History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 江戸時代

1 実は名君だった吉良上野介
吉良上野介は『忠臣蔵』では意地が悪くて、ワイロ好きな爺さんという悪いイメージがありますが、実際の吉良上野介はもっと違くて、地元では名君だといわれております。黄金堤こがねつつみという堤防をつくって水害から守ったり、新田開発を積極的に行いました。上野介の妻の富子の名前にちなんで富好新田とみよししんでんという新田もつくったほど。また上野介は家族思いであり、妻の富子だけでなく、仕事の合間をぬって幼い娘たちに手紙もおくったほど。その手紙は子供でも読みやすいように、仮名文字だったと。優しい父親だったのですね。

また吉良家は由緒ある名家で、清和源氏足利氏の流れを汲んでおり、室町時代には「御所(将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われていたほど。なんと、今川家よりも吉良家のほうが家柄としてはランクが上だったのですね。今川家といえば戦国時代、今川義元が有名ですね。

吉良家は江戸時代には高家と呼ばれ優遇されたのです。高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職でした。いわば幕府の渉外部といったところでしょうか。身分は旗本なので低かったもの、天皇とか朝廷の人間と謁見する機会が多いので、総じて官位は高かったのです。たとえば吉良上野介は4200石の旗本でありながら、従四位上と下手な大名よりも身分が高かったのです。従四位上とはなんと仙台藩伊達家や薩摩藩島津家と同格です。すごいですね。

高家は室町時代から続く名門じゃないになれないのです。高家といえば、吉良家だけでなく、織田信長の子孫である織田家や武田信玄の子孫の武田家、あと今川家とかもそうです。あと高家の大事な役目といえば儀式儀礼の指南、つまり今でいうマナー講師です。特に吉良上野介の父は吉良流という儀式儀礼を確立させ、その父から上野介は儀式儀礼を徹底的に叩き込まれ、高家肝煎こうけきもいりと呼ばれるほど儀式に精通していたのですね。

また吉良上野介の長男、綱憲は上杉家の養子となって上杉家の家督を継ぎ、さらに綱憲は紀州徳川家の栄姫と婚約。つまり吉良家と徳川家は遠いながらも親戚なのですね。だから幕府の信頼も厚かったのです。

2 マナー講師だった吉良上野介
 諸大名は饗応役きょうおうやくという朝廷の使者をもてなす役を務めるのですが、諸大名は高家の指導を受けるのが習わしとなっていて、どんな大大名でも低頭して高家に教えをうけていたのです。教えを受けた大名は高家に相応の謝礼を払うのが武家社会の常識だったのですね。いまでいえば月謝です。宇和島藩の伊達家は金銀だけでのなく狩野派の絵まで吉良に贈ったとか。逆に浅野家は小判二枚とカツオ節だけだったので、それで上野介はカンカンに怒って、それから意地悪をするようになったってドラマで描かれております。

実際、文献でもほかの諸大名は吉良に金品を贈ったのに浅野内匠頭は、そういった金品を贈ることを嫌い頑として吉良に贈らななかった書いてあるのですね。内匠頭はワイロだとおもったのかもしれませんが、吉良からみたら、浅野はワイロどころか月謝を滞納したようなものです。悪いことに吉良家もお金に困っていたから、謝礼の未払いをされると非常に困るのですね。さらに、饗応役に任命された大名は接待費用を自費で負担しなくてはなりません。本来は幕府が払うべきなのですが、幕府は一切そんなことはしてくれません。これは大名にとって痛手ですよね。

浅野は700両、今のお金で7千万円しか出せないと主張。7千万なんてでかい金額ですね。接待にそれだけ使うなんて、いくら相手が朝廷とはいえ、すごいです。しかし、吉良は高家としての経験から1200両は必要だと主張。1200両とは現代の金額にすると、なんと1億2千万円。ひえーって言いたくなりますね。いくら朝廷が相手とは言え、一億もかかる接待ってどんだけって思いたくなります。これじゃあ浅野も拒否りたくなります。

