History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 明治・大正

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(関東大震災のときに止まった時計)

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(関東大震災の火災で焼けてしまった、お菓子)

1 関東大震災100年、大震災でも焼け残った神田和泉町、佐久間町
 今年は関東大震災発生からちょうど100年を迎えます。1923年(大正12)9月1日に関東地方に大地震。おびただしい被害が出ました。関東地方ではだいたい100年おきに大きな地震がくるといわれています。もしかしたら、今年か来年あたり関東地方に大きな地震がくるのではないかって僕も大変心配しております。昨日もなんか地震があったみたいだし。昨日は東日本大震災(2011)のあった日、おとといは東京大空襲のあった日。ということで、今日は防災にまつわるお話をしようかと思っております。

関東大震災では東京のあちこちが火災にあい、多くに犠牲が出たのですが、神田区(今の千代田区)神田和泉町、佐久間町周辺の地域だけは、地元住民の必死の消火活動のかいあって被害がなかったのです。神田泉町、佐久間町は今のアキバこと秋葉原周辺で、秋葉原駅の東側にあたる区域で、三井記念病院が立っているあたりですね。


和泉町、佐久間町住民の努力は、今後の大地震や災害に直面したときの教訓として生かせるかもしれません。

2 延焼を受けにくい環境だった
まず、地理的な面で神田泉町、佐久間町周辺は恵まれておりました。まず区域内には内務省衛生試験所や、三井慈善病院といった耐火構造の建物があったこと、和泉町や佐久間町の北側に郵便局などレンガ造りの建築物がいくつもあったようです。それらの建物は燃えてしまいましたが、防火壁の役割を果たし、和泉町や佐久間町を守ったのですね。南側に神田川と電車道があったのも幸いでした。川があれば火も移ってきませんし、電車道なら燃えるものもありません。西側には秋葉原貨物駅もあり、駅周辺に木造建築物がなかったことも幸いだったのです。

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(和泉町、佐久間町の地図。公益財団法人 東京都慰霊協会のパンフレットより)

また、火の手は四方から迫りましたが、それぞれ時間差があったため、火災に対応する方向をしぼることができたのです。一気に火の手があがれば、にげることができませんが、火の手に時間差があれば、消火活動をする余裕も生まれるし、逃げ道を確保することもできます。


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まず、↑の絵を参考にしながら、御説明をさせていただきます。まず9月1日の18時ごろ、神田泉町、佐久間町の南方( 砲ら火の手が迫ってきました。南側には電車道と神田川があったので、延焼がまぬがれたのと、それに加え、火の勢いも比較的よわかったことも幸いだったのです。

9月2日の0時の深夜。西側(◆砲ら火が迫ってきました。しかし、秋葉原貨物駅があり、その構内にあった豊富な水を利用することができたので、消火活動ができたのです。

9時2日の朝6時ごろに、今度は東側()から火の手があがってきましたが、三井慈善病院や衛生試験所などの耐火建築物が防火壁の役割を果たした上に、火災が和泉町、佐久間町周辺に接近した時点では風向きもかわって、東側の延焼は免れました。

9月2日の15時になって、今度は北側(ぁ砲ら火が接近しました。北側には郵便局とかレンガの建築物がいくつもありました。結局、郵便局などの建物は焼けてしまいましたが、燃え残った壁が防火壁としての効果を持っていたのです。

また、神田の和泉町1番地にはポンプを取り扱う帝国喞筒会社ていこくそくとうかいしゃがあり、3,4台の消防用のガソリンポンプが残っており、これを使って消火活動ができたのも、これまた幸いだったのです。ほかにも三井慈善病院にもガソリンポンプが配備されており、この消防用ガソリンポンプを使うこともできたのも、これまた幸いでした。東京は地震の影響で水道管が壊れ、消火活動がままならぬ状況でした。だから消火活動に水を使えない状況だったので、多くのところでは被害が大きかくなったのですが、神田和泉町や佐久間町はガソリンポンプがあったことが幸いだったのです。

