでも河井は諦めずに新政府軍の本陣に訪れましたが門前拒否。他藩にも助けを求めましたが結局ダメ。とうとう河井は新政府軍と戦う道を選んだのです。しかし長岡藩兵1300人に対し、新政府軍は4000人。数の上では不利です。それで河井は会津藩など東北の各藩と同盟を結びます。そして戦は始まりました。

戦では長岡城に陣取って、河井は自らガトリング砲を操って応戦をしたと言います。しかし、河井たちの奮戦も虚しく、長岡城は落城。それでも長岡藩兵たちは今度は地の利をいかし、ゲリラ戦を始めます。そして長岡城奪還を目指します。城の裏手にある八丁沖という沼地を6時間もかかって渡りきり、城を襲ったのです。この八丁沖は広い沼地で大蛇が出るというウワサもあったほど危険な沼地だったのです。

まさか沼地から兵士たちが襲ってくるとは夢にも思わなかった新政府軍たち。城を守っていた新政府軍2500に対し、河井の兵わずか700。河井たちの不意をついた攻撃に新政府軍は敗走。再び長岡城の奪還に成功したのです。しかし、この戦いで河井は左足に銃撃を受けたのです。河井重症に、長岡藩の士気はいっきに低下。新政府軍は反撃にでて、再び城は新政府軍の手に落ちたのです。戦は三ヶ月にも渡り長岡の街は焼け野原と化したのです。

河井は会津に向かう途中に亡くなります。わずか42歳の生涯でした。賊軍の将として世をさって島田tのです。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

と言う句を河井は残しました。


※ この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にして書きました。


徳川家茂は14代将軍です。徳川将軍の中では知名度は高い方ではありません。和宮の夫といった方がわかりやすいくらい。和宮は有名ですからね。しかし、家茂はなかなかの名君で、かの徳川吉宗の再来だと言われたほどで、「天授の君」とも言われました。天授とは天がこの世に授けた人という意味。すごい絶賛ですよね。また、勝海舟は滅多に人を褒めない人ですが、家茂のことはベタ褒め。徳川家茂が将軍に就任したのは、わずか13歳。

家茂は子供の頃から、好人物だったと言います。家茂は弘化こうか三年(1846)
に紀州藩朱の嫡男として生まれます。幼名を菊千代と言いました。が、父の死去で、わずか菊千代は4歳で紀州藩主になります。菊千代には浪江という教育係の女がいました。浪江は厳しくも、優しく菊千代を育てたと言います。彼女の教育があって菊千代のリーダーとしての資質が磨かれたのですね。6歳になった菊千代は12代将軍徳川家慶へ謁見えっけんすることになったのです。江戸城登城の際、浪江は菊千代に「謁見の際、お泣きになられてはなりませぬ」と言ったのです。しかし、謁見の場の重々しい雰囲気に菊千代は号泣。無理もありません。菊千代は藩主とはいえ、まだ6歳ですから。見かねた家慶は「好きなものでなだめすかし、遊ばせよ」と言い、小鳥を菊千代のために将軍自らプレゼントしてくれたのです。菊千代は鳥や虫が大好きだったのです。そして、江戸の紀州藩の屋敷に戻った菊千代は浪江の顔を見るなり「浪江、泣いたよ」と正直に答えたと言います。誠実な人柄がうかがえます。

菊千代は将軍の家慶から「慶」の名をたまわり、徳川慶福トクガワヨシトミと改めました。そして藩主として恥じないよう、毎日手習のため筆をとり、論語などを素読、剣術の稽古も熱心にやったと言います。慶福は将軍になって名前を家茂と改めてからも、こうした真面目さは変わらなかったと言います。

将軍になった家茂は、学問を好み、養賢閣ヨウケンカクという学問所を作りました。これは小姓や役人たちが学問を学ぶための施設です。自ら学ぶだけでなく、周辺の人材のレベルアップも図ろうとしたのですね。

また、家茂の良い人のエピソードといえば、こんな話があります。家茂は戸川安清トガワヤスズミに書道を習っていたのですが、ある日、家茂がいきなり戸川の頭に水をかぶせ、手を打って笑い出すと、その場を去ってしまったのですね。いたずら好きな将軍様だと思うでしょ?違うんですね。その場にいた家臣が戸川を心配すると、戸川は「私のために」と泣き出してしまったのです。いぶかる家臣。実は戸川は高齢で、今風にいえばトイレが近くなっていたのですね。この日もがまん出来ず、その場で失禁をしてしまったのですね。失禁とはおもらしのこと。将軍の前で粗相をしたら大変です。それこそ流罪か切腹かというレベル。それを察した家茂は、機転をきかせ戸川の失禁を隠すために水をかけ、イタズラをするフリをしたのですね。将軍様が自ら戸川を庇えば、家臣だって処罰したくても手出しができませんね。いい人ですね。