そんな浅野の態度に吉良が腹を立て、浅野にたいして厳しい態度をとったのかもしれません。また、吉良からすると大事な儀式儀礼を台無しにしたくないから、大名たちに厳しく指導したのでしょうね。しかし、指導を受けた大名たちにはパワハラとしか映らなかった。実際、吉良はほかの大名からの評判が悪く、刃傷事件のあとも吉良ではなく、浅野に同情した大名もいたのですね。



悪いことに浅野内匠頭も短気な性格なうえ、つかえ、現在でいう自律神経失調症だったのですね。実際、饗応の役をやった当日も薬を飲んでいたという記録があるほど。朝廷への接待のことで緊張からくるストレスもたまっていたのですね。それで、日頃、吉良のことを不満に思っていたのが、何かの拍子で浅野はカーっとなって突発的に斬りつけたのかなと。

3 仮名手本忠臣蔵
吉良は刃傷事件のあと退職願をだします。幕府はその退職願を受理。そして吉良の屋敷ははじめは江戸城近くの呉服橋にあったのですが、江戸の場末の本所へ引っ越せと幕府は吉良に命じたのです。なぜ幕府は吉良に引っ越しを命じたのか。それには謎が多いのですが、実は浅野家の家臣たちが主君の仇をとるべく、吉良の首を狙っているのではないかというウワサが幕府はもとより町人の間でも広まっていたのですね。呉服橋なら浅野家の家臣たちが襲撃しても江戸城の近くなので、それを防ぐことができますが、本所ではそれを防ぐのが難しい。が、本所なら守りも薄く攻めやすい。これは幕府が浅野の家臣たちにかたき討ちを仕向けているとも解釈できるのですね。赤穂浪士の襲撃の噂は、当然吉良の耳にも届いていたので、吉良も自宅の警備を固め、吉良が日頃つきあっている職人や商人のなかにも、浅野のスパイじゃないかって目を光らせたほど。

これは綱吉が下した浅野内匠頭即日切腹があまりに早急で、吉良に対して何のお咎めがないのは不公平だという声が、世間どころか、幕府の中でも疑問にもつ者が少なくなかったのですね。現在の感覚だと、吉良は浅野に斬られても何も抵抗しなかったし、むしろ被害者ですが、この時代の価値観はケンカ両成敗で、いきなり斬りつけた浅野も悪いが、その原因は吉良にもあるのだから、吉良も責任をとれというのが、この時代の考え方なんですね。

それで世間の評判を気にした綱吉が、吉良に急に冷たい態度をとったのですね。ましてや、綱吉は生類憐みの令をだしていたから、幕府への不満を持つものもが多かったのです。庶民は幕府の不公平な裁定の被害者という認識で、浅野に同情的でした。

それで、これ以上幕府の評判を落とさないために、上野介を見捨てたのですね。支持率が落ちまくって、人気を取ろうと、小手先だけの人気取りを行う総理大臣と同じですね。たぶん、幕府に対する庶民への不満を吉良に向けさせたのですね。そうやって吉良を悪者に仕立て上げたのでしょう。それで上野介も捨てられたのだから、気の毒だなって。

そして大石率いる赤穂浪士が見事に吉良を討ち取ると庶民たちは拍手喝采。赤穂事件をもとにした浄瑠璃や歌舞伎が上演されるようになったのです。ただし赤穂事件のあらましをそのまま上演すると幕府からお咎めがあるので、物語の舞台を南北朝に置き換えて上演されたのですね。吉良上野介を足利尊氏に仕えた高師直に置き換えたのです。高師直は色男で、塩治判官しおやはんがんの奥さんに不倫をしようとしたのですね。それに怒った判官は高師直に斬りつけるのですが、高師直は時の権力者の尊氏に近いこともあって、お咎めなし。判官のほうが切腹され、御家も断絶したのです。この構図が赤穂事件とにているということで、この話をベースに物語が作られたのです。そして大星由良之助(*1)という架空の人物を付け加え、大星とその同志たちが高師直をやっつけるというプロットになっております。そうしてできたのが『仮名手本忠臣蔵』。こうした芝居を上演するたびに、庶民の間にますます吉良が悪者だと刷り込まれてしまうのです。