3 消火活動を優先した人々
 9月1日の午後6時ごろには、神田和泉町、佐久間町に住んでいる、おじいちゃん、おばあちゃん、子供や女性の多くを上野方面に避難させたといいます。上野と言えば上野公園がありますね。上野公園はとても広くて避難場所としても最高です。上野公園には和泉町、佐久間町だけでなく、浅草や本所など周辺の人たちもたくさん避難したといいます。上野公園には50万人もの避難者がいて、難をのがれたといいます。

残った男たちは協力し合い、燃えやすい素材を用いている建物を火災が広がる前に壊したり、バケツリレーを行ったりしたといいます。また、神田和泉町、佐久間町が被災していないということで、この地域に避難した人たちもいたのです。こうした他所から来たひとも消火活動に参加したというから驚きです。他所から荷物を持って避難してきた人々には、まず飛び火の恐れがあるものを神田川に捨てさせたといいます。中にはタンスとか家財道具をもって逃げたひともいましたが、生き延びるためには、そうしたものも捨てるしかない。それから避難した人たちにも消火活動の協力を、佐久間町、和泉町の人たちは頼んだといいます。こうした住民たちの必死な努力も実って、神田和泉町や佐久間町は火災を免れたといいます。

※ この記事は『焼け残った神田和泉町・佐久間町の真実』(公益財団法人、東京都慰霊協会のだしたパンフレットを参考にして書きました)

2・26事件を「昭和の忠臣蔵」に仕立て上げようと称える声は少なくありません。ある保守系議員(地方議員)のブログでも2・26事件の青年将校のことを美談にしたてあげ、国を憂えた英雄の様に言っております。これ、評論家がほめたたえるのならまだしも、公職の人がいうと意味合いが違ってくる。地方議員でも政治家がいうと、「軍人が政治家を襲うような社会」を目指しているとか、そういう意味合いになってきます。自衛隊がもしテロをおこし、要人たちを殺すような時代が来たら、それこそ、まともな政治活動が行われないし、あなた方も命を狙われることになるのですが、それでも良いかって思いたくなります。

僕もかつては青年将校が貧しい東北の現状を嘆き、そのために立ち上がったのだと思い込んでおりました。しかし、いろいろな文献を調べているうちに現実は軍人同士の派閥抗争であったことが明らかになりました。当時、陸軍は統制派・皇道派の対立しており、この事件を通して皇道派の勢力をひろげようという動きもあったのです。荒木貞夫大将とその盟友真崎甚三郎大将を中心とするのが皇道派、永田鉄山少将を中心とするのが統制派。

皇道派は天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、無論、反共産党主義であり、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張していました(北進論)。

一方の統制派は、当時のドイツ参謀本部の思想、ならびに第一次世界大戦からの影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画(総力戦理論)、技術の近代化・機械化を重視、中国への拡大を支持していたのです。(南進論)。

荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたのですが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替されたのです。

さらに陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていました。陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務します。一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、いわゆる青年将校。


そうした複雑な背景のなかで、「統制派」の永田鉄山が殺されてしまうのですね。「皇道派」の相沢三郎によって。これで両派閥の対立は激化。それで、起こったのが2・26事件。

この2・26事件の決起に加わった下級兵士たちは何も知らされておらず、上から「その前にどうしても内地でやっておかねばならない仕事がある」と奥歯にものがはさまったような言い方を繰り返され、何だろうと思って参加したといいます。





徳川宗家で当主が60年ぶりに交替し、今年の1月29日に家督相続の儀式である継宗けいそうの儀が先月行われたようですね。そして徳川家広さんが正式に19代当主になられたと。いまちょうど大河ドラマで『どうする家康』をやっている最中での交代ですから、すごい良いタイミングだなって。世が世だったら19代将軍になられていたかもしれない。

