History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 明治・大正

明治の初め、大津(滋賀県)でロシアのニコライが襲撃されたという大事件が起こりました。いわゆる大津事件。ニコライ皇太子は暗殺こそ免れたものの、怪我をしてしまいました。当然、ロシアは怒ってしまいます。当時のロシアは超大国で、広大な領土と強大な軍事力を持っていました。そんな国を敵に回せば、日本はひとたまりもありません。のちにロシアとは日露戦争で戦うのですが、大津事件が起こった当初の日本の国力では勝ち目がありません。当時の日本の政府の高官たちはどのように、この危機を乗り切ったのか。では、事件を追っていきます。

当時のロシアはロマノフ王朝が支配しており、時の皇帝はアレクサンドル三世です。ロシア最強の皇帝と言われております。そのアレクサンドル三世の息子のニコライ皇太子は、内向的で心優しい人柄でした。それで、アレクサンドル三世は、息子のニコライをロシア周辺の国々の訪問を命じたのです。いわゆる、「可愛い子には旅をさせよ」ですね。ヨーロッパ諸国やエジプト、香港、それから日本をめぐる予定だったのです。ロシアの皇太子が来ると言うことで、日本もさぞ歓迎ムードかと思いきや、違いました。それどころか、新聞各紙がロシアを警戒する記事を掲載したのです。なぜでしょう?実はアレクサンドル三世は大変な野心家で領土拡大を企てていたのです。だから、ロシアが攻めてくるのではないかって心配する人も少なくなったのです。

さらにロシアはサハリンや千島列島をめぐる領土問題で、日本と揉めていたのです。そう言うことも日本はロシアに対して警戒心を持っていたのでしょうね。つまり、皇太子来日は、日露親善ではなく、日本に兵を送るための偵察ではないかと疑ったのでしょう。ましてや、この時代、「外国人を追い払え!」みたいな感情(攘夷)を持っている人も少なくなかったし。

しかし、ロシアをヘタに敵に回したら大変なので、ニコライ皇太子を国賓として招き入れ、有栖川宮威仁アリスガワノミヤタケヒトを接待役に明治天皇は命じます。明治24年(1891)4月27日。ニコライが長崎に入港しました。長崎から鹿児島、神戸、京都など各地を回ったと言います。ニコライが日本の文化に興味を抱いたと言います。骨董を見たり、人力車に乗ったり。日本食を楽しんだり。日本食を食べたニコライは「ロシアでも、いつもこうした夕食をとりたいものだ」と誉めたほど。ですが、ニコライが1番興味を持ったのが、芸者だったようです。ニコライは芸者を呼んだといいます。

そんな日本での旅を楽しんでいる最中に起こったのが、大津事件だったのですね・・・・それは5月11日の出来事でした。明治24年(1891)5月11日に起きた大津事件の犯人は津田三蔵。津田は滋賀県警の巡査。警察が外国の要人を襲うとは恐ろしい・・・津田は安政元年(1854)、伊勢国・津藩の藩医の次男として生まれました。18歳で陸軍に入営。明治10年(1877)におきた西南戦争にも参戦し、新政府軍と兵士として、西郷隆盛軍とも戦いました。そこでの戦いで、手柄をあげ、勲七等をもらったほど。その後、津田は陸軍を除隊し、三重県警の巡査となりますが、同僚を殴り免職。しかし、滋賀県警の巡査に志願すると、なんと採用されたのです。え!?まじっすか?現代では考えられませんね。一度、警察をクビになったものが、また採用されるなんて有り得ません。それどころか警察が同僚とトラブルを起こしたなんて、今だったらSNSに晒されてしまいます。

事件当日の朝8時30分、ニコライ皇太子は京都のホテルから、人力車で、大津へ向かいます。大津では古刹の三井寺を見たり、琵琶湖に浮かぶ遊覧船に乗ったり、楽しいひとときを過ごしておりました。大津警察署はこの日150人以上を動員。津田も動員されていました。

そして、午後一時半、京都のホテルに戻るため出発。午後1時50分ごろ、ニコライ皇太子の人力車が津田の前を通ると、津田はニコライに向かって最敬礼。しかし、ニコライはそれを無視。すると、津田はサーベルでニコライを斬りつけたのです。