史実からみたら、大石のほうがテロリストで、吉良のほうがいい人なのですが、芝居を面白くするためにも吉良が悪者でなくてはならないのですね。芝居とか映画は勧善懲悪で悪者と正義の味方がはっきり区別しているほうが見ているほうはわかりやすいですからね。『ああ野麦峠』の映画だって、原作は製糸工場の厳しい事情も書かれているのに映画では一方的に製糸工場のほうが悪者になっていて、逆に映画を見た製糸工場の元工女さんたちからクレームがくるほど。


4 明治になって益々吉良が悪者に
明治時代になると、赤穂浪士たちは国家的に利用されたのですね。明治政府は天皇を中心に中央集権国家を構築し、欧米に立ち向かおうとしていました。主君のために命を投げ出す四十七士の生きざまは国家にとって都合がよかったのです。彼らを称賛し模範とすることで、国家のために戦う人間を育もうとしたのです。学校教育でも忠臣蔵が盛り込まれたほど。また、明治政府は江戸幕府に否定的です。その江戸幕府にある意味逆らった四十七士は明治政府からみたらまさに英雄です。だから明治から昭和の初期までは、吉良は完全に悪者になって、赤穂浪士の悪口を言うやつは不届きものみたいな空気があったようです。こうなると益々吉良が悪者になってしまいます。

もっとも太平洋戦争がはじまると話が変わってきます。軍部は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強くなったのですね。それで、歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたのです。おそらく、昭和初期に2・26事件とかいろいろ政府の要人が殺される事件が起こり、そんな事件が今後起こっては困るというののが当時の軍部のお偉いさん方の頭にあったのかもしれない。




*1 判官の家老という設定


*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。







江戸時代、名君と言われた人がいました。会津藩主の保科正之です。2代将軍徳川秀忠の子で、家光の母親違いの弟です。33歳の時に会津藩主になります。保科の前の藩主が悪政を敷いていたので、領民は疲弊し、疫病にも苦しんでいたのです。他藩に逃亡する人間もいる始末。

それで、保科は領民第一の政治を行いました。保科の政治の根底にあったのは「仁」。全ての人に健康と福祉を推進した名君だったのです。



保科は社倉制という政策をとりました。社倉制とはまず、藩が米を買い占めます。そして共作の年に領民に貸し出します。生活に困った領民は2割の利息で米を借りることができたのです。次の年、年貢を納めるときに利息と共に借りた米を返済する決まりになっているのですが、たとえ生活に困って返せなくても、利息を払わなくて良いのです。その年の年貢も納めなくても、待ってくれるということです。ずいぶん寛大な処置ですね。

さらに社倉制でえた利息分も、藩のもうけにしないで、その利息で米を買い、飢饉の時に備えたと言います。そのため、会津藩では飢饉になっても、餓死者を出さなかったと言います。


 
お話は保科が生まれる前にさかのぼります。実は保科正之の母が、身籠った時、徳川秀忠の妻、お江与の嫉妬を買ったのですね。それで、一度はお腹の子をおろそうとしたのです。そのお腹の子こそ保科正之だったのです。もし、母親がおろしていたら、保科はこの世にいなかったでしょう。そのため保科は命を守りたいという意志が強かったのです。それで、領民に間引きを禁じたのです。

さらに保科は旅人にも心遣いをしました。領内にやってきた旅人が倒れたら、医者に連れて行くように政令を出したのです。その旅人がお金を持っていなかったら、藩がお金を出したのです。



高齢者の保護も手厚く行いました。領内の90歳以上の領民全てに一日5合分の米を毎年支給したのです。ある年は該当者が百人以上にも及びましたが、分け隔てなく配ったので、涙を流して喜んだ者もいたのです。