徳川家広さんもそうなのですし、先代の徳川 徳川 恒孝とくがわつねなりさんも、すごく品がいいんですね。それと初代将軍の家康の面影をなんとなく感じる。徳川家広さんは翻訳家をされていて、最近はYouTubeで動画も出されているのですが、コメントといい、モノの言い方と言い、品性を感じるんですよ。家広さんは翻訳家をされていて、英語もペラペラ。教養も豊かなんだなって。

それにしても19代も続くって大変だと思うんですね。明治維新で徳川幕府は滅びましたが、徳川家そのものは残ったのですね。長州も薩摩も、徳川の人間を殺そうと思えば殺すことができたのに、それをしなかったのですね。

最後の将軍・徳川慶喜のあとを徳川家達とくがわいえさとが後を継いだのですね。徳川家達は、16代様とよばれ親しまれていたようです。家達は静岡藩知藩事に就任し、同時に華族に列するようになります。そして貴族院の議員となり、1903年(明治36年)12月4日より1933年(昭和8年)6月9日まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めたちうから驚きですね。こんなに長く国会の議長を務めた人はいないですね。総理大臣にって声もあって、戊辰戦争ぼしんせんそうのときに敵側だった山縣有朋が、徳川家達を内閣総理大臣にって考えたほど。驚きですよね。しかし、家達は辞退。もし家達が引き受けていれば、徳川内閣がうまれ、ある意味徳川幕府の復活になっていたかもしれないのに。また家達は1921年(大正10年)のワシントン会議にも全権として派遣されております。家達は、明治維新後、迫害されるどころか、重要な役目を果たしたのですね。

その家達の後を継いだのが徳川家正。17代目の当主となりました。家正は外交官で、カナダ公使やトルコ大使などを歴任しました。 大正から昭和前期にかけての日本外交で重責を果たしたのですね。1946年(昭和21年)には貴族院議長に就任しました。しかも貴族院副議長は一橋徳川家の徳川宗敬。すごいですね。徳川家で貴族院の議長と副議長をやったのですから。しかし、1948年(昭和22年)に日本国憲法が施行され、貴族院も家族制度も廃止になります。だから、徳川家正は最後の貴族院議長というわけです。ある意味徳川慶喜と同じ宿命を負った人だなって。

家正は貴族院と、それから華族制度の廃止を見届けたのです。家正には長男さんがいたのですが、25歳の若さで亡くなっているので、養子をお迎えすることになったのです。その養子が家広さんのお父様の徳川 恒孝さん。徳川家が養子を迎えるのは別に珍しいことではありません。

歴史の教科書にも書いてあるのですが、徳川家は何度も養子を迎えているのですね。たとえば5代将軍の綱吉だって、子供を亡くしいるので跡継ぎがおらず、家宣を養子として迎えているし、家宣の子の家継も8歳で亡くなっているので、それで紀州藩藩主だった徳川吉宗が、将軍になり徳川宗家も継いだと。さらに11代将軍の徳川家斉も一橋家出身の養子です。それから、14代将軍の家茂は紀州藩、15代将軍の慶喜も水戸藩出身で一橋家の人でもあります。


18代目の徳川 恒孝さんは日本郵船に勤務されました。著作も少し読んだことがあるのですが、素晴らしい。もともと教養があられるうえにビジネスマンとしての豊富な経験が文面からも伝わってくる。




徳川恒孝さんは徳川宗家の当主として先祖の儀式とか多大な時間を割いたといいます。歴代当主の命日には墓所のある上野寛永寺や芝の増上寺参拝、それから久能山東照宮や日光東照宮で祭事があり、それぞれ束帯そくたい姿で参列されたとのこと。ほかにも歴代将軍の側室など徳川宗家ゆかりの人のお参りなども含め、月平均2-3日を先祖の供養に費やしていたと。徳川恒孝さんは、その都度有給休暇を使い、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていたそうです。


また徳川恒孝さんはビジネスマン時代、加賀前田家18代当主の前田利祐さんと、一時期本社の同じ部署で勤務しておりました。だから、その時のお二人の上司は「『前田!徳川!ちょっと来い!』などと呼びつけたのは太閤様以来おれだけだ」と誇らしげに語ったとか。