※この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました

明治時代、ペストが大流行したのです。致死率90パーセント。このペストで多くの人が亡くなりましたが、そのペストの原因を突き止めたのが北里柴三郎。北里は近代日本医学の父と呼ばれております。しかし北里は子供のころから腕白で友達と相撲を取っても負けなかったのです。もともとは軍人か政治家を目指していたものの、医学の世界を目指したわけではありません。彼を変えたのが弟の死でした。はやり病にかかって亡くなったのです。弟の死が北里を変えたのですね。北里は父に勧められ地元の医学校に行きました。そこでオランダ人医師のマンスフェルトに出会います。マンフェルトは日本語がまったく話せず、通訳がついていたのです。北里は向上心があったので、オランダ語をマスターしたのです。

ある日、学校で人体組織学の実習が行われました。北里は日本にまだ入ってきたばかりの顕微鏡に触ったのです。その顕微鏡に映し出される光景に衝撃を受けたのです。顕微鏡で見た人体の細胞に驚いたのです。人間の体の不思議に驚いたのです。そして北里は1874年東京医学校に進学。そこで細菌学を学んだのです。そして32歳でドイツに留学。そこでローベルト・コッホという研究者に出会います。コッホは世界的な細菌学者で、病気は菌によってもたらせることを発見した人物であります。そのコッホの下で北里は研究をつづけたのです。北里は昼夜を惜しんで研究にいそしみました。

そんな北里の努力が実を結び、破傷風菌の純粋培養と、血清療法を確立したのです。破傷風菌は空気を嫌うため培養が難しいのです。しかし研究のためには培養が必要。そんな状況でも北里は北里は破破傷風の培養に成功。

そして、血清をつくりだしたのです。まず、北里は傷風菌が出す毒素を少しずつ動物(ねずみ)に注射。破傷風菌の毒素も少量なら動物は病気にならない、それどころか、毒素を少しづつふやすことで、動物に抵抗力といいますか、免疫ができて、大量に毒を注射しても病気にならないことを発見。動物の血液に抗毒素ができたからなんですね。もともと動物には自然治癒力があるのです。その自然治癒力を利用し、抗毒素が出来上がった動物の血から血清をつくりだすことができるはずと北里は発見。そして北里は破傷風の血清を作り出すことに成功。

北里はドイツから日本に帰国。しかし、日本の医学界は北里を快く受け入れてくれませんでした。まず、帝大の医学部は北里を大学教授になることを拒絶。それには東大医学部と北里の間で因縁がありました。それは脚気論争。脚気はビタミンBの不足からなるのですが、当時は原因が不明で、細菌の仕業だと帝大教授の緒方正規は主張。その緒方の主張に北里は反論したことがあるのですね。緒方は北里の先輩であり、コッホに紹介状を書いてくれた恩人でもあるのですね。そんな恩人にかみついたということで、帝大総理(総長)らが反発。別に北里は緒方への恩を忘れたのではなく、「私は私情を忘れたのではない、私情を抑え、学問のため真実を述べたまでだ」と主張。医学の発展のためには私情も捨てなきゃいけないという考え。しかし、日本の医学界は閉鎖的でそんな北里の考えにくみしないのです。日本の医学界で行き場を失った北里に手を差し伸べたのが、福沢諭吉。福沢は北里に国家に頼らない独立機関を作れと主張。福沢は無償で自分の持っている土地(芝公園)を北里のために提供。そこでできたのが伝染病研究所。だが、芝の土地が狭かったので、愛宕町に移転計画がすすめられたのですが、移転先の住民による激しい反対運動が起こったのです。伝染病が持ち込まれると心配したのですね。それでも福沢たちの働きかけもあり、無事に愛宕町に伝染病研究所が作られたのです。