また、保科は4代将軍家継の時代に幕閣の1人に任命され、そこでも人命を守る政治を行いました。明暦3年(1657)1月18日から20日(いまの3月2日 - 4日)の三日間、明暦の大火が起こりました。火事とケンカは江戸の華といいますが、それくらい江戸は火事が多かったのです。明暦の大火はとりわけ被害が大きかったのです。火災は三日間にもわたり、江戸の6割を焼き尽くしたのです。明暦の大火は本郷にあった日蓮宗本妙寺で発生。その火は風にあおられ、あっという間に周囲に燃え広がりました。また『むさしあぶみ』という文献によると「はげしき風に吹きたてられて車輪のごとくなる猛火地にほとばしり」という記述もあります。これは火災旋風(火の竜巻)までが起こったことを意味しております。それくらいひどい火災だったのですね。



(火災旋風)

大名屋敷160軒、旗本屋敷810軒、町人地(町人たちがすむ住宅街)800町以上も消失。しかも江戸城天守閣も焼けてしまいます。死者もおよそ10万2千100余人にもおよんだといいますから、いかにひどい火災だったかがうかがえます。これほど火災が広がったのは消防システムの脆弱さとあまりに江戸の町が密集しすぎていたからです。

一応、大名火消しという消防団があったのですが、これがあまり役にたたないもので。幕府から任命された大名が10日交代で火消しの役を担ったのです。しかし、この大名火消し、火災が大名屋敷で起こったら出動したものの、町人地でおきたときは出動しなかったのです。つまり町人地で火事が起こっても知らんぷり。そんな大名火消しを「消さぬ役」と皮肉ったほど。

町人地では町人たちが火災は自分たちで消しなさいというのが幕府の方針。つまり武士と町人たちが火災にあってもお互いに協力しようという姿勢がなく、それどころか、武士は町人たちを犬畜生かのように見下していたのですね。同じ人間と思っていない。まさに人間軽視だったのです。実際、明暦の大火で武士たちは火災でさほど被害を受けておらず、火災で亡くなったのは町人たちがほとんど。つまり武士たちは町人が火あぶりになっても知らんぷり。これでは助かるはずの命も助かりません。

火は三日で収まったものの、被災者たちは身も心もズタズタです。家も焼かれ、家族や友達を失ったもの。保科はまず、被災者のために、お粥の炊き出しをしました。その粥は幕府の米蔵から使われました。しかも、老人や病人には塩分控えめの粥を配るという配慮。

焼けた家屋の再建のため、幕府から資金も保科は渡しました。家康以来貯めてきた御金蔵も使ったのですね。これには幕閣も猛反対。今のご時世でいうならコロナ給付金みたいなものですね。しかし、江戸時代には、民間人のために政府がお金を使うなんてことはありえなかったこと。御金蔵はあくまで、いざ戦争になったときの備えだという認識が幕閣の間にあったのですね。それを保科は「お金は下々の人々を救うためにあるのだ。金を貯めるだけでは、それはないものと同じ」と幕閣たちを説得。大名や幕臣だけでなく町人たちにも返済義務のない援助金をわたしたのです。その総額はいまの価値で200億円だというから驚きです。

さらに保科は火災で亡くなった無縁仏の供養塚も作ったり、江戸城再建をやめたりしたのですね。

もちろん、江戸の町再建は保科ひとりだけの手柄ではなく、知恵伊豆こと松平信綱らの活躍もありました。幕府は町中に広小路という空き地を作って、火災の被害をすくなくしようとしたのです。有名なのは上野にあった広小路。いまも地下鉄の駅名(上野広小路)にもなっております。

江戸城内にあった御三家の屋敷も移転、被災した大名たちの屋敷も当時は野原が広がっていた麻布などに新たな屋敷を与えたり。本郷や湯島にあった寺も、当時は発展途上だった浅草に移されたり。また墨田川には橋がなかったので多くの人が亡くなったのですね。それで、立派な橋をかけてあげたり。万治2年(1659)には両国橋が完成。そして両国橋の先の本所をニュータウンとして開発。のちの『忠臣蔵』に出てくる吉良邸も本所に移されるのですね。また赤穂浪士たちも両国橋をわたって吉良邸に討ち入りするのですね。もし、両国橋がなかったら、赤穂事件はなかったかもしれない。