1 巨大派閥を作った

 山縣の葬儀には千人しか来なかった話は前回お話ししましたが、それでは山縣はそんなに友達がいなかったのでしょうか。友達と言ったらどうかはわかりませんが、山縣は巨大な派閥を作っておりました。山縣有朋が大きな派閥をつくることができたのは彼の人材活用法にありました。彼は人を用いるときは、まず色々な要務を命じて、その能力を判断し、それに応じた仕事をさせ、才能を磨かせて登用し、部下を切り捨てることはせず、逆に部下のなした仕事を生かしたといいます。山縣の配下にいた文部官僚からすれば自分がなした仕事が生かされ、そして論功行賞ロンコウコウショウで出世できるのだから、これ以上のことはなかったのです。だから官僚たちは山縣のためならばと忠誠を誓ったのですね。

一方で、山縣はよく言えば生真面目きまじめ几帳面きちょうめん、悪く言えば猜疑心さいぎしんが強く、人を信用しないところがあったのです。そういう彼の性格もまた嫌われた一因なのかもしれない。人間って生真面目な人より遊びがある人のほうが好かれますから。もっとも山縣もいったん親しくなると信用し相手のために一生懸命働く律義りちぎさも併せ持っておりました。そういう彼の律義さも派閥を作ることができた一因とも言えます。猜疑心が強いだけでは人はついてこないですから。また、意外にも山縣は召使にも優しく親切だったといいます。国民にはニコニコしていても秘書や召使に対しては横暴な態度をとる政治家は現代でも少なくありませんが、山縣のそういうところはえらいなと。

山縣が猜疑心が強くなったのは彼の悲しい生い立ちにありました。母を五歳の時に亡くし、父も若いころに亡くし、ほかにも松下村塾(*1)での同志だった久坂 玄瑞くさかげんずいそれから恩師だった吉田松陰と信頼していた人物を次々と亡くすのです。特に母の愛をほとんど知らずに育ったのです。母との思い出と言えば墓参りをした記憶くらい。母の代わりに山縣を育てたのは、祖母。祖母は厳格な性格で厳しく山縣を育てたのです。そんな祖母も山縣が28歳の時に近所の川に入水自殺じゅすすいじさつをしたのです。山縣が京都でプレゼントした着物を着て自殺。山縣もショックでしょう。また山縣は下級武士の子であり、いろいろな苦労もあったのですね。だからこそ徳川時代の身分制度は彼にとって許しがたいものであったのです。身分の低さのコンプレックスと自分と親しい人が次々と亡くなった体験が、彼の性格をねじまげたのかもしれない。


2 山縣が国民から嫌われた理由

 また、山縣は国民から嫌われた理由の一つは彼には何かと黒いウワサが付きまとったことや徴兵制をどうにゅうさせたこともあると思う。たとえば山城屋事件。明治5年(1872)。事件を起こしたのは元長州藩の奇兵隊きへいたい(※2)員で山縣の部下だった山城屋和助。彼は貿易商となっていたのです。当時、兵部省ひょうぶしょう(※3)のお偉いさんだった山縣有朋の引き立ててで兵部省の御用商人となって大儲けをしたのです。そんな山城屋も生糸の投資で大失敗。その損害を陸軍省の公金を貸して助けたから、さあ大変。陸軍省から山城屋への貸付総額は65万円。現在の価値でなんと約130億円!!これはひどいですね。山縣の個人的な関係で公金を一商人をたすけるために使ってよいのか。さらに公金を貸し付けた代償として、山城屋が山縣にわいろを贈ったのではないかというウワサまで。そのことは政府の間でも批判がでてくるのです。結局、山城屋は自殺、山縣は兵部省の役職を辞職。しかし山縣はわずか二か月で陸軍卿りくぐんきょうになったのです。これは陸軍のトップという役職です。これは山縣なしでは日本陸軍の創設が遅れると当時の政府のものたちが考えたのでしょう。