そして、元服した家茂は和宮と結婚する運びになりました。これは政略結婚です。当時の幕府は、外は欧米の圧力、そして内は倒幕運動の盛り上がりと、内憂外患ナイユウガイカンでした。その状況を打破しようと、幕府は皇女との婚礼を画策。いわゆる公武合体です。家茂と年齢が近いということで孝明天皇の妹の和宮が選ばれました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウというフィアンセがいたのですね。さらに当時の江戸は、鬼のような外国人がウジャウジャいる怖いところと信じられていたのです。だから和宮はこの婚約話を当初は強く拒否。しかし、

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」



という句を残しました。これは兄のため、民衆のため、この婚約を受け入れるという意味の句です。文久元年(1861)、和宮は京を発ちます。その輿入れ行列は総勢1万人以上だったというから、かなり大掛かりな行列だったことがうかがえます。翌年の文久2年に家茂と和宮の婚礼の儀がおこなわれます。この時二人の年齢は17歳。しかし和宮の苦難は始まったばかり。和宮は大奥に入ることになりました。大奥はよく言えば女の園。悪く言えば伏魔殿。しかも、武家のしきたりと皇族のしきたりは全然違います。和宮が大奥の人間から意地悪をされるのは火を見るより明らかでした。しかも和宮が京から連れてきた女官と、大奥の古株連中がバトルをする有様。和宮にとって辛い毎日です。そんな和宮に寄り添ったのが夫の家茂。家茂は、和宮に優しい声をかけたり、公務の合間に金魚バチなどさまざまな贈り物をあげたり、いろいろと配慮したのですね。優しいですね。これは家茂が和宮を大事にすることで幕府と朝廷の関係をよくしようという思いもあったかもしれませんが、家茂自身が和宮を愛していたからだと思います。そうした家茂の優しさに次第に和宮の心を開かせたのです。

しかし、世は幕末。動乱の時代。二人の平和な日々を脅かしていくのです。1863年、家茂は上洛をします。当時の京都は、現在みたいな観光地ではなく、尊王攘夷派が暴れ回る大変危険な場所でした。そんな危ないところをあえて出向いたのですね。将軍の上洛は三代将軍家光以来229年ぶり。それくらい幕府はあせっていたのでしょうね。そして家茂は義理の兄である孝明天皇にも謁見。孝明天皇は和宮の様子を訪ねたり、外国船を打ち払えと攘夷を命じたり。そんな最中、京にいる家茂のもとに和宮から手紙が来たと言います。

「寒さ厳しい中、無事着いたとのことを聞き、安堵しております。私は一時期、痘瘡トウソウができ困ってしまいました」と。

すると家茂は返礼を出しました。

「贈ってくれた見事な菓子を慰めとし、鬱情ウツジョウを晴らしております。痘瘡ができたのこと、難儀であったこととお察しします」

と和宮の病気を気遣う様子も伺えます。実は家茂は甘党でお菓子が大好き。和宮は家茂のために、そうした配慮もしたのですね。仲の良さが伺えます。家茂は21歳の若さで亡くなるのですが、その亡骸は和宮の元に届きます。一緒に届けられたのが、西陣織の反物。かつて和宮が家茂におねだりしたものです。家茂は買ってくれたのですね。悲しみに暮れる和宮が読んだ句がこちら。


「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」



和宮は立派な着物も、君(家茂)がいてこそと読んだのですね。夫を失った悲しみが伝わります。夫を失った和宮は京に戻らず、そのまま江戸に止まり、徳川の女として幕府を守ったのです。幕府を滅ぼそうと、朝廷の総大将になんと元フィアンセの有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウ。和宮は熾仁親王に手紙を何度も書き、幕府攻撃を思い止まらせたと言います。そして、明治10(1877)8月に和宮は亡くなります。和宮の亡骸は増上寺に葬られ、夫の家茂の隣に和宮の墓があります。和宮は亡くなる時写真を抱いておりまして、その写真がぼやけて誰だかわからないのですね。熾仁親王という説もありますが、家茂の可能性の方が遥かに高いと思われます。

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(いづれも関門海峡あたりにある大砲。奇しくも壇ノ浦の合戦のあった場所と同じ場所。関門海峡辺りは争いごとがおこる因縁なのかな?)