また幕府は消防システムも整えました。従来の大名火消しに加え、定火消じょうびけしを組織をつくりました。今でいう消防隊ですね。


 
※この記事は『英雄たちの選択』、『にっぽん!歴史鑑定』を参考にしてかきました。

赤穂浪士は吉良邸討ち入りをして、最後は切腹をしてしまうのですが、その間、4つの大名家にお預けになるのですね。寺坂吉右衛門を除く四十六人がお預け入れになったのです。長府藩毛利家、松山藩松平家、岡崎藩水野家、そして熊本藩細川家です。長府藩というのが出てきますが、これは長州藩とは別の藩です。一応長府藩は毛利家で長州藩の毛利家とは親戚なのですが。幕末、長府藩と長州藩は初めは対立するものの、のちに協力し倒幕運動に参加します。

細川家 大石内蔵助 堀部弥兵衛 吉田忠左衛 原宗右衛門など17名
松平家 大石主税 大高源五 不破数右衛門 堀部安兵衛など10名
毛利家 竹林唯七 杉野十平次 前原伊助 など10名
水野家 神崎与五郎 矢頭右衛門七 など9名



4家に分けることで、上杉家の仕返しを防ぐこともできたのですね。吉良上野介には息子の上杉綱憲がいて、綱憲が上杉家の養子となり家督を継いでいたのです。父を殺されたというので、仕返しに赤穂浪士たちを暗殺する可能性もあったのですね。それで幕府はお預け先の4家に「上杉がどう出るかわからないので、その覚悟で念入りに引き取るように」とお達しをしたのですね。浪士たちは4家に引き取られる前に、大目付の仙石久尚の屋敷に一旦預けられたとのですね。それから4家がそれぞれ浪士たちを引き取るのですが、その際、4家は藩士たちを仙石邸に派遣。その数千四百人。その引き取りは夕方から夜の間に行われたので、仙石邸の周りには多くの藩士たちが提灯を持っていて囲んでいたので、ある種のイルミネーションみたいな感じだったようです。そうして浪士たちはカゴに入れられ、各屋敷に運ばれたのです。実は4家は待遇が違ったのですね。

松平家と毛利家は罪人扱いで、特に毛利家は浪士をカゴで運ぶ際、錠がかけられ、さらにその錠にアミまでかけられた念の入れよう。まるで天下の大悪党扱い。狭い長屋に押し込められ、長屋の窓には板が突きつけられ、外が見えないようにしたと言います。家族に手紙を出すなんてもってのほか。毛利がここまでひどい扱いをしたのは、長府藩が残酷だったわけじゃありません。長府藩は小大名で幕府の機嫌を損ねたら大変ということで仕方なく冷遇したのです。

水野家は良くも悪くもないみたいな感じだったようです。

4家でいちばん待遇が良かったのは、細川家。浪士たちを藩主の細川綱利が自ら出迎えたのですね。他の藩では家老とか重臣が対応だったので、えらい違いですね。そして綱利は浪士たちを褒め称えたのですね。その忠義に感服したと。現代の価値観だと赤穂浪士は夜中に老人を襲ったテロリストでしょうけれど、この時代は武士道が生き残っていた時代。主君の敵討ちは悪いことではなかったのです。実際、徳川綱吉も浪士を処罰するか生かすかどうか悩んだのですね。天下の法を犯したのはまずいが、忠義を全うした浪士たちを殺すのは惜しいって。

さらに綱利は幕府の許しがあれば彼らを召抱えようとしたと言います。ずいぶん大胆ですよね。さらに細川家は浪士たちを長屋に押し込めたりせず、書院の広間二間をあてがえられ、新調した小袖、上帯、下帯まで与えられ、時どき取り替えてくれたと言います。しかも、家族に手紙まで出して良いとのこと。他の3家だったら考えられません。浪士たちの手紙を家族に届けたのは細川家家臣の堀内伝右衛門。彼が浪士たちの世話役をしたのです。彼は「幕府から咎めがあったら自分が切腹して責任を取るからなんでも言いつけてほしい」とまで言ってくれたそうです。堀内は浪士たちの行動に感服していたのですね。