そして山縣は徴兵制を導入させたのです。当時の新政府の軍隊は長州ちょうしゅう薩摩さつまなどからの兵の寄せ集めでした。山縣が西洋諸国で兵制を視察や、奇兵隊の時の経験に基づいていたが、武士の特権的身分の打破という意味合いもあったのですね。当然、武士だった人たちは当然反発したし、徴兵制で兵士にとられる庶民たちもたまったものではありません。当然、山縣は人々を敵に回してしまうのですね。


さらに明治10年(1877)に西南戦争が起こるのです。西郷隆盛をリーダーに薩摩の不平士族たちが政府にケンカを売ったのです。これを鎮圧したのが山縣有朋。山縣は西郷を嫌うどころかむしろ維新の同志として尊敬しており、「この挙兵はあなたの意志ではないとわかっている。あなたの決断でこれ以上の犠牲者ぎせいしゃを増やさないことはできるはず」と西郷に書状を贈ったほど。戦争に負けた西郷は自害。自害の知らせを受けた山縣は涙を流したとか。しかし、西郷は国民的人気が高かったのですね。その西郷を死に追いやったということで、山縣の人気はますます下がったのですね。内乱を治めるため仕方がなかったのですが。この時代にSNSがあったら、山縣の公式ツイッターやサイトはすげえ炎上していたでしょうね。

山縣は伊藤博文内閣では内務大臣として地方行政を整え、総理大臣も二度も務めたほどのやり手で明治天皇の信頼も厚かったのですが、国民の人気は低かった。特に二度目の総理との時は地租増徴じそぞうちょうつまり増税、それから悪名高い治安警察法ちあんけいさつほうも導入も嫌われた理由の一つ。当時盛んだった自由民権運動を取り締まる法律でしたが、のちにこの法律で労働運動や女性の政治参加を禁じたりするようになりました。僕は中学の時に日本の三大悪法(※3)の一つとして習いました。

3 山縣は国民を愛していた
 では山縣自身は国民を嫌っていたかと言えば、そうでもないのです。むしろ愛していたのです。ただし、山縣が愛したのは額に汗して働く農民や職工、戦争のためには命を投げ出して戦う兵隊を山縣は愛したのです。つまり国家のために尽くす民衆を山縣は愛したのです。これに反して政府に反抗し、政府を、下手すりゃ自分を批判する人々は山縣にとって許しがたい存在でした。だからこそ治安警察法を導入させたり、「教育勅語きょういくちょくご」の制定にもかかわったのですね。教育勅語は道徳的に素晴らしいとよく言われるけれど、悪く言えば国家にとって都合の良い人材を育てる訓示、『女王の教室』に出てくる鬼教師の言葉を借りれば、「会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。」という国家の本音がにじみでているのですね。

山縣は非常にまじめで信念の人でした。ただ、日本という国家の未来をあまりに案ずるばかりに、国家を構成する国民の一人一人の命を置いてけぼりにする面もあったなって。国だけでなく国民に対する慈愛ややさしさもあれば、彼の評価ももっと変わっていただろうと僕は思ってしまいます。




※ この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。また、こちらの本も参考にしました。




※1 もともとは吉田松陰の叔父がつくった私塾。吉田松陰が受け継ぎ、高杉晋作や伊藤博文など維新で活躍した志士たちを多く輩出した。山縣は二十歳のときに松下村塾に入り、塾長の吉田松陰に学び仲間たちと切磋琢磨した。

※2 高杉晋作がつくった軍隊。長州藩の正規の軍隊ではないが、討幕軍の主力として活躍。山縣有朋も所属していた。隊員の30パーセントが庶民。

※3 三大悪法は、鎌倉時代の徳政令、江戸時代の生類憐みの令、それから明治の治安警察法と僕は学校で習いました。。

誰も書かなかった安倍晋三 文庫版
谷口 智彦
飛鳥新社
2020-11-20



安倍晋三あべしんぞう元総理が亡くなって半年以上たつのですね。月日の早さを感じます。安倍さんが亡くなった話はもっと早い段階で取り上げようと思ったのですが、が明けて、しばらくたってからにしようと思い今の時期に語らせていただきます。本当に痛ましい事件で、このようなことが今後あってはならないと思います。今更ではありますが、ご冥福めいふくをお祈りします。