そしてペストが香港で大流行したのです。日本政府は1894年(明治27年)北里ら調査隊を香港に派遣。早速北里はペストの解明を急ぎます。しかし、調査隊の何人かがペストに感染、そして死亡したのです。ペストの猛威の中、北里たちは研究をつづけました。そして北里たちはペスト菌を発見。1500年もの間人類を苦しめてきたペストの正体を暴いた瞬間でした。そしてペストの血清づくりを進めるとともに日本全国に検疫所をつくるよう勧めたのですね。明治32年にペストが日本に初上陸するのですが、その後すぐに収束。北里らの迅速な対応が被害を最小限に防いだのです。

1899年(明治32)、北里らの伝染病研究所が内務省の所属機関になったのです。しかし所管が内務省から文部省に移ったのです。これによって伝染病研究所東京帝国大学医科大学の下に入ったのです。これは北里も激怒。北里はあくまで研究は国民を病から救うための実践の場でなくてはならない。ただの学問を深めるための研究所ではダメだと。帝国大学の下に入ったら、ただの学問のための研究所になってしまう。北里は辞表をだしました。そして1914年(大正3)私立北里研究所を設立。柴三郎は自らの手で研究所を作ったのです。日本初の私立研究所です。北里の研究所には、伝染病研究所の元職員たちもたくさん入ってきたのです。北里はカミナリ親父で厳しく部下を叱責するほど怖い人だったのですが、人間的には慕われていたのですね。その研究所では志賀潔や野口英世といった優秀な人物を輩出するのです。

※ この記事は「THE歴史列伝」を参考にして書きました。

近頃の若者はけしからん。よく聞く話ですね。

でも、そうした話は昔からありました。いつの時代も、けしからん若者はいました。
明治時代、高等遊民コウトウユウミンという人たちが出てきます。高等遊民とは大学などを出ていながら就職をせず、家で本を読んだり、趣味に没頭したりして日々を過ごすことです。夏目漱石ナツメソウセキの小説『それから』や『こころ』の主人公も高等遊民です。言い方は悪いが今でいうニートみたいなものです。ニートって明治からいたので、決して現代の話ではないのですね。

高等遊民の実家は大抵裕福でした。だから非生産的な暮らしぶりでも食っていけたのです。高等遊民になった理由は、単に働くのが嫌だとか、不景気で就活に失敗したとか色々です。あるいは体が弱かったというのもの考えられます。明治大正時代は、体が弱い人の就活は、現代以上に不利でした。頭が良くても体が弱いために就職できず家に引きこもってしまう人もいたのですね。

就職できなかったら農業やればいいじゃんって僕なんか思っちゃうのですが、昔はトラクターとか農業機械が普及していなかったので、農作業はほとんど人力。農作業は体力勝負の仕事ですから、身体が弱いというのは致命傷チメイショウなのです。

で、時の政府は高等遊民をどうみてたかというと警戒ケイカイしていたのですね。なまじか学や知識吸収欲があるために社会主義や、無政府主義にハマるのではないかって。政府としては無政府主義や社会主義が広まることが一番怖いわけですから。逆に言えば、高等遊民でも、そういった思想にかぶれなかれば問題なしだったのです。

最終的に昭和初期満州事変マンシュウジヘン・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員コッカソウドウイン体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題はある程度は解消に向かっていったのですね。一方で徴兵検査チョウヘイケンサで不合格になって、仕事にあぶれた人も少なくなかったのです。徴兵検査に落ちると後ろ指を刺されたのですね。非国民って。大変な時代だったのですね。


徴兵検査のお話をしましたが、徴兵検査をあの手この手で逃れようとした人たちも少なくなかったのです。「今の若者はけしからん!昔の若者は勇敢ユウカンだった」という意見もあるようですが、とんでもない、戦前だってけしからん若者はいましたし、「兵隊なんかなりたくない」って若者はいました。というか親が子供を戦地に行かせたくないために工作をしたケースもあるんですよ。

徴兵制は明治時代から始まりましたが、明治時代の日本は何と9割近くが兵役をマヌガれたのですね。当初の徴兵制は、20歳未満、長男であること(あるいは家長)、身体が弱い、お金を収めたもの(当初270円のちに400円に引き上げ)、官庁の役人などは免れたのですね。逆に言えば、貧乏で次男で健康だったら間違いなく徴兵されるのですね。