食事の方もよくて藩主たちと同じ二汁五菜。贅を尽くしたものが出され、酒が飲めるものには酒を、飲めないものには甘酒を振る舞ったと言います。おやつや夜食のうどんまで出されたというから至りつくせり。他家は罪人扱いで粗末な料理だっただけにえらい違いです。ここまで至りつくせりやだったから、浪士たちはさぞ満足かと思いきや、一人不満を持っている人物がいました。

それは大石内蔵助でした。「もっと贅を尽くしたものを出せ!」と言った❓まさか、むしろ逆でした。内蔵助は長く浪人暮らしで粗末なものを食べていたので、逆に体が受け付けず、玄米やイワシなど質素なものにして欲しいと頼んだのです。しかし、藩主の命令で内蔵助の言い分は聞き入れられず、ますます贅沢な食事になったようです。また、内蔵助は大変な寒がりでした。寝るときは頭巾を被り、掛け布団に加え、こたつ布団までかけていたと言います。これは他の3家だったら、まず許されないでしょう。



実はこうした細川家の厚遇に影響されたのか、水野家や毛利家の浪士への待遇も変わりました。水野家は当初は浪士たちを長屋に押し込めていたのですが、江戸の三田にあった中屋敷に浪士たちを移したちを厚遇したのですね。三田といえば慶應義塾大学があるところですね。毛利家も浪士たちの待遇も改め、藩主との謁見の際には二汁五菜を与え、菓子、酒、火鉢なども供しました。


このように4家の待遇の違いから、庶民たちは狂歌を作りました。なんてたって庶民は赤穂浪士の味方でしたからね。

「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」

これは細川と水野は浪士たちを優遇したが、毛利と松平は冷たかったという皮肉がこめられております。実際、毛利は浪士たちを厚遇するようになったのですが、初めのイメージが悪かったせいで、後々まで悪く言われてしまったのですね。毛利家も気の毒だなって。

そして浪士たちが4つの家に預けられて一ヶ月、元禄16年2月3日夜、細川邸で数人の浪士たちは堀内伝右衛門に余興を見せたと言います。浪士たちは当時人気の元禄歌舞伎の真似事をしたと言います。それをみた堀内はニコニコと楽しんだと言います。浪士たちは、もうすぐ自分達の御沙汰が出る。おそらく自分達は処罰されるだろう。その前にお世話になった堀内殿にお礼をしたいと思ったのでしょうね。

そして翌日の2月4日。寺坂を除く四十六士は切腹。切腹というと現代人は怖いイメージがありますが、これは武士にとって名誉の死なんですね。そして、四十六人は細川、松平、毛利、水野各家にて切腹の儀が執り行われました。細川邸の庭で最初に切腹したのは大石内蔵助。畳3畳が敷かれた最高の格式で切腹することを許されたのです。大石の辞世の句が、

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

自分の本懐をとげ、思い残すことは何もない、今は晴れ晴れとした気持ちだという意味です。浪士たちの切腹を目の当たりにした堀内は「もう少し、浪士たちと時を過ごしたかった」とその死を惜しんだとか。細川家の邸跡には十七人が切腹した庭の一部が今も残されています。浪士たちの血で染まった庭を幕府の役人たちが清めようとしたところ、藩主細川綱利は「彼らは細川家の守り神である」と言ってその申し出を断ったと言います。

※この記事は「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

これだけ悪いことばかりしていた、代官の大原彦四郎ですが、バチが当たらないのかって思いたくなります。今の日本と同じだなって。と言いたいところですが、大原一家に次第に不幸が訪れます。まず、前回の善九郎のお話と話が前後しますが、彦四郎の長男の大原勝次郎が同僚と言い争って、刀を抜き、誤って自分を傷つけ、出血多量でなくなったのです。大原一家に不穏な空気が立ち込めます。それでも大原彦四郎は農民たちの反対を押し切って検地を強行、飛騨は5万5千石に増石され、その功績で大原代官は郡代に昇格しました。郡代とは江戸幕府の天領を支配する地方官。代官よりも格が上で、今で言えば市長みたいなものでしょうか。