さて、昨年の秋に安倍晋三元首相の国葬が行われました。国葬が行われたのは吉田茂以来というからすごいなって。その国葬の弔辞ちょうじ菅義偉すがよしひで元首相が引用したのが山縣有朋やまがたありともの残した詩でした。それは

「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

これは伊藤博文が暗殺されたときに、山縣が詠んだもの。先立たれた伊藤の死を悲しむとともに、自分はこの世をどうしたらよいのかわからないという思いをつづったものです。おそらく菅元総理の心情とぴったりだったのでしょう。安倍晋三元総理は生前、山縣有朋のことが書かれた本を読んでおり、ちょうど同じようにテロで亡くなった盟友をしのび、菅元総理はこの詩を弔辞で読んだのでしょう。

それでは、その山縣は政治家としてどのような人物だったのでしょうか。

伊藤と山縣は同じ長州出身であり、盟友めいゆうでもありました。ただ政治的には対立することがあったといいます。特に二人が争ったのは政党政治。伊藤は政党政治推進派、山縣は政党政治反対派。もちろん、ふたりは政党の未熟であり、政党政治家に政治を完全に任せるのは危険だとう考え方は共通しているのです。要するに政党政治家は政策立案能力もなく、海外情勢や軍事にも疎い素人しろうとが政治にかかわるのは危険だという認識です。また政党政治家は私的な利益を求め国家全体を見ていないとも山縣も伊藤も思っていたのです。

ただ、二人の違いは伊藤は未熟みじゅくだからこそ自分たちが育てていかなくてはならないという考え方。一方の山縣は未熟だからこそ政党政治家に政治を任せてはダメという考え方。そんな山縣も政党政治の権化でもある原敬のことは高く評価。「原と自分とは何ら意見の異なるものなし、ただ原は政党を大多数となしてしこうして政党の改良を図るとふも(中略)自分は反対なり。れ一事を除きては何等異なることなし」(『原敬日記』より)というほど。ともあれ、山縣と伊藤は政治的には対立していたけれど、憎しみあったわけではなく、お互いのライバルとしてみなしていて認め合っていたのです。その伊藤がいなくなって山縣はショックを受け、このような詩を詠んだのでしょう。


その山縣ですが、何かと民衆の敵と言われがちです。山縣が亡くなり、大正11年(1922)2月9日に日比谷公園にて国葬が行われました。が、参列者はなんと千人ばかり。二度も総理大臣を務め、さらには軍を育て、元勲として日本の政治に大きな影響を及ぼした人物にもかかわらず。しかも弔問ちょうもんに来たのは軍部の関係者ばかり。政府の関係者はほとんど来なかったのです。当初は一万人は来るだろうといわれていたのに、このありさま。当時の新聞は「民抜きの国葬」と皮肉ったほど。また、当時ジャーナリストだった石橋湛山(のちの首相)は「死も、また社会奉仕」って言ったほど。つまり、「山縣が死んでくれてよかった」っていうことでしょう。


山縣は山縣閥と呼ばれるほどの巨大な派閥はばつをつくり、政界や軍部の関係者はもとより、学界、貴族院、司法省にまで及んだといいます。その山縣閥は、日本の政治史上最大と言われ、吉田茂や田中角栄の派閥など遠く及ばないといわれるほど。それくらいの幅広い人脈をもっておりながら、1000人足らずはさみしい限り。山縣の国葬とちょうど同時期に、大隈重信も亡くなり国民葬が行われたのですが、その参列者はなんと30万人。えらい違いですね。山縣は国民から相当嫌われていたのですね。次回のエントリーで山縣が嫌われる理由をお話しします。

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