* この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 知っていた黒船の来航
 かつての歴史の教科書には、幕府がペリーに圧力にひれ伏して開国をしたみたいな感じで書かれていて、当時の幕府の役人たちは弱腰だったと。しかし、それはのちの明治政府が幕府を貶めるために広めた話。実際は幕府はしたたかな交渉をしたのです。

ペリーが4隻の艦隊をひきつれて(1853年)、国内は大パニックになりました。が、近年の研究では、黒船の来航を幕府は知っていたことがわかっております。1852年(嘉永5年)、幕府はオランダから「黒船がくる」という情報を得ていたのです。しかも来航する船の名前から、ペリー提督の名前まで知らされていたのです。しかし、当時の幕府はそのオランダからの情報を甘くみていたのです。「どうせデマだろ」って。だから、大した準備もしなかったのですね。それがアダとなったのです。

黒船の来航に慌てた、幕府はペリーとの交渉役に林復斎ハヤシフクサイを任命しました。林は多くの資料を読み過去の幕府の対外政策を調べ上げたのです。また、林は海外情勢に詳しい識者に相談もしたといいます。そして、林は「アメリカは補給が一切ないから戦う意図はないだろうと」と理解しました。ペリーの艦隊は大西洋を渡りアフリカ大陸の南を回って日本に来たのですが、長い航海で食料や(燃料の)石炭も不足して病人や死者まで出る始末でした。こうしたアメリカ側の弱みを林は見抜いたのです。

2 ペリーの要求
で、ペリーが要求したのは「漂流民の保護」「石炭や食糧の提供」「貿易」の三つでした。「漂流民の保護」」と「石炭と食糧の提供」については林はOKをあっさり出しました。問題は三つ目の「貿易」でした。いきなり開国をし、貿易を認めれば国内の混乱は避けられません。幕府は「貿易」に関してはNOという考え方でした。それでペリーは渋々帰国したのです。

そして翌年の1854年の正月、ふたたびペリーが来日しました。今度は9隻です。2月にペリー一行は横浜に上陸し、500人もの士官を並べ、交渉にあたったのです。おそらく、アメリカはこれだけの兵力があるぞ、いうことをきかないともっと大勢連れてくるぞと脅しをかけているのですね。それから幕府とペリーとの会談が再開しました。

ペリーは交渉の席で言いました。「我がアメリカは人命を重んじる。ところが貴国は人命を重んじるどころか、漂流民を大事にせず、海岸にくれば大砲を打ってくる。貴国がそのような態度をとるのなら戦争も辞さないと。

そして林はこう切り出します。「戦も致し方なし」。すごいでしょ。今までの歴史では幕府は弱腰なんて教えられたけれど、それはウソです。林がこう言ったのは、アメリカとマジで戦争をしたかったのではありません。むしろ、アメリカは戦争を仕掛けてこないことを見抜いていたから言えたのです。

さらに林はペリーの「人命を大事にする」という発言を逆手に取り、「さきほど人命がが第一と仰せられた。交易は利と関するもの。人命と交易は関係ない。遭難救助ソウナンキュウジョならすでに我が国はやっているし、(昔はともかく今は)大砲など打ってはいないから、それでよしとする。」

ペリーも自分の言葉を逆手に取られるとは思いませんでした。ペリーは痛いところを突かれてしまい、しばらく沈黙します。そしてペリーは、交易の話を撤回すると言い出したのです。これはペリーが交易をあきらめたというより、外交のカードを切り間違えたということでしょう。林から人命救助というのなら、交易は関係ないでしょと言われたら、ペリーもグウの声も出ません。

また、ペリーが軍人で、貿易が重要だとはあんまり思わなかったことも幸いでした。これが、ペリーではなく交易の重要性がよくわかっている優秀なネゴシエイターだったらこうはいかなかったかも。ペリーとしては港が開かれればOKと思ったのかもしれません。ともあれ、日本はピンチを免れたのです。


3 二回目の交渉でピンチに

ところが、一回目の交渉から9日目の第二回目の交渉。日本は一転してピンチになります。ペリーはこんどは「横浜のほかに5、6か所の港を定めていただきたい、さもなければ、こっちが勝手に上陸する」と切り出したのです。このペリーの発言に内心、林は驚きます。あちこち港を開いてしまえば意味がありません。これでは交易をしたのと同じこと。

しかし、林は動揺をかくし、「これまで通り長崎で行う」と主張。ペリーは「話にならない。もっと開いてほしい。」と。

しかし、林の記憶の中に、読み込んでいたアメリカの国書の一節が浮かんできました。その国書には「南に一港」とあるだけで、長崎とか横浜とか具体的な港の名前も書かれておりません。林はこの点をつきます。「長崎のほかに別の港といわれるならば、なにゆえ、貴国の国書の中に地名を一言も示さなかったのか、国書にあれば、我らもそれなりの返答もできた。さほど重大なることならば、まずは国書にて、どこそこの港、いくつ開いてほしいかを申し上げるべきかと存ずる」と。