大原彦四郎は出世しましたが、彦四郎の妻は悩んでいたのです。今の夫の出世は農民たちの犠牲の上に成り立っているもの。素直に喜べません。また、息子の勝次郎に若くして死なれてしまい、追い詰められていたのですね。そして、彦四郎の妻は自害をするのです。夫の悪政を戒めるためだともいわれております。妻の突然の死に彦四郎もショック。彦四郎も翌年、眼病にかかり失明、そして次の年に原因不明の病気で亡くなってしまうのですね。大原家の次々とおこる不幸に、高山の町民たちは、農民たちにひどいことをした祟りじゃないかって噂をする程でした。

そんな彦四郎のあとを継いで、息子の亀五郎が郡代を継ぎました。普通、郡代は世襲制ではないのですが、亀五郎が、時の老中の田沼意次に賄賂を送って、郡代の地位を手に入れたといわれております。賄賂の金をつくるために、年貢の加納分まで手をつけたと言います。加納分とは、幕府から救助米があった場合とか、金納の値段が安くなった場合に、計算上年貢が収めすぎになった分で、本来は農民に返さなくてはいけないものです。それを着服したのだから、悪いやつだなって。しかも、悪いことに浅間山の噴火です。この影響で、気候不順と5年にも及ぶ全国的な大凶作が続いたのです。その被害は高山にも及びましたが、亀五郎は年貢を減らそうとしない。それどころか幕府から救済金が飛騨に給付されたのに、それを亀五郎は着服したとか。踏んだり蹴ったりの農民たちもとうとう立ち上がります。

そんな農民たちに思わぬ吉報が。1786年、10代将軍徳川家治が亡くなり、田沼意次が失脚したのです。大原亀五郎郡代の後ろ盾だった田沼がいなくなったので、農民たちはチャンスと思ったのです。また老中に就任したのは松平定信。彼は不正を嫌う人物だったので、まさに農民たちにとって追い風。早速、農民たちは江戸に行き、夜、松平定信の屋敷に行き、屋敷の門のところに張り紙をしたのですね。その張り紙には亀五郎の悪行がいろいろ書かれていたのですね。また農民たちは念には念を入れるべく、巡見使(※1)にも直訴したり、老中の松平定信にも駕籠訴を改めてしたり。そうした農民たちの働きもあって、大原郡代の取り調べが始まったのですね。松平定信は農民たちの声を無視せず聞き入れてくれたのですね。慌てた亀五郎は、偽の書類を作って取り繕うとしたのですが、結局、大原亀五郎は、八丈島に流罪が決定。一方、農民たちの判決は、首謀者のうち二人は取り調べ中に牢の中で死んでしまいましたが、後の人は、お叱りだけで済んだのです。お叱りは江戸時代の刑罰で1番軽いもの。幕府も農民たちがかわいそうだと思ったのですね。農民たちの長年の思いが報われた瞬間でした。農民たちの粘り強い努力があって、その願いが叶ったのですね。しかし、ここまでくるのに、さまざまな人の犠牲があったことも忘れてはいけないと思います。





※1 将軍の代変わりごとに派遣され、諸藩や天領の政治や民衆の様子などを視察する幕府の役人。


*参考文献






飛騨の代官、大原彦四郎は検地を強行しました。その検地はなんと80年ぶり。80年前の検地は、当時飛騨を治めていた大垣藩が行い、田の広さを狭く見積もってくれたので、農民も治める年貢も少なくて済んだのです。それが、幕府の直轄地になり、大原の時代になって検地をすることになったのです。その検地の結果、これまでの5割以上も収める年貢がアップするのです。これでは農民の生活も苦しくなります


