History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 沖縄・北海道等の歴史

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今年、首里城が燃えてしまったのです・・・今、首里城の復興を目指しているようです。完成予定は2026年だそうです。実は首里城は何度か火災にあい、先の戦争でも燃えてしまったのですね。それで、1992年に再建されました。歴史のある建造物のわりには新しい建物だなって僕は思っていたのですが、そういういきさつがあったのですね。その1992年に再建されたものが被害にあったのですね・・・


さて、沖縄といえば興味深い伝説があるのです。なんと源為朝(平安時代末期の武将で源頼朝・義経のおじにあたる)がやってきて、この沖縄の地で男の子をもうけ、その男の子が琉球王の始祖、舜天王(しゅんてんおう)となったというのです。

源為朝は、1139年に、源為義の八男としてうまれましたが、傍若無人な性格のため、13歳で京都から九州に追放され、その後九州を平定し「鎮西八郎為朝」となのりました。18歳で京都に戻ると、保元の乱(崇徳上皇と後白河法皇が戦った戦争)がおこり、崇徳上皇側につきました。崇徳上皇が後白河法皇にやぶれると九州にのがれます。しかし、捕らえられ二度と弓がひけないように腕の筋をきられて伊豆大島に流されます。そして1170年に討伐軍との戦いで自害というのが通説です。しかし、為朝は自害していなくて、海を渡って沖縄までやってきたというのです。

伊豆大島から沖縄へ向かう航海の途中で嵐に見舞われてしまい、舟人たちは慌てます。しかし、為朝は冷静に「運は天にあり、なんぞおそるるに足らずや」と戒めたといいます。そして、為朝一行は無事に沖縄(琉球)にたどり着きました。そこで、その地を運天の名前で呼ぶようになったといいます。ちなみに、沖縄に運天港という港がありますが、これは為朝のこの伝説が元になっているという説があります。

その後為朝は、現地の女性と結婚し、男の子をもうけました。その男の子こそ、琉球王の始祖
舜天王です。1650年に琉球最初の正史『中山世鑑』が完成しますが、その本に第一代の琉球王、舜天は源為朝の男の子だと書かれているそうです。

ちなみに江戸時代に滝沢馬琴が、源為朝を主人公にした『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)を書きました。この本にも為朝は伊豆大島で死んでおらず、琉球におよび、為朝の子が琉球王になったと書かれております。

今年もお世話になりました。今年は亥年ですが、亥年のイノシシは、猪ではなく、本来はぶたの意味だそうです。十二支は中国で生まれたものですが、中国人にとって、猪はなじみが薄く、豚の方がなじみが深いのですね。豚といえば沖縄。沖縄は豚を使った料理が非常に多く、鳴き声以外はほとんど料理にしてしまうとか。今日は沖縄の伝統的な豚の料理をご紹介して2019年にお別れします。来年も良いお年を。






沖縄オキナワサミットが開催されたのが2000年。早いものですね。あれから20年以上もたつのか。沖縄サミットも昨日の出来事かと思っていたけれど、歴史の教科書にのるような話になったのですね。実は、開催地が沖縄にすんなり決まったわけではなかったのです。2000年のサミット会場は札幌サッポロ千葉、横浜、福岡などが名乗りをあげ、沖縄は一番不利だったのです。それが逆転したのは、沖縄サミットを決めた小渕恵三元総理の英断だったのです。それは1999年4月のことでした。ある新聞は「久々に政治をみた」と評価しました。小渕元総理も沖縄サミットが決まった際「沖縄の長い歴史の痛み」と言及されたとか。

沖縄サミットの際、テーマソングを小室哲哉さんにつくってほしいとお願いしたのが、小渕元総理でした。また、小渕元総理は「ぜひ安室奈美恵さんに歌ってもらいたい」という注文も同時に入れたといいます。安室さんは沖縄のご出身。この上ない人選だと思われます。


閑話休題、安室奈美恵さんといえば、浜崎あゆみさんや宇多田ヒカルさんと並び90年代を代表する歌姫です。「Don't wanna cry」とか「CAN YOU CELEBRATE」とか。また、彼女は歌だけでなくファッションセンスも抜群で、彼女の影響を受けた少女たちは「アムラー」とよばれました。


その後、楽曲は完成したが小渕元総理が急に亡くなられたことを受け、明るかった曲調をこの楽曲の曲調に変え、作り直したといいます。どうりで、この曲はどこか悲し気な感じがすると思いましたね。この曲は沖縄サミットを祝う曲でもありますが、小渕元総理への追悼ツイトウの意味も込められているのかなと思いました。そして、この曲は沖縄サミット本番でも歌われました。

あと、沖縄サミットといえば2000円札も発行されました。守礼門の絵がプリントされているやつですね。2000円札を作ろうと考えたもの小渕元総理です。でも、最近2000円札ってみませんね。僕も前に持っていましたが。ちなみに2000円札は今も使えるそうです。でも、今の若い子は2000円札わかるかなあ?たとえば客がコンビニに行って2000円札を若い店員さんに渡したら、若い店員さんが目を白黒させて、偽札じゃないのという目で客をみるなんて光景もこの先あるかもしれない???