兵隊なんかになりたくない、我が子を戦地に送りたくないと思うのはこの時代の人たちも同じでした。徴兵免れのためのマニュアルまで作られたほど。また、長男が徴兵されない問うことで、次男、三男でも子供のいない家に養子を出した事例もたくさんあったそうです。徴兵制が導入されてから、養子縁組が増えすぎる、怪しいというので、のちに長男も徴兵の対象になりましたが。また、明治の270円はどのくらいの値打ちかわからないのですが、300万〜500万円くらいだそうです。

その後明治の徴兵制は廃止し、1927年(昭和2)に兵役法が導入され、徴兵制よりも数多くの男子を徴兵することができるようになりましたが、それでも身体が弱い人とかは免除されたようです。僕の母方祖父も、父方の祖父も体が丈夫じゃなかったことが幸いしてか、徴兵は免れたそうです。あと徴兵じゃないのですが、僕の母方の親族が軍医として戦地にオモムいたいたとか。

また、二次世界大戦中、理工系の旧制大学・旧制専門学校の学生は兵役が免除されたそうです。そのため進路を理工系の学校を選ぶ学生も増えたそうです。長岡鉄男という人物は航空工学校の学生が東京帝国大学航空研究所の実験工として配置されることを利用し、終戦まで研究所で働いていたそうですね。

海外に留学したり海外で働いている人間も徴兵を免れたと言います。海外に行く日本人の数は年々増えて、1926年(昭和元年)には約3.7万人、1933年(昭和7年)に約4.5万人、1937年(昭和11年)には約5.4万人となっております。もちろん、海外に行った人間全てが徴兵逃れとは思えませんが、少なからずいたと思います。

また、夜逃げをしたものもいましたし、空襲がひどくなった時はどさくさに紛れて逃げた者もいたか。

もちろん、志願した勇敢な若者も少なくありませんでした。それと、貧しい農村の若者も志願したと言います。貧しい農村の若者は、兵隊になれば、大変かもしれないけれど、美味しいもが食べられるというのが頭にあったからです。兵隊になるとシゴキもひどいし、下手すれば戦地で死ぬかもしれない、命懸けのブラックな職場環境ですが、それでも腹ペコの辛さに比べればマシといったところでしょうか。


* 参考サイト並びに文献





今日は、徴兵逃れの話をします。「今の若者はけしからん!昔の若者は勇敢ユウカンだった」という意見もあるようですが、とんでもない、戦前だってけしからん若者はいましたし、「兵隊なんかなりたくない」って若者はいました。というか親が子供を戦地に行かせたくないために工作をしたケースもあるんですよ。今日はそんなお話をします。 

徴兵制は明治時代から始まりましたが、明治時代の日本は何と9割近くが兵役をマヌガれたのですね。当初の徴兵制は、20歳未満、長男であること(あるいは家長)、身体が弱い、お金を収めたもの(当初270円のちに400円に引き上げ)、官庁の役人などは免れたのですね。逆に言えば、貧乏で次男で健康だったら間違いなく徴兵されるのですね。

兵隊なんかになりたくない、我が子を戦地に送りたくないと思うのはこの時代の人たちも同じでした。徴兵免れのためのマニュアルまで作られたほど。また、長男が徴兵されない問うことで、次男、三男でも子供のいない家に養子を出した事例もたくさんあったそうです。徴兵制が導入されてから、養子縁組が増えすぎる、怪しいというので、のちに長男も徴兵の対象になりましたが。また、明治の270円はどのくらいの値打ちかわからないのですが、300万〜500万円くらいだそうです。

その後明治の徴兵制は廃止し、1927年(昭和2)に兵役法が導入され、徴兵制よりも数多くの男子を徴兵することができるようになりましたが、それでも身体が弱い人とかは免除されたようです。僕の母方祖父も、父方の祖父も体が丈夫じゃなかったことが幸いしてか、徴兵は免れたそうです。あと徴兵じゃないのですが、僕の母方の親族が軍医として戦地にオモムいたいたとか。

また、二次世界大戦中、理工系の旧制大学・旧制専門学校の学生は兵役が免除されたそうです。そのため進路を理工系の学校を選ぶ学生も増えたそうです。長岡鉄男という人物は航空工学校の学生が東京帝国大学航空研究所の実験工として配置されることを利用し、終戦まで研究所で働いていたそうですね。