それに黙っていないのは農民たち。検地の中止を求めて立ち上がったのです。高山の陣屋に農民たちは赴いて、大原に直訴。しかし、大原はまともに話を聞いてくれない。それで農民たちは駕籠訴カゴソこれは定められた手続きをしないで、いきなり大名なり、老中なり勘定奉行なり幕閣に訴えることです。しかし駕籠訴は御法度違反、罪は非常に重いです。今で言うなら、市長が市民税を大幅にアップすると言い出したので、市長に言ってもラチがあかないから、総理大臣とか法務大臣にメールなり手紙とかで直談判するもの。現在ではそんなことをしても罪になりません。首相官邸のホームページを見るとご意見募集なんてありますから(聞き入れてくれるかどうかは別)。

しかし、江戸時代ではそれだけで罪になる。考えられませんね。そして農民の有志六人がもしたのです。時の老中松平武元マツダイラタケチカが乗っている駕籠に近寄り、直接、老中に手紙を渡すと言うもの。かつて駕籠訴は佐倉惣五郎サクラソウゴロウもやりました。佐倉惣五郎といえば千葉県佐倉市の義民として名高いです。彼も困窮する農民を救おうと、時の将軍、徳川家綱に駕籠訴をしたのです。佐倉惣五郎の願いを家綱は聞き入れたのですが、将軍に直訴したと言うことで、佐倉惣五郎初め一家は処刑になりました。飛騨の農民たちも佐倉惣五郎の話はよく知っていたのです。駕籠訴なんてやったら、自分達が処刑になります。自分が死ぬのをわかっていながら、仲間を救おう、農民たちを救おうとする。駕籠訴をした六人は素晴らしい自己犠牲の精神の持ち主ですね。

農民たちが駕籠訴などをするものだから、流石の大原もキレたのですね。大原は農民たちの分断を行おうとしました。農民たちを集めて、駕籠訴をした六人は勝手に行動したのであって、彼らのやったことは農民たちの総意ではないと言わせたのですね。もし、駕籠訴をした六人に同情したものは処罰すると。いわゆる脅しです。そんな脅しに屈しなかったのが、善九郎という若者。彼は弁もたち、筆もたち、10代(18歳〜19歳くらい)の若さながら、いつのまにか農民一揆のリーダー的存在になったのです。彼は飛騨の小天狗といわれたほどでした。まず、農民たちがおこなったのは、津留ツドメ。これは物資の出入りを禁止させること。米や野菜、薪や炭が商人の手に届かなくなります。特に炭が入らなくなるのは飛騨の人たちにとって痛手。飛騨の冬は寒いですからね。江戸時代はエアコンや石油ストーブなんてありませんから、暖を取るには炭を燃やすしかないのです。炭屋さんも、炭を売りたくても、炭の仕入れができないから売ることができず困ってしまいます。困った町人や商人の中から、農民に味方をする人たちも出てくるのです。今でいうストライキですね。この時代にSNSがあれば、ネトウヨみたいな人が津留をする農民を叩くのでしょうけれど、この時代は農民に味方する人の方が多かったようですね。

そして、善九郎率いる農民たちが次に行ったのは強訴。大原に直談判したのです。大原は怒るばかり。結局、善九郎以下、一揆の首謀者たちは処刑されてしまいます。善九郎が処刑される際、彼が残した辞世の句がこちら。

寒紅カンコウは無常の風にさそわれて つぼみし花の 今ぞ 散り行く


意味は「寒中に咲く紅色の梅が、つぼみのまま風に吹かれて散っていくように、私も今はかなく散ってゆくのだ」。いい句ですね。善九郎は農民の若者ながら武士のようですね。そして、この句から死に行く悲しみが伝わってきます。


その善九郎ですが、死後、彼の供養塔を農民の有史が建てました。すると大原は、それを土の中に埋めろと命じたのです。かわいそうに。供養して悪いちゅうねん。それどころか、今後一切、処刑された農民の供養をしてはいけないと、きついお達しをしたのですね。ひどいですね。そんな勝手なことばかりする大原もいいことがないだろうなって。実際、大原一家に次々と不幸が訪れます。それは次回の記事で。

*参考文献






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