小渕元総理が亡くなったので、沖縄サミットには後継の森喜朗元総理が出席されました。アメリカからはクリントン元大統領が、イギリスからはブレア元首相が出席しました。ロシアからはプーチン大統領が出席しました。各国の首脳たちが変わっていく中で、いまだに権力を握り続けているプーチンは恐ろしいなと改めて思います。

サミットに出席した首脳たちは以下の通り。


日本         森喜朗(議長・日本国内閣総理大臣)
フランス       ジャック・シラク(フランス共和国大統領)
アメリカ合衆国    ビル・クリントン(アメリカ合衆国大統領)
イギリス       トニー・ブレア(イギリス首相)
ドイツ        ゲアハルト・シュレーダー(ドイツ連邦首相)
イタリア       ジュリアーノ・アマート(イタリア首相)
カナダ        ジャン・クレティエン(カナダ首相)
ロシア        ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦大統領)
欧州連合      ロマーノ・プローディ(欧州委員会委員長)


沖縄は基地の問題とか色々抱えておりましたが、サミットの主な議題は「IT革命」でした。今では当たり前の「IT」ですが、2000年当時はまだ「IT」もまだまだ普及したばかりだったのですね。だから「IT」を「いっと」と読み間違えちゃいますよねw


それから、各国首脳に贈答用として琉球リカちゃんの別注モデルサミットリカちゃんがそれぞれに贈られたといいます。たいていは伝統玩具が贈られるようですね。日本であれば駒だとか、羽子板だとか、凧だとかそんなところでしょうか。しかし、そうではなく、リカちゃん人形のような商用玩具が贈られるのは異例の事だったといいます。




※ この記事はウィキペディアを参考にして書きました。

今日は「さとうきび畑」。あまりに有名な曲です。この曲を聞くと沖縄って感じがしますし、戦争の悲惨さがひしひしと伝わります。この曲は、ちあきなおみあさんや森山良子さんがお歌いになりました。

あいにく、沖縄は僕は一度も訪れたことがありません。親戚が沖縄に訪れたことがあるのですが、海がすごくきれいで驚いたって言っていました。親戚はひめゆりの塔にも行ったし、首里城にも行ったようです。首里城は昨年火災にあいましたね‥・・


沖縄はきれいなところなようですが、その歴史を振り返ると色々複雑でして。また、ひめゆり部隊に代表されるように沖縄は悲惨な戦争の舞台でもありました。米軍基地の問題も難しい問題です。

皆さんは北海道に行かれたことはありますか?僕は生まれてこの方一度もありません。いつかは是非いってみたいと思います。

北海道に行ったことはないのですが、子供のころに「オホーツクに消ゆ」というゲームにはまり、それで、北海道の有名な観光スポットを知ったのですね。摩周湖ましゅうこ網走刑務所アバシリケイムショ和琴温泉ワコトオンセン知床五湖シレトコゴコ札幌サッポロのすすき野、そして阿寒湖アカンコ。阿寒湖はマリモが有名だということもゲームで知りました。僕の父はよく北海道に出張に行ったのですが、その時マリモをねだり、おみやげにマリモを買ってきてもらいました。


今日はその阿寒湖にまつわる悲しい曲をご紹介します。曲名は毬藻まりもの歌」。「毬藻の歌」は昭和28年に発表された曲で、安藤まり子さんという方がお歌いになっております。なにしろ古い歌なので、この曲を知っている方は60歳くらいの人でもそう多くなく(80歳以上のの方だったら大体ご存知かもしれない)、カラオケでこの曲をお歌いになるかたも年々減ってきております。メロディーの美しさといい、短いけれど洗練された歌詞といい、とっても良い歌なのに。

芹洋子さんもカヴァーされ、阿寒湖アカンコ遊覧船ユウランセンにのると、芹洋子さんヴァージョンの「毬藻の歌」が流れるそうですが、オリジナルは安藤まり子さんです。以前にNHKの歌番組に安藤まり子さんがご出演され、80代とは思えない、すばらしい美声を聴かせてくださいました。

この「毬藻の歌」には阿寒湖の伝説が下敷きになっているといいます。なんでも、アイヌの長老の娘セトナが村の若者のマニペに恋をしたと。しかし、セトナには父親が決めた婚約者がいたのです。身分が違うということで、セトナとマニペの二人の恋はかなわなかったと。来世は一緒になろうと願い、セトナとマニペは阿寒湖に身を投げたといいます。そして二人の魂は、阿寒湖のマリモになったといいます。

ちなみに、最近になってこの伝説は作り話だという説も出てきました。あくまでもマリモ伝説は一人の日本人の創作で、実際にその筆者の手記もあるといわれております。

アイヌ民族にそのような悲しい伝説があったかどうかはわかりませんが、アイヌ民族が悲しい思いをしたのは事実です。アイヌ民族は、17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道、サハリン、千島列島に及ぶ広い範囲に住んでおりました。それが江戸時代に、アイヌ民族は松前氏マツマエシという大名からたびたび迫害を受けました。アイヌの人たちをだましたり、漁場や猟場も荒らしたりしたそうです。