海外に留学したり海外で働いている人間も徴兵を免れたと言います。海外に行く日本人の数は年々増えて、1926年(昭和元年)には約3.7万人、1933年(昭和7年)に約4.5万人、1937年(昭和11年)には約5.4万人となっております。もちろん、海外に行った人間全てが徴兵逃れとは思えませんが、少なからずいたと思います。

また、夜逃げをしたものもいましたし、空襲がひどくなった時はどさくさに紛れて逃げた者もいたか。

もちろん、志願した勇敢な若者も少なくありませんでした。それと、貧しい農村の若者も志願したと言います。貧しい農村の若者は、兵隊になれば、大変かもしれないけれど、美味しいもが食べられるというのが頭にあったからです。兵隊になるとシゴキもひどいし、下手すれば戦地で死ぬかもしれない、命懸けのブラックな職場環境ですが、それでも腹ペコの辛さに比べればマシといったところでしょうか。


* 参考サイト並びに文献





戦前の少年犯罪
管賀 江留郎
築地書館
2007-10-30







戦前の少年犯罪
管賀 江留郎
築地書館
2007-10-30



クイズです。今日は、深谷ねぎについて。さて、この深谷ねぎは普通のネギとちがい、特徴があります。その特徴とは次のうちどれでしょうか?





  1. メロンなみに甘い




  2. 玉ねぎにちかい形をしている




  3. 防虫効果がある




正解は1番です。利根川がたびたび氾濫はんらんをおこすのですが、その氾濫により肥沃ひよくな土が上流から運ばれるのです。そうした栄養分が豊富な土壌が深谷ネギのおいしさにつながっているのですね。僕は昨年、大河ドラマ「青天を衝け」に影響されw、埼玉県の深谷にいってきました。深谷は渋沢栄一の故郷です。行ったら、ネギ畑がたくさんあって、その広大な景色にまるで北海道のようでした。お土産にネギも買ったけれど、美味しかったこと。僕が深谷ねぎのことを知ったのは数年前に放送されたNHKの高校講座の地理でした。番組を見て「ネギが甘い?そんなことあるもんか」と思っていたのですね。でも、いつかは食べてみたいとずっと思っていたのが、昨年念願かなったのです。食べてみたが、普通のネギとは明らかに違い甘味があって美味しかったです。NHKの高校講座での深谷ねぎの話は本当だったと確認できてよかったです。

深谷ねぎの由来は、明治初期に藍の値が暴落したことをきっかけです。「青天を衝け」にも出てきましたが、深谷は元々は藍の産地でした。渋沢栄一の実家でも藍を愛を込めてw育てていたのですね。幼い頃から藍の売買を手伝い、それで渋沢栄一は商売のコツを身に付けたと言います。藍だけでは苦しくなったので、明治30年頃から新しい作物としてネギの本格的栽培が始まったのです。大正時代にネギの価格が暴落したのですが、その時農業指導者の渋沢治太郎は、地元の乾物問屋に頼んで、北海道・東北地方へ深谷ねぎの商標を付けて出荷したそうです。これが、深谷ねぎの名称の始まりであると。ちなみに渋沢治太郎は、渋沢栄一の甥だそうです。

また、深谷にある渋沢栄一の生家にも訪れました。そこのすぐ近くにある、飯屋さんがあるのですが、そこで、渋沢栄一が好きだったという煮ほうとうをいただきました。ネギも入ってて、美味でした。ほうとうというと山梨県のイメージがあり、味噌やカボチャを入れるのですが、深谷のほうとうは、味噌も入れず、あっさりとした味です。

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(ねぎ畑)

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(いづれも深谷の景色)
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(煮ほうとう)

樋口一葉といえば5千円札の肖像画になっております。個人的な話になりますが、僕は5千円札とはあまり縁がないのですねw、ATMで5千円おろしても、たいてい野口英世が五人w樋口一葉が僕の財布にやってきても、2日くらいで姿を消し、野口英世1人ないし3人に化けてしまうw無駄遣いするからwその樋口一葉が5千円札になったのは2004年ですが、2024年に津田梅子にチェンジします。20年と儚かったなあって。しかし、お札の肖像画は大体20年でチェンジするそうですね。