ペリーは答えにつまります。ぺリーは「たしかに地名は書かなかった。できるだけ早く答えは欲しい。2、3日お待ちしよう。」と。

4 日米和親条約
その2回目の交渉が終わった後、林は幕府の考えをまとめ上げ、3回目の交渉の日にのぞみました。林はペリーに「伊豆の下田港、函館港の2港の欠乏の品を給与する」と伝えました。北海道の函館と伊豆の下田は幕府のある江戸から離れているため、国内の混乱を最小限に抑えることができます。そして、条約が調印されました。「日米和親条約」です。しかも「日米和親条約」が調印された日には懇親会のようなものが開かれるほど、日米両国の距離は縮まったのです。しかもペリーは「もしも日本が外国と戦争になれば、軍艦を差し向け加勢しよう」といったほど。ペリーのリップサービスかもしれないけれど、すごいことですよね。

ここまでペリーのゴリ押しに動ずることなく、冷静に対応した林の能力に驚かされます。


帰国後、ぺリーは日本人の印象をこう書き残しております。


「日本人は教育が普及しており、何にでも非常な好奇心を示す。また手先の技術について非常に器用で驚いた。日本人が西洋の技術を習得したら、機械技術の成功を目指すうえで強力なライバルになるであろう」。このペリーの予言は、明治以降現実のものとなります。

また、ペリーが見た林の印象は「立派な風采」「物腰は極めて丁重」と非常に好印象だったそうです。そして、「表情は重々しく、感情を表に出さない」と油断ができない切れ物だと評しておりました。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。

前回の記事で波風を立てないことも基本的に良いことなのですが、なんだろうねみたいな話をしました。今日は波風を立ててしまったけれど、それで突破口を開いた人物を取り上げます。幕末の英雄の1人、高杉晋作です。

幕末、長州藩チョウシュウハン内は、幕府に従うべきという保守派と、幕府と戦うべきという尊攘派ソンジョウハに別れていたのです。高杉は当然、尊攘派。
ちなみに尊攘派は自らを正論党セイロントウと名乗り、保守派を俗論党ゾクロントウと言ってけなしていたのですね。

そして、長州藩は保守派の方が権力を握ってしまいます。禁門の変(*1)に出兵した家老たちを切腹し、奇兵隊をはじめ、諸隊に解散を命じて、幕府との戦いをけけようとしたのですね。さらに保守派は、尊攘派の粛清シュクセイも始めたのです。高杉も投獄トウゴクされそうになったのですね。

怒ったのが高杉。1864年(元治元年ゲンジガンネン)高杉は下関にある功山寺コウザンジに兵を集めます。しかし、その数は百人に満たなかったそうです。そして、その年の12月16日に挙兵。保守派の方が圧倒的に兵力が多いのに、無謀な戦いです。

その時の高杉は「毛髪モウハツが逆立ち、目がけ、かべがビリビリれれ、人々は震え上がるほどだった」という凄まじい迫力だったそうです。

この挙兵に高杉は奇兵隊にも参加を呼びかけました。しかし奇兵隊ははじめは参加しなかったのですね。当時の奇兵隊は山縣有朋が中心人物で、高杉の呼びかけに山縣は拒否したのです。山縣は波風を立てたくなかったのですね。長州藩の保守派とことを争いたくなかったのです。それでも高杉は少数の味方ともに立ち上がったのですね。

まず高杉たちは物資調達のため下関新地開所を襲撃シュウゲキ、その後、即座に三田尻ミタジリに移動して藩の軍艦を奪取ダッシュ。その情報が伝わると井上馨イノウエカオル品川弥二郎シナガワヤジロウも呼応。

それから、はじめは参加を渋った奇兵隊も高杉に合流。その時高杉が山縣有朋に行った言葉。

「わしとおまえは焼山かづら うらは切れても. 根はきれぬ」


奇兵隊だけでなく諸隊も合流したのです。

あわてた保守派は、捕らえていた尊攘派の幹部を処刑したのです。それが火に油を注ぐ結果になり、これに反発を強めた書体のへいが次々と加わり、高杉の味方がどんどん増えたのです。高杉率いる尊攘派が長州藩の保守派に勝利し、ついに尊攘派が長州藩の実権を握ったのです。

山縣有朋は高杉晋作のことをこのように評しています。

「自分などは、いつ何時、彼のために腹を斬らされることがあるかも知れぬと思っていた。」

山縣は高杉が何かことを起こすと、いつも尻拭いをされていましたからね。高杉が亡くなってから、高杉のことを思い出すたび「しょうがないな」って言いながら笑っていたかもしれない。

伊藤博文は高杉にはじめから慕っていて、高杉のことをこのように評しております。

「動けば雷電の如く。発すれば風雨の如し」

高杉のやったことは非常に無謀ムボウなことですが、もし高杉の無謀とも言える挙兵がなかったら、明治維新は成功しなかったかもしれない。そんなことも伊藤は思ったのかもしれません。


* 参考文献
松下村塾と幕末動乱 (双葉社スーパームック)
オフィス五稜郭
双葉社
2014-09-17



また、この本は「歴史秘話ヒストリア」も参考にしました。

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