1669年にシャクシャインというアイヌの指導者が立ち上がり、松前氏と戦いましたが、シャクシャインはあえなく討ち取られてしまうのです・・・

それ以降松前氏の支配はひどくなり、アイヌの人たちを安い賃金でこきつかいました。それで、たびあびアイヌの人たちは抵抗しましたが、いつも厳しくおさえられ、アイヌの土地もどんどん日本人の侵略をうけ、アイヌの人たちはスミに追いやられてしまったのです・・・

19世紀当初から20世紀後半まで日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけたそうです。明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し、アイヌの人たちは差別をされてきたのです。



また、阿寒湖では毎年夏になると「夏希灯なつきとう」という幻想的ゲンソウテキなイベントがあるそうですね。







(阿寒湖とマリモの動画)


(夏希灯のようすiv>


※ 参考サイト

https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html


https://www.tsurugagroup.com/plans/natsukito/

ブログネタ
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1 本国と同化される一方で

 沖縄おきなわの近世と近代の歴史をお話も今日で4回目になります。

前回の記事で琉球処分にて琉球王国はなくなり、沖縄県として日本国の領土の一つとなったと書きました。そして、沖縄は明治政府に支配されます。

沖縄は独自の生活習慣や文化を持っておりましたが、それらは古い、遅れた慣習だと明治時代に否定され、禁じられ、さらに本国との同化も進められてきました。

そうした中で事件が起こったのです。1903年に起きた人類館事件です。大阪で第5回観行博覧会カンギョウハクランカイが開かれました。会場には見世物小屋が立ち並び、その中の一つに「人類館」がありました。ここでは日本人の他にアイヌや琉球、朝鮮、台湾の先住民、中国人、インド人、ハワイの人たちが集められ7種の土人と呼び、それぞれの地域の風俗や習慣を見世物にしようとしたのですね。そうしたら、中国人留学生や韓国の留学生から抗議の声があがったのです。

彼らだけでなく沖縄の人まで抗議したのです。「人類皆兄弟、人を見世物にするなんてSDGsに反する」と抗議した?違います。「俺たちを台湾人やアイヌと同一にして見世物にするな」って抗議したのです。つまり、あいつらと一緒にするなってことでしょう。よく考えればひどい話ですが、当時の沖縄人は自分達も本国と同じ皇国公民として認識していたのですね。実が太田朝敷(おおた ちょうふ)と呼ばれる人物も同じ意見でした。そのが太田朝敷の話を次の項目で触れます。


2 太田朝敷(おおたちょうふ)について
 そんな沖縄について「これはいかん」なげき、沖縄の自立を目指した人が少なくありません。その一人が太田朝敷(おおた ちょうふ)。あいにく僕はHK教育テレビの高校講座「日本史」を見て初めてこの人の名前を知りました。

太田朝敷とはどんな人物かというと、主に明治時代から昭和初期にかけて活躍かつやくしたジャーナリストです。明治26年に沖縄最初の新聞「琉球新報りゅうきゅうしんぽう」の創刊に加わったそうです。ちなみに「琉球新報」は「紙ハブ」と呼ばれおそれられていたようです。なかなか過激な論調だったのかな?

昭和5年に「琉球新報」の社長になり、その後、県会議員,首里市長もつとめたそうです。




「他府県」に「我から進んで同化する」こと「若し消極的に同化させやうとすれば・・・、幾多いくたの不利を感じなければならぬようになります」

 『女子教育と沖縄県』(太田朝敷)


これは太田朝敷の言葉です。沖縄の自立のためには、沖縄人だとか変なプライドは捨てて日本人として生きようと言いたかったみたいですね。

下手に本国といがみ合うよりも、現実を受け入れ、日本に従ったほうが被害ひがいが少ないと太田は思ったのかもしれません。そのうえで近代化すれば沖縄の人たちの意識も変わるだろうと。沖縄人の意識も変われば、沖縄自立の道へと進むだろうと太田は思ったのでしょう。

太田は精神面だけでなく経済面でも沖縄の自立を目指そうとしました。沖縄の主要産業はサトウキビ。太田は製糖業の振興しんこうをすることで沖縄の経済発展を進めようとしましたが、沖縄と同じく製糖業せいとうぎょうが盛んな台湾たいわんされてしまい、これはあまりうまくいかなかったようです。

3 太田朝敷の学歴

 太田朝敷は慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくの出身だったそうです。平成のいまは沖縄出身の学生が東京の大学に入る事はめずらしい事ではありません。僕のいた大学にも沖縄出身の人がいました。

だけど、明治時代の当時はとても珍しい事だったそうです。

慶應義塾大学といえば福沢諭吉(ふくざわゆきち)。

福沢諭吉は国家の自立を説いた人物で、そのためには西洋の文化を取り入れよとも言っていたそうです。後の太田の行動を見ていると、福沢の影響えいきょうを受けたのだろうなとおもいました。


それでは、みなさんぐぶりーさびら!!(沖縄の方言でさようなら)


※ おまけ

喜納昌吉さんの『花』をどうぞ。映らなかったらごめんなさい)




※ 今回の記事は「高校講座 日本史」などを参考にしました。

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