それはともかく、お札の肖像画になった樋口一葉ですが、彼女の暮らしはお金とはあまり縁のなかった人生でした。樋口一葉は「昨日から家にはお金というものが一銭もない」といったほど。

樋口一葉は本名を樋口奈津と言いました。父は樋口則義。元は江戸町奉行の同心で、政府の役人の仕事の傍ら、不動産や金融業をやっていたと言います。母の名を多喜と言いました。幼い頃から奈津は小説が大好き、とりわけ英雄豪傑や任侠ものが好きだったと言います。『南総里見八犬伝』はわずか3日で読んだと言います。明治16年(1883年)、奈津は青梅学校小学高等学校第 4級を主席で卒業。すごいですね。明治という時代は女性は、家庭を守べきという考えが強く、学問なんてとんでもないという時代。そんな時代に優秀な成績で学校を卒業できたというのだから。当然、奈津は進学したいと思いました。しかし、母の多喜が反対します。なぜでしょう?母は保守的な考え方で、女子の進学には反対。それで多喜は進学を諦めてしまうのです。

それをかわいそうに思ったのが父の則義。一概に言えませんが、だいたい男親は娘に甘いですから。父は奈津に中島歌子が主催する「萩の舎」という学び舎に入門します。ここは華族の子女や三井家などの上流階級の女性が教養を高めるための塾でした。樋口奈津(一葉)はお金に縁がない人生だと冒頭で言いましたが、そういう塾に入れたということは、この時の樋口家はまだお金に余裕があったってことですね。ここで奈津は、和歌や書道などを学び、小説家として必要な感性や教養、それから遊び心も学んだと言います。

そんな奈津に転機が訪れます。明治20年(1887)、樋口家の戸主、樋口泉太郎が亡くなるのですね。泉太郎は奈津の長兄です。後継がいなかったので、奈津が樋口家の戸主となったのです。この時代、女性の戸主とは珍しかったのです。実は、樋口家には次男がいたのですが、次男は職人修行で奉公に出ていたのですね。そして奈津に渋谷三郎という婿を迎えて、めでたし、めでたし、と言いたいところですが、ここから奈津の波乱に満ちた人生が待っていたのです。明治22年(1889)、父の則義が亡くなるのですね。しかも多額の借金を残して。え、お父さんは役人なのに何で借金?と思いますね。実は、則義は役人の仕事をやめ、運送業を始めたのですが事業は大失敗。借金だけが残ったのです。


そして渋谷三郎との婚約も破棄。なぜ?実は渋谷三郎はまだ学生で、弁護士になるための勉強をしていたのですね。それで樋口家から資金的な援助をしてもらうことを条件に婿に出す約束だったのですね。それが樋口家の財産がなくなって、この婚約がおじゃんになったのです。

父を失い、兄も失った樋口家は苦しい生活でした。奈津は母と妹で着物の仕立てや洗濯などの内職で生計を立てていたのです。しかし内職では大してお金をもらえません。それで奈津は中島歌子に頼んで内弟子にしてもらい、住み込みで働いたと言います。そして奈津は趣味と実益を兼ねて小説家として身を立てようとするのです。実は萩の舎の先輩に三宅花圃という人がいたのですが、彼女が女性小説家として活躍していたのですね。奈津は三宅に憧れて、もしかしたら自分も小説家になれるかもって思ったのかもしれません。そして奈津は小説家デビュー。ペンネームも樋口一葉としました。

一葉の意味は、一枚の葉っぱに乗ってインドから中国に渡り修行で手足を失った達磨大師の故事にあやかったものだと言われております。だるまの人形は足がないですよね。足つまりお足、もっと言えばお金がない、だから自分はダルマだと奈津は自嘲気味にそういうペンネームをつけたのかもしれません。また頼る人がいなくて、自分は一枚の葉のように漂っているという意味合いも込められているとか。

しかし、いざ小説を書いたものの、自分が思うような小説が書けません。それでもなんとか、一葉(奈津)は『武蔵野』という雑誌に自分の小説を発表することができたのです。しかし、肝心の原稿料が入りません。なぜでしょう?実は『武蔵野』は若い作家に作品発表の機会を与える雑誌で、ある程度雑誌の売り上げがないと原稿料が支払えない状況だったのです。結局『武蔵野』は発行から3号で廃刊になりました。

それから一葉は半井桃水という男性と関係があったのですが、その関係もご破産になります。一葉の恋物語は次回取り上げます。しかし、桃水との失恋が一葉の創作意欲を高めただけでなく、小説の内容も格段に良くなったのです。よく歌手と小説家は苦労すると芸術性が高まると言われておりますが、一葉も例外ではなかったのですね。

一葉は「都の花」という雑誌に『埋もれ木』という小説を発表。これは貧しい芸術家が友人に裏切らた上に大切な妹も亡くして落ちぶれるという、一葉の実体験に基づいたような小説です。この小説がヒット。原稿料11円75銭(35万円)を手に入れたのです。父の遺した借金を考えたらはしたお金かもしれないが、自分の手でお金を手に入れたのですから一葉の喜びもひとしおだったと思います。

それから星野天知と平田禿木ヒラタトクボクという人物が一葉の才能を高く評価し、一葉を誘うのです。それから一葉は色々な雑誌に小説を書いていったのです。しかし、一葉は次第にブルーになるのですね。なぜでしょう。それは売るために小説を書くのが辛くなったのです。小説家になったからといって自分の好きなものを書けるわけではありません。それはミュージシャンも同じことで、自分がこういう歌を歌いたいといっても、プロデューサーとかが、そんなものは売れない!って脚下。結局ありふれたラブソングだとか励ましソングだとかに落ち着いてしまう。世の中にもっと呼びかける歌を歌いたい、自分の気持ちをそのまま歌にしたいといってもダメ出しされてしまう。漫画もそうですよね。漫画家が描きたい物よりも、編集者が望んでいるものを書けと言われてしまう。大御所になれば、好きな漫画も書けるようになるかもしれないが、新人や若手の時はまず無理でしょう。

小説を商売にするのに嫌気がさした一葉はオファーをどんどん断ります。しかし、オファーを断れば、仕事もなくなり、収入も減ります。それで一葉は安定した収入を得ようと日用雑貨店を吉原の近くに開きます。一葉の家族は反対したようですが、一葉は押し切りました。商売はあまりうまくいかず。しかし、この時の体験がのちの一葉の小説家人生で大きなプラスになるのです。雑貨店に訪れるのは貧しい家の子供たちや、吉原の遊女たち。ひどい生活をしている彼らを見て、一葉はきっと思ったでしょう。

貧しい人たちのために小説をかこう。小説を通して、多くの人たちに近代化する日本の影でどれだけ苦しんでいる人がいるかを伝えたいと。

そして、生まれたのが名作「たけくらべ」

「たけくらべ」だけでなく一葉の小説は売れまくりました。彼女の名声もますます高まりました。しかし、一葉は冷静でした。

「ようやく世間に名前を知られてきて珍しげにうるさい程もてはやされる(中略)どうしてこんなに大袈裟に言いはやすのだろう。やがて秋風が噴き出すと、野末に捨てられて誰も見かえる人もいないでしょう。そんな運命を思うと、ますます心細くなる」

普通、有名になってチヤホヤされると天狗👺になってしまうのですが、一葉はそうじゃなかった。すごく大人だなって。

一葉の小説は生きることの悲哀を深く捉えた女性ならではの心理描写で、華族制度や当時の社会を批判をしていたのですね。彼女の作中の人物が背負っている闇は現代社会にも通じる問題をはらんでいます。だからこそ、現代になっても彼女の小説が親しまれるのでしょうね。

一葉は結核にかかり25歳で亡くなります。最後に一葉が遺した言葉を。

世間のありふれた作者の作品のように一度読んだら、すぐに屑箱に捨てられるようなそんな作品は書くまいと思っているのです。私はぜいたくをして、立派な衣装を着、立派な家に住みたいと思っているのではないのです。


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